討論【Ⅳ】(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

p.227

討論【Ⅳ】(その1)

 

J.エラインシュタイン(Elleinstein)

  G.ハウプトの所論に私が賛同する数多くの点について語るのは不要であると思う。私の言いたいことは、議論がなお必要と思われる幾つかの局面に関して若干の考察をなすことである。G.ハウプトの意見を聞いていると、私はトロツキーがターレス(Talès)の著書の序文で言ったことを思いだした。「われわれがコミューンの歴史を学ぶたびに、われわれは後の革命闘争によって、そしてとりわけロシア、ドイツ…の最近の革命によって獲得した経験のおかげでコミューンをあたらいい局面の下で眺める」と。思うに、この考察は現代史、正確に言うとコミューン史を読むわれわれの方法に鑑みてより重要となる。私の主張のポイントは、この短い報告中でコミューンが社会主義的であるか否かを確かめる議論をなすことではない。コミューンがその傾向からして目的において社会主義の運動であったこと、また、事件の最中と後においてその支持者はもとより敵手によってそのようなものとして感じられていたことももちろん事実であったように思えるからだ。

 このことはむろん、複数の「コミューン」がなかったことを意味するのではない。そして、私が思うに、その百年祭の祝賀の研究は歴史家にとって事実的にそれが複数あったことを示している。たとえば、国家主義者の諸組織によってバスティアン=ティリー(Bastien-Thiry)の墓とともに連盟兵の墓が花で飾られているのを眺めるとき、国民主義的コミューンの読み方があるのに気づかされる。たとえば、ロッセル(Rossel)の役割を重視する傾向の国民主義的読み方がある。無政府主義的読み方、そして、当然のことながらマルクス主義的な読み方もある。そのことは何も「1871年の事件史に限られたことではない、と私は思う。現代史におけるあらゆる事件はわれわれの時代の政治的・イデオロギー的諸問題と直接的に関連する固有の事実をもっており、必然的に解釈と激変は凄まじく数多いものとなる。結局、歴史が豊かになるのはそこからだ。思うに、たとえば、大革命についてトクヴィル(Tocqueville)が言ったこと ― 彼が偏見でなく情熱を込めて諸事件を研究するというとき ― は彼の意図を示している。なぜというに、「人がわれわれの時代、わが国の物事について語るとき、いったいぜんたい情熱をもたないではどんなものになるだろうか?」1871年についても同じことがいえる。私はそのことを憤慨しないし、逆に、もちろん科学的分析と事実から出発するという条件づきではあるが、それは非常に有用だと思っている。しかし、われわれは同じく、歴史の問題は事実を研究することではなくて、事実と解釈のあいだ ― それらをこそ、歴史は必然的に引き起こすのだ ― の段階を研究することであることを知っている。

p.228   G.ハウプトはこの見地からコミューンを象徴とモデルとして分析した。人はまた同様にコミューンを、語の正確な意味でのモデルとして、つまり、モデル例(modèle-exemple)ではなく、復原すべきモデル(modèle à reproduire)として記録することも可能である。1879年から1914年にかけて、そしてそれよりも後は特に、フランス共産党が誕生した後の数年間すなわち1920年から1934、1935年までの間に生起した論争においてコミューンはかなり広い範囲においてモデルと受け止められていたようである。私の主張点はこの点を発展させることではないか。思うに、コミューンが現代史、殊にフランス史に残した「航跡」の研究においてはモデルの観念は排除することができない。

 しかし、結局のところ、最も重要な解釈というのは、それでもやはりモデルとしてのコミューンの解釈であるようだ。にもかかわらず、私はモデルという語よりも実験室という語のほうを好む。なぜなら、コミューンにおいて最も重要なのは、コミューンが共産党宣言の出された1848年から1905年および1905年、ならびに1917年 ― 社会主義革命の唯一の体験、「稲妻」まさしくトロツキーの言うところの社会主義革命の大空に閃く稲妻であった ― の間に位置する方向に社会主義革命の実験室であった。そして、この見地から人がコミューンを歴史的実験室として研究したやり方を観察するのはあながち意味のないことではないように思われる。この見地についてG,ハウプトの報告においてと同様に、幾つかの例外こそあるが、百年祭に際して組織されたシンポジウムの全体においても過小評価されていたように思われる一点だけを顧慮することを私は望みたい。それは党のモデルであり、党の役割である。そこにわれわれはまさしくコミューンがどのように「実験室」として機能したかを見るであろう。なぜなら、コミューンについて重要なことは、たとえばレーニンの目には単に実際的なものではなかったものの、私の見るところでは、諸君の討論参加のこの時を重要視する必要がある。コミューンに否定的な要素があったこと、こうした否定面は本質的に党の役割に関連している。

