討論【Ⅳ】(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

討論【Ⅳ】(その2)

 

E.ラブルース

 問題提起すること…

 

J.エラインシュタイン

 この点に関して問題提起し、先ほどその結果を考察したばかりの仕事に懐く関心はまさしくこの問題提起の基礎の確定のための試みであり、それは、コミューン史と社会主義革命史の方法論にとって着実に豊富化しつつある史料面の集団的探究と現代社会主義の諸問題に喚起されたものである。

 

G.バディア

 G.ハウプトはかつて私が彼に提供した報告を十分に参照しているため、私が彼に反駁することに期待しないでほしい。私は幾らか周辺的な問題の幾つかにアクセスしたい。しかし、私の見るところでは、周辺的とはいえ、けっして興味を刺激しないわけではない。

 私が言いたい第一の点は以下のとおり。マルクスとコミューン。これには数限りなく問題がある! 私は、マルクスのコミューンに関する言明を知りたければ、彼にアクセスしないであろう。反対に私は、マルクスがコミューンについて語ったこと、コミューンの最中における彼の行為がわれわれに対し、マルクスその人とマルクス主義について教えることの範囲で検討してみたい。マルクスがその当時執筆した多くの書簡、特にクーゲルマン(Kugelmann)への書簡を細かく読めば、マルクスのもつ能力、そして、われわれはすでに知っているけれども、当時特に活発だった能力と、諸事件に照らして前になした判断を変更する能力とに驚かされる。たとえば、彼は1868年12月にパリ市民についてこう書いた。「これら革命的言辞の英雄たち」、と。だが、彼のペンではそれは賛辞ではない。ところが、数か月後に彼はフランスの大革命に関する著作の再生について記したが、このことはソブールやルージュリの強調するところでもある。マルクスはトリドンをはじめ多数の著者の出版物に通じていた。マルクスは当時書いている。「パリ市民はきっぱりと彼らの革命的過去を研究しはじめた。こうすることで切迫しつつある新たな革命的企図に備えるのだ。」p.231 事のついでに彼の慧眼にも着目できよう。彼は1869年3月3日、革命的企図の切迫を語る。しかし、事件に直ちに反応する洞察力ある観察者のこの同じ態度を、私は事件そのものについて述べた原文の中にも同じように認める。じじつ、マルクスはクーゲルマンへの手紙のなかで、コミューンが彼の眼前でくり広げる革新をほとんど毎日引きだすことを知っていた。そして、たとえ彼の手紙の相手がこのコミューンに反対するマルクスの著作、たとえば『ブリュメール18日』を援用しようとも、クーゲルマンに対し、マルクスがかつて言ったことはどうしてもはや通用しないのか、どのようにしてコミューンが独創的なものを作りだすかを示すのはマルクス自身である。

 第二の注釈。マルクスが国際的に勇名をはせるようになったのはコミューンの時、いずれにせよコミューンの時代のことである。そして、特に第二帝政下での彼はほとんど無名のドイツ人亡命者であって、周知のように彼の幾つかの著作のゆえに出版社においてどうにかこうにか知られている程度の人物にすぎなかった。ドイツでの『資本論』の出版は出版物としては例外中の例外であった。ところで、数年経つか絶たないかとき、マルクスがコミューンに関して立場を明確化させた後のことであるが、インターナショナル派のパリの或る新聞が彼のことをインターナショナルの「偉大な指導者」と呼んだ。じっさい、労働者のミリタンの眼差しはその後、マルクスと彼の行動を注視するようになる。このように有名になったことはマルクス概念の普及 ― その手はじめはドイツであったが ― に大いに役立ったが、これは非常に重要であるように思われる。『資本論』はそれまではほとんど普及していなかった。明らかに、本書は難解だが、『フランスの内乱』のほうは非常に広範に流布したマルクスの最初の著作だったことはそれでもやはり驚くべきことのように思われる。『フランスの内乱』は1871年7月から1872年春までのあいだに11,000冊を数えた。「檄」はリープクネヒト(Liebknecht)の新聞『フォルクスタートVolkstaat』紙に連載された。それはやがて冊子にまとめられ、8月から10月にかけて他の処でも普及するようになった。したがって、私が事物をもう少し遠くまで押したいと欲するとすれば、私の言いうることはマルクス主義の普及を可能ならしめたのはコミューンであったということである。

