討論【Ⅳ】(その3) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

討論【Ⅳ】(その3)

 

G.ハウプト

 J.ElleinsteinとG.Oukhovの省察を聴いて、私はコミューン史の困難さが提起されたように思う。コミューン史を単なる修史に矮小化すべきなのか、それとも、それを政治思想の中に包摂するために拡大すべきなのか? 疑問の行列を率いている位置関係にある。これについて私はかつて、そのかなりの問題がK.MeshkatやM.C.Bergèreによって提起されたと述べたことがある。同じ思潮の内部での同じ歴史現象の解釈はどのようにして少しずつ異なっていくのか? 実在としてイメージはどのようにして少しずつ歴史の現実に取って代わるのか? 象徴はどのようにして教義となるべく凝結しつつ、イデオロギー上の「歯車」に変わるのか?

 他方、E.ラブルースの表現を借りれば問題提起された歴史はいかなる範囲においてそれ自体として修史を問題視するのか? 何らかの歴史の「操作」は歴史思想の発展に影響を及ぼすのか? なぜなら、歴史思想はしだいに大きくなりつつある経験としてのみならず、イデオロギーのしだいに大きくなりつつある圧力下でも発展するからである。p.235 これら2つの要素の役割を測るのは難しい。私はかつてどのようにしてコミューンが1920年代においてボルシェヴィキ党の内部闘争で役立ったかについて語ったことがある。だが、これは修史の領域である。一方、修史そのものは政治思想を修正しなければならない。そこには論議を要する微妙な問題が残っている。

 「モデル」という語に代えて「実験室」という語を用いることについていうと、私の解答は「否」である。そこにこそ、私が取り扱いを決心しながらそうするのを欲しなかった3番目の面がある。なぜなら、私の予備的研究は1914年までの期間は少なくとも、否定的な答えに私を導いたからである。もし「実験室」があったとしても、否定的にのみ用いられるという事実が私を驚かせた。たとえば、後年になって、しかも非常に後年になって国家の問題がドイツ社会民主党でもち出された。私はそこに実験室と正反対のものを見出した。すでにむしろ理論的探究と実践の分離 ― 第二インターナショナルの歴史の特異な現象 ― は理論を第二義的な部分に追いやることにあり、そこでは理論はもはや実際的影響をほとんど与えない。このことが以後も真実でありつづけるなら、確かめる必要があろう。

 「伝説の秘密」すなわちその「推進的」役割という秘密を見破ることを考えよう。これは、歴史研究が集団的感情や階級意識現象のメカニズムを研究するために社会心理学に訴えねばならない点である。社会心理学は抽象的な何かではない。それは集団的記憶において固定されたテーマ、極めて的確な象徴である。

 

P.ヴィラール

 私の見るところ、重要な点がふれられているように思う。それはコミューンの感情的側面のことである。私は、弾圧の残忍さが例えばコミューンの敵手である人々においてコミューンを告発することの、しばしば強調されるこの不可能性に対して寄与したかどうかは疑問に思う。

 私は、それはかなり一般的との印象をもつ。私はチリから1枚のレコードを受け取ったところだ。それは1907年に、あまり重要ではないストライキから始まった一種のコミューンについて作曲された哀歓を唄ったレコードである。3千人がそこで死んだ。そのテーマはまさしくコミュ―ンと瓜二つである。感情に訴え揺さぶっているのは弾圧の残忍さである。その後、当然のことながらエラインシュタインの表現を借りれば、実験室が後に残る。

 

