新しいテクノロジーの登場は、ビジネスチャンスであるのと同時に、考慮すべき課題ももれなく付いてくる。今回の新しいサービスは、人の死が関わっているだけに慎重な議論とともに展開されていく必要があるだろう
これは私の個人的な意見でしか無いのだけれど、すでにいないはずの、その人のようでその人ではない何か、と会話したりするのはどう考えても …狂気の沙汰に思えます。
私にももはやこの世にいない大事な人々が何人もいるけれど、AIによって作られたその人と話せたとしてもそこで感じるのはお人形遊びのような虚しさばかりだと思えます。正直言えば…へどが出る。
そしてその人の姿が写った画面に向かってこう言うでしょうね。「違う。まるで違う。…いったい誰なんだお前は!」と。
以前、写真というものがまだ新しい技術だったころ、こういう文化がありました。
これらの遺体記念写真は当時の遺族にとって、愛する人を姿を永遠に残し、その死を乗り越えるために必要不可欠なものだった。だが20世紀になり、簡単に写真が撮影できるようになると、その風習はすたれていった。さらに今日では、まるで生きているかのように見せかけるこのような遺体記念写真は不吉とされタブーとなった。
写真とAI、使っている技術の違いこそあれ、やっていることは何も変わりませんよね。それを商売にしようとする試み、そこで作られる商品を欲しがる遺族、同じに見えます。
つまりどれほど技術が進んでも、人間の精神だけは、ちぃとも進歩していない。
それに気づかず、最新技術のどこが悪いんだ。お前は遅れてるんだよ。素晴らしい時代が来たじゃないかと喜ぶ人々。ほんとうに知性の低さ、品性の無さを感じずには要られません。
少なくとも他者の死についてそんなふうだってことは、まじめに生きてさえいねぇんだろうなと思ってしまいます。
業の深い生き物だな。
人間ってのは。