 反響の問題にたち戻ろう。それがもうひとつの論点であるのだが、ここで言う反響とは、特にドイツにおけるコミューンの反響である。事件そのものの反響に関してはG.ハウプトは彼の見解を余すことなく示した。そのことはもっと強調できるだろうが、事件は国際主義の真実の爆発をもたらし、このことは当時の労働界にあってはやはり目新しいことだった。そして、この国際主義はパリに送られた一連の檄文において示される。ベルリンの労働者は3月26日に言う。「我々は労働者人民の解体しつつあるブルジョアジーに向けた叛乱として、パリで生じた社会革命を熱烈に歓迎する。われわれは新聞のあらゆる非難を偽りの報道だと宣するであろう。そして、われわれはこの革命の勝利から、自由、平等、友愛、ヨーロッパにおける平和の樹立を期待するものである。」ベルリンの指物職人はこう言った。「労働の解放のために闘う勇士たちよ、こんにちは!」ブレーメンの大工は「プロレタリアートの社会的解放のための前衛の戦士たちに。」G.ハウプトはハノーファの3千人の労働者の檄文を読みあげたことがある。曰く。「労働者の解放の時が来た。… 労働者たちは国家を支配するのに熟している。労働者政府によって創設された一連の諸制度がそのことをあますことなく証明した。・・・」p.232 この檄文の発行日は4月21日である。

 私は、このような表明が当時のマルクスとエンゲルスの一定の評価に見出されるものと無関係ではないと考える。だが、彼らを取りあげるとき、この役割の実際的側面を強調しなければならない。二人はロンドンで「ターンテーブル」として役立ち、パリとドイツのあいだの結合を確保したが、このことは2つの意味あいにおいてそうであった。ドイツ労働者により採択されたコミューンへの檄文を送ったのは彼らである。たとえば、エンゲルスは4月5日にリープクネヒトに書き送っている。「アイント=ホーフェン(Eind-hoven)の労働者の檄がインターナショナルに届いた。それはすでに配布された。一方、彼らはほとんど毎日、情報を、『フォルクすタ-ト』紙でそれを発表し、特にリープクネヒトに送った。言い換えれば、彼らはドイツのプロレタリア―トがその当時コミューンについて描くイメージを加工するのに貢献したことになる。

 G.ハウプトはそのイメージがどのように民衆のあいだに広まったかを語った。彼はリサガレーのの著書の重要性を力説した。私は一つだけ細かい話に入る。1894年当時、8万の人口をかかえた南ドイツの或る町で45人の読者と100冊の本をもつ労働者文庫があった。これら100冊の本のなかにリサガレーの本が入っていた。それは1年間に4度借りだされたが、この利用度はまったく中程度であった。しかし、その同じ文庫でのマルクスやエンゲルスの本よりも遥かに高かった。

 コミューンの実例はドイツ労働運動で主に2つの結果をもたらしたが、それは2つの重要な瞬間への試金石となった。思うに、この実例と、マルクスによって普及された一定の思想はラサール派とアイゼナッハ派のあいだに生じた溝を拡げた。私の言い方は的確ではない。それらは圧倒的多数の労働者がアイゼナッハ派へ移るのを扶けた。そして、私はその証拠として『フォルクスタート』紙の発行部数が飛躍に増えたことを挙げておきたい。数か月間に予約購読者数は約2700から4700に伸びた。このことはラサール派がアイゼナッハ派へ移動したことを示している。この移動は私の見るところ、その大部分の理由としては幾つかのラサール派のグループがコミューンに対して、ビスマルクによりフランス共和国に対して導かれた暗黙的な控え目な態度、そして時には公然たる賛辞をもったことによって説明される。

 2番目の重要な瞬間は修正主義に対する闘争のそれである。やはり驚異的な2つを引用してみよう。指導的修正主義者フォルマール(Vollmar)またはアウエル(Auer)はコミュ―ンをきっぱりと非難する。フォルマールについていえば、ローザ・ルクセンブルクに答えて曰く。「パリの労働者はその当時、寝てしまったほうがどんなにか良かったことであろう。」アウエルについては「コミューンは一大悲劇であり、世界史はこの悲劇が演じられなかったとしても何も失うものはなかったであろう。」これは1891年3月19日の手紙であり、それはアムステルダムの国際研究所に保管されている。

 思うに、これらコミューンに不利な評価よりも重要なことはおそらく、公然とは表明されない、たいていの場合、私的な評価に問題があるということだ。明らかにフォルマールが先ほど引用した語句を発したのは会議の席上のことだが、p.233 アウエル ― 彼は当時、社会民主党の有力な指導者の一人だった ― は公然とではなく、私的な書簡の中でそう述べている。この頃、コミューンとコミュナールの人気は労働運動の中では非常に大きかったため、彼らは流れに逆らって進むことができなかった。おそらく彼らはまた、コミューンに関して社会民主党の真実の右翼による、コミューンに敵対してこの当時発刊された一連の作品に見出されるものと同じ位置を敢えて占めなかったものと思われる。