 『国家と革命』を著したのちにレーニンは国家の問題を研究しなかったことや、そして、コミューンとソヴィエト革命の関係を明らかにするために特に何も出版しなかったことを諸君は知っている。思うに、われわれがソヴィエト国家の初期の指導者についてもっている唯一の原文は、私がまもなく仄めかすであろうトロツキーの原文である。ある瞬間、ある時期におけるトロツキーは、人々が言うような語の意味での「トロツキスト」ではなかった。この原文においてすなわち『コミューンの教訓』において、トロツキーがコミューンについてソヴィエト革命の光に照らして主張した本質的な点は何であったのか? それは政党の役割に関してだ。大衆運動に関連するその役割、その組織、その訓練、実行される変化と関係をもつその業績である。

 私見によれば ― そして、この見地からコミューンを実験室と見なすことはやはり本質的であるようだ ― レーニンがマルクス主義にもたらした主要な貢献としての社会主義革命の理論を、レーニンは1871年の教訓から、そして彼がコミューンに関し積極的な要素と否定的な要素を選別することによって、p.229  なした反省からまさしくもたらしたのである。しかし、レーニンの考察は何についてなされたのか?

1)レーニンが必然的に場所と時間を結びつけられた状況の所産として示す革命的状況の定義について。

2)革命過程でつくりだされる力関係の問題について。異なる状況を考慮しつつ1871年と比較して新たな条件においてレーニンが労働者階級の役割と同盟者の問題について主張するのはここにおいてである。

3)国家の諸問題。これはすでに論議の的となっており、再論の必要はない。

4)国家的現象と国際問題の関係、および国際主義の問題について。

5)最後に、私が先ほど述べた党の役割、党活動、党組織、そのイデオロギーについて。

 諸君が屡々いうように、労働者階級が自立的伝統の維持を願っていたことを知って驚く必要はないようだ。それは歴史的運動すべてにつきものだが、私の見るところ、この見地から他のもの以上に労働者階級が過去に接近したがっていたようには思えない。1789年の大革命を検討するとき、たとえばローマの追想の強調、ローマ共和政への参照は諸君が労働運動やコミューンについて描いたこの同じ過程に属する。一般にこのタイプの運動、特に革命運動は多かれ少なかれ最近の過去、また、多かれ少なかれ遠い過去に停泊点を必須とした。そのことは何ら驚くことはない! 1871年が労働者階級、労働運動、社会主義の最初の自立的伝統であったことを強調する点であなたはまったく正しい。そして、諸反応、つまりマルクスの活動あるいはレーニンの活動、さらにまた、他のマルクス主義者の活動を理解するうえでこのことは重要である。彼らは労働者階級にこの自立的伝統を付与することの重要性と必要性を感じている。なぜなら、そうすることは彼らに闘争の自立性を付与することであり、自立的な政党を設ける可能性を与えることでもあるからだ。こうした党がなければ、とかく人の言いなりになりがちで、ブルジョアジーの支持力、支えとなりがちになる。

これらについて幾つかの点はあなたの研究の方向に沿っている。これらの点がコミューン史をわが固有の歴史的経験に従って再考察する傾向の程度に応じて沿っている。なぜなら、じじつ、われわれがわれわれの分析に、つまり、われわれが特定の領域で確定する事実の段階を屈折するように導かれるのは、歴史的経験に沿ってのことだからだ。

 私のテーマを理解していただくために、一例を挙げよう。すなわち、1968年5月の事件がそれだ。この事件を革命と見なすにとどまらず、それが革命となりうる可能性を秘めたものと見なした者の一人に私は属していない。けれども、未来のフランスで社会主義革命の可能性を仮想として取りあげ、2000年の歴史家がこのような条件を一種のフランス社会主義の前革命 ― 或る観点からみれば、大革命の地震を予告する幾つかの諸事件を手本にして ― p.230 1787年ないし1788年であると言うのは、あながち不可能な話ではない。

 ここにこそ、来るべき未来に人が実現を試みるべきことを提案しがちだとの考察がある。それは集団的方法によってのみ可能であり、一種のコミューン史の歴史である。個人的に実現するのは困難であるだろう。あなたが位置している異なった立場、そして、ある観点から見れば、マルクスが位置する立場、こうしたさまざまな立場においてわれわれはそれに参加した者によって経験された諸事件の重要性を確かめるであろう。

 E.ラブルース氏はごく最近、私にコミューン史とフランス共産党の船出に関しこう語った。1921年に1871年の記念祭が開催されたとき、フランス共産党と『リュマニテ』紙の編集に際しこの記念祭への新たなアクセスがあった、と。なぜなら、トゥールと共産党の分裂が生じたからだ。別々に取りあげたこの実例はそれ自体として明らかにそれほど価値のあるものではないが、普遍化する必要があるように思われる。