涙の暴走戦士~アニマル・ウォリアー追悼~ | 団塊Jrのプロレスファン列伝

涙の暴走戦士~アニマル・ウォリアー追悼~

どうも。流星仮面二世です。
 
さて、先月になりますが9月22日、ザ・ロードウォリアーズのアニマル・ウォリアーが亡くなりました。人間、生きていれば仕方がないことですが、60歳とは・・・悲しいです。早いですよ。なんだかなぁ・・・
 
遅くなってしまいましたが、今回はザ・ロードウォリアーズの思い出を振り返ってみたいと思います。
 
ザ・ロードウォリアーズ。ボクにとってそれは、ほろ苦いものでした。あれはウォリアーズ人気も全盛の頃・・・
 
チケットを買ったら必ず会場に行く。それがプロレスファン。
 
徳光康之先生の「最狂超プロレスファン烈伝3」より
 
84年の初観戦から今日まで、ボクもこれをずっと守ってきました。しかし、過去に一度だけ・・・この禁を破ってしまったことがあります。忘れもしません。あれは新しいクラスにも慣れた中学2年の5月でした。
 
「プロレスが、来る!!」
 
それは1986年6月3日、全日本プロレスのスーパーパワーシリーズでボクの地元の茨城県の土浦スポーツセンターで大会が行われるというものでした。
 
それまでに生涯初のプロレス観戦となった84年のサマーファイトシリーズ、85年のチャレンジスピリット85と土浦スポーツセンターで行われた新日本プロレスの観戦には行けたのですが、この時点で全日本プロレスは一度も生観戦したことがありませんでした。なので、次こそは!!という思いはボクの中で募っていました。
 
そのスーパーパワーシリーズは、まだ長州率いるジャパンプロレス勢の猛攻がすさまじいときにして、参加外国人レスラーはテリーゴディ、タイガー・ジェット・シン、ミル・マスカラス、ハーリー・レイスという豪華な面々でした。
 
しかし、それだけではありませんでした。この、ただでさえすごいメンバーに加え、シリーズ途中の5月30日の札幌大会からザ・ロードウォリアーズが特別参加となっていたのです。このわずか2ヵ月前、アメリカのニューオリンズのスーパードームで開催された世界タッグ五輪で優勝し、名実共にタッグチームのトッブとなっていたウォリアーズ。ここで観戦に行ければ、全盛のウォリアーズを生で体感できるというタイミングだったのです。
 
わずかな小遣いをコツコツと貯めた、なけなしの1万円を手に母親に直訴。プロレスの来る日は平日でしたが、なんとか連れていってもらえることになりました。
 
こうして日に日にワクワク感が増してきた頃。プロレスの日も近づいてきた、あれは4日前のことでした。朝起きると、なんだか顔の皮膚が全体的に厚ぼったくなったというか・・・妙な感覚になっていました。でもその日は、それほど気にならなかったのでそのまま過ごしました。
 
しかし翌日になると前日の厚ぼったさに加え、ちょっと顔が火照る感じが出てきて熱っぽくなりました。そして、同時に鼻とオデコ、そして手の甲に小さなニキビのようなものがひとつ、ふたつと見られるようになりました。
 
「これはニキビか!?」
 
体質だったのか、実はボクは思春期にニキビができるということがほとんどありませんでした。できても、当時大ファンだった島田奈美ちゃんがCMに出演していたクレアラシルをチャンスとばかり、これ見よがしに塗っていたので目立つニキビは出たことがなかったのです。なので、熱は高熱じゃないし、ニキビならクレアラシルで・・・と、そのときもさほど気にしませんでした。
 
しかし、さらに翌日。その日は明らかに体調が変でした。顔がとにかく厚ぼったくて、熱い。熱もまちがいなくありました。でも休むほどの高熱じゃないと、とりあえず様子を見ながら学校に行きました。
 
