お釈迦様が悟られたときに使ったのが、数息観と呼ばれ(悟ったあとに使ったのが歩行禅と言われます。ヴィパッサナー瞑想ですね)、それは息を数えていくというシンプルな方法です。
息は普通にするものです。ここに「息を数える」という数詞を入れるだけで、数息観というとてつもない瞑想法に進化します(そんな単純ではないのは事実ですが)。
数え歌と言うと、僕が思い出すのは、
やはりこちらです!
(これを教えてくれたのが、日本人ではなくフランス人であり、哲学者の父を持つ世界的振付家というのが面白いところです)
絵描き歌や数え歌というのは、ちょっと不思議な力があります。
日本では、古くは降神(神がかり)の儀式の際の呪言として用いられたと言われる。
『古今和歌集』仮名序に歌の一体として「かぞへうた」について記されているが、具体的な内容は不詳である。
僕が絵描き歌で思い出すのは、ドラえもんですが、数え歌で思い出すのはモーリス・ベジャールという振付家の「M」という三島由紀夫を描いた作品です。
*こちらで聞けます!↑
♬いちかけにーかけさんかけてーしかけ、ごかけて、
橋をかけ 橋の欄干腰をかけ はるか向こうを眺むれば
十六、七のねえさんが 花と線香 手に持って これこれねえさんどこゆくの
わたしは九州鹿児島の西郷隆盛娘なり
明治十年その朝(あした) 切腹なされたととさまの お墓参りにまいります
お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝んだら
西郷隆盛幽霊が フーワリフワリと じゃんけんぽん♬
数え歌までいかなくても、数を数えるだけでも大きな効果があります。
たとえば、「怒ったときに、数を数えろ」というのはよく言われる話しです。
怒ったらまず10まで数えろ、それでも怒っていたら、もう10を数えろ、などと言います。
怒りを抑えるために有効なだけではなく、実は「数を数える」には呪術的な、魔術的な圧倒的な力があるのです。
でも、多くの人は(子供の時分に一生懸命に覚えたにも関わらず)、簡単に数えられるものですから、その力を軽視しています。
これは実際に試してみましょう。
どこでも良いですが、骨に触れて、そして5秒数えます。
難しい場所ではなく、さわりやすい骨が良いです。脛とか、指骨とか、大転子とか、ASISでも。
そこに触れて、5秒数えます。「1,2,3,4,5」と数えます。
そして、手を離してから、またその周辺を触ると、ゆるんでいることに気付きます。
これを徹底することがMATLASの肝です。
その一方で僕らは5秒も待てないのです。1秒も待てないのです。
だからこそ、待つのです。
c.f.もっと枝分かれしろと世界に要求されればされるほど、私達は一層、信頼という表土に根をおろさなければ 2018年06月02日
この加速度的に成長する時代に、立ち止まる勇気をという文脈ではありません。
ラットホイールを盲目的に走るのではなく、ラットホイールから降りた方が本当の意味で遠くへ行けるということです。
ラストに1つだけ。
(One more thing!)
そもそも数を考え直すと、チョムスキーが思い起こされます。
この奇妙な有機体(人間)は、まず言語機能を得て、さらにある種の抽象化を行う能力を持っていたものですからそれを用いて言語特有の特性を全て切り捨てて、枚挙可能性の原理のみに集中した。こうして得られたものが、基本的に算術(自然数の概念)です。
チョムスキーの言葉を解説するほど傲慢ではありませんが、このチョムスキーの言葉を味わいつくす必要があります。
そうすると「数える」ということの呪術的な力の根源が見えてきます。見えなくても良いので、数えましょう!!