浮浪人間への道 = Road to Groningen!

2月21日。


朝からドタバタした。

入院中の父はこの日転院することになった。


父が脳梗塞で救急搬送されたのが1/26。

そのまま入院となったのだが、急性期を脱したため病院を出ることになった。

いわゆる「回復期リハビリ病院」への転院だ。


担当してくれた医療コーディネーターが父の転院先を探してくれていた。

父は言葉が今もってまともに理解してもらえないほど失語状態にあるが、自宅に帰りたいという意思は確認出来ている。


そこを堪えてリハビリをしてくれ、と自分を含めて家族が説得をした。


父がリハビリをなんとか頑張って、失語状態から多少なりとも会話が成立するようになってから帰宅して欲しい。

これが家族の希望。

なにより本人のためでもある。


回復期リハビリ病院に入ることが出来るのは急性期を経た今しか出来ない。

一度でも自宅に戻ってしまうと、その後で回復期病院へ戻ることができない。

そういうシステムなのだ、と聞いた。


仮に父の希望通りに自宅に戻ったらどうなのか?

週に一度、これまで世話になった急性期病院にリハビリ通院する程度にしかリハビリが受けられない。


それはとても父にとって不利なことだ。

脳梗塞発症から半年を経過すると、リハビリをしても機能回復をする可能性が低くなる、と聞いた。


だから、いま回復期病院でリハビリを頑張る必要があるのだと父に理解してもらった。


父は自分の話を聞いて、納得して頷いた。


コーディネーターが見舞いに向かう我々家族のために自宅からなるべく近い回復期病院を5カ所選出してくれた。


今世話になっている急性期病院の系列院を第一希望にしたのだがマッチングしなかった。

早くとも3月中旬まで空きがないという。


他は院内感染(インフルエンザ、新型感染症など)で受け入れ停止中とか。


結局、唯一受け入れてもらえそうな病院が今回の転院先なのだが、5カ所の中で自宅から最も遠い場所となった。

遠いといっても、市内である。


自分は多少遠くても車で向かうのだからどうでも良く、むしろ一番施設の規模が大きいからよさそうだと感じていた。


しかし、母や姉は嫌だと文句を言っていた。


理由はいくつかある。

・大部屋に空きがない(空きが出るまで個室代(差額ベッド代))が発生すること

・遠いからこれまでのように頻繁に見舞いに行けないこと

・大病院だから、館内の移動だけで疲れそうだということ


選択肢は他になかった。

いや、むしろ悪い選択肢を提示された。

板橋区(埼玉寄り都内)にならば希望に合う回復期病院があると。

駄々をこねれば、ろくなことがない。


差額ベッド代は一日5,500円。

大部屋に空きが出るまでは個室。

それほど高価では無いもののいつまで待たされるかによっては負担も大きくなる。


母を今度は説得した。

とにかく感情論でなびく母である。

理路整然と思考出来ない。

他者と会話を積み上げる事が出来ない。


主語、述語、目的語があやふやで自分の頭の中にだけあるものを「あれ、これ、それ」で表現して伝わるはずもない。


社会との関わりが無い生活をしているから仕方ない。

という言い訳は通じない。


母は渋々説得に応じた。

母を通じてコーディネーターへ意思表示、そして仲介してもらった。


コーディネーターは言っていた。

「市内の回復期がいっぱいで空きがありません」

「こんなことは過去に経験がありません」


それだけ脳梗塞がこの時期に起きやすいのだということなのか。

父と同じ時期に発症し同じく回復期へ転院する。

本当にそういう理由らしい。


回復期病院への転院希望が殺到している状況でありながら、運よく一週間後に転院することが出来たのは幸いだった。


退院手続を終えていざ出発。

自分が運転する父の車に父を含めて家族4人が同乗するという史上初の出来事が起きた。


自分は姉とは絶縁状態にあり、少なく見積もって10年以上一度も会わずにいたのが理由。

今回の騒動が起きてすぐに、姉と会う羽目になって以来。


市内の移動だが、混んでいて40分ほどかかった。

スケジュール通りに新しい病院に10時半に到着。




入院受付をする。


あれほど当院へ懐疑的だった母や姉は、実際の病院を訪問して気に入ったようだ。


手続きを終えた。

5階のリハビリ病棟へ。