学校へ行っても相変わらず顔は変な感覚でしたが、通常の授業は座っているだけなのでとりあえず大丈夫でした。でも体育の授業はできそうになかったので見学を申し出ました。
 
実はこの症状が出る前日に、部活中に足の親指の爪を剥がしてしまっていたので、それを知っていた体育の先生は顔を合わすなり
 
「ああ、足だったな」
 
と言ってくれました。そこで
 
「足もなんですが、実は・・・」
 
と、この熱っぽさとニキビのことを先生に話してみました。先生はそこで異常を察したのか
 
「これは・・・ちょっと保健の先生に診てもらおうか」
 
と言い、こうして一緒に保健室へ行くことになりました。すると保健の先生から発せられたのは意外な言葉でした。
 
「これは水疱瘡(みずぼうそう)かもしれないね」
 
み、水疱瘡!?
 
「小さい頃に水疱瘡やらなかったかな?」
 
小さい頃に!?そういや・・・確か小学1年のとき流行ってて、ひとりなったら次々となりだして、かなり大勢が休んでた時期があったっけ。でも、そんな中にいても、おれはなぜか水疱瘡にはならなかったんだ。
 
「それじゃ可能性ありますね。今日はすぐ帰宅して病院に行って診てもらってください」
 
こうして学校を早退し病院に行くと、保健の先生の言うとおり、ボクは水疱瘡と診断されました。
 
寝耳に水もいいところでした。今、中学校では誰ひとり水疱瘡になってない。まったく流行っていないのに・・・なんだっておれがこの歳のこのタイミングで水疱瘡なんかに・・・!?と、思うが早く、ハッ!!と気づきました。
 
プロレスは!?どうすればいいんだ・・・!?
 
学校はこの日から出席停止。家から一歩も出ないようにという状態はもちろんでしたが、このときには体温も高熱になり水痘の数も学校で保健の先生に診てもらったときの比ではなくなっていました。正直、自身でも動けない状態でした。
 
しかしどうしてもロードウォリアーズが見たかったボクは、ちょっとだけでも!!と母親にお願いします。そうだ、こんなことで休んでたまるか!!なにが水疱瘡だ。暴走戦士だけに水疱瘡だなんて上等じゃねーか!!母ちゃん、おれは行くぜー!!
 
「いげるはずあんめぇ!!」
 
だよなぁ・・・
 
当日。ボクは布団に入り天井を眺めながら当日の時間経過を想像していました。
 
3時かぁ。もう入り口前に行って会場入り見てるよなぁ。5時半だ。中に入って席に座り、リング見てる頃だな~。6時半、試合が始まったな。マスカラスがコールと共にオーバーマスク投げるとこ見たかったな。レイスの生シェッシェッシェッ、聞きたかったな~。そしてザ・ロードウォリアーズ。アイアンマンに乗って、あの土浦スポーツセンターの独特の階段を降りてきて、短い花道をリングに向かって突っ走って入場してくるウォリアーズ、見たかったなぁ・・・
 
枕元に置いてあった財布から入場券を取り出すと、スーパーパワーシリーズの文字はみるみるうちにぼやけて見えなくなりました。拭っても拭っても・・・それが見えるようになることはありませんでした。
 
それから9年後。それは95年の新日本プロレス1.4東京ドーム「闘強導夢BATTLE7」でのホーク・ウォリアーとスコット・ノートンの試合でした。ホークが登場すると、Tシャツ、ジーンズ姿のアニマルが現れ一緒に入場してたのです。アニマルはセコンドでしたが、この日、ボクはついにふたりそろったロードウォリアーズを見ることができたのです。
 
ホークとアニマル。やはり、これだ
 
アニマルはセコンドながら、試合ではノートンとやり合い、元気なところを見せてくれました。それは本当にうれしいことでした。
 
でも・・・やはり、ふたりが戦っている姿が見てみたい。しかし今の状況だと難しいよなぁ。やはりもう、叶わぬ夢なのかな・・・そう思っていました。
 
ところが明けた96年。 4月29日 の東京ドーム「96BATTLE FORMATION」で、ついに夢が叶う日が来ました。
 
その日は、ヘルレイザースにアニマルが加わり、トリプル・ウォリアーズとして試合が組まれたのです。今回はアニマルはセコンドではありません。レスラーとして戦うのです。ついにザ・ロードウォリアーズの動いている姿を見ることができるのです。それは天にも昇る気分でした。
 
