恩を忘れない! 津軽為信のお話 ~ アドラー心理学のコラム ~  | 数学を通して優しさや愛を伝える松岡学のブログ

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【恩を忘れない! 津軽為信のお話】

 

8月の初旬、

私は、青森を訪れました。

 

の暑さ真っただ中でした。

 

普段、青森在住のくわっちとは、

オンラインで音楽ラジオを収録していますが、

今回は、直接お会いしてお話ができました。

 

本の出版についても相談ができました。

 

 

それで、、

 

青森を訪れるのに際して、

いろいろと調べました。

 

津軽地方の基礎を築いた津軽為信(つがるためのぶ)

のことはご存じでしょうか?

 

今回はそんなお話。

 

 

 

 

戦国時代、青森や岩手のあたりは、

南部藩が治めていました。

 

当時、南部藩の力は強大で、

 

「三日月の丸くなるまで南部領」

 

という言葉もあったそうです。

 

これは、、

 

旅の途中で、月が三日月の頃に南部藩の領地に入ると、

連日歩き続けても南部藩の領地で、

領内を通り抜けらるのは、

満月になる頃になる。

 

ということを表していて、

 

それくらい南部家が治めていた領地は

広大だという意味です。

 

そんな強大な南部家に戦いを挑み、

武勇をもって津軽地方の独立を勝ち取ったのが、

弘前を拠点とした津軽為信だったのです。

 

現在の津軽地方の基礎を築いたと

言ってもいいでしょう。

 

 

< 津軽為信 >

 

 

ただ、津軽を統一するまで、

順風満帆ではありませんでした。

 

また、

 

ある程度、津軽を平定した頃、

為信公は、豊臣秀吉に拝謁しようと考えました。

 

しかし、、、

 

京都にいる秀吉に会いに行くには、

南部藩の領地を通らなければいけません。

 

当然、対立している南部家が妨害し、

戦いになります。

 

南部家にはばまれ、

為信は何度も失敗をします。

 

4回にも及ぶ失敗の後、

為信はなんとか家臣を

豊臣秀吉のもとへ送ることに成功します。

 

執念ですよね。

 

そこで、、

 

秀吉の側近として務めている石田三成を通して、

津軽地方の名馬を献上しました。 

 

豊臣秀吉が鷹狩りを好んでいる

と知っていたからです。 

 

これによって、秀吉に認められ、

 

名実ともに、津軽地方の独立に成功しました。

 

 

その後、

 

南部家が、為信を成敗すべきだと

豊臣秀吉に訴えたこともありましたが、

 

石田三成らが秀吉に取り持ってくれて、

なんとか助かりました。

 

 

< 弘前城 >

 

 

 時は流れ、、 

 

豊臣秀吉の死後、

天下分け目の関ヶ原の合戦が起きました。

 

豊臣方の石田三成は西軍

徳川家康は東軍 

 

当然のことながら東北地方の武将たちは東軍につきます。 

 

内心はともかく、現実的には、

津軽為信も東軍という選択以外は考えられなかったでしょう。

 

(ただし、そのとき、長男は大阪城にいました)

 

結果は東軍の勝利でした。

 

しかし、、、 

 

このとき、予想もしなかったことが起きました!

 

 

 

 

為信の長男が、

 

石田三成の息子と娘を津軽へ連れて帰ってきたのです!

 

まさかの展開。 

 

普通なら、

石田三成の息子と娘を徳川家に差し出すのではないでしょうか。

 

ただ、、

 

差し出せばその息子と娘には悲惨な人生が待っています。 

命が奪われる可能性も十分にあります

 

しかし差し出さなければ、

 

逆に、津軽藩が徳川幕府から処罰されるでしょう。

お家取り潰しになるかもしれません。

 

こんなとき、、、

 

あなたなら、どうしますか?

 

 

 

 

 このとき、、 

 

津軽為信は決断しました。

 

徳川家には秘密にして、

石田三成の息子と娘を助けようと。

 

これは重大な決断です。 

 

津軽為信は、

かつて石田三成から受けた恩義を忘れていなかったのです。

 

為信は、恩義を大事にする情に厚い人物でした。

 

 

 

 

もしあなたが、

 

決断に迷ったとき、どうしますか?

 

日常生活でも

判断に迷うことってありますよね。

 

どのように行動したらいいのか、

決心がつかない。

 

 

そんなとき、、

 

アドラー心理学では、次のように考えて、

判断の基準にすることを勧めています。

 

「これはみんなにとってどういうことだろう。

みんなが幸せになるために、私は何をすればいいだろう」

 

 

これが、決断に迷ったときの

アドラー心理学としての判断の基準です。

 

日本にアドラー心理学を導入した

野田俊作氏が提唱しています。

 

アドラー心理学における共同体感覚を実践しやすいように、

このように野田氏が定義したのです。

 

あなたも、判断に迷ったときは、

この言葉を唱えて、判断の基準にするといいでしょう。

 

 

< 弘前城の堀とカモ >

 

 

津軽為信は、

石田三成の息子と娘を、

津軽地方に厚く迎え入れました。

 

為信は自分なりに考えて、

最善の方法を選んだのでしょう。

 

「責任」や「貢献」を大事にした選択。

 

 

ところで、、

 

石田三成は現在の滋賀県出身。

 

すなわち、

 

このとき、

青森と滋賀の間に「縁」が生まれたのです。

 

 

< 琵琶湖 >

 

 

アドラー心理学では、その人の性格や価値観、信念などの総称として、

「ライフスタイル」という言葉を用います。

 

ライフスタイルというのは、「性格」や「人格」

のことだと思えばいいでしょう。

 

これまで見てきたように、津軽為信は

 

決断力や行動力があり、

恩義を大事にするライフスタイルだったといえます。

 

 

そんな為信だからこそ、

強大な南部家を相手に、津軽の独立を勝ち取れたのかもしれません。

 

 

 

 

このように、、

 

津軽地方を統一し、その基礎を築いた津軽為信ですが、

 

現在、

弘前城の西に位置する革秀寺に眠っています。

 

藤代御前(ふじしろごぜん)とともに。 

 

 

藤代御前は為信が何度も求婚し、拒絶された女性。 

 

恩義に厚く、武勇に秀でた為信公ですが、

愛する女に関しては思うようにいきませんでした。

 

 

< ここに、津軽為信と藤代御前が眠っています >

 

 

というわけで、

 

今回は津軽地方を統一した

津軽為信のお話でした。

 

 

 

【追伸】

 

そういえば、

 

今回の青森旅行で、

私は人生で初めて、ねぷたまつりを体験しました。

 

弘前の街を歩き、感動的でした。

 

 

ねぷたまつりの起源ですが、

 

いくつか説があって、

はっきりしていません。

 

現在の形になったのは、

江戸時代あたりではないか

という説もあります。

 

しかし、

 

私は、津軽為信の時代という説も捨てきれません。

 

 

なぜなら、、

 

津軽為信は、京都に滞在したとき、

祇園祭を体験したのではないかと言われているからです。

 

もしかすると、、

 

それがきっかけで、

自身が津軽に戻ったとき、

祭りを始めたのではないかと、

 

私は想像しています。

 

 

為信ほどの決断力がある人物が、

 

京都で祇園祭を目の当たりにして、

京都の街が盛り上がっている様子を見て、

 

津軽に帰ってから、

何もしなかったというのは

腑に落ちないのです。

 

そう思うと、

 

江戸時代というより、

為信の時期が由来と考えるほうが自然に思えます。

 

そんなことを、

私は考えていました。

 

 

< 弘前、ねぷたまつり >

 

 

< 京都、祇園祭 >

 

 

 

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