M.フェロー

 私はG.ハウプトがロシアに関し語ったことについて、二、三細かいことをつけ加えたい。彼は無政府主義者とレーニンのみが1917年2月から10月までの間にコミューンについて語ったことを示した。私が強調したいのは、事の対位法(Kontrapunkt)である。これについてはだれ一人ふれなかった。それについてほとんど語られないのは驚くべきことである。コミューンのテーマがほとんど人気のないことを示す証拠がある。2つの例を示そう。或るボルシェヴィキの会合で、だれかが ― スクハノフ(Sukhanov)がわれわれに話す ― 以下のようなことまで言う。すなわち、「コミューンの経験の参照はわが党のすべての者に知られていないため、レーニンの事件への暗示は実際のところ無効で妥当しないのだ。」p.236 先ほど語られたこの否定的局面の意味における2つ目の例は以下のとおり。今度は街区の或る委員会の真只中での出来事である。(1917年)7月の闘争の真只中における中央委員会でも、ペテルスブルク委員会でも何らの決定もなされない。デモを起すべきか起さざるべきか分からないとき、1人のボルシェヴィキ党員が叫ぶ。「諸君はコミューンのようだ。諸君は敵が行動しているまさにその時に議論しつづける。」 この外にも幾つか参照例があるだろうが、数はそれほど多くないだろう。なぜ少ないか? 私は2つの理由によると思う! 第一の理由は、その当時の理論家は歴史の一種の単系列的発展を想定していたことだ。万事がブルジョア革命から始まる。そして、彼らの参照するのは1789年、そして1848年であって、コミューンではない。新聞紙で、会合で人々が語るのはカヴェニャックについてだ。ロシアにおいて人々が立像を立てるのはロベスピエールやダントンのものであり、コミューンの死者のものではない。そして、第二の理由がある。1871年の事件のまさしく否定的側面、悲劇的な結末は理論家に精神的外傷を与えたことがそれである。彼らはドラマチックな問題が地平線に現れる瞬間のみの事件について語る。J.エラインシュタインは先ほどレーニンついて語った。もし人がもう少し細かく見ていくと、以下に気づくであろう。すなわち、レーニンは党が弱体であったとき、つまり、彼が1917年4月にロシアに到着したとき、その直前、その直後、そしてボルシェヴィキが非合法化されたとき、権力の奪取が彼には非現実的と思えたまさしくその瞬間にのみ、コミューンについて語っているのだ。レーニンのコミューン考察が最も興味深い範囲を見せるのはその頃である。無政府主義者についていえば、彼らは彼らもまた、くり返してはならないモデルのような否定的側面からコミューンについて語る。いずれにせよ、それは滅多にふれられることはない。

 

M.ルベリウー(Rebérioux)

 1905~1914年という20世紀初めのフランス社会主義の真只中にSFIO〔訳注:1905年結党の旧フランス社会党〕指導部はコミューンを問題視するとき、一種の気兼ね感情(gêne)を集団的に経験した。気兼ね感情とは、簡単に説明がつくようだ。それが姿を現わす。先ず第一に、公刊された著作、根底的分析、研究が非常に寡少であることによってそのことをまず以て説明しておかねばなるまい。もちろん、ジョレースの社会主義史の中に1908年に発表されたデュブルイユ(Dubreuilh)の『コミューン』がある。これは非常に興味深い本だが、これはほとんど唯一のケースである。コミューン記念祭の際の『リュマニテ』紙での幾つかの論文があるが、それは一般に価値に乏しく、また、ジョレースの1871年に関する偉大な原文の中でもごく僅かしかない。これはもはやコミューン世代ではない。それは真実である! 貧困さは「社会主義運動」雑誌でも同様で、気兼ね感情が特質をなす。