やってきた試合前。対戦相手のスタイナーブラザースとスコット・ノートンが先にリングインすると、ケロちゃんの口上が場内に響きました。
 
「この東京ドームに、あの曲が復活!!パワー・ウォリアー、アニマル・ウォリアー、ホーク・ウォリアー入場!!」
 
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ・・・というイントロ。それはまるで自身の心臓の鼓動と同調するかのように、ひとつ鳴るごとにあの勇姿をフラッシュバックさせ、気持ちを高ぶらせていきました。やがて前奏に入ると、80年代の会場の興奮がそのまま甦ったかのように、ドーム内が「ウォー!!」と沸き上がりました。
 
アイアンマンで、ふたりが入場してくる!!
 
パワーを中央、先頭に、並んで悠々とドームの花道を歩くふたり・・・これがあの日、涙で見えなかったザ・ロードウォリアーズか!!
 
長い間、思い焦がれたシーンでした
 
至福でした。全盛期ではなかったけど、アニマルとホークが同じリングで戦ってる姿を見れたことが本当にうれしかった日でした。
 
この年の10月、ボクは結婚したのですが、その結婚式のとき引出物に一緒に入れる新郎新婦のプロフィールの写真は、嫁と記念に撮ったこの日の観戦のときものでした。今月、結婚して24年が経ちました。つまり、あの日から24年が過ぎたということになります。
 
あれから月日が過ぎて、ふたりとも天に召されました。夫婦で、あの日の観戦のことを語りながら、今はきっと天国でタッグ結成しているんだろうな、と・・・在りし日のザ・ロードウォリアーズを思い返した次第です。いつまでも忘れません。夢をありがとう。
 
~ザ・ロードウォリアーズ アニマルの足跡~
 
1982年11月
オレイアンダーソンによりNWAジョージア地区のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング(GCW)でデビュー。デビュー戦の日時、対戦相手は不明。リングネームはザ・ロード・ウォリアーだった。
 
デビュー当時のアニマル。なんとコスチュームはデニムだった
 
1983年6月
ポールエラリングをマネージャーにホークと共にザ・ロードウォリアーズとしてNWAナショナル・タッグ王座を引っ提げGCWに現れる。
 
アメリカン暴走族スタイルで登場すると、あっという間に注目されるようになった
 
まだペイントがない暴走族スタイルの時代の試合風景。当時、日本へはアニマル、ホークではなく1号、2号と紹介されたこともあった
 
ジョージア時代はスタン・ハンセンとも激戦を展開していた。ウォリアーズの得意技であるラリアートは、この時代のハンセンとの戦いで身に付いたものかもしれない
 
8月
暴走族スタイルから暴走戦士ザ・ロードウォリアーズにイメージチェンジ。

NWAナショナル・タッグのベルトを巻く初期のウォリアーズ。まだペイントがシンプルなのが印象的だが、このイメージチェンジにより注目度はさらに上がっていった
 
12月
プロレスリング・イラストレーテッド誌(1979年創刊のアメリカのプロレス月刊誌で現在も存在している)で年間最高タッグチーム賞を受賞。
 
1984年5月6日
ジョージア州アトランタでキングコング・バンディ、マスクド・スーパースターにNWAナショナルタッグ王座を奪われるが、20日に返上されたため王座決定トーナメントが行われる。ここでジャンクヤード・ドッグ、スイート・ブラウン・シュガーを破り王座奪取となる。
 
6月15日
オハイオ州コロンバスでロニーガービン、ジェリーオーツに破れNWAナショナル・タッグ王座から転落。
 
8月25日
ネバダ州ラスベガスのショーボート・パビリオンでクラッシャー・リソワスキー、バロン・フォン・ラシクからAWA世界タッグ王座を奪取。
 
10月
プロレスリング・イラストレーテッド誌で年間最高タッグチーム賞を受賞。2年連続の受賞となる。
 
独特の髪型は、お互いに切ってやっていたという。ペイントのうまさといい、実はウォリアーズは器用だった!?
 
