嬉しいことにNHKスペシャル「リーマン予想」が再放送される。
もう一度見たいのは、リーマンの計算結果の記されたノートである。
ああいう直筆のノートを見る機会は滅多にないので楽しみである。

先日、「数学はおそろしい」ということを書いたし、
自分が数学に憧れている一方で怖れていることを
再びカミングアウトした。
また、「そんな数学を若者に教えていいのか?」
という心の迷いも記した。

それでも今、生徒の幾何の証明の採点を終えて、
「やはり数学を学ぶことは正しいことだ」
と確信するに至った。

今日は久しぶりに家族で出かけた。
電車に乗ると、
「どうして数学を学ぶのですか?」
という塾の広告を見かけた。
その答は小さく書いてあるのだが、
「社会に出るとまったく必要ない。」
とか、
「暮らしには関係ないが、・・・。」
と記述されていた。

こうやって、嘘が伝播されていくのか?
暮らしの中にまったく数学は出てこないのか?

私は部活動はサッカー部を指導しているが、
ゴールキーパーの位置取りについては、
幾何の知識を用いて指導している。
それは、サッカーの入門書にも書いてあった。
(表現は間違っていたが、・・・。)

数学なんて、暮らしのそこら中に隠れているのではないか?

話は戻って。
その広告にも書かれていたが、
「数学は論理的思考を鍛えてくれる。」
というのは事実だと思う。
別に、論理的思考は数学でなくても鍛えられるが、
中学生にとって、
論理的に考える機会を与え、
その科目自身、論理的に体系化されていて、
それがこれだけ科学技術の発展した近代社会の中で有用か、
と思わせる科目は数学以外にないだろう、
と思う。
やはり、初等幾何が一番のように思う。
直感と論理を、図形と証明が結びつけてくれる。
なんでもいいなら、初等幾何が一番いい。

初等幾何が論理的に無矛盾で完璧な体系か、
ということで批判がおき、
教科書から消えていったという、
「数学の現代化運動」の話を聞いたことがあるが、
いったいそれはなんだったのか?

いま高校生には行列を教えているが、
この中途半端な単元に疑問を持つ。
また新カリキュラムで行列は消え、
また複素数平面が復活する。
複素数平面はそれはそれで、まあ面白がれるが、
それが何故、行列に取って代わるのか?
誰か説明してほしい。
そんな行列なのに、教科書会社が気を利かせて、
「1次変換」まで書いたから始末が悪い。
これで1次変換も大学入試に完全復活するのだろうが、
それが入試問題を難しくする以外に、
どんな教育的意義があるのだろうか?

「大学で学ぶために」なら、大学で教えればいいだろう?
大学が、教育力を持たないから、
現代化運動で高校のカリキュラムになったという
微分積分にしても、
数学Ⅱの積分の証明は始末が悪い。
あれで高校に分かれ、というのは横暴ではないだろうか?

以前の旧制高校のカリキュラムのように、
ベクトルも行列も微分積分もなかった、
幾何がたくさんあったカリキュラムの方が、
どれだけ意義があっただろうか。
いや、一歩譲って、
現在のように微分積分もベクトルもOKとしよう。
でもやはり行列または複素数っていったい?
よっぽど確率分布などを必修の単元にした方がいいのではないか?

話がズレてきてしまった。
高校の数学のカリキュラムは、
時代や大学の要請もあって変わるので、
なんだかなあ、っていう不満があるが、
中学の方はあまりない。

図形の証明のところの書き方は気になるが、
中3で、因数分解、平方根、2次方程式、2次関数
相似、円の諸定理、ピタゴラスの定理と学ぶのは、
それはそれで合理的かつ体系的なだなあ、
と思っている。
本校は中高一貫なので、
これを終えれば高校の教科書に移行するが、
以前担任したときや、
また他の学年の先生は、
高校入試問題集を用いて、
中学数学の総まとめをしている。
これがけっこういい。

難しい入試問題を解くことは、数学の総合学習だと思える。
これまで習ったコトを総動員して解くことは、
知識を自分なりに再体系化することになるのではないか、
と思えるからである。
もちろん苦手な子がいるので、
そういうのは中高一貫校の数学のカリキュラムとして
第一義なのかといわれると、
返答に苦しむが、
「私はいいと思います」と返すようにしたい。

先日、酷評したプレジデントファミリー誌であるが、
その記事の中に、
私立の中高一貫校であるが、
他校への高校受験を薦めるという学校の記事があった。
その学校では、
中学生の時は中学生の勉強だけをするという。
多くの中高一貫校がしているように高校生のカリキュラムに入ることは、
しないそうなのである。
「中学生には中学生のカリキュラムを繰り返し勉強させること。
 また他校受験のために、高校入試の難問に取り組むことの方が、
 生徒にとってはよいのです。」
とその学校の教務の方はインタビューに答えていた。

本校でも、高校からの入学生はいる。
最初は進度の遅れから、内部進学の生徒の方が成績はいいが、
徐々にその差はなくなっていく。
あれはどういうコトなのか?