スタッフステーションで挨拶すると、スタッフの一人が「大部屋に空きが出たのでこちらへどうぞ」と。


予想外、差額ベッド代の懸案事項がいきなり解消した。


見学した。

大部屋も含めて施設は立派そのもの。

共用施設(食堂、浴場、果てはコインランドリーも)、各人の机もあり、好きなジャンルの雑誌など置かれている。


事前に父の趣味を質問されていたのを思い出した。

「ハワイアンバンドで、ギターとかウクレレとか弾いてまして…少し前まで公民館などで指導してました」云々。


父の間取り、これまでなかった窓もある。

陽あたりも良好。

晴れれば秩父連山や富士山が見える。


スタッフも充実している。

父にとって最も重要な「言語聴覚士」が10人近く在籍している。


こうした予想以上の好環境がその後の家族の心象を一変させた。


母とは決め事をした。

これまでのように毎日見舞いにはゆかないことにした。

週に2日(平日、週末)にしよう、と。


最大3時間の面会時間が日々用意されている。

その気があれば毎日3時間会うこともできる。


生命の危機は脱したわけで、これからは自立に向けてリハビリに専念してもらいたい。


何より毎日の訪問による「面会疲れ」もあった。

母と自分は、毎日の面会のために夕方2時間を費やしてきたが。

これでは疲れないわけがない。

 

父にはこれからは大部屋の入所者たちと退院目指して共同生活を積極的に過ごして欲しい。


リハビリ施設だから、辛いに決まっている。


朝の起床が6時と聞いて嫌がっていたが、もう二度と共同生活などする機会はないだろうから。


少しずつだが、復帰に向けて歩んでいる父。

早く家に帰るためなのだから頑張って欲しい。


少なくとも3ヶ月、最長半年以内のリハビリを予定しているが帰宅の目処は立っていない。

12月17日。

今回、足の骨折をしたのは材木を選別していた時だった。
魔が差したとしか言えない。

南米の重厚な材種、3.5mで30kgくらいある製材された一枚だった。

割れ止めのために両木口にはロウが引いてある。
それが材同士で擦れて滑りやすくなっていた。
滑り落ちて左足甲に落ちた。

痛くてしばらくうずくまって悶えた。
人生で初めての骨折だった。

この骨折で多くの犠牲を払った。
仕事を辞めた最大の理由にもなった。

超音波機器を自腹でレンタルした。
最初の一ヶ月は疑心暗鬼で超音波治療をひたすら信じて続けた。

2月に入って最近、急激に回復を体感している。
超音波機器はすでに返却しており、手元にない。
その効果が今になって出現したと信じたい。

仕事をやめてすぐの平日。
経過観察のために病院にゆくことを決めていた。
その日、その時は父がまさかの救急搬送された時でもあった。

年末年始と激務の仕事をせざるを得なかった。
骨折しても労災申請など出来る雰囲気は会社には微塵もなかった。
過去にもっと重症のケガをしている例であっても労災申請されたことがないという。

いわゆる「ブラック企業」だと改めて感じた。

足を安静することなどできなかった。
足を治すには早々に会社を辞めるのが最良だと確信した。

辞めるには手続きがあるから「直ぐ」というわけにはゆかず。
その間も足を酷使した。
骨がズレたまま仮骨が形成されていた。

ズレは気になっているが「これはこれで良いでしょう」と医師。
合格点をもらえた。
そして「来月の今頃にチェックして終わりましょう」と。

これまで左足はかかとしか着けなかった。
「かかと歩き」ならなんとか歩行できた。

いまは違う、つま先も含めてなるべく足全体で歩いている。
少し痛いが普通に歩けるようになってきた。

骨折部位に形成されつつある仮骨の強度が出ているのだろう。
あと一月もすれば、足を引きずらないで歩けそうだ。

早く治して、思う存分野山を歩きたい。
春になったら再び山へゆきたい。
とりあえず無職で時間があるうちに屋久島へ。
念願でもある宮之浦岳へゆきたい。

払いすぎた代償をこれから取り戻す。

右が1月26日、左が直近2月16日のもの。



前職を1月25日付で退職をしていた。
 
それから2週間、2月7日のこと。
大宮でも雪が舞っていた。
 
有志が送別会ををひらいてくれた。
職場では敵を作らずに過ごしたが、内心では嫌いな人もそれなりの人数がいた。
そっとやめさせてほしいという自分の意向も汲んでもらって本当に心を許せる2人だけに来てもらった。
 
