討論【Ⅳ】(その5) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

討論【Ⅳ】(その5)

 

M.-C.ベルジェ―ル夫人

 おそらくそうだろう! しかし、1927年に上海で『人間の条件』を読んだ人ならだれでも知っている暴力的な弾圧があり、Nang-Changでも『実りの秋』に書かれた弾圧がおこなわれた。1927年は中国で何千という死者を出した。なぜ広東を除いてどこでもコミューンについて語られないのであろうか?

 

R.ゴセ

 「造反有理」が敢えて大衆に語られた。そして、この言明はコミュナールのそれであるゆえに、コミューンは理性そのものとして生じた。大衆の創造的参加か、さもなければその運動の弾圧か、といった他の選択なしに。驚くべきことは、つねづね革命家たちがマルクスやレーニンを援用し、パリ・コミューンそのものを参照しなかったことである。

 

M.-C.ベルジェ―ル夫人

 1966年の問題に戻りたい。このコミューンでは真の伝統がなくても暴力行為が生起するのが見られた。北京のコミューンが話題に上り、そして、「文化大革命」は非常に正確に1871年のテーマを見出し、特定のテーマに関して発展していく。すなわち、大衆の権力、抑圧の道具として捉えられた国家機関としての共産党はブルジョア国家機関と同一視された。専門家や技術者に対する不信、それとは逆に「熟練者と赤」という名うてのスローガンとともに基礎の革命的ミリタリズムの価値が回復した。熟練者より赤になったほうが価値があるとされた。これらすべてのテーマはどのように伝播されたか? コミューンはおそらくこの時はp.243 行動の「模範」と見なされたか? 工場で組織された毛沢東グループの紅衛兵の「革命的叛徒」は、コミューンが明確にモデルとして役立つ「権力奪取」に取りかかったときに生まれた諸事件を検討すれば、そのような印象をもつことになろう。極めて頻繁に「コミューン」タイプの選挙に訴えがおこなわれた。つまり、いずれも指名者によって罷免できる受任者の選挙がこれだ。ところで、そのモデルは急に放棄された。とりわけ上海でのそれは1967年2月4日から23日まで、つまり、3週間足らずの一時期にのみ実験された。輪郭さえさほど明瞭ではない他の場所でもやはり短期間だった。その現象は中核、つまり毛沢東とその取卷き連による「文革」委員会によって急激に撤回された。したがって、コミューンの樹立、コミューンモデルの模倣は局地的・自然発生的イニシアティブの事件にとどまり、また、その行動が北京の指導部によって承認されなかったミリタンの事件にとどまった。それ以後、コミューンが中国の革命的伝統の一部をなさないかどうか、また、それが毛沢東のような非常に実際的な政治家にはモデルとして受け容れられなかったのか、あるいはまた、「文革」における彼の役割が何であったかを問うことができるだろう。G.ハウプトが言うように、伝統の秘密を暴く必要がある。

 私にとって中国でのコミューンはイデオロギー的武器として利用されたと思う。なぜなら、それは伝統的なマルクス=レーニン主義にさほど適合しなかったように思えるし、特定テーマ、特に大衆の自発性を導入するのを可能にしたからである。コミューンは毛沢東とその取巻き連にとってこれらのテーマを、彼らが本質的に固執する正統マルクス主義に挿入するのを可能ならしめた。まさしくコミューンは遺贈の一部を成す。思うに、それはコミュ―ンに由来するのではなく、本来的に中国的である無政府的人気取り主義(anarco-populiste)の思潮を実効あつものとする方法であった。

 

P.ヴィラール

 「コミューン」が中国において翻訳される訳語がパリの蜂起を問題にするとき、あるいは人民的コミューンを問題にするときと同じであるかどうかを知りたい。

 

M.-C.ベルジェ―ル夫人

 同じである。

 