結局、中高一貫のメリットっていうのは、
教員の自己満足に過ぎないのかも知れない。

けっこう数学のカリキュラムというのは普遍的で、
一部の才能がある子には、
速習のカリキュラムをしてもいいが、
そのデメリットがあることを、
私たちは知っておくべきなのだろう。

話が長くなってしまった。

私は初等幾何と微分積分(現在の数学Ⅲ)が教えたくて、
数学の教員になった。
両方とも、論理的に厳密とはいいきれない体系である。
それでも、あの転がる石のような勢いのある内容は、
教えていて、とても面白い。
生徒も目を輝かせてる(ように見える)。
中学生・高校生が数学を学ぶことは、大変意義深い。
その深淵がどれほどか想像つかなくても。
数学を学ぶこと・教えることは面白いのである。
先日、NHKスペシャルで「リーマン予想」についての放映があった。
録画したかったが、妻が同時刻にドラマを録画していたので、
リアルタイムに見るしかなかったが、録画できなかったのが惜しい。

リーマン予想なるものがあることは知っていたし、
式自体は見たことはあるが、それがどういう事なのか、
ということは不勉強でしらなかった。
NHKスペシャルを見たあと、
月刊誌「数学セミナー」の特集号で復習するが、
やはり学生時代の不勉強がたたり、
スッと頭に入ってこない。

でも、それでいいのかもしれない。

とりあえず、NHKスペシャルの内容を鵜呑みにして、
その「リーマン予想」の周辺について考えてみる。

TVの中で、
リーマン予想で人生を棒に振った人々の節があった。
1人というか2人というか、
1つ目の例はハーディー&リトルウッドだった。
そして二人目が、ジョン・ナッシュ。
映画「ビーティフルマインド」のモデルとなった、
ノーベル経済学賞を受賞した数学者。
映画は観た。
そうか、あの場面がそうだったのか。
そういえば、あの場面は良く覚えている。
ナッシュ教授が精神的に破綻を起こしたのは、
リーマン予想を証明しようとしたことなのか。

数学にはまると、
昼夜を忘れて、数学の問題解決に取り組んでしまうことがある。
私の場合は、高校時代の、
大学入試問題レベル(しかも初級)ぐらいであるが、
それでもそうなって、解けたときの喜びはひとしおである。
また、以前、やはり数学セミナーであったか、
「寝ても起きても、数学のことを考え、
 いつも数式が頭をグルグル回っているようになって、
 はじめて数学者の入り口に立ったことになる。」
みたいなコラムを読んだことがある。

私はそこまではなったことがないので、
やはり数学者ではない。

が、以前担任していた生徒で、
とてもよく数学に取り組んでいた子が2人いた。
中3から高1にかけて、
その取り組みが実を結び、
ドンドンとカリキュラム以外の数学を学びはじめるのだが、
そのころから、ちょっと人間としてどうか、
ちょっと常識に欠ける言動が目立つようになった。
とくに一方の生徒は元々、人見知りで、
また運動もまったく苦手だったので、
クラスにはあまり居場所がないようであったが、
数学で自信をつけ、それも心配がなくなった矢先・・・。
もうこの話は止めよう。
いろいろと紆余曲折はあったが、
無事有名大学に入り、こちらの責任はなくなった。
一方の子は、無事就職も決まったという。

数学にはまりだして、
人格的に問題が出る生徒が他にもいないことはない。
やはり成長期に、
十分な運動や睡眠をしないで数学ばかりしていると、
健康を損ねるようだ。

話は変わって。
足立氏の「アホでも数学者になれる法」という本を、
ゆっくりと読み進めている。
偶然、街の本屋で見つけて、購入した。

しかし、である。
面白いのであるが、ずっと読んでいると、
気が滅入る。
参考になることもあるが、
「オイオイ、大丈夫か。考えすぎではないか。」
と思う部分がある。
だから、もう1年近く立つが、まだ読了していない。
ゆっくりと読んでいる。
でもやはり、この人も精神を患って、2~3年、
仕事ができなかったようだ。

数学を勉強すると、精神に破綻を来すのか?

