J.A.レート著「コミューンをめぐる漫画戦争」(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J.A.レート著『コミューンをめぐる漫画戦争』(その1)

James A.Leith, The War of Images surrounding the Commune, Mcgill Queen’s University Press, Canada, 1978. xxiii, 349 p., 24 cm.

 

原注は重要だとは思うが、煩瑣であるため省略した。また、上掲書には随所に図像が掲載されているが、これも割愛した。画像のない説明となると真に味気ないものになることは重々承知している。大きな図書館には原著があるので、これにあたられたい。】

p.101

 

 ひと言で評すれば、図画および色彩の大饗宴は字句および思想のそれにけっして劣ることはない ―― E. Money

 

 何年か前にラルフ・シクス(Ralph Shikes)の『憤慨した眼 The Indignant Eye』の出版は次のことを想起させる。すなわち、中世後半以来、西欧は宗教的・政治的・思想的闘争においてくり返し画像を利用してきた。14世紀の教会改革論はキリスト像と並んで教皇の振舞いを対照させる絵をもってプラハの街をねり歩いた。16世紀になると、宗教戦争によるあらゆる党派は己たちの徳を描くとともに、その敵手を風刺した。フランスの画家はルイ十四世を英雄的征服者として描いたのに対し、オランダおよび他の敵国民をルイ王を攻撃的な怪物として代表させた。フランス革命が頂点に達したとき、一方の画家たちは共和政を褒めたたえ、他方の画家たちは恐怖政治の行きすぎを絵の中に表わした。また、1830年と1848年の内乱時は絵の上で交戦状態が再現された。けれども、近現代となると、パリ・コミューンの直前、その最中、その直後ほどに多量の宣伝的漫画、版画、その他の画像が現れたのは稀有のこととなる。フランス国立図書館のみでこのような史料を保存する膨大な量の2つ折版の卷を収蔵している。

 こうした挿画上の戦争はこれまで西欧の歴史家によってそれほど入念には取りあげられてこなかった。19世紀と20世紀になると、その問題に関する幾つかの論文が発表されたが、それらはほとんどすべて上辺だけのものにすぎなかった。ベルルー(Jean Berleux)は探しだすことのできたかぎりの漫画を追跡したが、そのリストを作成する域を出なかった。フランスにおけるごく最近の諸研究もコミューンについては十分な注意を払ってはいない。 ロシアとチェコの幾人かの学者が当時の漫画を研究しているが、ただ単に革命派の画家に関するもののみである。p.102 一方の党派のみを検討することは、彼ら自身が階級闘争として何を懐いていたかの研究方法としては奇妙な方法であるといえよう。いずれにしても、彼らの研究は実際的に西側には知られていない。ロジャー・ウィリアム(Roger William)、アリステア・ハーン(Alistair Harne)、ステュアート・エドワード(Stewart Edwards)のような有能な歴史家ですら、彼らの最近の研究では画像戦争を無視している。コミューン百年祭を記念しての漫画とその他の知覚史料の陳列は幾つかの有用な目録の出版を伴ったが、これとて入念な検討はなされていない。百年祭は美術雑誌の優れた挿絵入り特別号を世に出したが、それでもその注釈は表面的である。ほとんどの歴史家は依然として漫画を価値ある史料としてよりは、むしろ効果的なイラストとして扱っているのみである。ベルナール・ノエル(Bernard Noël)は自著『コミューン辞典』の中で挿絵の一部として数々の漫画を借用したが、その多くの画家を検討するに価値あるものと位置づけている。

p.103  しかし、コミュナールは絵をこよなく重視した。彼らの偶像破壊主義は旧秩序に仕える偶像を大目に見ることを有害だと見なした事実のなかに示される。ナポレオン立像を戴くヴァンドーム円柱の倒壊は、帝政と王政を喧伝する立像を抹消すべき決意を象徴する。或るコミュナールは「ラ・コミューン」と題する唄の歌詞の最後の部分で記念碑の破壊からある教訓を引きだしている。

 人々はこの物語から学ぶ

 もはやうんざりすることはない

 かくも辛き後口をおまえに与えた者

 さあ、それはもはや倒れた

 われわれはすべての暴君を倒したのだ

 パリ第11区のの急進派はヴォルテールの立像を、この哲学者がフリードリヒ二世を褒めたたえ、プロイセン軍を称賛し、民衆を侮辱し、パリ市を嘲笑したゆえに倒すことを要求した。

 古い芸術の代わりに彼らは大衆を啓発すべき新しい作品を創造せんと明らかに意図した。このことは芸術家連盟の宣言文の一節からも明瞭である。

 「最後に、弁舌により、文筆により、クレヨンにより、傑作揃いの民衆的再製により、知見に満ち、道徳的な画像 ― 広範に普及することができ、フランスの最もうらぶれた村の役場にまで貼りだすことが可能な ― により、委員会はわれわれの再生に、コミュ―ンの贅沢な成立に未来の荘厳さに、普遍共和国を勝ち取ることができるであろう。」