 思うに、それは一つには、党に存在する思潮の極端な多様性に対応し、もう一つには、社会主義への見通しに関して多数派意見により拵えあげられた理論と、コミューンが特にパリに民衆層において根底的に激しく体験された現実との間にある矛盾に対応しているようだ。コミューンに関して表明される唯一の思潮はブランキ派のそれである。デュブルイユはブランキ派であり、その『コミューン』の著者としてであり、SFIOの事務総長としてではない。彼の著作は、この組織が結成される以前に書かれたのだから。p.237  因みに、執筆はまず最初にアルベール・トマ(Albert Thomas)に提案されたが、彼はそれを拒絶したことを記しておこう。他の思潮、ゲード主義 ― その硬化は1905年から1914年の間に状況作品のみを書いたブラック(Bracke)某を除いて、変化の一途を辿る ― のいずれにおいても、インターナショナル左派の真只中で練りあげられた批判的考察を無視しているように思えるし、何も斬新なものは見あたらなかった。多数派の「修正主義」は、けっして真のブランキ派でないフランス人は「修正すべき」ものを何ももたなかったのだ! 同じく、他の処で生じたものとは異なり、フランス社会主義は1905年のロシア革命から教訓を引きだすことができなかった。なるほど、フランス社会主義は第一次ロシア革命にいたく感動した、わが同僚マンフレ(Manfred)の近著においてSFIOにおいて1905年のロシア革命がどのような影響をもたらしたかを示している。とはいえ、これは理論的考察をほとんど惹き起こさなかった。

 こうした理論的弱点はコミューンが大都市の人民大衆に残した強烈な追憶、当然のことながら弾圧の追憶、とはいえ、弾圧だけでなく始まったばかりの大運動が遺した追憶とは抗しがたい食い違いを惹き起こす。1880年に始まる連盟兵の壁へのデモがこの思い出を証明する。パリの記憶と地方の記憶! 地方ではコミューンはまた下層社会ではデモと宴会をふつうに引きずっており、これもまた一つの方向性をもっていた。宴会、それは友情を交歓しあう時であり、それはコミューンを1793年の、1848年の伝統に結びつける。― そして、まさしくその宴会に。宴会と行列。行列は毎年おこなわれるコミューンの追憶記念の真に「激しい」追憶の形態である。それでも『リュマニテ』紙は記念祭のための論文をまったく発表しない。1904年から1906年では皆無の状態である。同紙は大きなタイトルで第一面を壁の前での行事の記述のために割く。この行事こそ最も活力に富んだ追想である。私はそこにブランキ派の影響を、パリのSFIOの連盟におけるかれらの役割を、とりわけヴァイヤンの役割を認める。G.ハウプトがエピソードとして外国について語ったが、それにとどまらず、彼が到着したときそこに集まった一同が、そして全フランスが「コミューン万歳!」と叫ぶために立ち上がったのだ。

 

J.ブリュア

 M.フェローは、レーニンはボルシェヴィキ党が弱体な状況下でのみコミューンの関心を懐いたと言った。私にはこれは承服できない提起であると思う。たとえば、彼の断言と完全に矛盾していると思われることは、レーニンが1871年のために奉じた最も長文で最も大きな章を含む『国家と革命』の出版された日付である。非常に具体的な方法で十分に発展し、十分に力を貯えた党をもって権力の奪取の問題がまさに彼に提起されているとき、彼は迷走しつつ史料の中に身を埋め、特にコミューンのことを熟考する必要を感じたのである。

 

M.フェロー

 彼は1917年7月から9月の間にそれを書いたと私は言った。このとき党は追放され、国家は完全に解体され、そして、こうした状況は彼を熟考するよう導いたのである。その書物はずっと後になってから公刊された。p.238  レーニンのコミューン考察は弱体化の時期に鮮明になったのだ。

 

J.ブリュア

 ボルシェヴィキ運動の歴史を短期間についてではなく、その運動の全体において考察するならば、レーニンが執筆する時を党の弱体化の時と見なすことはできない。政府が党に対しておこなった弾圧は、ボルシェヴィキが明らかな影響を及ぼしつつあること、権力奪取の問題はけっして見通しが立たなくなったのではないことの最良の証左となる。レーニンが編集させる何らかの可能性をもっていたかどうかを確かめなければならない問題が残る。

 

M.フェロー

 私の言いたいことは一つの文脈の中にある。ボルシェヴィキの場合と同じく、無政府主義派においても労働者階級が危険に嵌ったときにコミューンについて語る。マルコフ(Markov)は或る日、「ヴェルサイユ軍」を扱う際にTseretelliを侮辱した。というのは、ボルシェヴィキを武装解除することが問題であったからだ。労働者階級にとって防御的文脈がこれである!

