老いてなお静かに燃えている池田先生はカッコイイ。

 

ただ、オジサンばかりでなく、若い人にも「厄介小僧」ともいうべき人間がいるのはなにも今の都知事選挙を見ずとも容易に気づけるものだと私には思えます。

 


「日本人の場合、強い信念で何かを言ったりやったりするより、みんながやっているからそれに倣うという傾向が強い。戦時中がいい例だと思います。国民全員が『鬼畜米英』『天皇陛下万歳』と叫んでいたはずが、負けた途端に『マッカーサー万歳』に変わったわけですから(笑)。 
お袋から聞いた話なのですが、戦時中、電車の中で皇居に向かって『敬礼!』と大声を出している男性がいて、みんなが従った。でも実はその人が求めていたのは、国民の天皇に対する敬意ではなく、自分の命令に従わせることだった。敬礼しない人は非国民だと罵倒し、偉ぶりたかっただけなのだと。そういう面倒くさい人がいたと嘆いていました。 
マウントを取りたがる人もこれと同じで、自分の信念というよりは、自分が偉そうな顔をしたいだけ。でも、先ほども言ったように、多くの人が自分の頭で考えないから、強い風が吹けば、誰もが同じ方向に向いてしまう怖さがある。こうした日本の体質は何十年経っても変わらないような気がしますね」

 

下線は私が引いたものだけど、今、政治について語っても皇位継承について語っても、そんな「俺の言う通りにすればいいのに」みたいな人たちばかりでうんざりしますわ。

 

 

若い世代が厄介なおじさんにならないためには「若いうちから自分を客観視することが大切」だと説く。だが、それができない人が多いとも。
例えば、周囲からの評価が得られないときに、「本当の自分はこんなもんじゃない」と腹を立てた経験はないだろうか。これが大きな間違いだと池田先生は言う。
「自分が思う“本当の自分”は、ただの妄想です。世間から得ている評価が、“本当の自分”だと思ったほうがいい。思うほど給料がもらえなければ、自分はそれだけの実力しかないということ。転職だって簡単にできる人はそれなりに実力があり、決まらない人は実力がないわけで、それが本当の自分なんです」
「本当の自分はこんなもんじゃない」と文句を言いたくなったときは、嫌でも現実を直視し、“本当の自分”を認めるべきだ、と。そして何より大事なことは「自分の能力を発揮できる場所を見つけること」だと強調する。

 

「ところが学校では努力してできるようになった人を褒めるでしょ。これも良くない。だって社会に出て、多くの人が1時間でできる仕事を自分だけ3時間かかってやり終えたとしたら、いくら一生懸命努力しましたと言っても誰も褒めてくれませんよ(笑)。 
逆に1時間かかる仕事を30分でやり終えたら褒めてもらえるし、やる気も出てきてスキルも上がる。そうして戦力になれば重宝されるし出世もできます。それはその仕事が自分に合っていたということです。 
人から聞いた話なのですが、ある病院に勤めている会計係の女性に患者さんから苦情が殺到したと。彼女はおっとりとした人で、患者さんの話を聞きすぎるがために仕事が遅く、窓口に人が並んで困っていたそうで。そこで上司が彼女の配属先を相談窓口に変えた。すると親身になって話を聞いてくれる彼女に患者さんは感謝するようになり、評価ががらりと変わったというんです。 
生物学には、気候変動や突然変異に襲われながらも、生物自ら“生活の場”を変えて生き延びたとする考え方があります。僕は人間も、環境に合わせるのではく、自分にとって都合のいい環境を選ぶほうが自然だと思っていて、これを“能動的適応”と呼んでいます。 
病院の彼女はまさにそのケースで、本当の自分を探すのではなく、自分の適した職を見つけたのだと思いますね。だから若い人も、『これはいけるぞ』と思える得意な職に出合ったら、それが自分の居場所だと思ったほうがいい」 

 

SNSにはよくいがちな「何ものにもなれなかったお前ら」みたいなことを上から調子で言う、まさに厄介おじさんのような人たちって、いったい何ものになれているつもりなんでしょうね。

 

ゴミなんじゃね?などと言ったら粘着されそうな気もしますが、ま、そんなもんだと思います。そんな界隈の言葉にいちいち傷つくなんてアホらしいと私には思えるんですがね。

 

 

 

 

たびたび書いているけれど、評価など人さまに丸投げして、威風堂々、思うがままに生きてゆくというのは、必ずしも万人が思い描く幸せになるための生き方ではないと明言しておきます。他人から見てあゝあのひとは幸せものだなぁと言われたいなら、自分の幸せ具合を誰かに見てもらってにんまりできるような別の生き方を探してみればよろしいかと。