エリートに関する議論の混乱は、つまるところ「エリートとは何か」という問題があいまいになったままであることが原因のように思われる。それならば、エリートをきちんと定義立ててみればよい。
本来のエリートをどのように定義するべきだろうか。単純に、「学歴貴族」と称された時代に戻り、「優れた教養と全人的人格を備えた者」とする事が妥当かとも思われるが、竹内の著書にもあるように、この条件を備えた戦前の「学歴貴族」達は、結果的には日本が戦争に向かうことを防ぐことができなかった。それは彼らが、閉鎖的教養人文化を形成してしまったためだとも指摘されている。つまり彼らには、高い教養はあっても、社会システムを変革するだけのパワーは持ち得なかったのである。このことをふまえ、戦前のエリートとも異なる、「新エリート」像が必要になるだろう。私が思う「新エリート像」は、これまでの価値観に縛られることなく、社会システムの変革を行えるような人間である。といっても、革命や戦争という極端な、ある意味短絡的な選択をするようなエリートではいけない。「革命や戦争を回避し、皆が幸福になれる方策は何か」を考え、行動できる者だ。
私は、このような考えから、「新エリート」の定義として、前述の定義に加え、三つの事を付け加えたい。それは、「一つの価値観にとらわれることのない批判的思考能力(critical thinking)」と、「コミュニケーション能力」、および「勇気」である。
現実にエリートを育成している国の代表が、イギリスである。この国のエリートの多くは、パブリック・スクールという寄宿制の私立学校(「パブリック」だが私立である。ややこしいので最近は「インディペンデント・スクール」と呼ばれるようになったらしい)の出身者である。イメージとしては、ハリー・ポッターの「ホグワーツ魔法学校」を思い描いてもらえばいい。(ただし魔法は教えない。多分。)興味深いのは、パブリック・スクールではスポーツ(あえて「体育」とは言わない。)が重要視されていることである。スポーツを通して人間関係の重要性を学んでいるのだろう。そういえば、ハリーも映画の中でクリケットのような空中スポーツのトップ・プレーヤーだった。そしてこのパブリック・スクールの中でも最も「優秀」と自他共に認められるエリートが、最終的にどのような職業に就くかだが、なんと「イギリス国教会」の神父だという。彼らのトップエリートとしての第一の目標は、「人々の救済」なのである。このようなイギリスのトップエリート達が選ぶ選択は、エリートの一つの典型だと思われる。
このようなエリートを育成すべきか。
私の答えは「YES」である。「優れた知性と全人的人格を持ち、柔軟な思考力で一つの価値観にとらわれず、批判的思考と勇気を持ち合わせている人材」の育成を、誰が反対しよう。ただし、方法論は別である。
どのようにエリートを育成するのか。この問題の焦点は、どのようにエリートとなる人材を選抜するのかという方法論にある。「何の選抜も行わない」という方法も無いわけではない。それは、いわばこれまでの教育システムの枠組みの中でエリートを育成しようとする試みだろう。しかしその試みは、これまでさんざん行われてきたことではないのだろうか。そしてその結果誕生したのが「受験エリート」だったのではないか。
エリートは選抜という過程を経ないと育成することができないということは、確かに何の根拠もない。しかし私は、それが現実問題として可能であるかという問については、大いに悲観的である。そのようなシステムに現在の教育を組み直すよりは、新たな「エリート教育」のシステムを構築した方がはるかに現実的のように思えるのだ。
しかし仮に新たな「エリート教育」のシステムが構築されたとして、やはり問題はその選抜方法に戻ってくる。ここでもしも従来のような「学力試験」のようなものが中心的な役割を果たすようであれば、ただちにエリート育成の目的は瓦解するだろう(「スペシャリスト育成」という目的であるなら別だが)。
私は、エリートを選抜する手法としての一つの理想像を、ヘッセの小説『ガラス玉演技(遊技)』の中にみる。主人公クネヒトが「選抜試験」を受けるシーンでは、彼が試験官たる音楽名人とともにヴァイオリンの演奏を行う様子が描かれている。そこにはほとんど会話らしい会話もなく、クネヒトはそれが試験であるということよりも、音楽名人とともに音楽を創造していくという喜びを強く感じた。音楽名人は、クネヒトの創造性・協調性・感性・意欲・独創性・技術といった才能を、彼とともに「共同作業」を行うことで的確につかむことができたのである。
エリートの選抜には、何らかの形で人間(試験官)との相互作用を導入する必要があるだろう。それは面接とは明らかに異なる手法になるはずだ。
そしてもう一つ、この選抜手段で重要となるのは教師側の力量である。少なくともエリートの選抜を担当する教師には、エリートの原石である生徒達の感性と共鳴できるだけの力量がなければならぬ。いわば膨大なエネルギーを内に秘めたウラニウム鉱石を探し当てるセンサーとしての役割が期待される。たいがい、この力量のない教師は、生徒と共鳴することができず、「客観的に」しか生徒を評価できずにいるのである。
以上のように考察してきたが、本当にこれからの社会にエリートが必要であるのかという事の考察は、まだまだ不十分のような気がする。社会を変革していく力を持つエリートは、確かに今の閉塞的な社会では魅力的に感じる。しかし、安易な形で「エリート」教育が推し進められていくとすれば、三たびエリートが別の意味を持ってしまうかもしれない(たとえば、「意志決定者!」)。