P.ヴィラール

 否! 語彙についていえば、先ほど広東コミューンが話題になった。それはけっしてこの語のもとに現代の原文において意図されたのではなく、叛乱もしくは蜂起(bao-dong)という意味においてだ。gong-sheという用語は遡及して約2年後に中国共産党の出版物に導入された。gong-sheすなわちコミュ―ン ― これは選集のタイトルだが ― といわれるのはこの頃のことである。

 

A.オリヴジ

 G.デルフォーが呼び起こした追放者問題とP.ヴィラールがスペインについて語った事件問題に戻りたい。コミューン以後は当然だが、p.244 コミューン以前からバルセロナとマルセーユのあいだには極めて緊密な連携がある。連携というのは反権威主義的な集散主義(collectivisme)のイデオロギーという共通項である。インターナショナルの加盟員たちがマルセーユ港を抑えており、そのため4月4日にコミュナールは逃亡することができた。たとえばアレリーニ(Alérini)がバルセロナに逃げのびたのはそのためである。彼はここに長年滞在し、そこから、一時ポール・ブルッス(Paul Brousse)と協力し、フランス東南部地域に対し活動を投げ返していた。接触はかなり長期に渉り、おそらくはこのためにマルセーユの無政府主義界においてコミューン思想への追随が長期に亘って続くのである。M.ルベリウーは先ほどSFIOについて語った。どのような範囲で無政府主義者と革命的サンディカリストらが、明らかに社会党以上に、コミューン追憶の維持に貢献したかを研究しなければならないであろう。マルセーユではこの名残がかなり長期に亘った。むろん、記念碑、行列、宴会はおこなわれた。たとえば、1898年、無政府主義者とゲード派がコミューンをめぐって猛烈に火花を散らし、とくに連邦主義に関して争いあった。

 

G.ハウプト

 G.デルフォーが提起した問いに答えるには時間がないため、まちがいなく重要である追放問題にふれられないが、その非常に多面性をもつゆえに、依然として人がそれを知っているどころではない。

 E.ラブルースの質問は私も提起したことがある。たとえば、5月1日はどんな範囲でコミューンの追憶を曇らすのに貢献したのではないかと思う。10年間、12年間唯一の一大国際規模のデモが3月18日に組織された。次いで、パリ会議がこの5月1日をインターナショナルの一大示威運動の日とすることを決定したのである。2日間の祭典は多すぎるか?

 R.ゴセに答えることはむろん、社会戦争になる感情を掻き立てる弾圧の側面をもつ。しかし、M.ルベリウーが喚起した友愛的側面もある。思うに、どちらも無視してはならないのではないか。

 最後に私はJ.エラインシュタインが提起した党の問題について非常に控え目な見解を述べるにとどまった。というのは、理論と実践の両分野ともその方法 ― 1871年以降、労働者党が結成される方法 ― についてあまり知られていないため、これは非常に微妙な問題であるからだ。とうぜん、マルクスとバクーニンは対決させられてきた。しかし、バクーニンもまたひとつの組織概念をもっていた。すなわち、そこに再び取りあげるべき史料がある。一方、1899年のパリ大会が何であったかを注視しなければならない! アントウェルペンとリスボンの組織はそれらが単なる支部またはクラブであるにちがいないけれども、「労働党」を宣言する。事実的に結成された党は19世紀末頃までは明瞭には現れない。

 

J.ブリュア

 1879年のマルセーユ大会での決議はまさしく1871年の航跡の中に位置づけることができるこの大会はコミューンの残存者からメッセージを受け取ったが、p.245 彼らはそのメッセージ文の中で1871年のロンドン大会、1872年のハーグ大会での労働運動の政治組織に関する決定を再度取りあげている。最初は数こそ少なくても、フランス労働党は非常に正確に、マルクスが労働者階級の党の結成を力説したことに応えたのだ。この時は親子関係は純粋だった。そのことは原文の中に表明されている。

 