12月29日
テレビ東京「世界のプロレススペシャル」でスティーブ・カーン、スタン・レーンのザ・ファ ビュラス・ワンズとの試合と"10組20人10万ドルタッグバトルロイヤル"の試合にてザ・ロードウォリアーズが登場する。これが日本の地上波でウォリアーズの動いている姿が映し出された初めての日と思われる。以降85年は世界のプロレスにほぼ毎回登場し話題となっていった。
 
世界のプロレスにプロレス・スターウォーズ・・・少年ファンの幻想は無限に広がっていった
 
1985年1月6日
ノースカロライナ州グリーンズボロでダスティ・ローデス、マニー・フェルナンデスの持つNWA世界タッグ王座とウォリアーズの持つAWA世界タッグ王座のダブルタイトル戦が行われる。両者反則でそれぞれが防衛。
 
3月8日
全日本プロレスの「85激闘!エキサイティング・ウォーズ」に特別参加で初来日。千葉県の船橋市運動公園体育館でアニマル浜口、キラー・カーンを相手に来日第1戦を行い、わずか3分39秒で圧勝。ついに日本でそのベールを脱いだ。
 
AWA世界タッグ王座のベルトを巻くウォリアーズ。ちなみにこの画像は初来日に伴い85年に双葉社から発売された「来日記念 緊急発売!! 暴走戦士 ザ・ロード・ウォリアーズ」の応募者全員プレゼントの生写真でもあった。キミも、もらったかい?
 
3月9日
新設されてから初のプロレス興行となった両国国技館にてジャンボ鶴田、天龍源一郎が保持するインターナショナル・タッグ王座に挑戦。3本勝負で行われたこの試合では1本目にホークが鶴田をフォール。ウォリアーズの圧勝となったが2本目の不本意なフォールでホークが取られ暴走。これにより3本目は放棄し、ファンに不満を残す結果となった。
 
ファン待望のロードウォリアーズ初来日のビッグマッチにして両国国技館のこけら落としとなった記念の大会だったが残念な結果となってしまった
 
3月14日
愛知県体育館にて長州力、キラー・カーンを相手にAWA世界タッグ王座の防衛戦が行われる。5分35秒、両チームリングアウトとなったが、アニマルが140キロのカーンをリフトアップ。プロレス史上最高の名シーンが生まれることとなった。
 
「おーすごい!!キラーカーンの140キロを持ち上げたー!!」5日前の両国のウサを晴らすような素晴らしい試合だった
 
7月6日
ノースカロライナ州シャーロットで行われた「NWAアメリカンバッシュ」でイワン・コロフ、クラッシャー・クルフチェフの持つNWA世界タッグ王座に挑戦。ラシアンズの反則により反則勝ちとなるが王座は移動せず。
 
9月2日
フロリダ州タンパのユニバーシティ・オブ・サウス・フロリダ サン・ドームでスタン・ハンセン、ハーリー・レイスとAWA世界タッグ選手権にて激突。壮絶な試合となった。この試合は10月13日に「世界のプロレススペシャル」で放送されたが、通常は海外からの試合映像にあとから実況、解説を入れる形の世界のプロレスが、この試合はテレビ東京スタッフと杉浦滋男アナ、門馬忠雄さんが現地に行き放送席を取り、実況、解説を行った。
 
試合前からやり合うアニマルとハンセン。とにかく激しい一戦となった
 
9月29日
ミネソタ州セント・ポールでジム・ガービン、スティーブ・リーガルに敗れAWA世界タッグ王座から転落。12分4秒、ガービンがアニマルをフォールしての勝利だったがフリーバーズの乱入があってのフォールということで大荒れとなった。
 
