来年から英語教師になる僕の気ままな仮免人生ブログ -21ページ目

来年から英語教師になる僕の気ままな仮免人生ブログ

5年前好きだった人に「先生になれば?」と言われたことがキッカケで教師を目指し、この程フラれた人に「金持ちになれ」と言われたことがキッカケで死ぬ気で勉強し、本当に公立学校の教員採用試験に現役合格してしまった哀れな教師の卵の記録。


皆さん、お疲れ様です。

立冬ですね。 今日から冬ですよ。


一緒に居られるおまじないだと思って買った長袖姿はもう見れないけど冬が始まりますよ。


半袖も買っとけばよかったかな・・・






さて、こんな経験ができるのも若いうちだと思います。

正直、来年からは毎日が忙しくて他ごとに頭を回す余裕がなくなってしまうでしょうね。



若いっていいですよね・・・。

出来るならずっと若くいたい、って思う方も多いと思います。 (むしろ全員?)



では、みなさんはこの 「若さ」 をどう捉えますか?


情熱がある?

希望に満ちている?

チャレンジ精神がある?

多少のことでは疲れない?


良い事づくしですね。

これは誰でも若いままでいたい、っていうのも納得です。



ですが、僕は若さが必ずしも教育の現場に良い影響をばかりを与えるとは思っていません。

もちろん、先ほどピックアップした情熱チャレンジ精神は教育をより良くするのに大変重要なものに違いはありません。


しかし、教師があまりに若いとこんな危険性があります。



それは、生徒たちが教師に親近感を持ってしまう、ということです。


親近感を持っちゃいけないの? と思うかもしれませんが、違った言い方をすると


生徒たちが教師を友達と思ってしまう危険性がある、


ということです。




人間誰しも、年や見た目が近いと親近感が湧きます。

10月29日の記事にも書きましたが、友達感覚で近づいてきた生徒たちに対して、 「自分は信頼されている」 と勘違いする新任教師も少なくないように思えます。



実は、僕は働いている学習塾や、前回の教育実習では年齢を一切生徒たちに伝えていません。


それは、 「僕っていくつに見える?」 と問いかけてコミュニケーションを図ることにも使ったりしますが、最大の目的は生徒たちに親近感を湧かせないためです。



たとえ年が近くても、見た目が若くても、 「先生は先生、生徒は生徒」 なのです。




僕も出来るなら若いままでいたいのはホンネです。

ですが、教師として考えると、はやく年をとりたいとも思っています。




この記事を5年後に見た自分からお叱りがきそうですね。

そのころにはまた別の結論が出ているのでしょうか。
 

こんにちは。



11月の第二週が始まりましたね。

いよいよ今年も残すところあと10週間を切りました。


来年に面倒臭いことは持って行かないよう、今年やることは今年のうちにやっちゃいましょう!


大掃除とかね。




大掃除とかね。
 (自分に言い聞かせながら)







さて、先週 「褒めること」 が教育にとてもいいんじゃないかって話をしました。

褒められれば誰でも嬉しいですよね。

それが更なる学習の動機づけになるのではないか、という話でした。



今日は、 「褒めること」 に続いてとても効果の有りそうな 「笑い」 について考えてみます。



「笑い」 って? お笑いでもやるの?



って考えるかもしれませんね。


近からずも遠からずってとこでしょうか。



最近は2,3年前に比べるとそこまでお笑いブームってわけではありませんが、それでもお笑いはとても人気がありますよね。

毎年年末には大規模なお笑いイベントがあるし、お笑い芸人は毎日のようにテレビに出演しています。


なんでお笑いが根強い人気を保っているのでしょうか。



それは、人間は 「笑うこと=楽しい」 って思う習性があるからなんですね。



人間苦しいことは嫌いでも、楽しいことは何回でもやりたいと思います。

だから、なんだかんだで毎週お笑い番組を見ちゃったりするんですね。 (僕だけかもしれませんが)




もちろん、その 「笑い」 はお笑い芸人の専売特許ではありません。

教育の場でも使うことは可能です。



例えば授業中にトピックに関連した内容の小話を挟んだり、自分の失敗談を話したり。



どんなに難しいトピックでも、笑いを挟むことで 「難しい授業だった」 で終わるところが、 「なんだか楽しい授業だった」 に変わります。


そうすれば、きっとそのトピックに対する考え方が変わるでしょう。




僕が教員を志した理由の一つに、 「英語嫌いを無くしたい」 という野望があります。


その野望を叶える最短の方法は、 「英語は楽しい」 と思わせることです。




この 「笑いの力」 は、きっとこの野望を叶える手助けをしてくれるのではないでしょうか。




どーもこんにちは。

友引の日曜日ですね。


ついさっきまで友引って 「友を引く=友から引き裂かれる=不吉な日」 だと思っていました。

どうやら色々な意味が取れるらしいですね。


いろいろややこしいので、 「葬式はしないけど結婚式はする日」 ってことで自己完結しました。






さて、日曜日ですね。 思い出話でもしましょうか。 (BGM: 「生きもの地球紀行」エンドテーマ曲 「Believe」)



・・・・・
・・・




あれは僕が小学校5年生のとき。

時は2月の14日。



そう、その日は日本中の男性に自分は男性だと思い知らさせ、この世にある格差社会というものを身をもって経験させる残酷かつ非情な日。

俗に言う、バレンタインデー



毎年その日は一部の勝ち組が人生の素晴らしさを再認識し、負け組は家に帰るその瞬間まで叶わぬ夢を描きながら過ごすという心拍数上がりっぱなしな体に悪い日、というのが通例だ。


僕はもちろん負け組の一人として現実の非情さに毎年嫌気がさしていたのだが、その年は何かが違った。




そう。

僕はその年、生まれて初めて異性 (親族を除く) からバレンタインチョコをもらったのである。



しかも都市伝説だと思っていた、本命とやらを。 (ここで I will always love you のサビを流してください)



この年になっても忘れない。

自分で組み立てたであろう可愛い箱の中には6つの手作りチョコ、小さく 「大好き」 と書かれた便箋、そして、まだ一回100円だったころのプリクラが添えられていた。



フルコンボである。



小学生ながらに勝ち組の一人になったのである。




しかし、僕の記憶の中にその子と一度でも遊んだり話したりした記憶はない。

それはバレンタイン以前も以後も同じである。



そう。

大馬鹿者だった僕はなんと世紀の大チャンスを逃してしまったのだ。

理由は簡単。


「好きとか付き合うとかよくわからないから」




しかも当時の僕はそれをハッキリと言いすらしなかった。

ただただ、何もなかったことにしたのだ。


簡単に言えば、無視したのだ。





・・・月日は流れ、それ以降めっぽう色恋ごとにはご無沙汰である。




・・・
・・・・・




僕は未だに思っている。



あの日、あの時、ちゃんと話しあえばよかった。

ダメならダメで、ちゃんと言ってあげればよかった。






きっとあの瞬間、僕は一生分の恋愛運を神に返したのだと思う。


果たして返還される日は生きているうちに来るのだろうか。