京都見廻組の市中見廻り(2) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

京都見廻組の実際の市中見廻りのルートについては、『京都見廻組史録』(菊地明/新人物往来社)に『角田家文書』よりの引用として、慶応元年(1865)一月十二日付「巡邏道順」が記載されています。それによると市中見廻りは二条城の南側にあたる三条大宮からはじまり

 

① 大宮通を南へ

② 松原通を東へ

③ 油小路通を南へ

④ 五条通を東へ

⑤ 五条大橋を渡り

⑥ 宮川町を北へ

⑦ 祇園前より橋寮、弁当

⑧ 祇園前を北へ

⑨ 桜馬場通を西へ

⑩ 縄手通を北へ

⑪ 二条新地

⑫ 二条橋を渡り

⑬ 二条通を西へ

⑭ 新町通を南へ

⑮ 三条通を西へ

 

 

そして三条大宮に戻ってくるという道順だったようです。同書の中で菊地明先生は以下のように解説しておられます。

 

 

巡邏隊は二条城の南の三条大宮を南下し、松原通を左折して油小路通を南下、すぐに五条通に入って東へ進んで五条橋を渡ると、鴨川筋の宮川町を北上して、四条橋の「橋寮」で弁当にしている。「橋寮」というのは橋番所のようなもので、弁当は昼食と思われる。食後に四条通から祇園社(現・八坂神社)を抜けるか、南から北へ半周して、桜馬場に出て鴨川筋の縄手通を二条橋まで北上、二条橋を渡って西進すると、新町通を三条通まで南下し、出発点の三条大宮へ戻ったようだ。

 

 

反論するわけではないのですが、気になった点がいくつかあります。まず「橋寮」ですが、そもそもの話、調べてみても「橋寮」が「橋番所のようなもの」を意味する言葉だという確認はとれませんでした。確認がとれなかったので、もちろん否定出来るわけではありませんが、「寮」には「茶寮」「鰻寮」などのように料亭の意味があるので、「四条大橋近くの料亭で弁当を食べた」という意味である可能性もあるのではないでしょうか。

 

 

そして、続く「食後に四条通から祇園社(現・八坂神社)を抜けるか、南から北へ半周して、桜馬場に出て鴨川筋の縄手通~」という部分です。ここでいう桜馬場通を菊地先生は知恩院三門から新門までの坂道「知恩院道(桜馬場)」のことだと解釈されておられるようです。なので八坂神社を通り抜けるか迂回するかして知恩院三門の前までやって来て、三門前で左折して坂を下りると考えておられるのでしょうが、むしろここでいう「桜馬場通」は、その桜馬場から縄手通まで続く新橋通のことを意味しているのではないでしょうか。

 

 

つまり祇園(八坂神社)前を左折して東大路を知恩院新門前まで行き、そこで左折して新橋通を縄手通まで進むという至ってシンプルな道順だったのではないかと僕は考えています。

 

 

そして、もうひとつは二条新地に関してです。上記説明の中では二条新地に触れておられませんが、おそらく二条新地の中を巡回したのだろうと思います。というのも、この巡邏ルートを見ると、五条大橋を渡ってからは宮川町、祇園、祇園新地、そして二条新地と、花街を次々と通るという、新選組が泣いて悔しがりそうなルートなわけですが、冗談はさておき、京都見廻組の市中見廻りの中で、洛東の花街のパトロールが重視されていた様子がうかがわれます。そうすると、二条新地についても「前を通っただけ」ではなかっただろうと思うのです。

 

 

そうした点を踏まえて「文久京都細見図」上に市中見廻りルートを書き出してみました。ちなみに上部が東、左側が北になります。

 

 

 

 

 

※.旧桜馬場(知恩院道)。奥に見えるのが知恩院三門。

 

 

 

※.八坂神社方面(南)から。画面右に行くと知恩院(桜馬場)。左側のビルの間の細い道が新橋通。ここを左折したのでは・・・。

 

 

出来れば実際に自分の足で歩いてみたいものですが、元気な時ならともかく、今の調子だと何回かに分けないと到底無理だと思います。まあ、暑くならないうちに出来ればいいなと思っていますが、どうでしょう・・・。