ちなみにミスターTとは昔からの馴染み。会えばこのとおりだ
 
1986年4月19日
ルイジアナ州ニューオリンズのスーパードームで開催された「世界タッグ五輪」に出場。1回戦シード、2回戦でワフー・マクダニエル、マーク・ヤングブラッドにフォール勝ち。準決勝でデニス・コンドリー、ボビー・イートンのミッドナイト・エキスプレスに反則勝ち。決勝、マグナムTA、ロニー・ガービンと対戦。マグナムをフォールに下し連続3試合となるハードな決戦を制し優勝を果たした。翌日20日はAWAのレッスルロック86に出場。2日連続のビッグマッチとなったが疲労感を見せず、金網デスマッチでマイケル・ヘイズ、ジム・ガービンを破った。
 
タッグ五輪に優勝し、ついに名実共にタッグ世界一となった
 
5月17日
メリーランド州ボルチモアでダスティ・ローデスと組みイワン・コロフ、ニキタ・コロフ、バロン・フォン・ラシクとNWA世界6人タッグ選手権を行い勝利。王者となる。
 
試合ではローデスがペイントすることも。トリプル・ウォリアーズの起源は実はローデス!?
 
7月9日
オハイオ州シンシナティのリバーフロント・スタジアムでアニマルがシングルにてリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に初挑戦。11分50秒、フレアーが反則勝ちにより防衛。
 
1987年3月12日
日本武道館にてジャンボ鶴田、天龍源一郎の持つインターナショナル・タッグ王座に挑戦。場外で天龍にツープラトンのパイルドライバーを決め11分17秒、アニマルがリングアウトで勝利し第39代王者となる。
 
日本の至宝であるインターナショナル・タッグ王座を奪取したウォリアーズ。翌年タイトルはPWF世界タッグ王座と統一され"世界タッグ王座"となるため、事実上ウォリアーズは純粋なインターナショナル・タッグ選手権の最後の王者となった
 
4月10日
メリーランド州ボルチモアで行われた「世界タッグ五輪2」に出場するが準々決勝でミッドナイト・エキスプレスに反則負けし2連覇ならず。
 
7月19日
イリノイ州シカゴでアニマルがリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に2度目の挑戦。しかし、わずか12秒で無効試合となる。
 
1988年4月22日
バージニア州グリーンビルで行われた「世界タッグ五輪3」に出場。2回戦でパワー・オブ・ペインに敗退し王座返り咲きならず。
 
6月10日
日本武道館でウォリアーズの持つインターナショナル・タッグ王座とジャンボ鶴田、谷津嘉章の持つPWF世界タッグ王座のダブルタイトル、王座統一戦が行われる。ホークが鶴田からフォール勝ちしウォリアーズの勝利となったが、ホークがレフリーのジョー樋口に暴行したあとサブレフリーの和田京平が入りカウントを入れたため、カウントより先に反則負けの裁定が成り立っていたということになり鶴田、谷津の反則勝ちでウォリアーズがインターナショナル・タッグ王座から転落。またも不満が残る結果となった。
 
最後のインタータッグ戦では、なんとモンゴリアン・ベアハッグを繰り出したアニマル。それにしても、最後のインタータッグがこんな不本意な結果で終わるとは、なんとも言いがたい気持ちになる
 
7月9日
イリノイ州州シカゴで空位となっていたNWA世界6人タッグの王座決定戦をローデスと組みリック・フレアー、アーン・アンダーソン、タリー・ブランチャードと行い勝利。王者となる。しかしウォリアーズとローデスがのちに仲間割れをしたため12月7日にテネシー州チャタヌーガで天龍源一郎を新パートナーに指名。のち89年2月15日、オハイオ州クリーブランドでの防衛戦を最後に王座は封印された。
 
