(2004年4月に書いたものです)

 ヤフーに掲載された毎日新聞のニュースによると、福田官房長官が、先のイラク人質事件に関した答弁で、こう述べたそうである。
 「自己責任とは自分の行動が社会や周囲の人にどのような影響があるかをおもんぱかることで、NGOや戦争報道の役割、意義という議論以前の常識にあたることだ」
 このニュースを見つけてから、この発言を何度も読み返しているのだが、僕には、どうにもこの言葉の意味がよく分からない。

 形容詞を全部削除すると、「自己責任とは常識にあたる」となる。実はこれが僕にとっては「?」なのである。
 「自己責任」を言い換えている部分で前の文章を置き換えると、「自分の行動が社会や周囲の人にどのような影響があるかをおもんぱかることは常識にあたる」となり、かなりすっきりする。これは「常識」の意味として一般に考えられる「社会や人間関係を円滑に進める上での暗黙の了解」と照らし合わせても、納得のいくものではないだろうか。
 そうするとやはり、はじめの「自己責任とは自分の行動が社会や周囲の人にどのような影響があるかをおもんぱかること」という自己責任の定義が問題となる。
 はっきり言えば、「自己責任」の意味を随分と都合の良いように解釈しているように思われる。ただ、国語的な解釈についてはこれ以上議論してもあまり意味が無いようにも思えるのだ。
 
 それよりも僕には、官房長官の発言の意図の方が気になる。
 これは僕の穿った見方だが、官房長官は意識的にか無意識的にかは分からないが、「自己責任は常識にあたる」という、やや「?」な論理を通すために、より「常識」の意味に近い言葉で「自己責任」を定義し、「自己責任」と「常識」を結びつけようとしたのではないだろうか。

 国会審議におけるやりとりを聞いているとよく分かるのだが、政治家は、議論のやりとりも、言葉そのものも、あまり論理的ではない。
 それは考えてみればいたしかたのないことである。なぜなら、政治という行為そのものが、あまり論理的な行為では無いからである。更に、ではどうして政治が論理的な行為ではないのかといえば、それは、一般国民たる私たちが必ずしも論理的には考えず、行動しないからである。
 そのため、政治家の言葉は、その論理性よりも、言葉そのものの「印象」の方が重要となる。つまり、「印象」の良い言葉は、多少論理的に変な部分があっても、一般に受け入れられる。逆に、「印象」が悪ければ、どんなに堅牢な論理展開を行っても、受け入れられる事はない。

 先の官房長官の発言には、「自己責任」「思いやり」「常識」という、「印象の良い言葉」がちりばめられている。つまり、もうこれだけで、あとはこれらをどうつないでも良かったのである。結果、官房長官の言葉は、人質の行動を批判した内容であり、かつ、論理的には「?」であるにも関わらず、たいして批判されることもなく、受け入れられた。

 ただ僕は、一般の人々が必ずしも論理的に考え、行動することがない以上、政治家がこのような「印象」を優先させた言葉を用いるのは、ある程度はしょうがないと思う。

 その代わり、政治家は自らの行動については論理的であってもらいたい。
 最近の不祥事を起こすような政治家のほとんどは、美辞麗句でありながら全く論理性に欠けた言葉を発し、全く論理性に欠ける行動をとっている。

 今の内閣から出てくる言葉は、「印象」の良い政治語としては多くが合格点だと思う。
 しかし、その行動の論理性については、どうだろうか。

 追記:先の衆院選は、小泉首相が完全に論理性を逆手にとって、まんまと勝利したと思います。一見、「郵政民営化賛成か反対か」という議論は論理的に見えますが、国の政治を預かる衆議院選挙の争点が公社の民営化という、ただ一つに絞られてしまっていること自体に大きな問題を孕んでいます。
 結局、『「郵政民営化賛成か反対か」という単純で分かりやすい「論理性」』そのものが、論理的ではない国民の心理に受け入れられたようです。