3人だけの会合。
遠路はるばる自分のために大宮駅まで来てくれた。
骨折している自分を気遣って川口方面から集まってくれた。
普通に居酒屋での飲み会だったが、嬉しかった。
 
行き当たりばったり、無計画。
おしゃれな「おでん」居酒屋を見つけてくれた。
 
参加してくれた2人は40代半ば。
年は自分のほうが若干上だが、入社も木工歴も2人の方が遥かに上。
木工の訓練校が全員「上松」という点は偶然ではない。
 
主宰してくれた同僚、ここでは普段そう呼んでいないのだが、「ツナ」氏と呼ぶことにする。
お土産をもらった。
文庫本3冊。
 
ツナ氏「宣伝も兼ねて、父の本です」

 
驚いた。
お父さんが小説家だということも。
 
会社の同僚には一切伏せているという。
何せ文化的な素養とは一切無縁の会社である。
言ったとしても、むしろ否定的に扱われる可能性があることは容易に想像できる。
 
ツナ氏の父、佐藤泰志。
 
小説を読まない自分は存じ上げなかったが、相当有名な小説家だとわかった。
著名人である、調べれば経歴など簡単に知ることができる。
 
作品は何作も映画化されている。
「柄本佑」「オダギリジョー」「山田裕貴」といった錚々たる若手俳優が主演している。
作品では若者の生きざまを描くことが多かったようだ。
 
小説家の父上、若くして自死をした(どうやら縊死らしい)。
散会後にあれこれ調べて知った。
 
他にも以下のようなこともわかった。
 
芥川賞に幾度となく推挙されていながら、受賞に至らなかったという。
同年生まれの村上春樹と否応なく比較されたことだろう。
 
この送別会にて、自分の父が脳梗塞で失語した事実を初めて他人に打ち明けた。
親戚にすら伝えていない案件である。
 
それぞれの父親の話になった。
この3人のうち一番若いカンタ氏(便宜上こう呼ばせてもらう)の父はまだ70代、元気らしい。

一方、ツナ氏の父親の話はぶっ飛んでいた。

小説家の父は家では相当な暴君だったという。
絵に描いたような家庭内暴力(DV)。
毎日のように妻や長男に暴力を振るった父。
父に殴られた際、流血が宙を舞っていたのを覚えているそうだ。
なんという、壮絶な記憶。
 
そんな父であっても、いざ死んだ時には泣いたと言っていた。
おそらくツナ氏が10歳くらいの時。
 
自分にはそれが意外だった。
 
多分、自分もカンタ氏も父が死んだとしも泣かないだろうと予測を立てた。
実際にはその時になってみないとわからない。
 
家庭が崩壊していたのは容易に想像がつく。
母を殴り、自身も殴られるのが日常だったはず。
長女、次女も時には殴られていたかもしれない。
 
彼にとって、父の死はある意味DV地獄から解放された出来事。
「救い」を得たはずなのに…
親子、家族の関係とはきっと自分が想像する程度のものではないのだ。
 
壮絶な他人の家庭事情を知った。 
それと比べて、いや比べるべきでないのは承知しているのだが、我が家の今の家庭事情は決してこの世の終わりというほどの悲劇ではない、と思い改めた。
 
自分の父は今回の脳梗塞で言葉を失った。
今後、父との会話が成立しない可能性が高い。
リハビリは続くのだが、元のように会話できるまでに回復するのか、希望は捨てないが現実は厳しい。
 
とはいえ、父は今も存命だ。
悲観はしない。
2週間経過しても言葉が戻ってきていないが、周囲の人の言葉は普通に理解できている。

それだけでも凄い。
85歳になっても生きている、それだけでも凄い。

YESかNOか、そういう質問を投げ掛ければ、父の意思表示を受け取ることが出来るのだから。
脳梗塞の後遺症はひとりひとり違うのだろうが、まだ恵まれていやしないか。
 
認知機能に不具合がある高齢者は多くいる。
自分の父はそのような高齢者たちと似ているが異なる。

父の頭は常に冴えている。
認知機能に問題はない。

残された家族にとってこのことが「救い」となっている。
 
自分は退職をしてから一日のほとんどを自分の時間として生きている。

このタイミングで読書習慣も取り戻したいと願っていたところでこのような展開となった。
 
日常生活にスマホがどっぷりと入り込んだ今、読書することがなくなってしまった。

本は手元にも残っているのだが、昨今読むことが億劫になっていた。

そんな矢先での、素敵な小説のプレゼントだった。
ツナ氏のお父さんの作品、この際一気読みしてみたい。
自分の住む自治体の図書館には全作品を所蔵しているのがわかった。
 