たしか、藤原氏の「若き数学者のアメリカ」という本でも、
藤原氏は留学中の冬のアメリカの街で鬱になった、と思う。
(藤原氏は、私の勘違いでなければ、
 ベストセラーとなった新書「国家の品格」を書いた人物。)
その後彼は、常夏のフロリダに行って、
また人格的に正常になる、と記憶している。

また別の話。
以前、高校生向けの「数学の学びの薦め」みたいな冊子に、
「大学受験の数学は、
 大学で学ぶ現代数学に比べたら、ほんと小さなものだ。
 現代数学が『海』なら、受験数学は『水たまり』だ。
 水たまりでは勉強している君たちに失礼だから、
 『プール』といった方がいいだろう。
 そう、君たちは今、
 その小さな数学のプールをいかに速く真っ直ぐ泳ぐか、
 ということを勉強しているのだ。」
と書いてあった、と思う。
確かに水たまりは言い過ぎだ。
プール、そうねえ。
プールを速く泳ぐように、っていうのはいい例えかも。
そして、大学の数学を海に例えることも。

夜の海は怖い。
ロマンチックなドラマに、
夜の砂浜を恋人同士が歩く場面なんてあるから、
昔、友人達と夜の砂浜にドライブに行ったことがある。
途中、暴走族に飲み込まれそうになったが、
難なく逃れ、やっとたどり着いた海。
ずっと波を見ていると、怖かった。
寒かったし。
以前、船旅もしたが、
夜の外海を船がゆくの甲板から見ていると、
無限に広がる闇のなかの波の音は、
ロマンチックというより、怖い。

私は、けっこうカンのいい方だと思っている。
もしかして、
真面目な私が、途中で数学を投げ出しそうになり、
その後、適当に勉強し、現在に至るのは、
数学に真摯に取り組むことを避けたかった、
心の表れかもしれない。
「あまり、その領域に踏み込まないほうがいいぞ。」

大学時代、とくに1~2年時、
私は確かに不安定だった。
それは数学のせいではない、
とこれまでは思っていたが、
有る意味、
「数学科に進んだことが間違い」と思っていたこともあることはある。

すいません、話がわけがわからなくなってきた。

話は戻って。
でも、数学の問題が解けることは楽しい。
私が一生懸命数学を教えることで、
解ける問題が増える、解ける生徒が増えることは、
悪いことではないし、むしろとても良いことである。
ただ、もしもそれで、
「僕は数学を究めたい。」
と生徒が言い出したら、・・・。

僕は「止めておけ」と言うだろうか?

数学を究めるということは、
NHKスペシャルによれば、
「神の領域をのぞくこと。」
らしい。

神は、どんな気持ちで数学者や物理学者を見ているのだろう。
もし自然の摂理を解明しようとする人物が現れたら、
「やめなさい」
とでもいうように、その人の心の一部を奪っていくのか。
そう考えると、数学を学ぶことは恐ろしいことかも知れない。

でも、神っているの?
でもいないなら、だれが宇宙を創造したのか。

それでは、今日はこの辺で。
この話題も、今日限り。
誰かが、こういう新書を書くと思っていた。
誰かが書くのを待っていた。
「中学受験がおかしい。」と。

正確に言うと、
中学受験がおかしいというより、
中学受験を取り巻く、
塾や塾コンサルタントの言説がおかしい、のである。
そして、そのおかしさは保護者からも感じられ、
保護者がおかしくなっていく。

<まず保護者の話>
無事、受験を終えて
本校に入学してきた生徒の保護者は、
その憑き物が日々とれていくが、
いつまでも取り憑かれている保護者が、
年々増えているようなきがする。
何かに取り憑かれているのである。
(また憑き物がとれた人も、
 大学受験のとき、その憑き物に
 再び取り憑かれるかもしれない。)

また、この筆者と同様に、
わたしも雑誌「プレファミ」には違和感を感じる。
いや、言葉が過ぎるかも知れないが
「悪意」さえ感じるのである。

この筆者は、この「プレファミ型価値観を内面化した保護者」を、
「セレブ系ツカレ親」とバッサリ。
下流社会に脅える、自称セレブ系の保護者が、
その子ども達が下流社会に落ちることの恐怖に取り憑かれ、
受験業界の常識に取り憑かれ、
そしてそのあげくに子どもとともに疲れ果ててしまう保護者。

日頃から教育系のネット掲示板を常時チェックし、
在籍校の評判や偏差値の上下を気にする親。
います、います。
そして電話や面談で不当な要求。

そんなことより、自分の子どもの表情を見てごらん。
学校生活が楽しいか、楽しくないか、
授業がわかり充実しているのか、していないのか、
そんなことは我が子を見ればわかるだろう。

<2つめ。雑誌の話>
「悪意」が潜在しているプレファミ誌だが
それでも私は何回か購入している。
少し気持ち悪くなりながらも、読んでいる。

今回も特集が、
「本当に強い大学」だったので購入した。

やはり、いつものように書かれていた。
「不安を煽ること」
「結論ありきで、分析・批評を展開していること」
「わざとらしく『教育的』であろうとしていること。」

「わざとらしく『教育的』」というのは、
私の言葉であるが、表現が難しい。
「いかにも善意で、また、
 あなたの子どもの将来を考えて私たちは提案しています。」
という感じのことである。
そしてそうしないと、
「あなたの子どもは損をしますよ。」
というような気持ちになる。

