「国に決めてもらうこと」を望むとき、何が反転するのか

 

 

 権力の集中は、いつも露骨な強制のかたちで進むとは限らない。むしろ現代社会においては、それはしばしば安心、安全、秩序、保護といった、誰もが否定しにくい言葉を通して進む。だからこそ、それは見えにくい。そして、その見えにくさこそが、集中を最も深いところで支えている。

 

 このことを考えるうえで、一つの示唆的な先例として読めるのが、2006年の教育基本法改正である。旧教育基本法における「不当な支配に服することなく」という言葉は、戦前の国家統制への反省を背景に、教育を国家権力や行政権力、あるいは特定の政治勢力による過度な介入から守る方向へ読まれやすい構造を持っていた。教育は「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきもの」とされ、その意味でこの条文は、教育を上からの統制から守るための言葉として機能していた。

 ところが改正後、この条文構造の重心は大きく移動した。「国民全体に対し直接に責任を負う」という表現は消え、代わって教育は「この法律及び他の法律の定めるところにより」行われるべきものとされ、国や地方公共団体が教育施策を策定・実施する役割が明示された。もちろん、法的にただちに「意味が真逆になった」と単純化するのは慎重であるべきだろう。判例上も、行政による過度な介入がなお「不当な支配」となりうる余地は残されている。しかし条文の力点が移動した結果、教育を国家的・行政的支配から守る言葉だったものが、教育を法令と行政施策の枠内へ再配置する言葉へと読まれやすくなったことは否定しがたい。

 

 ここで起きているのは、単なる語句の修正ではない。より深く言えば、国家を縛るための言葉が、国家の枠組みを正当化する言葉へ傾くという、一つのベクトル転換である。そしてこの転換は、条文の表面的な文言だけではなく、その言葉が向けられる矛先の変化として現れる。かつては国家や行政の側へ向いていた警戒の言葉が、改正後にはむしろ現場の教員、学校、保護者、地域、外部団体へ向かいやすくなる。つまり、支配を抑えるための言葉が、別の支配を正当化する言葉に変わりうるのである。

 

 もし同じことが憲法改正の議論において起こるとすれば、それはきわめて重大である。なぜなら憲法は本来、国家権力を縛るための法だからである。ところが改正論議の過程で、憲法が「国民を方向づけ、統合し、義務づけ、管理するための法」へと読み替えられていくなら、そのとき生じるのは、単なる条文改正ではない。憲法そのもののベクトル転換である。国家を縛るための言葉が、国民を縛るための言葉へと反転する。この可能性を軽く見てはならない。

 しかも、ここで厄介なのは、この転換が悪意の言葉によってではなく、むしろ善意の言葉によって進みうるということだ。「公共のため」「国民を守るため」「非常時に備えるため」「安全保障環境の変化に対応するため」「教育を充実させるため」「秩序を維持するため」。これらはどれも、表面上は必要で、重要で、否定しにくい言葉である。だからこそ危うい。重要な言葉ほど、権力拡大の正当化に使われやすいからである。問いは、その目的が善いかどうかではない。その制度が完成したあと、誰が何をできるようになるのかである。

 

 ここで私がさらに危惧するのは、今日の社会の中に、「国に決めてもらうこと」をむしろ好ましいと感じる空気が広がりつつあるように見えることだ。もちろん、これは単純に「人々が権威主義的になった」という話ではない。むしろ、人々が不安を抱え、生活に追われ、複雑な判断に疲れ、先の見通しを失っているからこそ、明快な基準、強い秩序、上から与えられる方向づけに安心を見出しやすくなっているのである。すでに本書で見てきたように、人は自由だけを望んでいるわけではない。自由は判断を要求し、責任を要求し、不確実さに耐えることを要求する。その負担が大きいとき、人は「自分で考えること」よりも、「誰かが決めてくれること」のほうに救いを感じるようになる。

 

 この意味で、「国に決めてもらうこと」を是とする風潮は、単なる政治意識の問題ではない。それは、不安と疲労と複雑さの中で、人々が安心を求めるごく自然な反応でもある。だがその自然さこそが危うい。なぜならそこで歓迎されるのは、単なる支援ではなく、しばしば権力の集中だからである。人々は支配されたいから従うのではない。不安を減らしたいから従う。迷わずに済みたいから従う。責任の重さを軽くしたいから従う。そしてその従順さが、国家の側に「より強く決める権限」を与えていく。この循環が定着すると、集中は強制としてではなく、保護のかたちで受け入れられるようになる。

