新選組の目撃談 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

元治元年(1864)六月五日夜、池田屋に集まっていた浪士の中に、地元京都の人、西川耕蔵(正義)がいました。その西川耕蔵の伝記『西川正義』(西川太治郎 著/明治三十五年)に興味深い話が載っています。

 

 

話の主は元武士の某氏で、河原町三条下ルに藩邸があったというので、彦根か土佐の藩士だったようです。明治になって、近江新報(新聞)を読んでいたらしいので、おそらくは彦根藩士だったのではないでしょうか。池田屋事件当時、本人は鴨川の東側の三条と二条の間に住んでいたといいます。西川耕蔵の伝記が近江新報に連載されていたのを読み、池田屋事件に関する点など、事実と異なる部分があると、著者の西川太治郎に手紙を送ってきたのでした。

 

 

まだ著作権が切れていないらしく、原文の丸写しは残念ながら出来ませんが、要約すると、まず池田屋に斬り込んだのが、伝記では「新選組と町奉行の与力同心」となっているが、新選組が単独で斬り込んだのだと否定しています。

 

 

そして斬り込んだ理由は、当時の幕府にとって志士や尊王攘夷の活動家というのは「治安を妨害する一種の凶漢」とみなしていたからで、本来そうした凶漢を捕縛するのは町奉行所の与力・同心の役割のはずなのだが、太平の世の習いで彼らは臆病になっており、その任務に堪えられなかった。そこで会津藩は「いわゆる壬生浪士すなわち新選組なるものを使役」し、凶漢の鎮圧に当たらせたのだとしています。

 

 

更にとても興味深いのが、某氏が池田屋事件の当夜と翌日に新選組隊士と遭遇しているという点です。

 

 

元治元年六月五日の夜、鴨川東の自宅にいた某氏は周囲が騒がしいことに気づき、何事かと思い外に出てみると、どうやら騒動が起きたらしいという噂を耳にしました。しかし、どこで起きているのかわからなかったので、とりあえず藩邸に行ってみれば何かわかるだろうと、河原町三条下ルの藩邸に向かいました。時に「今の時間で十時頃」だったと某氏は証言していますが、おそらく実際はもうちょっと遅い時間だったと思われます。十時頃だとすると、近藤勇らが池田屋に踏み込んだ直後になってしまうからです。

 

 

川東の二条と三条の間に自宅があったとすると、三条大橋を渡るまでせいぜい4,5分ぐらいしかかかりません。某氏も橋を渡って、橋の西詰にあった制札場のあたりまで来たところ、突然、暗闇の中から「雁渡提灯なるもの」を向けられ、左右から抜き身の槍を持った新選組隊士が近づいてきて、囲まれてしまいました。

 

 

「雁渡提灯なるもの」と言っているということは、某氏はこの提灯のことをこの時まで知らなかったということであり、この時に相手に聞いて「これは雁渡提灯だ」と教えてもらったということでしょう。提灯の名前を聞いているぐらいだから、当然、相手が新選組の隊士だということも確認しているはずです。いや、そうでなくとも呼び止められた時点で「新選組である。貴殿はいずこの御家中か」と聞かれていたことでしょう。

 

 

二三押し問答がありましたが、どうしても通してくれず、「強いて通らば槍にて突きかねまじき勢い」だったので、あきらめて回り道をして藩邸にたどり着いたといいます。まさか、つい目と鼻の先の池田屋で壮絶な戦闘が起こっていたとは、この時は気づかなかったのかも知れません。

 

 

あとで考えてみれば、池田屋での戦闘が終了した後、まだ浪士の余党が潜んでいるかも知れないと警戒していたのだろう、と某氏は述懐しているので、実際には深夜の十二時頃だったと思われますが、そんな時間に一人で池田屋に近づいて来たわけですから、殺されずとも身柄を拘束されても不思議ではないと思われます。が、押し問答したのみで解放されたのだから、某氏はきっと〝ちゃんとした武士〟だったのでしょう。