人の良さそうな表現ながら、心がザラザラしてくる。
「なんとなく不安」になるからである。

その不安になることは、現実の、
例えば公立学校への不信から始まる。
「ある公立学校でこんな事件がありましたよね?
 これは特別な事ではなくて、
 どこにでも起こることですよ。」
とでも言うように。
今回は、「旧帝大・早慶大だけが大学ではないですよ。」
とスタートする。

今回の「本当に強い大学」というのも、
端から、「旧帝大・早慶などの難関校」は除いておいて、
それよりも「偏差値の低い大学」でも実力のある大学を探す、
という特集だが、なんか読んでいて、
「おかしい、おかしい」
と思う。

はじめから読む読者層や
この手の雑誌を購入する大人の精神性をリサーチ済みなのか、
文章に特徴がある。
それは、「根拠が曖昧」なことから始まる。
次に「よくわからない比較」が行われ、
結論が導かれる。

評価する基準は、
金融業などの一流企業に何人就職できたか、
ということであるが、
「内定王座談会」では、
そういった人が1人もでてこない。
というより、
これは今回列挙した大学の広告なのか、
と思うような内容である。
「これだけ就職活動に力を入れていますよ。」
と。
また、そのうち読んでいると、
「勉強ができてもねぇ、・・・。」
とでも言いたいような。
でも、基準は偏差値なんですよね?大学受験の偏差値。
それは高校までに習ったこと、勉強の学力を表す示数。
まったく理解できない。
だったら、
「これは広告です」と書いてほしい。
だから批判する軸をぼやかしているのですと。

<塾・学校の話>
悪意と思っていることは根幹の一つは、これらの方々は
「保護者の不安を煽っている。」
ということである。

この新書によると、
この契機は1998に告示された、現指導要領だという。

指導要領が告示され、
今後少子化で萎む市場を睨んで、
塾・予備校と私立学校が手を組んで、
ネガティブキャンペーンとも言えそうな、
「脱ゆとり教育路線」
を張ったことにあると。

この「3割削減」というシンボライズされた言葉のように、
現行カリキュラムは、
それ以前から始まっていた「ゆとり教育の究極形」とも
後にいえるようなものであった。
確かに、私自身も不安に思ったし、
また
「これからは土日が休みというライフサイクルに変えて行かねば」
と思ったものである。
(結局、本校は「学校週五日制」には移行しなかった。
 また多くの私立が、移行した学校も元に戻し、
 現在は「学校週6日制」になっていると聞く。)

そう、その頃からである。
我々、私立中高一貫校を取り巻く状況が変わってきたな、と。
「教育の商品化がよりいっそう強まってきたな。」
と。

そして多くの記事を目にするようになる。
新聞記事ような広告記事、
○○教育研究所が主催する、校長先生などの座談会である。
結局、これは広告記事である。
校長が一同に集まっている写真はあるが、
対談なんてしていない。
それぞれが学校を紹介しているだけである。
そして、そのインタビューの下にはその学校の広告が。
もちろん○○教育研究所の広告も。

これは何?
また、○○教育研究所は塾のコンサルタントも、
私立学校のコンサルタントも行っているらしい。
これは利害を一致させることなのか?

ちょっと待て。
学校は利益を上げる会社ではない。
なんの利害を一致させるのか?

私立学校の損とは何か?
それは定員割れである。
定員オーバーもまずい。
申告した以上の定員を獲ると、補助金が削減される。
補助金の占める割合はかなりの額である。
一時期、私学バッシングなどもあり、私学も苦しい。
だから今のような補助金でやっていけるように、
少なくとも定員割れは避けたい。

でも世間は少子化である。
不思議なもので、
(我が家も子どもは2人だが、
 それは子どもの成長の中で、教育費の負担が大きいからである。)
少子化の原因になっているのは
将来的な教育費への不安が大きいと思うが、
その結果、被害を被っているのは
学費の高い私学である。
その私学を守るために、
コンサルタントがいるのか?
そしてネガティブキャンペーンを張るのか?
「公立の中学・高校で、良い大学へ入れますか?」

あれ、いい大学はいらなくても良い就職はできるだよね?
よくわからなくなってきた。

ただ、この本、一度読むといいと思います。
自分が感じていた違和感が、
自分だけではないんだな、と思えてホッとしました。
そういえば、
「プレファミ読んでんの?狂ったか?」
と言ってくれた先輩がいます。
そうだよね、おかしいよね、あの雑誌。
また、スッキリしたら書きます、この話題。

