職場で、金魚の赤ちゃんが一匹飼われています。
 同僚が、知り合いの家で繁殖したのを引き取ってきたのです。

 その知り合いさん、急に転居することになって、とても面倒を見ることができないと同僚に頼み込んだらしいのです。

 同僚は、うちの部署に持ってきたら何とかなるかな、と思って水槽をどこからか引っ張り出してきて、もらった金魚の卵を飼育しはじめました。

 実は最初は卵の状態で引き取ってきたのです。その数たるや数百という単位だったでしょう。

 程なく、肉眼で見るのもやっとの状態の稚魚が次々と誕生し始めました。

 しかし、悲しいかな毎日のように数十匹の稚魚が命を次々と失っていきました。

 「やっぱり、無理だったんじゃないかなあ。」と思っていたのですが、最終的にただ一匹、今では体つきもしっかりした状態で元気に育ちました。

 やっとメダカぐらいの大きさですが、尾の形は金魚のそれとはっきり確認できます。ですが、体はまだ色が付かなく黒いままです。

 「メダカの餌で育てていたから、自分はメダカと思っているんじゃないか」、なんて職場では冗談が飛び交ってます。

 
 「一匹だけってもの意味深だね。」

 よく同僚とこう話してます。 

 何百という数の稚魚たちの中でただ一匹だけの生き残り。

 生き残った稚魚と、死んでいった稚魚の差は何だったのでしょうか。

 僕が思うに、この両者に差は無いのです。

 というよりも、彼らは一つの「形」として結びついている。

 「一つの生と数百の死」という「形」は、生と死を区別することなく一つのことではないでしょうか。 どれ(誰)かは分からないが、一つの生を繋ぐために必要な数百の死。僕にはそれが、一つの「形」に思えるのです。

 上手く言えませんが、おそらくこの稚魚たちと同じ事は、我々の生についても言えることなのではないでしょうか。

 そんな気がします。


 稚魚は、最近メダカの餌を卒業して、金魚の餌を食べ始めています。

 「おまえは金魚なんだぞ。早く赤くなれ。」

 同僚はそう話しかけながら、水槽の中を元気に泳ぎ回る金魚に餌を与えています。