NWA6人タッグ王座を巻くウォリアーズとローデス。しかし仲間割れとなり天龍が王者となる。このタイトルもウォリアーズが最後の王者であった
 
10月29日
ルイジアナ州ニューオリンズでミッドナイト・エキスプレスを破りNWA世界タッグ王座に初栄冠。
 
AWAに次ぎNWA世界タッグ王座をも奪取したウォリアーズ。これで世界三大タイトルのうちふたつを制した
 
ロードウォリアーズとアニマルの兄弟であるジョニー・エース、ザ・ターミネーター。みんなとても仲がよい
 
1989年2月15日
オハイオ州クリーブランドで行われた「クラッシュ・オブ・チャンピオンズ」でマイケル・ヘイズ、ジャンクヤード・ドッグ、スティングの持つNWA世界6人タッグ王座へ天龍源一郎と組んで挑戦。13分19秒、両者反則となりタイトル奪取ならず。
 
4月2日
ルイジアナ州ニューオリンズでスティーブ・ウィリアムス、マイク・ロトンドに破れNWA世界タッグ王座から転落。
 
12月13日
ジョージア州アトランタで行われた「スターケード89」でワンナイト・キング・オブ・ヒル・タッグリーグで優勝。
 
1990年6月25日
ザ・ロードウォリアーズからリージョン・オブ・ドゥームに改名。オハイオ州デイトンでのWWFのテレビ・テーピングにてWWFに初登場する。
 
7月20日
新日本プロレスに初参戦。シリーズ「レスリング・スクランブル」の大宮スケートセンター大会に初登場し長州力、佐々木健介と対戦。ホークがわずか2分12秒で佐々木健介から勝利。
 
7月22日
北海道の月寒グリーンドームで武藤敬司、蝶野正洋と対戦。ホークが暴走しイス攻撃により反則負けとなる。
 
ついに新日本に初登場したウォリアーズは武藤、蝶野と夢の対決を展開した
 
1991年3月30日
SWSで行われた「レッスルフェストin東京ドーム」でハルク・ホーガン、天龍源一郎と対戦。ホーガンとウォリアーズの初対決となったこの試合は超ド迫力の肉弾戦となったが、最後はウォリアーズがリングアウトで勝利。
 
ホーガン、天龍を相手にダブル・ボディリフトを見事に決めたウォリアーズ。真骨頂を存分に発揮した
 
8月26日
マディソン・スクエア・ガーデンで行われた「サマースラム」でナスティ・ボーイズを破りWWF世界タッグ王座を獲得。これによりNWA、AWA、WWFの世界三大タイトルのタッグ全制覇を成し遂げた。
 
チーム結成して8年。プロレス史上、最初で最後の快挙となった
 
1992年2月7日
テッド・デビアス、IRS(マイク・ロトンド)のマネー・インコーポレーテッドに敗れWWF世界タッグ王座から転落。9月WWFを離脱。アニマルは脊椎を負傷して長期欠場となる。
 
11月
新日本プロレスでホーク・ウォリアーがパワー・ウォリアーとタッグチーム、ヘルレイザーズを結成。IWGPタッグ戦線で活躍。
 
1995年1月4日
東京ドームで行われた「闘強導夢 BATTLE7」のホーク・ウォリアーとスコット・ノートンの試合にセコンドとして登場。
 
1996年1月
アニマルが復帰しWCWにてザ・ロードウォリアーズが復活。スタイナーブラザースと夢の対決も実現。
 
4月29日
東京ドームで行われた「96BATTLE FORMATION」に参戦。ヘルレイザースと合体しトリプル・ウォリアーズを名乗り、6人タッグマッチでスタイナーブラザース、スコット・ノートンと対戦する。
 
1997年2月
WWFに復帰。
 
10月7日
ヘンリー・O・ゴッドウィン、フィニアス・I・ゴッドウィンのザ・ゴッドウィンズを破りWWFタッグ王座を再び獲得。
 
11月24日
ロード・ドッグ、ビリー・ガンのニュー・エイジ・アウトローズに敗れWWFタッグ王座から転落。
 
1998年3月29日
チーム名をLOD2000とし「レッスルマニアXIV」に参戦。タッグチーム・バトルロイヤルで優勝。
 
1999年4月
WWFを離脱。
 
5月2日
全日本プロレスで行われた東京ドーム「ジャイアント馬場追悼興行」に出場。弟のジョニー・エースと組んで小橋健太、秋山準、ハクシーと対戦。小橋と見応えある勝負を展開した。
 
