討論【Ⅳ】(その4) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

討論【Ⅳ】(その4)

 

G.デルフォー(Delfau)

 それは、私のやりたいような記号化された警報である。われわれがコミューン残党について語るとき、コミュナールの平均年齢が15~40才であったことを考慮すると、1900年頃には確かに残党はいたように思われるのだが、コミューンの偉大な指導者のうち何人が戦闘死について語ることなくすでに死んでいただろうか? 9年間の追放後、残った者はもはや政治生活に十分に参加する能力がないほどに疲弊しきった者ではなかったか?

 私はまた、この議論からそれほど逸脱しているとは思えない第二の点を提起したい。人はコミューンの影響、モデルとしてのその役割について語る。人はむろん厳しかった弾圧を援用する。だが、人は少しばかり追放のことを忘れているのではないかと思う。ベルギー、イタリア、スイス、イギリスは多数のコミュナールを受け入れ、多かれ少なかれ彼らに自由を与えた。そこから1871年思想の普及が始まった。文学、私はヴァーレスと、彼のロンドンでの亡命生活に興味をもっている。そこで、私は彼の政治生活について少々細かく吟味する気になった。ロンドンでのコミュナールの追放物語とフランス第三共和政の発展の物語ついての奥深い重なりあいがあることに驚いた。p.240 一例だけ挙げよう。それは恩赦である。恩赦は人道主義的な行為である。或るミリタンにとってはそれを要望し要求することは同様に政治的行為である。この点に関しては、少なくとも信憑性に富むとは思うが、警察の報告を読むと、1878年と1879年のフランスにおいては極めて頻繁に集会を開いたカルヴィナク(Calvinhac)某、あるいはエミール・ゴーティエ(Emile Gauthier)が際立つのはこのことである。恩赦を語るといえば、彼らはそれを毎回口にする。恩赦、それは人道主義の行為ではなくて革命的テーマである。それをこの視角から研究しなければならない。

 次いで、追放についてふれる際に私は2例の紹介だけに ― もちろん、もっとたくさんあるのだが ― とどめたい。すべての人が知っていることがある。すなわち、亡命中のコミュナール界に非常に大きな影響を与えた人物アルヌー(Alnould)、そしてスイスのバクーニン、ロンドンのマルクスがそれである。マルクスの聴衆に関して長々とエピソードを披歴する必要はない。人はつねにマルクスに関してはロンゲ(Longuet)の発展の実例を引用してきた。私見によれば、ロンゲが最も証拠となるケースであると言いたい。というのは、思いがけないのはヴァーレスのケースがあるからだ。長いあいだ、ヴァーレスはマルクスの名うての敵手であると書かれてきた。そして、彼の友人のコレ(Collet)はこの主題について手紙を書いたが、私が考えるに、それは偽造ではないかと疑っている。細かくみていくと、事はそれほど簡単ではないことに気づかされる。先ず最初に、1872年、マルクスの娘のジェニー(Jenny)がヴァーレスの世話をしている。ジェニーはヴァーレスの『忌避者』の翻訳者を探している。1877年、マクマオンのクーデタが再度ヴァーレスを引退に追いやったとき、言論検閲により彼がパリでの出来事に与えたニュース報道が禁止され、結局のところ、不幸で哀れなことにも、2度目の亡命生活を送らざるをえなくなったとき、ヴァーレスはこの時政治的原文を読みはじめた。彼はアルヌーに書き送っている。「難解な資本論は私にとっては非常に興味深いように思われる。われわれのために要約をしてくれる人が必要だろう。」結果的にこれは1883年のドヴィル(Deville)の要約となる。ヴァ―レスは付記する。「幸いなことに、中央集権主義の問題がある。なぜなら、それがなければ、私は多かれ少なかれマルクス主義者になるのを感じるであろうから。・・・」諸君がこうした表現をするのを許していただくなら、非常に強固で非常に美しいイデオロギー、つまり、彼の永遠の友たるアルヌーを通じて彼の絶対自由主義の思想、バクーニンのイデオロギーと、拡がりつつあり豊かになっていくマルクスのイデオロギーの間にあって究極的に「板挟みになった」ヴァーレスがいる。思うに、追放期間に生じたことと、やってのけたことは、もっと注意を払って検討する価値があるようだ。

 

P.ヴィラール

 スペインで取り組まれている研究作業において亡命コミュナールに関して入念に研究することが真剣に始まっていると確言できる。

 この困難な時期にロンドンを通過したすべての者にとってと同様、コミュナールにとって当時、形成されつつある政治思想とマルクスのこの「反対感情の両立」について言うと、私は特にスペインの「無政府主義者」アンセルモ・ロレンソ(Anselmo Lorenzo)の場合について考察してみよう。彼もまた、マルクスをたいへん尊敬していたが、あらゆるかたちの中央集権主義への反対を1871年のロンドン大会のためにもつようになった。このことはヴァーレスの躊躇や不決断に類似している。思うに、これはかなり普遍化された現象であるが、マルクスはコミューン後、政治活動に邁進し、p.241 政治組織の創設が不可欠と見なすようになったという。なぜなら、諸君は彼の躊躇について、彼の生涯を通して中央集権主義に対する反対について語るのだから。

