ある掲示板に、興味深い書き込みがありました。そのまま引用するのははばかられますので、やや省略してその内容を紹介しますと、こんな感じです。
『人に迷惑をかけたいとは思ってないが、私はバスの二人がけの座席を横に荷物を置いて独占する。電車では暇つぶしに携帯で友達に電話して時間を有効に使う。着メロをバイブにすると電話がかかってきても分からないから、バイブになどしない。友達と電車に乗ったなら、友人と大声でプライベートなことを話す。
法律に触れてるわけじゃなし、
法律に触れる人がいなくなったらこの習慣を改めようと思うんです。』
これを書き込んだ人が、どのような考えで書いたのかは定かではありません。(恐らくは多くの人が「反応」することを期待していたのではないかと思います。)
しかし、この文章は、人の倫理・道徳というものに対して、その存在の不科学性を見事に示しています。
この文章に現れる問題点は、ひとつひとつの行為は、それを単独で取り出した場合、至極普通の行為でありながら、これがある特定の『場』に移された場合、それが周囲に対して『迷惑』という近接作用を及ぼすということが考慮されていない事です。
バスの席を独占してもかまわない。もしもバスが空いていればね。
退屈な時間に携帯で友達とおしゃべりするのはかまわない。そこが電車や飛行機、病院でなければね。
着メロをバイブにする必要なんかない。そこが映画館や公演会場や授業中でなければね。
友達とおしゃべりするのもいいさ。まわりに迷惑かからないのならばね。
ある行為を単独で取り出し、それが良いことか悪いことか、もしくは良くも悪くもないことかを判断することはできません。それは、その行為がどのような『場』においてなされるか、すなわち、その行為は、他者との関わりにおいてどのように評価されるか、ということに関わるからです。
例えば「殺人」という行為にしても、そこが戦場であったり、死刑執行の現場であったり、安楽死(日本では認められていないので、日本国内ではこれは「悪い」部類)であったりした場合には、これらの行為については僕たちは確かに腕組みしてその行為の善し悪しを考えてしまいますが、少なくとも小学校に乱入して子供を8人も殺したような「行為」と同列には扱えないのだという事には、大方の同意は得ることができるでしょう。
「自分は悪いことはしていない」との弁明は、確かに正しくはありますが、同時に間違いです。例えばそれが「携帯電話」であったとして、携帯電話をかけること自体は、確かに「悪くない」。しかし問題は、そこが「どこであるか」ということなのです。
この文章を書いた人は、どうも、行為というものは既にそれ単独で「善悪」のカテゴリーに分類されるのだという、有る意味科学的な思考(しかし似非!)をお持ちのようです。
そのうえで、行為の「善悪」のカテゴリーの基準を「法律」に求めている。なるほど、法律は一見、我々の様々な行為に対して、絶対的な「善悪」のレッテルを貼り付けているかのようにも考えられます。
>法律に触れてるわけじゃなし、
>法律に触れる人がいなくなったらこの習慣を改めようと思うんです。
確かに法律の存在は便利です。しかし、法律からこぼれ落ちている人と人との間にある行為は、それこそ沢山あるのです。
それから、上の引用文は、「自分の行為の『悪さ』」<「法律を守らない『悪さ』」という比較において、「まだマシではないか」という結論が出されているようです。
まあ、確かに、目の前を走る早い車につられてついついスピードが出てしまった時、スピード違反で自分だけが捕まったりしたときは、「どうして前を走っていたもっとスピードを出していた車を捕まえないんだ!」と、文句の一つも言いたくなるでしょうけどね。
しかし、このような比較の論法では、どんな「悪行」でも、それよりもひどい行為との比較において、全て正当化されてしまいます。そういう比較は、行為の善し悪しに関してはほとんど無意味です。せいぜい、反則金の金額を決める時に使われるくらいでしょう。
