比較の世界からこぼれ落ちる者たち――不登校をめぐる承認と可能性
学校に来られない子どもが、久しぶりに教室へ顔を出したとき、それを「よく来たね」と受け止める視線もあれば、「少し来ただけで褒められるのはおかしい」と感じる視線もある。この違いは、単なる人柄の差として片づけるには惜しい。むしろそこには、現代社会が人をどのように見ているのか、その深い構造が表れているように思われる。
後者の反応の背景には、ある種の公平感覚がある。自分は毎日通っている。自分は無理をしてでも基準を満たしている。にもかかわらず、その基準から外れていた者が、少し戻っただけで承認されるのは不公平ではないか。この感覚は、冷酷さだけから生まれるのではない。そこには、「努力した者が報われるべきだ」「同じ尺度の上で評価されるべきだ」という、現代社会に広く共有された感覚がある。
しかし本当に問うべきなのは、その公平感覚が、どのような世界の見え方の上に成立しているのかである。学校とは本来、多様な子どもが集まり、それぞれ異なる背景や困難を抱えながら学ぶ場であるはずだ。にもかかわらず、そこが「同じ時間に登校し、同じ場所に座り、同じ規範に従い、同じ尺度で測られる場」として強く理解されるようになると、そこから外れる者は、まず「苦しんでいる他者」としてではなく、「同じ尺度に乗っていない者」として見えやすくなる。ここで人は、他者の痛みより先に、比較の秩序が乱されることに反応してしまう。
このことは、不登校をめぐる社会のまなざしにも深く表れている。不登校の子どもはしばしば、「本来あるべき姿」から外れた存在として理解される。毎日学校へ行くことが標準であり、そこへ適応できないことは遅れや逸脱として受け取られる。その結果、不登校の子ども自身もまた、自分を「あるべき姿から外れた者」として見てしまいやすい。ここで起きているのは、単なる欠席ではない。自己否定である。自分は本来こうあるべきなのに、そうなれていない。そう思う限り、人は自分の足場を持てない。動き出すための力も湧きにくい。
だが興味深いのは、そこから少し別の可能性も見えてくることである。不登校という状態を、ただ「戻るべきではあるが、いまは戻れていない状態」とだけ捉えるのではなく、ひとまずその現実を自分のものとして受け入れる段階がある、と考えることはできないだろうか。言い換えれば、「学校へ行けていない自分」を恥としてのみ抱えるのではなく、「いま自分はこういう場所にいる」と受け止め直すことで、自己否定の中に閉じ込められていた力が、少しずつ別の形で動き始める可能性である。
この段階に至った子どもは、必ずしも周囲の期待する方向へ動くとは限らない。学校へ復帰するとは限らない。むしろ、これまでの標準的な時間割や行動様式から外れたところで、自分なりの動きを見せることがある。平日の昼に外へ出る。学校の時間に別の場所で過ごす。周囲から見れば「本来そこにいるはずではない」場所に現れる。だが、その動きは、わがままや逸脱としてだけ理解されるべきではない。それは、標準化された世界の外で、ようやく自分のリズムを回復し始めた兆候かもしれないからである。
本考察の文脈で言えば、これはきわめて重要な示唆を持つ。不登校の子どもが苦しむのは、単に学校へ行けないからではない。もっと深く言えば、「学校へ通うこと」を中心に設計された標準化された時間、比較可能な評価、序列化された承認の世界の中で、自分の存在を持ちにくくなっているからである。そこでは、来られるか来られないか、続けられるか外れるか、基準に乗るか乗らないかが重要になり、その子にとって何が起きているのかという文脈は後景へ退きやすい。つまり、不登校とは個人の問題である以上に、標準化された世界が取りこぼすものの問題でもある。
だからこそ、不登校の状態を一度引き受け、自分の現実として抱え直せることには意味がある。それは決して「そのままでよい」と無条件に肯定することではない。そうではなく、自己否定から抜け出し、自分の位置をいったん受け止めることによって、ようやく人は動き出せるということである。しかも、その「動き」は、中心へ回帰することだけを意味しない。学校という標準的な軌道へ戻ることが唯一の前進とは限らない。中心の外側にある別の時間、別の関係、別の学び、別の生き方へ向かうこともまた、一つの可能性である。
ここで私たちは、学校をめぐる承認の仕組みそのものを問い直さなければならない。毎日来る者は努力している、来られない者は努力が足りない、という単純な図式では、人間の現実は捉えきれない。逆に、少し来られただけで褒められるのはずるい、という感覚もまた、比較可能性に支配された世界の副産物として理解しなければならない。そこでは承認が、関係をつなぎ直すための行為ではなく、序列に応じた報酬として知覚されている。つまり問題は、個人の優しさの不足というより、承認が比較の秩序に従属してしまっていることなのである。
90年代には、学校へ来られない子がいれば誰かが迎えに行った、という回想が示しているのも、おそらくこの違いだろう。そこでは相手はまず「基準から外れた者」ではなく、「いま関係からこぼれ落ちている誰か」として見られていた。もちろん、過去の学校共同体を単純に美化することはできない。濃密な共同性には別の息苦しさもあったはずである。それでもなお、その回想が示しているのは、少なくともある時代には、人が人を見るとき、比較の尺度が先に立つのではなく、関係の感覚が先に立つ余地が、今よりは残っていたのではないかということである。
現代社会は、学校に限らず、比較、評価、ランキング、自己責任の論理に強く覆われている。その中では、人は他者の困難を、その人固有の文脈の中で見るよりも、自分との相対的な位置関係の中で見やすくなる。すると、支援は特別扱いに見え、配慮は不公平に見え、回復の途中にある他者の一歩さえ「ずるさ」のように感じられることがある。ここで痩せているのは、単なる優しさではない。他者を比較の外側で見るための想像力である。
しかし同時に、標準化された世界からこぼれ落ちた者の中には、その外側で別の可能性を育てうる者もいる。不登校という状態をただ「欠如」として見るのではなく、そこに社会の尺度そのものを問い返す契機を見ることは、本考察の流れにとっても大きな意味を持つ。学校へ適応できないことは、そのまま人間としての失敗を意味するのではない。むしろ、ときにそれは、あまりにも標準化され、比較可能性に支配された世界への違和感が、身体の側から先に現れていることかもしれない。
このように考えると、不登校をめぐる問題は、単なる教育現場の課題を超えている。そこには、比較の世界が人をどう見えなくし、どう自己否定へ追い込み、どう承認を序列化するのかという、現代社会の縮図がある。そして同時に、中心から外れたところに、別の生のリズム、別の学び、別の人間の可能性が宿りうることも示している。だから私たちは、不登校の子どもを見るとき、「どうすれば標準に戻せるか」だけでなく、その子がどの尺度の外で苦しみ、またどの尺度の外でようやく息をつけるのかを問わなければならない。
比較の秩序が強い社会では、承認はしばしば序列の報酬になる。だが本来、承認とは、人を序列に戻すためのものではなく、その人がもう一度自分の生を持てるようにするためのものであるはずだ。そうだとすれば、少し学校へ来られたことを褒めることも、平日の昼に外へ出られるようになったことを肯定的に見ることも、単なる甘やかしではない。それは、比較の世界の外で、ようやく回復し始めた生の運動を受けとめることかもしれないのである。