  反対に、左翼は修正主義者に対する闘争の議論においてコミューンを極めて純粋なかたちで活用した。ローザ・ルクセンブルクにとって1871年は労働者階級とブルジョアジーの対決であった。彼女はそれと並んで強調したことがある。すなわち、コミューンは経済的条件が必要な成熟段階に達していなかったゆえに成功は覚束なかった、と。しかし、彼女はまた、いずれにせよ、労働運動がつねに、たとえそれが尚早であるにせよ、権力を奪取しなければならないゆえにコミューンは企図されねばならなかったことも明言した。

 ところで一方、ローザ・ルクセンブルクもメ―リンクも社会民主党左派の指導者も一般に、マルクスがコミューンについて長期に亘り取り扱ってきた問題、つまり国家の問題やプロレタリア独裁の例としてコミューン問題にふれていないのは驚くべきことである。おそらくは、ヴィルヘルム支配下のドイツにおいて革命後に来るべきものを考えることはユートピア的と見なしたのであろう。おそらくはまた、― G.ハウプトが十分に明確にしないまま述べたことだが ― 私の見るところ、1905年のロシア革命と、そこから引きだしうるすべての教訓のほうが1871年の例よりもはるかにリアリティをもち、はるかに直接的活用できるものとなったのは確かであるようだ。思うに、この時以降、コミューンへの参照が否定的考察に変わっていく理由の一つがそれである。人々はコミューンではなく、ヴェルサイユについて語る。ローザ・ルクセンブルクの最後の演説の中でガリフェ(Gallifet)ノスケ(Noske)の比較をおこなった。

 論戦なしに最後に一言のべたい。思うに、コミューンはドイツ労働運動にとって試金石だったと言われるのであれば、最も直接的な現実の中に入るために、どうしてコミューン百年祭が東西両ドイツにおいて祝賀されたかを研究するのは興味深いであろう。比較は確実な収穫を約束するものとなろう。

 

C. Oukhov

 私はベルギー情勢に関して、2,3ふれたい。

 まず第一に、伝統としてのコミューン、象徴としてのコミューンがある。毎年、コミューン、その闘争、その死が実際にはかなり平凡なやり方で祝われる。つまり、結論への言及はなしである。コミューンに対するベルギーに存在する真実の象徴を導くために、これら記念祭をどのような範囲で人が利用しなかったかを疑問に思う。先ず第一に、ベルギーには数多の亡命コミュナールがいたからであり、また、伝統的にベルギーはフランス社会主義理論家の影響を受けてきたからである。

p.234   異なった立場がある。それは社会民主党の指導者たちによって、いわば彼らの思想を正当化するために利用されたモデルの立場である。ところで、私はここにおいて一点を述べたい。なぜというに、先ほどコミューンは再生すべきモデル(modèle à reproduire)と言われたからだ。それがベルギーの場合には当てはまるかどうか私には分からない。ヴァンデルヴェルデ(Vandervelde)という人物がコミューンを利用する。彼は社会民主党が結成されたとき、そして組織問題が最初にもち上がったとき、社会主義者により影響された組合の真只中で党組織、労働者組織がもち上がったときに、それを利用する。彼は言う。「良き組織が存在せず、指導者がいなかったからコミューンは成功することができなかった。われわれにとって真っ先に必要なのは幹部である。」

 彼はいつも多かれ少なかれ、将来において為されるべき革命について語るが、この点については曖昧なままである。たとえば、革命戦略はまったく問題としない。何らかの感情を掻き集め、また、この当時、社会民主党の幹部においてなおまだ見出される一部の左派を保持するために、いかなる点について1871年の事件へのこの曖昧な参照を利用できるのか再度疑念が湧いてくる。

 ヴァンデヴェルデは同様に、1886年にワロン地域で無政府主義の影響下で生じ、コミューンの記念式典後にどこでも勃発した叛乱が生じたとき、コミューンについて語る機会を得た。

 さらに、ヴァンデヴェルデの書いたものを読むと、カウツキーの語、一語一語を、特に『社会革命』において公式化したのと同じ議論を利用していることに大変驚かされる。ベルギーは伝統的にフランスに影響されがちだった。コミューン後になると、ベルギーはドイツ思想の影響を受けはじめるようになった。

 私見によれば、一般にコミューンは穏健派にとって優れた議論になったようだ。その議論は左派の野党や革命運動に対する闘争中でのものである。