 

 

そして翌六月六日のこと。某氏は新選組が隊列を組んで市中見廻りをしているのに遭遇します。その時の新選組の装束は

 

割羽織に小袴(俗に義経袴と称するもの)、白木綿にて後ろ鉢巻をなし、抜き身の槍を提げたり。もっとも当時、武家の風として着込み(俗に鎖帷子というもの)、或いは鉢金(白鉢巻の中、鉄板を包むもの)を用ゆるものままあり。或いは新選組の者、この形を用いしも知るべからず。

 

 

とし、実際に見たものとして割羽織(ぶっさき羽織)に義経袴、そして白木綿を頭の後ろで結んで鉢巻にしていた。その他、当時の武士の倣いとして鎖帷子の着込みを着ていただろうし、鉢巻の中には鉄板が包まれていたんじゃないか・・・知らんけど。と証言しているわけです。

 

 

 

 

 

 

そして、前日に三条制札場で呼び止められた時は、真っ暗で相手の姿はハッキリとは見えなかったものの、おそらく六日の市中見廻りの時と同じ格好だったはずだとし、西川の伝記中で新選組が甲冑を身につけていたとする記述を強く否定しています。

 

 

ちなみにこの六日は、怖いもの見たさなのか、子供たちが大勢、新選組のあとをついて歩いていたそうで、某氏も「さては、またどこかに斬り込むのか」と野次馬根性で新選組のあとを尾行したところ、縄手通から祇園町を過ぎ、真葛原(現在の円山公園あたり)の茶屋で休憩したので、通常の市中見廻りだとわかり、引き返したそうです。

 

 

実はこの巡邏ルートや服装などは京都見廻組のそれと似通っているところが多々あります。池田屋事件当時、京都見廻組の隊士で京都に到着していたのは佐々木只三郎と高久半之助の二人だけでしたが、見廻組のトップで備中浅尾藩主の蒔田相模守はすでに着任しており、六日に某氏が目撃したのは見廻組の代わりに市中見廻りの任務に当っていた浅尾藩士だった可能性もないとは言えません。せめて羽織の色や、袖に山形の染め抜きがあったかどうか、あるいは隊旗がどうだったとかの証言があればと思いますが…。

 

 

また、もし六日に某氏が遭遇したのが新選組ではなく、見廻組の代役の浅尾藩士だったとしたら、この部分の見廻組の巡邏ルートは、祇園社(現在の八坂神社)を通り抜けて知恩院前の桜馬場に至ったのでは、とする菊地明先生の推理が当たっていたことになりますね。

 

 

 

最後に余談になりますが、某氏が制札場付近で呼び止められた時、新選組隊士が持っていたという「雁渡提灯」ですが、これはおそらく「龕灯(がんどう/がんとう)提灯」の当て字もしくは聞き間違えだと思われます。

 

 

龕灯提灯は銅板を釣鐘状に成型し、その内側にろうそく立てを回転可能な細工をして取り付けたもので、どんな角度で持っても、ろうそく立ては常に地面に垂直になるように工夫されており、また前方だけを照らすようになっているため、逆に照らされた方からは提灯を持っている人物の姿が見えないようになっていました。元々は盗賊や忍者の道具であり「強盗提灯」とも呼ばれていましたが、江戸時代になると、その利便性から様々な用途で使用されるようになり、特に赤穂浪士が吉良邸討ち入りの際に使用したことで知られています。

 

 

※.タミヤ製プラモデル「忠臣蔵 八人組」セットの箱絵の中、龕灯提灯を左手に持つ片岡源五右衛門(画像はお借りしました)

 

 

※.京都見廻組の市中見廻りに関しては確認したい方は以下をクリックして下さい。

 

・京都見廻組の市中見廻り(1)

 

・京都見廻組の市中見廻り(2)