保護者・雑誌、塾&コンサルタント。
みんなグルになって、
国を滅ぼそう、子どもを食いつぶそうとしている。
朝日新聞の朝刊一面に、
来春の大学卒業予定者の就職難の記事が掲載されていた。
「 」つきで、
「私立大の女子」「私立大文系」の学生がもっぱら内定率が低い、
という内容であった。
具体的な記事でも、早稲田大の学生も留年して、
来シーズンの新卒採用を目指す、とあった。

昨年も、リーマンショック以降の不景気で、
内定が取り消される学生が多くでて、
大学側が留年した場合の救済措置を施す、
などの話題が新聞記事になった。
また、内定取り消しなどは重大な違法行為であり、
なんらかの制裁を加えるべき、という記事もあったが、
結局、それがどうなったのかはわからない。

昨年の話は、
昨今の「教育現場にも民間企業の感覚を」という考えにも、
波紋を起こすと思っていた。
「民間企業こそ正しい。
 官立・公立は民間に学べ。」
みたいな不文律が最近多く語られたが、
こういうときは、そのような話題は引っ込められる。
利益を求める企業の姿勢が、
いつの時代も正しいとは限らない、と私は思う。

話は戻って。
「私立文系の就職難」は、
生徒に数学を教える側からは都合がいい。
「ほらみろ。
 数学を勉強して、文系でも国立大を目指せ。
 安易に『数学を敬遠する』なんて止めろ。」
と言いやすいからだ。

まあ、それは表面的にそれでいいが、
本当にそれで良いのか?
新聞記事には、そう書いてあるが、
早稲田でも、私立文系は就職に不利、と書いていいのか。
(いつもこういうときは早稲田だな。
 やはり早稲田は卒業生でもこう書くのか?
 それとも卒業生だから書きやすいのか?)

2つ目に。
たしかに私が大学生の時、
アルバイト先などの文系の友達の勉強しないぶりはすごかった。
当時、大学のレジャーランド化も話題だった。
私も友人に比べ、それほど勉強していたわけではないが、
それでも
「それでいいの?」
とは言ったし、自分も反省はしている。
つまり、
「不勉強なら、就職難は仕方ないだろ。」
と思う。

勉強しよう、学生諸君。
楽して会社に入れるほど、現実は甘くない。
あと、企業も政府もよく考えてほしい。
大学でても就職できないって、どういうことよ。
大学を増やしすぎでないのか?
よく考えてほしい。

ニュースで見るだけだが、政府による事業仕分けの様子が興味深い。
なるほど、戦後の自民党の事実上の一党独裁政権の垢、
各省管轄の各団体の既得権というのはここまであったのか。

なるほど税金の無駄遣いだし、結局その予算は、
その時の政権(つまり自民党)を守るために使われてきたのか。

なるほどいくら働いても庶民が幸せにならないはずだ。
あれは無駄だ。
なんか既得権を非論理的に主張していたおじさん・おばさんがいたが、
ああいう方が団体の代表や関係省庁の管理職をしていたかと思うと、
(ニュースだから、話が切り取られていたかも知れません。
 非論理的というのは、言い過ぎかも知れませんが、
 ニュースを見ていた限りでは、『返答になっていない』
 『理屈になっていない』音声が多くあったように思います。)

文部省関連の事業もバッサリ切られたようなので、
今後、学校現場にどんな影響がでるのかわからないが、
政権与党には頑張ってもらって、
自民党員と官僚とで、なんか実質を伴わないで肥大化していった、
各予算の配分をきれいサッパリダイエットしてもらいたいと思う。
辞めていった総理大臣をはじめ、
自民党幹部には、
酔ったみたいでまともに話が出来ないおじさんが多すぎた。
あんな人達に善良な市民の未来を決められたくはない。

そういった点で言うと、
剛腕政治家O氏の言うところの「二大政党制」というのは、
お互いの政権運営を政権交代のたびに洗い直すというのは、
たしかに良い制度なのかも知れない。
ただ多様な価値観を繁栄するためには、
少人数の野党の存在価値も無視してはいけないと思う。
そういった点で、日本の政治は一歩正しい方向へ進んだのかも知れない。


新指導要領が公布されるたびに、
「指導要領を分析する会」みたいなのが企画されて、
それを批判的に読む、ということがあった。
数学的には、それほど変化はないのでボーっとしていると、
「そんなんではよくない。」
と言われることがたびたびだった。
あの指導要領の、前回のカリキュラムを批判しないでおいて、
新カリキュラムに映る理由みたいなのがよくわからなくて、
ただ読めば読むほど、「まあそうだよなあ。」
と思うように出来ている。
そうすると、その筋の話に詳しい人が、
「これはつまりこういう思想統制みたいなことなんだよ。
 ちゃんと読んでよ。」
とか言ったりする。
ちゃんと読めばちゃんと読むほど、
そうは書いていない。
結局、政治通の人の裏話になって、
不毛な時間が過ぎていくのだった。