M.ペロー夫人

 1879~1880年時点では「党」という用語は極めて曖昧だった。マルセーユ大会の参加者が党の結成について語ったとき、だれも同じことを考えていたわけではない。それは、原文を細かく検討すれば明瞭に浮き出てくる。特に、「党」という用語にまつわる語の関係を調べれば判る。さらに、党の必要性を宣言する文が採択された日の翌日、前日賛成票を投じたことに自分らは絶対に同意できない、との動議を提出し、投票したあるグループがいた。党というと、或る者は政治組織を連想し、また或る者は非常に漠然とではあるが、一種の「労働者総連盟」を連想していた。私はこの「党」という観念の曖昧さを入念に検討する必要があると思う。マルクスの最初の原文はこの点に関して明瞭であったのか? 労働者組織の単なる会合である党という観念ではなかったのか?

 

M.モルマール

 われわれは重要な点にふれている。党について「マルクスによる」概念について語るならば、参照点として取りあげねばならないのはフランスではなくドイツである。マルクスにおける党の概念はドイツ社会民主党のかたちに敷き写されており、フランス労働運動の発展に敷き写されているのではない。そして、このドイツモデルに従って、その労働者党を構成するかたちの計画はじっさい、G.ハウプトが正当にも力説したように、1871年の秋に発する。マルクスが組織された行動の欠如に ― もちろん全部の理由ではないが ― 帰すところのコミューンの敗北と大いに関係がある。次いで、このことはロンドン大会の原文中で明瞭に言及される。マルクスはドイツの社会主義者の運動を労働運動のモデルとした。

p.246

A.レーニング

 私はM.モルマールの見解にまったく同意できない。1871年大会の期間中、労働者階級が政党を組織する必要が最初に言われたことはまさしく事実である。しかし、それより前の期間におけるマルクスとエンゲルスの往復書簡を読めば、1864年におけるAITの設立以降、マルクスがすでにこの目的でAITを利用する意図を懐いていたことは極めて明白である。一方、私は、人がしばしば真に党が存在しないために、曖昧なやり方で「党」という表現を使うと言うⅯ.ペローの見解には同感する。1875年以後のマルクスの通信において、「わが党」がしばしば問題にされている。この時「マルクスの党」は存在しなかったのである。

 

M.モルナール

 それこそが問題なのだ。マルクスが「わが党」について語るのは1864年からではなく、1840年以後からである。その語は極めて広い意味に受け止められている。その後に観念は正確になっていく。2つの事件、つまりドイツ社会党の設立とコミューンの挫折のために「狭められた」。以前は、M.ペローが喚起したように、運動の緩やかな連合、多様な性格をもつ組織という意味での党が問題になっていたのだ。

 

M.ジョンストン

 マルクスの党問題はもっと複雑であると思う。だが、第一インターナショナルに関していえば、私はA.レーニングの発言とは異なり、マルクスは初めから党の計画をもっていたとはけっして思わない。反対に、彼はあらゆる種の組織のあいだのより広い連合の支持者であった。

 

A.レーニング

 彼はこの計画をはじめからもっていた。ただ、1864年には皆を尻込みさせないためにインターナショナルの規約に規定を挿入することを望まなかっただけのことだ。

 

M.ジョンストン

 マルクスがインターナショナルから「労働者階級の真の運動」から生まれる発展のプロセスには期待をかけていた。彼は何であれ、押しつける意図をもたなかった。この期間の、しかもこの分野におけるマルクスについて特に興味深いと思われるのは、あらゆる厳密な概念が欠如したことである。彼は伝統と国家的特殊性を配慮していた。コミューンの前ですら、とりわけ1867~69年のあいだはドイツの経験を特別視していた。フランスについても彼は同じような発展を考えていた、と私は思う。なぜというに、彼は社会主義のプログラムを遅れることなく真に得るために十分に発展させられたフランスの労働運動を想定していたからだ。だが、たとえばアングロサクソン諸国について、彼は非常に異なった、かつもっと広い、ある程度チャ―ティスト運動モデルに基礎を置く概念をもっており、アメリカと同様にイギリスでは、広い意味の「労働」党の結成を奨励していた。

 

【終わり】