ちなみに、ツナ氏の本名は作品の中にもあるという。
 
名前を見つけた。
 

 
まだ会社に籍を置いている2人。
いずれは会社を去る日が来る。

そう遠くない、と言っているが、少し先だと思われる。
自分のように独身ではない、家族がいるとやめるのが大変だろうことは想像できる。
 
自分がいちばん後に入社して、いちばん先に退社した。
とはいえ、年齢はいちばん上。

自分自身は中身は変わらず物心ついたときのままだが、外見は老いてゆく。

来たる5月には「50才」になる。
自分でもその数字を背負うことが信じられない。
 
そんな状況でいよいよ意識するようになった残された時間。
20代30代、そして40代でも意識することがなかった、自分の余命について。
 
そんな40代をまもなく終えようとしている自分が自分の最期を意識するようになった。

それは至極当然であり、年をとったという抗いがたい事実でもある。
 
父の経過、つづき。
 
自分が役所で手続きを終えて帰宅したらもう両親は不在だった。
母が119番救急要請をして、父は病院へ搬送されたということが、それだけでわかった。
 
母からの連絡があった。
 
精密検査の結果、父の症状は脳梗塞。
発話を司る部位(ブローカ野)をやられたという。
朝食前までは話せたはずの父だが、摂食中から「うー、うー」としか言えなくなってしまっていた。
 
父は「失語」してしまった。
 
思えば、最近の違和感は明らかに脳に何らかの障害があってこその「失行」だった。
 
失行とは「脳損傷の結果として,身体能力と行う意思はあるにもかかわらず,かつて習得した運動課題を意図的に行うことができなくなった状態」にあることをいう。
 
その先に「失認」「失語」があるわけだが、失行の状態で傍にいた母と自分が気づいてあげられなかった。

父の明らかな異変に気付いたのが失語を確認してからになってしまった。
もっと早く、脳の異状だと気付いてあげられていたら…
父は言葉を失わずに済んだかもしれない。

もっと早く気付いてあげられず、本当に申し訳なく思う。
 

父の入院手続きを終えた母を迎えに行った。
一旦、自宅に帰った。
 
母が父の所持品など入院時に必要となるものを用意している。

自分はその間に久々の整形外科へ。
左足甲を骨折してから1ヶ月、経過を知るために。
松葉杖をレンタルしていたが、この際に返却した。
 
撮影したレントゲン写真を見る限りでは今回が過去一番経過が悪い。
骨がズレが最悪。
だが、その状態で仮骨が形成されてしまっており、レントゲンにも反映されていた。
医師は、これ以上ズレたら良くないと言ったものの、現状で大丈夫だと言った。
 
こんなにズレていても人体の再構築機能でそのうち綺麗に治ってくれるという。

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夕方。

母を連れて父の入院している病院へ行った。
父が何かを言いたげなのだが、一切周囲に伝わらない。
周囲の人間の言っていることは理解できている。
だから、言語理解を司る「ヴェルニッケ野」はやられていないようだ。
 
治療方針は「手術なし」の「投薬」により血栓の除去を進めるというもの。
父にはカテーテルとか物理的な処置ができないらしい。
 
治療の結果、どれくらい回復してくれるのかはわからない。
カタコトでもいいから話せるくらいになってほしいものだ。
 
本当に残念な結果となった。
 
今回は3回目の退職とともにこのような父の状態に接することになった。

前回(2回目)の退職は2021年だったが、退職理由は父の心臓病の治療を導くためだった。
 
その時「心房細動」だった父に最善の手術を受けさせた。
心房細動の怖いところは「血栓を生みやすい」こと。
心房細動は放っておくと血栓が脳に飛び、脳梗塞を引き起こす。
脳梗塞になるのを避けるために、心房細動の最善の手術を受けさせた。
 