自分の行為が、多くの人にとってもやはり認められる行為であるのか否かを、恐らくは誰であれ、時々は省みる必要はあるかもしれませんね。
『人に迷惑をかけたいとは思ってないが、私はバスの二人がけの座席を横に荷物を置いて独占する。電車では暇つぶしに携帯で友達に電話して時間を有効に使う。着メロをバイブにすると電話がかかってきても分からないから、バイブになどしない。友達と電車に乗ったなら、友人と大声でプライベートなことを話す。
法律に触れてるわけじゃなし、
法律に触れる人がいなくなったらこの習慣を改めようと思うんです。』
これを書き込んだ人が、どのような考えで書いたのかは定かではありません。(恐らくは多くの人が「反応」することを期待していたのではないかと思います。)
しかし、この文章は、人の倫理・道徳というものに対して、その存在の不科学性を見事に示しています。
この文章に現れる問題点は、ひとつひとつの行為は、それを単独で取り出した場合、至極普通の行為でありながら、これがある特定の『場』に移された場合、それが周囲に対して『迷惑』という近接作用を及ぼすということが考慮されていない事です。
バスの席を独占してもかまわない。もしもバスが空いていればね。
退屈な時間に携帯で友達とおしゃべりするのはかまわない。そこが電車や飛行機、病院でなければね。
着メロをバイブにする必要なんかない。そこが映画館や公演会場や授業中でなければね。
友達とおしゃべりするのもいいさ。まわりに迷惑かからないのならばね。
ある行為を単独で取り出し、それが良いことか悪いことか、もしくは良くも悪くもないことかを判断することはできません。それは、その行為がどのような『場』においてなされるか、すなわち、その行為は、他者との関わりにおいてどのように評価されるか、ということに関わるからです。
例えば「殺人」という行為にしても、そこが戦場であったり、死刑執行の現場であったり、安楽死(日本では認められていないので、日本国内ではこれは「悪い」部類)であったりした場合には、これらの行為については僕たちは確かに腕組みしてその行為の善し悪しを考えてしまいますが、少なくとも小学校に乱入して子供を8人も殺したような「行為」と同列には扱えないのだという事には、大方の同意は得ることができるでしょう。
「自分は悪いことはしていない」との弁明は、確かに正しくはありますが、同時に間違いです。例えばそれが「携帯電話」であったとして、携帯電話をかけること自体は、確かに「悪くない」。しかし問題は、そこが「どこであるか」ということなのです。
この文章を書いた人は、どうも、行為というものは既にそれ単独で「善悪」のカテゴリーに分類されるのだという、有る意味科学的な思考(しかし似非!)をお持ちのようです。
そのうえで、行為の「善悪」のカテゴリーの基準を「法律」に求めている。なるほど、法律は一見、我々の様々な行為に対して、絶対的な「善悪」のレッテルを貼り付けているかのようにも考えられます。
>法律に触れてるわけじゃなし、
>法律に触れる人がいなくなったらこの習慣を改めようと思うんです。
確かに法律の存在は便利です。しかし、法律からこぼれ落ちている人と人との間にある行為は、それこそ沢山あるのです。
それから、上の引用文は、「自分の行為の『悪さ』」<「法律を守らない『悪さ』」という比較において、「まだマシではないか」という結論が出されているようです。
まあ、確かに、目の前を走る早い車につられてついついスピードが出てしまった時、スピード違反で自分だけが捕まったりしたときは、「どうして前を走っていたもっとスピードを出していた車を捕まえないんだ!」と、文句の一つも言いたくなるでしょうけどね。
しかし、このような比較の論法では、どんな「悪行」でも、それよりもひどい行為との比較において、全て正当化されてしまいます。そういう比較は、行為の善し悪しに関してはほとんど無意味です。せいぜい、反則金の金額を決める時に使われるくらいでしょう。
自分の行為が、多くの人にとってもやはり認められる行為であるのか否かを、恐らくは誰であれ、時々は省みる必要はあるかもしれませんね。