ウォリアーズと兄弟タッグで久々の全日本プロレス参戦となった
 
10月28日
東京・国立代々木競技場第2体育館で行われたリングス「WORLD MEGA-BATTLE TOURNAMENT~King of Kings」にブラッド・コーラーのセコンドとして登場。コーラーはアイアンマンで入場。アニマルはペイント姿だった。
 
2001年1月
WCWに復帰。
 
3月
WCWが崩壊しWWFに吸収合併される。これによりアニマルはセミリタイア状態となり、単発でインディー団体に出場する形となっていく。
 
12月9日
ZERO-ONEの大阪城ホール大会「真撃」に出場し大谷晋二郎、田中将斗と対戦。アニマルが大谷にラリアートを決め15分6秒、レフリーストップで勝利。
 
2002年12月18日
TNAに初登場。
 
2003年3月1日
横浜アリーナで行われたWJプロレス旗揚げ戦「ワールド・ジャパン・プロレス MAGMA01旗挙戦」に参戦。トッド・シェーン、マイク・シェーンのザ・クラッシャーズの持つ IPWハードコアタッグ選手権試合に挑戦。ダブルインパクトを決め11分4秒、フォール勝ち。
 
5月12日
WWEの「RAW」でケイン、ロブ・ヴァン・ダムと対戦。これがアニマル、ホークがそろってのオリジナルのザ・ロード・ウォリアーズとして最後の「RAW」登場となる。
 
7月11日
WJプロレスの新潟県新潟市体育館大会 でトッド・シェーン、マイク・シェーンのザ・クラッシャーズと対戦。ホークがトッドにフライング・ラリアートを決め7分35秒、フォール勝ち。これがザ・ロード・ウォリアーズの日本での最後の試合となった。
 
10月19日
ホーク・ウォリアーが心臓発作のため46歳で死去。
 
2005年7月24日
WWEの「グレート・アメリカン・バッシュ」にハイデンライクと組みLOD2005としてジョーイ・マーキュリー、ジョニー・ナイトロのMNMとWWEタッグ王座をかけ対戦し勝利。ホーク以外のパートナーでの初栄冠となった
 
2007年9月1日
ディファ有明で行われた健介オフィス自主興行「Take The Dream vol.2~新たなる夢~」に参戦し、パワー・ウォーリアーとヘル・ウォリアーズを結成。YASSHI・ウォーリアー、近藤・ウォーリアーと対戦する。ダブルインパクトを決めパワーがYASSHIを6分11秒でフォール。勝利した。
 
2011年4月2日
アニマル、ホーク、ポール・エラリングがWWE殿堂入り。ジョージア州アトランタのフィリップス・アリーナにて表彰式が行われた。インダクターはダスティ・ローデスが務めた。
 
2017年2月23日
DSWの「NWA-DSW 新木場1stRING大会」で行われたNWA世界タッグ選手権試合 ロブ・コンウェイ、マット・リビエラvsロブ・テリー、宮本和志戦でロブ、宮本側のセコンドとして登場。場外でNWA会長のブルース・サープと乱闘。流血に追い込む攻撃をするなど元気な姿を見せた。24日から27日はファンイベントでステーキハウス・リベラをはじめ日本各地を回った。
 
10月10日
新宿FACEで行われた「DSW旗揚げ1周年大会」のメインイベントの宮本和志、牙城、TAJIRIvsブロディ・スティール、カウボーイ・マイク・ヒューズ、ショーン・ヘルナンデス戦でTAJIRI組のセコンドとして登場。この来日では6日から日本に滞在し11日までファンイベントで日本各地を回った。最終日11日はキラーカーンのお店、居酒屋カンちゃんでイベントを行った。
 
2020年9月22日
アニマル・ウォリアーが60歳で死去。
 
ご冥福を御祈りします。安らかに・・・