あんな時間を過ごしたくないので、
カリキュラムを変えるときは、
前カリキュラムの問題点をキチッと抑えて、
文章にして、公布してもらいたい。
次のカリキュラムまで、
現政権がもつかわからないが、
せめてそういう素地は作ってもらいたいものである。
優秀と言われる、
高級官僚の人も、
きちんと庶民や現場の空気を読んで仕事してほしいと思います。

毎年毎年、この秋が深まる時期になると、
勉強が俄然したくなってくる。
これまでも、数学の目新しい分野や数学史の書籍を、
買いあさったことがある。
英語版の本をわざわざ発注して購入したことも。
それらは結局、日常の仕事に忙殺されて、
読破されないまま、積み読状態に。

今年もその時期が来た。
でも今年のテンションの違いは「謙虚さ」である。

例年は、
「さあ、大学の研究室に戻るぞ。」
「あの本の訳本はまだないだろう。
 あの仕事(和訳)を完成させ、
 訳書をもって、大学に帰るぞ。」
とか、
「何、最近はこういう計算機言語が話題か。
 じゃあ、マスターしてみよう。」
とか、壮大なことを考えたりしている。

今年の謙虚さは、
「大学入学時に胸に抱いていたけど、
 結局、怠惰な現実におぼれ、
 果たせなかった目標を実現しよう。」
というところから来ている、たぶん。
それから、
「大学にいまさら戻ってどうなるのよ。」
という諦めもある。
また、
「また課題に追われるのが嫌だ。
 学歴は十分だ。学費ももうない。
 意志さえあれば、本当の勉強は在野でもできる。」
という気持ちも強くなってきた。

私が数学科を志したのは、
「自然の法則を記述する微分方程式を見つけること。」

どんな辛いことがあっても、
朝になればまた太陽は昇る。
冬がくれば、春は遠くない。
太陽の光に、身も心も解けるような昼下がり。
数学の発展の歴史に比べれば、
私の生涯なんて微々たるもの。
新発見や先取権なんて、どんな意味があるのか。

志があれば、いつだって、どこだって勉強は出来る。
「きっと自然は美しい数式で記述されているにちがいない。」
ああ、時間が欲しい。

ずっとそのことだけを勉強する時間が欲しい。

 
記事を見つけてビックリした。
「都立高校、推薦入学枠を大幅削減。」
ビックリしたが、いつかはこうなるだろうと思っていた。
大学入試も、
東京大学が後期試験枠を減らすとか無くすとかした、
と思う。
入学志望者が集まる高校・大学は、
自分たちの入学者像をメッセージをとして伝えるために、
入試問題や入試制度でそれを見せる。
「欲しいのは、学力のある生徒。」

東京の公立高校の入試制度には詳しくはないが、
学群とか学区制度なるものがあって、
住んでいる場所で、入学できる高校が決まっていたように思う。

学区はたしか10年前くらいに撤廃された。
それで全国にもその動きが広がり、
私の出身県でも、学区はなくなった、と聞いた。

また、
「真面目にやっている生徒が
 ペーパー試験で失敗しても、
 高校にはいれるように」
と高校入試でも、推薦で入学できる、
という制度も増えて、
それも全国に広がったと思う。
本校でも導入したが、
やはり理想とする生徒が集まらず、
廃止した経緯がある。

学区もなくなり、推薦入試も大幅減。
いったい東京都はどれくらい以前の入試制度に戻るのか?

進学重点校という学校もあると思う。
入試問題も、たしかそれらの学校は独自作成だと思う。

少子化の影響から、
公教育の理念の針は大きく振れ、
わかりやすい、学力偏重の入試制度へ。

ホントに「ゆとり教育」とか、
教育の機会均等とかはなんだったのか?

公立高校のブレに、我々もまた、振り回される。
誰も時代の思想から離れて生きることは出来ない・・・。
一昨日の朝刊を見てビックリした。
「2010年度をもって、教員免許更新講習は廃止。」
いったい、なんだったんだ!更新講習。

教育基本法の改定と教員免許更新制度。
短命の阿部内閣の残したもの。
ほんと現場は困惑。
そしてその実態が明らかになるにつれ、
「そんな遊びみたいなことやって、なんになるの?」
「大学の先生に
 『現場の先生、何かネタを提供してください』
 って言われた。
 大学で、カビくさい文献ばかり読んでいる教授に
 何を学べるというのか?
 『そんな保護者がいるのですか?』
 そんな保護者ばっかりです、って。
 現実離れした大学の先生に呆れた。」