 こうした教育的役割のために、コミュナールは大きな美術品だけでなく、小さな絵画までも改革することを欲した。p.104 たとえば、『デュシェーヌ爺さんPère Duchène』紙は自由のボンネットを被り、キリッとした眼をもつ女性「愛国女性」を描く新たな郵便切手の発行を要求した。

 幾人かの指導的美術家は内乱の真最中は不在であるか、または余念をもたないかのどちらかであった。コミューン当時34才のコロー(Colot)は4月にパリを去り、けっして過激な思想に与しなかった。マネー(Manet)は2月に南仏に疎開して6月まで帰還しなかった。彼が帰還したとき、街路におけるバリケードと遺体を描写している。ミレー(Millet)は美術家連盟の委員に推挙されたが、任に就こうとはしなかった。ルノワール(Renoir)はヴェルサイユ派とコミューン派の双方から通行証を獲得したが、それで彼の家族を訪問し、絵を持ちだすために境界線を越えることができた。クールベ(Courbet)は熱狂的なコミュナールだったが、美術家連盟の長として行政的雑用に忙殺されていた。ドーミエ(Daumier)は内乱の恐怖を風刺し、コミューンには冷淡であった。彫刻家のダルー(Dalou)はルーヴル美術館の主事として多忙だった。しかしながら、共和政とコミューンのために身を捧げた多数の漫画家がいたことは事実である。他方、漫画家のある部分はヴェルサイユ派に味方した。図絵の戦争はポスター、便箋の印字、カレンダー、メダル、会員証、歌詞、タバコ入れ、皿にまで拡がった。しかし、もっとも迅速にして最も安価な武器となったのは漫画である。「時は笑い飛ばすには陰鬱にして悪し!」ピャ(Pyat)はコミューン前夜に『政治風刺画』でこう述べている。「けれども、風刺は復讐の武器であり、強壮剤は苦いことを想起されたい。」

 漫画はいろいろなかたちで現れ、いろいろな方法で利用された。挿絵入りの風刺漫画雑誌が発行されたが、ふつう、それは短命に終わった。『時評L’Actualite』『政治風刺画La Caricature politique』『毒舌La Flèche』『提灯La Lampion』『 怒ったノミ La Puce en Colère』などがそれである。時事漫画、挿絵なども『カルマニョル輪舞La Carmagnol』『戯画La Charge』『伝令L’Estafette』『絵入りデュシェーヌ爺さんの息子Le Fils du Père Duchene illustré』などの民衆新聞も世に出た。コミューン弾圧後は『大騒ぎLe Charivari』『絵入り噂話La Chronique illustrée』『鈴Le Grelot』『娯楽新聞Le Journal amusant』『笑いの世界 Le Monde pour rire』  『挿画世界Le Monde illustré』『滑稽評論 La Revue comique』『挿画同盟 L’Union illustré』 『パリ生活 La Vie parisienne』などの右派系新聞と定期刊行誌が反革命的風刺画を掲載した。しかし、大部分の漫画は一枚一枚紙に印刷され、手でもって2~3種の絵具で色づけされた。時おり、それらは連続して現われ、しばしばアルバムの形をとったが、ほとんどは一枚の絵が独立したものであり、それぞれが重要だった。それらは不特定部数が印刷され、広い範囲に配布された。それらは街の呼売り人によって売られ、店の窓に貼られ、壁に貼りだされた。公衆は新しい石版画のまわりに群れ集まり、そのテーマに関し冗談を言いあい、辛辣な批評を交換し、激しい議論の花を開かせた。「店の陳列台、壁すらもがそれぞれの仕様で思想、原理、精神の支離滅裂を撒き散らした」、p.105とフランシス・ウェイ(Francis Wey)は『パリ籠城歳時記Chronique du siège de Paris』の中でこのように述べている。

 親コミューンの漫画家のなかでピロテル(Pilotell)が最も傑出している。帝政末期に彼はその政治風刺画の咎でもって幾たびも有罪判決を受けた。1871年、彼は自身で『政治風刺画Caricature politique』 紙を創刊し、1月22日の流産に終わった叛乱から3月18日の革命を支持し、美術管理職に任じられ、少しばかりのあいだコミューンの警視官の一人として過ごした。モロク(Moloch)は画家にして装飾家であったが、帝政末期に漫画家に転職した。彼は多作家で約200点のヴェルサイユ派への憎悪を滾らせた漫画を世に出した。もう一人の有能な左派の漫画家はサイド(Saîd)である。彼は版画家であるが、石版画職人レヴィ(Lévi)という偽名で絵を描き、民衆に向かっては同情的で簡潔な、しかも表現力豊かな作品30点を公表した。独学の画家小ガイヤール(Gaillard fils)― 彼はコミューン期にバリケード指揮官のガイヤールの息子 ― は革命的情熱に溢れる多数の作品を出版した。左派に属する他の重要な漫画家としてはアレクシ・ブリュタル(Alexis Brutal)、ジル(Gill)、ド・フロンダス(De Frondas)、デュパンダン(Dupendant)、マティス(Mathis)、ロザンボー(Rosambeau)らがいる。