エリート教育に対して、個人的には期待するところが大きいのだが、安易に実施されてしまうとすれば、それは恐ろしいことになりそうな気もするのだ。
本来のエリートをどのように定義するべきだろうか。単純に、「学歴貴族」と称された時代に戻り、「優れた教養と全人的人格を備えた者」とする事が妥当かとも思われるが、竹内の著書にもあるように、この条件を備えた戦前の「学歴貴族」達は、結果的には日本が戦争に向かうことを防ぐことができなかった。それは彼らが、閉鎖的教養人文化を形成してしまったためだとも指摘されている。つまり彼らには、高い教養はあっても、社会システムを変革するだけのパワーは持ち得なかったのである。このことをふまえ、戦前のエリートとも異なる、「新エリート」像が必要になるだろう。私が思う「新エリート像」は、これまでの価値観に縛られることなく、社会システムの変革を行えるような人間である。といっても、革命や戦争という極端な、ある意味短絡的な選択をするようなエリートではいけない。「革命や戦争を回避し、皆が幸福になれる方策は何か」を考え、行動できる者だ。
私は、このような考えから、「新エリート」の定義として、前述の定義に加え、三つの事を付け加えたい。それは、「一つの価値観にとらわれることのない批判的思考能力(critical thinking)」と、「コミュニケーション能力」、および「勇気」である。
現実にエリートを育成している国の代表が、イギリスである。この国のエリートの多くは、パブリック・スクールという寄宿制の私立学校(「パブリック」だが私立である。ややこしいので最近は「インディペンデント・スクール」と呼ばれるようになったらしい)の出身者である。イメージとしては、ハリー・ポッターの「ホグワーツ魔法学校」を思い描いてもらえばいい。(ただし魔法は教えない。多分。)興味深いのは、パブリック・スクールではスポーツ(あえて「体育」とは言わない。)が重要視されていることである。スポーツを通して人間関係の重要性を学んでいるのだろう。そういえば、ハリーも映画の中でクリケットのような空中スポーツのトップ・プレーヤーだった。そしてこのパブリック・スクールの中でも最も「優秀」と自他共に認められるエリートが、最終的にどのような職業に就くかだが、なんと「イギリス国教会」の神父だという。彼らのトップエリートとしての第一の目標は、「人々の救済」なのである。このようなイギリスのトップエリート達が選ぶ選択は、エリートの一つの典型だと思われる。
このようなエリートを育成すべきか。
私の答えは「YES」である。「優れた知性と全人的人格を持ち、柔軟な思考力で一つの価値観にとらわれず、批判的思考と勇気を持ち合わせている人材」の育成を、誰が反対しよう。ただし、方法論は別である。
どのようにエリートを育成するのか。この問題の焦点は、どのようにエリートとなる人材を選抜するのかという方法論にある。「何の選抜も行わない」という方法も無いわけではない。それは、いわばこれまでの教育システムの枠組みの中でエリートを育成しようとする試みだろう。しかしその試みは、これまでさんざん行われてきたことではないのだろうか。そしてその結果誕生したのが「受験エリート」だったのではないか。
エリートは選抜という過程を経ないと育成することができないということは、確かに何の根拠もない。しかし私は、それが現実問題として可能であるかという問については、大いに悲観的である。そのようなシステムに現在の教育を組み直すよりは、新たな「エリート教育」のシステムを構築した方がはるかに現実的のように思えるのだ。
しかし仮に新たな「エリート教育」のシステムが構築されたとして、やはり問題はその選抜方法に戻ってくる。ここでもしも従来のような「学力試験」のようなものが中心的な役割を果たすようであれば、ただちにエリート育成の目的は瓦解するだろう(「スペシャリスト育成」という目的であるなら別だが)。
私は、エリートを選抜する手法としての一つの理想像を、ヘッセの小説『ガラス玉演技(遊技)』の中にみる。主人公クネヒトが「選抜試験」を受けるシーンでは、彼が試験官たる音楽名人とともにヴァイオリンの演奏を行う様子が描かれている。そこにはほとんど会話らしい会話もなく、クネヒトはそれが試験であるということよりも、音楽名人とともに音楽を創造していくという喜びを強く感じた。音楽名人は、クネヒトの創造性・協調性・感性・意欲・独創性・技術といった才能を、彼とともに「共同作業」を行うことで的確につかむことができたのである。
エリートの選抜には、何らかの形で人間(試験官)との相互作用を導入する必要があるだろう。それは面接とは明らかに異なる手法になるはずだ。
そしてもう一つ、この選抜手段で重要となるのは教師側の力量である。少なくともエリートの選抜を担当する教師には、エリートの原石である生徒達の感性と共鳴できるだけの力量がなければならぬ。いわば膨大なエネルギーを内に秘めたウラニウム鉱石を探し当てるセンサーとしての役割が期待される。たいがい、この力量のない教師は、生徒と共鳴することができず、「客観的に」しか生徒を評価できずにいるのである。
以上のように考察してきたが、本当にこれからの社会にエリートが必要であるのかという事の考察は、まだまだ不十分のような気がする。社会を変革していく力を持つエリートは、確かに今の閉塞的な社会では魅力的に感じる。しかし、安易な形で「エリート」教育が推し進められていくとすれば、三たびエリートが別の意味を持ってしまうかもしれない(たとえば、「意志決定者!」)。
エリート教育に対して、個人的には期待するところが大きいのだが、安易に実施されてしまうとすれば、それは恐ろしいことになりそうな気もするのだ。