まあ、いいや。
私自身がその被害に合う前に廃止される。
ほんと、受けた人はお気の毒。
お疲れさまでした。

次に、高校学費無償化。
知り合いの公立の中学校の先生に聞くと、
なんと「絶対反対!」とか。
なんでも
「安易に高校に進学する生徒が増えるから。」
と。
ウチのような中高一貫校なんて、
「安易に高校を選んでるんですけど。」
って。
まあ、中学受験で、深刻に選んでるからな。
その分、負担は減らしてもいいかな。
一方で、早くも中学受験で
「燃え尽き症候群」の生徒もいます。

「中学入ったら『猛勉強しないくて良い』
 って言われたから、小学校のとき、
 死にものぐるいで勉強した。
 それなのに、中学入学後、
 先生も母親も勉強しろって言う。
 詐欺だ!」

こういう生徒には、まず、
「義務教育ですから。残念でした!」
って言うことにしている。
また、
「じゃあ、高校行くな。
 高校は義務教育じゃないから、
 入らなくてもいいんだよ。
 はい、就職情報誌。
 中卒で就職できそうなとこ、探してごらん。
 どうする?
 学歴社会を転覆する為にクーデターでも起こすか?
 武器、買うか?
 おじさん、公安に知り合いいるからな。」

その後は保護者を説教。
「○○したら、もう勉強しなくていい、なんて
 なんてことを言うんですか!
 人間は一生、勉強です。
 『これで勉強はおしまい』なんて、
 僕は思ったことはありません。
 『○○買ってあげるから勉強して』
 っていうのもやめてください。
 勉強ってそういうもんじゃないでしょ!」

話は戻って。
安易に高校入学してもいいじゃないですか。
勉強したい、と思っても、
「お金がないから入れない。」
っていうのは可哀相だ。

私の家も貧乏だったから、
高校は選択の余地がなかった。
一生懸命勉強し、東京の大学に入ったが、
浮かれたサークルに入ったら、
コンパですぐに金は尽きた。
入学祝いも、麻雀で先輩に持って行かれた。
その浮かれたサークルはすぐに辞めた。
私の大学時代の思い出が暗いのは、あのサークルのせい。
でも辞めて良かった。
生活感覚が違うのだ。
貧乏人は、東京の有名大学に行っては行けないのだ。

そういう社会は良くない。
能力のある人がそれ相応の大学に入るべきだ。
幼稚園から塾に入って、
問題を解く方法だけを知って、
学歴を重ねるなんて、どんな意味がある?

政府のみなさん、
ぜひとも、国立大学の無償化も検討してください。

さて、我々、私立学校はまた難しい立場になったな。
補助金が増えるの?
それならいいが。
いやそれでも格差は広がるだろう。

教育に金がかかる世の中は間違っている。
政治家のみなさん、
よろしくお願いします。
このブログのアクセス数が増えている。
それも携帯電話などからのアクセスが日に日に増えている。
推測だが、
おそらく勤めている学校の生徒からのアクセスだろう。
以前、同僚のブログにブックマークにされている、
このブログの存在に気がついた、
と私に伝えてきた生徒がいた。

その頃の私は、
心身の疲労困憊の為、
このブログを閉鎖するつもりでいた。
だから、
「あのブログは先生のブログですか?」
という質問に対して、
「そうかも知れないけど、
 もうあのブログは終わりだろ?」
と不親切に答えた。

疲れていた。

キッカケは、実はカラダの問題であった。
真夏のある日、
まったく腕が上がらなくなった。
右肩が痛い。
6月の中頃からその兆候はあったが、
8月に入って、酷くなった。
ところが、その肩が快方に向かう。

それは評判の接骨院に通うようになってから。
接骨院で姿勢の問題を言われた。
「相当、ストレスのたまる仕事をされているのですね?」
「なぜわかるのですか?」
「この筋肉が収縮しています。」

しばらく通うようになって、
その筋肉の収縮の問題は解決された。
「胸を張ってください。
 そう。それがあなたのベストな体型です。
 大きく見えますね。
 その方が、心にとっても良いですよ。」

いつか、
「後悔しない」
というようなタイトルの記事を書いたが、
それは同時期のことである。

済んでしまったことを後悔し、
背中を丸める。
勢い余って生徒に言ってしまったことや、
保護者や同僚の教員と衝突したこと、
はたまた学生時代の不勉強だったこと。

今日も同僚に言われたが、
「意外と繊細なんですね。」
「そうです。僕は繊細なんです。」

繊細で、他人の弱さに気がつき、
それを慰めてあげられることは、
決して悪い特質ではない。
しかし、一転して、
自分の弱さと、
いつまでもイジイジと向き合っていることは、
心にも良くないだけでなく、
体に良くない。
それに気がついた。

このブログには、
人物が特定され、
いらぬ中傷を受けるようになるようなことは書かない。

一方で、
このブログは
いつか自分がはじめる自主ゼミの掲示板にするつもりだったので、
これが生徒にばれたからといって、
困ることはそれほどない。
多少、自分の本音や弱みをさらすことになるが、
それで我が生徒が何かを感じてくれればいい。
また意外と思われるかもしれないが、
このブログに表れる人間性もまた、私の真の姿である。