 

E.ラブルース

 追放が話題になった。ベルギーでのコミューンの追放者に関してすでに長期に亘って研究したベルギー人の友人はわれわれに確実にそれに関して数語を語ることができるだろう。

 

D.デヴレス嬢

 この主題についてサルトリウス(Sartorius)氏とド・パエプ(De Paepe)氏が長期に亘る研究に着手した。手始めに、ベルギーに亡命した追放者のリストを作成に取りかかった。その数字は私のみるところ、1871~1880年の全期に亘り800~1500人に上る。

 ベルギーへの追放がもたらしたすべての問題に関しては、私の見るところ、決定的な結論を進めるには少々早すぎるように思われる。そのテーマはようやく緒に就いたばかりで、取り扱いが易しいわけではない。数の多いコミュナールはベルギーの労働運動、特に彼らを進んで物質的に支えた第一インターナショナルの諸支部との関連においては、ある種閉じられた世界を形成した。しかし、彼らがあべこべにわが国の社会主義に与えた影響についてもっと探究しなければならないことがたくさんある。さらに、この追放者のうち幾つかのグループを区別しなければならない理由もある。したがって、大雑把にいって、ヘント〔訳注:仏語でガン〕の周りに「ブルジョアジー」の追放者が集結し、どちらかというと労働者出身の追放者はブリュッセルに集まったが、彼らの主要な気遣いはまず何といっても生計を立てることであった。

 私としてはまだ十分に問題を掘り下げていない。それに関する情報はパリ警視庁古文書部に所蔵されている。ベルギーへの亡命者が亡命生活中に第三共和政が危機を迎えるたびにフランスで生起したあらゆる政治運動に対して示した関心も文書に記されている。つねに、すぐにでもおこなわれそうな帰国の願望を彼らに認めることができる。したがって、部分的な、次いで全体的な恩赦が採択されたとき、追放者の多くはフランスに帰国したが、それ以後のことはわれわれにはまったくつかめなくなってしまう。だから、彼らのベルギー社会主義の発展への正確な影響を推し量ることはそれほど易しくない。

 

M.-C.ベルジェ―ル夫人

 コミューンの影響や反響に関し幾つか付言したいことがある。われわれはそこから研究に立ち向かうのだが、コミューンの国外への影響は追放者の存在や文書からのみ生じるものではない。私が研究した中国の場合を例にとると、コミューンはそこではまったく知られておらず、さらに社会主義の理論や歴史も同様に知られていない。なぜというに、たとえば『共産党宣言』はそこでは非常に遅く、1906年になって初めて知られ、翻訳 ― ほんの部分的だが ― については1919年初めてなされたからだ。完全なかたちで出版された初版は1921年であり、p.242 カウツキーの『階級闘争』である。中国ではどこでもいずれにせよ、コミューンの伝統は存在しなかった。コミューンの影響は広東蜂起のとき、政治的時宜に適したという理由で弱いかたちで表れた。コミューンは少しばかりの祝賀の対象となる。なお、注意しなければならない奇妙なことは、毛沢東が山西にいるあいだ、彼は労働基準をつくりあげ、この基準の中で彼はいつかコミューンの祝賀のために祭日を設けることを予示したことである。以上が、見出せる非常に稀有な痕跡のすべてである。私の知るかぎりでは、その後における1871年の追憶は1966年まで消失した。1966年には毛沢東は北京大学での最初の批判ポスターの掲示に歓迎の意を表明した。これはこう書かれている。これは北京および中国にとって20世紀60年代のコミューン宣言である、と。これ以降、「文化大革命」のすべてが“ex nihilo“「無からは何も生じないex nihilo」として蘇ったコミューンの兆候のもとで堂々とくり広げられることになる。

 

R.ゴセ

 思うに、それは大衆それ自身の創造的参加への訴えのようなものであるか、否、そうでないとすれば、彼らを待ち受ける弾圧のラッパ音のようなものではなかったか? ところで、どんな弾圧! 資本主義の復活に関与していると見なされた指導層の、新しい「種類の主人(Seigneurs)」への変容の程度に応じての。さて、あらゆる反動は恐怖感も手伝ってなんでもない抵抗から生まれる「燎原之火」が単なるストライキになるところの ― Maria Antoinetta Macciocacchiがその『中国について』で記しているように ― 強迫観念における永続的弾圧を胚胎している。