 左派の画家として出発しながら、コミューンへの反動の流れのなかで右翼に宗旨替えした者もいる。フォスタン(Faustin)がそうであり、彼は当時最も多くの作品を残し、1870~71年のあいだに500枚以上の独立した作品を描いた。皇帝一族を愚弄し、新共和国を支援し、コミューン期にはヴェルサイユ派を叱りつけた後、5月になると直ちに右派に転じ、反革命派新聞『鈴Grelot』 を通じて反コミューン漫画を描いた。若年の画家クランク(Klenck)は当初、ヴェルサイユ政府を攻撃する多数の作品を描いたが、コミューン弾圧後は急に右派に身を転じた。その作品にしばしばマリア(Maria)の署名を残したルノー(Reneau)は当初はコミューンを称賛したが、コミューンの終焉とともに称賛をやめた。ロシアの歴史家はこれらの画家を単なる変節漢として退けているが、彼らの転向は意味深い。同時にロシアの歴史家は右派に属する幾人かの極めて有力な漫画家ベルタール(Bertall)、シャム(Cham)、ジロー(Gillot)、シュケ(Chouquet)、ダルジュー(Darjou)、ジョー(Job)、ネラク(Nérac)、ピプ(Pipp)、ロビダ(Robida)、トリブリ(Tribly)、テオ(Théo)などを過小評価してきた。

 漫画の繁殖と分裂は第二帝政下で出版法の解禁(部分的だが)とともに始まったが、その真の意味での氾濫はナポレオン三世の退位とともに火を噴いた。ドラネ(Draner)は、旧体制を嘲弄する傑作漫画を販売する店頭で漫画を見て興じている国民衛兵の姿を描いた。これらの作品が帝政の社会政策や経済状況に焦点を当てることは滅多になかった。代わりに、旧体制の退廃ぶりを描写するのに集中した。p.106 これらの漫画の多くは猥褻的で、それらがもくろむ悪徳を表現した。たとえば、ル・プティ(Le Petit)の「La V…Espagnol」は野心家のスペイン人の皇后を漫画にしたが、民衆のなかでは彼女こそ家庭内のみならず、政府の諸政策において皇族の中で決定的な力をもつと考えられていた。風刺画家は1870年1月に樹立された政府の首班オリヴィエ(Ollivier)を背に乗せた牝牛 ― これは身持ちの悪い女を意味する ― としての彼女を描いている。彼女はオリヴィエと不義密通関係にあると思われていたからである。彼女は夫を侮辱し屁をひく。皇帝の被る月桂冠は不貞妻の夫の角を形づくる。その絵の中での皇帝と皇后のひと粒種の皇子は力なく大地にうずくまっている。フォスタン作の風刺画は「玉突き」と題すが、それには玉突き遊びと同時に「身持ちの悪い女」の含意がある。その絵によると、皇后ウジェニー(Eugénie)は挑発的に玉突き台に寝そべり、奔放なリズムダンスの叩く姿が描かれる。男根を象徴する棒をもつ独裁者はプリンス・ナポレオン、ルイ・ブイヨー(Louis Veuillot)、ベルナール・ド・カサニャック(Bernard De Cassagnac)エミール・オリヴィエ、ジョゼフ・ピエトリ(Joséph Piétri)、ナポレオン三世の面々である。ボトルとグラスは放蕩を印象づける。ルノー(Reneau)の別の画における描写は宮廷作法を教わる皇太子を意図してのものである。

p.107   不運な皇帝の風刺は多くの形をとる。ある画家は彼の罪と悪業を意味する幾つかの部分から成る肖像画を描いた。彼の髪の毛は帝国の鷹から成り、額は12月2日のクーデタとスダンにおける降伏の印が捺され、眉はアントネリ(Antonelli)枢機卿の椅子を形づくり、鼻は大砲により支えられた教皇から成り、頬は幾つかの自由を象徴する束縛された人物に分たれ、顎はフランスを撃退するメキシコ人を表わす。或る匿名の画家はバダンゲ ― 1846年、アム(Ham)要塞から皇帝が脱獄したときに名乗った労働者に因んで名づけられた綽名 ― を絵の中では出征したものの、絵をひっくり返すとアス(Ass)として帰還した様子を表わす。画家ル・プティは皇帝を半獣半人の鷹として描き、プロイセン人に似せて邪悪で血に飢えたものとして描く。他の画家と同じく、フォスタンは皇帝の臆病を象徴する浣腸を使う男を示す。ペパン(Pépin)は20年後の皇帝を描くのに、破れ太鼓を手に持ち、瘦せこけた鷲に伴われながら松葉杖をついてよろめき歩きをする男とした。