 

 ここで思い出すべきなのは、教育基本法改正のときに起きたと読めるあの静かな反転である。教育を支配から守るための言葉が、教育を行政秩序の中へ位置づける言葉へと傾いたように、憲法改正論議でも「公共」「安全」「国民」「責務」「緊急」といった言葉の向きが変わる可能性がある。本来、権力を監視し制限するための語彙が、いつの間にか国民を方向づけ、統合し、従わせるための語彙へ変わっていく。そのとき、言葉はそのままで、ベクトルだけが反転する。そしてこの反転は、あまりにも自然に見えるために、しばしば事後的にしか気づかれない。

 

 憲法改正論議において、とくに注意すべきなのは、緊急事態条項のような制度そのものだけではなく、それがどのような感情の地盤の上で受け入れられていくかである。非常時には迅速な決定が必要だ、例外を設けなければ国民を守れない、秩序がなければ社会は持たない。こうした言葉は、状況によっては一定の説得力を持つ。だが問題は、非常時のために認められた集中が、やがて平時の常態へと滑っていくことである。例外は、しばしばそのまま制度になる。不安が呼び込んだ中心は、危機が去ったあとにも残り、次第に「当然の権限」として定着する。ここで集中は、必要な措置から、新しい平常へと変わる。

 

 しかも、この流れは国民投票のような手続きによってさえ正当化されうる。「国民投票こそ国民主権の最大の発露だ」という言い方は、一見すると極めて民主的である。しかし、その手続きが広告、資金力、ネット上の情報操作、印象形成によって大きく左右されるなら、そこでは国民が憲法を選ぶというより、国民が一定方向へ誘導される危険がある。ここでもまた、主権者のための制度が、主権者を動員する制度へ転じうる。教育基本法改正における「不当な支配」の向きの変化と同じように、国民主権という言葉そのものが、別のベクトルへ動員される可能性があるのである。

 

 この問題を本考察の文脈で言えば、ここで問われているのは単に法制度の条文構成ではない。もっと深く、人々の不安、疲労、安心への欲望、管理されることへの親和性が、どのように国家権力の集中を支えてしまうのか、ということである。富の集中だけではない。判断の集中、命令の集中、解釈の集中、そして「国のかたち」を決める権限の集中が起ころうとしているかもしれない。そしてそれは、露骨な支配の言葉ではなく、「守る」「備える」「整える」という善意の言葉のもとで進みうる。

 

 だから、ここで本当に問わなければならないのは、改正の目的がどれほど善く見えるかではない。その改正は、国民が権力を監視する力を強めるのか、それとも権力が国民を管理する力を強めるのか。この問いを手放さないことである。国家に決めてもらうことが楽に見えるときこそ、私たちはいっそう慎重でなければならない。なぜなら、その楽さはしばしば、判断を自分たちの外へ預けることによって得られるからである。そして一度外へ預けられた判断は、やがて「当然の秩序」として戻ってくる。

 

 集中は、命令の顔だけではやってこない。保護の顔、安心の顔、秩序の顔をしてやってくる。教育基本法改正のときに起きたと読めるベクトル転換への警戒は、その意味で、憲法改正論議に対してもきわめて重要な補助線になるだろう。国家を縛るための言葉が、国民を縛るための言葉へ変わっていないか。公共のための制度が、管理のための制度へ滑っていないか。国民を守るための措置が、国民の判断力を奪う仕組みへ変わっていないか。こうした問いを持ち続けることなしに、私たちは集中の本当の進み方を見抜くことはできない。

 

 国家に「決めてもらう」ことは、短期的には安心を与えるかもしれない。だがその安心が、私たち自身の判断の筋力を弱め、権力を監視する回路を細らせ、結果としてより大きな集中を招くなら、その安心の代償はあまりに大きい。だからこそ必要なのは、安心を捨てることではなく、集中を強めないかたちで不安に応える公共的条件をどう作るかを考えることである。言い換えれば、「国に決めてもらうこと」ではなく、「国を監視しながら、なお共に不安に耐える条件」をどう支えるのか、という問いである。その問いこそが、これからの社会にとってますます重要になるように思われる。