このブログを読んでいる生徒へ。
「勉強してください。」
心からそう思います。
自分の為に勉強すること。

先日、2つの嫌な体験をしました。
それは大人が相手のことです。
正直、相当凹んでいます。

「もう大人には期待できない。」

マスコミの言うことを鵜呑みするしか出来ない大人に、
明るい未来を創造することは出来ない。
もとより、「創造(クリエイト)」という
言葉の重要性は理解されていない。

本校の生徒たちへ。
君たちは、明るい未来を創造できる、
かけがえのない存在です。
だから、もっとタフに。
そして勉強してください。

君たちしかいないのです。
gifted child。
たしか英語で、
「天分を与えられた子ども」という意味で、
俗に言う「天才」を意味する言葉だと思う。

日本語では、
いわゆる「頭がいい子」は
2通りの言い方がされると思う。
「天才」と「秀才」。

鋭い感性・ヒラメキなどで、
数学や理科などで才能を発揮する天才肌の子ども。
高い記憶力と安定したメンタリティで、
着実に成績を残していく「秀才君」。

秀才君はほっといても着実に成長する。

問題となるのは、大学受験前。
やはりプレッシャーからか、
以前のスコアほど、
偏差値や合格判定が残せなくなってくる。
それも現実なのだが、
とくに親がこの辺で出しゃばってくると、
安定したメンタリティも崩れ、
元よりそれほど才能があったわけではないので、
不安定なることもしばしば。

安定しているのは、
「自分は努力型」と割り切っているタイプ。
この手の子どもは、
天才肌の友人を身近に感じているので、
自身も親も、ある種の諦めを持っている。
(諦めとは違う?)

現実的な希望を持っている生徒は、確実である。
もし研究テーマに恵まれれば、
それ相応の高い実績を残すだろう。

一方、天才君。
こちらもため息をつくような、
わずか中学生にして、
見事な幾何の証明を書く生徒が、
300人に1人くらい、表れる。

すべての教科がまんべんなく出来るわけではないし、
授業中目立つわけではないが、
記述が素晴らしい。
いい例えかわからないが、無駄がない。
すぱっと条件を言い換え、
計算なら、方程式をきれいに立てる。
ホント羨ましい。

もし、これがこちらの教育の成果なら、
これほど嬉しいこともないが、
同じように教えても、
解答がまったく違うのだから、
これはやはり本人の特質だろう。
同じように伝えても受け止め方が違う。
「この子がこれから数学を学んだら…。」

しかし、そうはいかないようである。
数年前、教えた子はまだ在学中であるが、
どうも伸びてはいないようである。

また、いまも目の前に天才肌の子はいるが、
最近はその秀でている部分より、
秀でていない部分の方が気になる。

自分の子どもにも、妻にも言ったが、
「人間、性格や才能は凸凹なんだよ。
 人より凸の部分があれば、
 凹の部分もあるんだよ。」

私の子は、私に似たのか、「空気が読めない」。
それが凹。

気になったので、
私自身が過去に生徒と一緒に受けた、
「性格検査」の結果を引っ張り出して見てみた。
もしかして、と思っていたが、
それほど凸凹ではなかった。

ただ、いくつか
「その通り!」
という結果があった。
「支配欲が強い。」
「好奇心に富む。」
「柔軟性に富む。」
である。

一方で、だいたいは均整がとれているが、
凹のところ。
「協調性」
「他者からの評価」。

そこにも書かれていたが、
周囲の人間からどう思われるかを気にしない傾向が強い。
また、周囲の人の感情より、
合理的な判断を重んじる傾向が強い、
とある。
まさしく、その通りである。

自分自身のことを心配していたのは、
「発達障害」である。

最近、一般化してきたこの言葉。
先日のニュースでは、
「自分の発達障害に気がつかずに就職し、
 精神的に追い込まれる労働者が増えている。」
というのがあった。
もしかして、
自分の心労もそこにあるのか、
とすこし悩んでいた。

もしかすると、
「数学なんかに興味をもつ」
というのも、その傾向性の現れか、
と考えすぎたこともあった。

切りがない。
結局、自分の言葉に戻る。
「人間には、凸凹がある。
 人より秀でている部分もあれば、
 人より劣っている部分もある。
 自分もそうだ。」

やはり教え子は気になる。
成人したとしても、心配だ。
天才肌でも秀才君でも、
やはり凸凹はあるのだ。
羨ましいことはない。

ただ、彼の才能を伸ばし、
社会に貢献できる人間に育てること。
これが私のできる、社会・未来への貢献。

みんな、何かしらの天分は与えられている。