 

J.ブリュア

 私はこの分析に絶対に納得しない。レーニンの日付の入ったかなり多くの数の原文を利用することができる。彼の1871年に関する主だった講話の一つ ― われわれは計画のみを扱うが ― 私の思いちがいでないかぎり、スイスで1911年に宣せられた。1911年、つまり1912年の革命運動の再開の前夜に弱体化の時期に入っていたことを私は知らない。

 

E.ラブルース

 先ほどルベリウー夫人が強調した事がらに関連し、私は彼女とともにひとつの証拠を呈示し、併せて一つの質問をしたい。

 証拠というわけは、私は1914年以前に社会主義政党を知ったからだ。私はその支部に属していた。私はそこで幾人かのコミューンの生き残りに会ったが、彼らは定期的に壁の行事で祭り上げられた。しかし、私の個人的体験によれば、そして、われわれがすでに同じ質問をするとき、さまざまな人によって言われるのを耳にしたかぎりでは、生き残りの参席はふつう何の影響も与えなかった。彼ら生存者は支部、パリ支部においてすら何らの特別の催眠術も行使しなかった。

 

M.ルベリウー

 ヴァイヤンがいる。

 

E.ラブルース

 ヴァイヤンは後述に譲ろう。私は「ふつう」と言った。(生き残りの)存在という衝撃を受けた。まさしくヴァイヤンの参席、他の者もいる。だが、支部の日常生活では大して多くはない。

 じじつ、私の観察は大戦に先んじること数年におく。コミューンは「年老いて」いた。これに対し社会党は「若かった」。論争が始まったとき、ひとつの特殊な党がこれら生存者によってわれわれに差しだされたと言うことはできない。それらは非常に多様な個人的スケールの闘士であった。もし私が他の戦争の老闘士と比較するとすれば、私はそれでもなお(事件の40年後に)彼らの参席は行動的というよりは象徴的だったと言ったであろう。

p.239   私の証言はまた、大衆デモでの集会ないしは行列が問題になるとき、コミューンはそのインパクトを保持した。コミュナールは日常活動での行いは非常に少なかった。特権、コミュナールとしての特権はなかった。

 私の証言を超えて質問したいと思う。迅速におこないたい。私の質問というのはこうだ。記憶、存在、フランスでのコミューンの生き残りにおいて他のフランスの革命がそれらに与えている。それら他の革命は幾つかの点で4番目の最後の革命のライバルであった。その偉大さ、その壮麗さ、その勝利によって最初の革命が特にライバルであった。したがって、私が提起する問題は次のようなものとなる。今日、だれ一人としてそれに答えることはできない。にもかかわらず、答えずにすませるというものでもない。そして、われわれは意味論的探究の道に足を踏み入れることになる。コミューンから1914年までの時期にフランス革命は多くの点で「第一の」位置を維持したであろうか? つねに多くの点で、なかでもジョレースの選択はなかったが、おそらく、知的・個人的選択はどうなのか?

 

G.ゴセ

 コミューンに対して加えられた弾圧に関して、単にこの弾圧の感情的追憶についてのみならず、この弾圧の恐怖の性格や精神的外傷的性格に関しても、P.ヴィラールの所論の本質的性格を私は強調しておきたい。19世紀においてそれは最初ではない。1848年のまったく平和的な労働運動の弾圧の恐怖政治的手術があった。次いで1851年の2番目の大規模な恐怖政治が。

 この恐怖政治はどんな意味をもつか? ここでは感情が問題ではない。それは資本の支配の根本的性格を曝露する。つねに弾圧しようとの性格を。歴史は資本の前にする者に労働者の武装解除に「注意せよ」と叫ぶ。