なのに…
 
術後5年、この結果である。

退院後、父は血液サラサラの薬を常用してきたはずなのだが。

父は薬に頼りすぎていると自分は感じていた。
運動習慣もなくなり、歩くことをいつしかやめてしまった父。

歩かないと、血流が良くならない。
体が冷え切ってしまう。
低体温は、ガン細胞も活性化するし、諸悪の根源。

生き物全般に言えることだが、「歩けなくなったら終わり」だ。
それはいつも観察をしているハイエナたちを見ていて、教訓にしている。
 
いくら薬で血をサラサラにしても限界がある。
 
色々思うところはある。
自分も母も今回のことは重く受け止め、教訓とする所存だ。
 
現在、重病人室でケアされている父。
 
2日目の訪問では、発話できない父のことを考えて自作ボードを用意した。
うまく活用できたらいいな。
 
今の自分には母とともに毎夕、父の元を訪問することしかできない。
 
 
 

 
父に再び言葉が戻ってくることを心から祈っている。
 

1月26日。

 

会社を辞めて、晴れて無職になって初めての平日。 

出勤日と同様、6時前に勝手に目覚めたのだが、今日からは起きて仕事に出なくても良い。

二度寝、三度寝、いくらでも好きなだけ出来るのは至福だ。

 

ところが。


そんな矢先に大変なことが起きた。

父のことだ。

 

実は、10日くらい前から父の様子が「怪しい」と思うことが頻発するようになっていた。

 

ちなみに、父は身体は弱いが頭は冴えているのがこれまでの救いだった。

認知症の心配はない人だった。

 

なのに、頭がやられているような症状。

 

最初に異常を感じたのは1月17日、朝の6時。

この日は奇しくも父の85回目の誕生日であった。

その前日まで自分は最期の出張に出ていて、1週間ぶりの父の姿だった。


父が「相撲見る」といって、早朝なのに起きてきたのだった。

 

普段は朝8時位に起床するという父。

自分が出勤準備する時間に父は起きてこないはずなのに。


相撲は夕方から6時かけて、生中継されるもの。

どうやら朝と夕がわからなくなっているようだ。

 

母は常に父と一緒に在宅しているのだが、その時が異常の起点だったそうだ。

 

父の異常は他にもこんなことが挙げられる。


・服を着れない


何度も着ようとするが、着方がわからない様子。

ファスナーを締め上げることもできない。


・入れ歯をシンクのなかに置きっぱなし


ほとんど総入れ歯なのだが、それが洗面シンク中に堂々と放置されている。

所定の場所に片付けられなくなっている様子。


・夜通し自室の照明が明るい


寝る時間なのに、寝れないのは知っている。

夜中はラジオを聴きながら横になっている。

毎日、食事とテレビ以外では寝床にいる父。

寝過ぎなのだから、夜中に寝れないのも理解できる。


だが、これまでは消灯していた、だから異常。


・血圧記録、とまる


これまで1日も欠かさずノートに記録してきた健康に関する自己管理。

几帳面な父ならではなのだが、それが17日で途絶えた。

文字が書けないようだ。


自分は仕事で週日は多忙。

早朝や帰宅後も父は起きていないことが多い。

そういう状況で、自分は父の近況を把握できていなかった。


いつの間にか、父がこれほどまでに衰えてしまったことに驚きを禁じ得なかった。


そういう父の怪しい挙動に決定的な事が起きた。


この日から無職になった自分は週末のように8時過ぎにのんびり起きた。

開庁したら役所に出掛ける予定があった。

退職したから保険、年金の切り替えをしないと。

 

寒いから居間のコタツに。

側では両親がテーブルで朝食をとっている。


摂食中の父に、明らかな異変!

「うー、うー」うなり声。

苦しそうでもある、声になっていない。


母「どうしたの?」

父「うー、ゴニョゴニョ(聞き取れない声)」


父は話したいのに言葉が出ない、もどかしい様子。

食事前は話せていたのに。


その光景を傍で見ていた自分はようやく父の異変が只事ではないのを悟った。


真っ先に「脳梗塞」を疑った。


但し、言葉が出ないだけで意識はあるし、歩く事も出来ている。

だから、慌てる必要はないが病院に行くべきだと判断をした。


母には病院にゆくなら、救急車を呼んだほうがいいと。


今にして思えば、率先して救急車を呼んであげればよかった。

それを母にさせてしまったのは良くなかった。


どうしても役所に行きたかったのは、この時が無保険状態であったこと、骨折の件で通院するから新しい保険証をいち早く手に入れたかった。

役所は混雑して時間がかかるのが嫌だった。


混む前、開庁後すぐに早く役所に行きたかった。


そんな理由で、母に父を託して出掛けてしまった。


小一時間後に帰宅したら、家には誰もいなかった。

救急車で病院に行った事が分かった。