美の創造者 正岡子規━書について━

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第十四回 終わりに当たって

子規がこのように書を深く研究したのは、恐らく明治三〇年頃からだろうと思われるが、今まで縷々述べてきたように、幼少の頃から書に親しみ、良き師に恵まれ、子規自身のたゆまざる研究と努力の結果、明治三一年には芭蕉を見出し、三三年には良寛を見出したのである。だから子規は、かつて少年時代に教えて貰った武知五友や大原観山等の師の、日下伯巌などは言うに及ばず、当時全国的に有名だった巌谷一六などを、すでに問題にしていなかったという。


子規の蔵書目録(国会図書館蔵)中、書に関するものには次のようなものがある。

1 蕉門古人真蹟(上・下 寛政元年)
2 本朝名公墨宝(上・中・下 正保二年)
3 和漢朗詠集(下)
4 和漢朗詠集(桃青真蹟 四季の部 墨帳)
5 蕪村三十六歌仙
6 近古名流真蹟帳(第一)
7 近古名流手蹟(上・中・下)
8 王義之墨帳
9 萬安橋碑石摺

此の中で最後の三冊は、みな超一流のもので、子規は、中国の書にも十分目を向けていたと思われる。

 また、書に関する俳句の一部を掲げてみると、今まで紹介したものの外に、

  墨汁のかわく芭蕉の葉巻哉

  芍薬は散りて硯の埃かな

  五月雨や善き硯石借り得たり

  書き初めの今日も拙かりけるよ

  書きなれて書きよき筆や冬籠

  先生の筆見飽きたり冬籠

  筆多き硯の箱や冬籠

  筆ちびてかすれし冬の日記哉

  唐筆の安きを売るや水仙花

  筆洗の水こぼしけり水仙花

  筆も墨も溲瓶も内に秋の蚊帳

  筆禿びて返り咲くべき花もなし

などがある。


文人墨客なら誰でも、硯・墨など、いわゆる文房四宝を珍重し、優れたものを使うのが普通であるが、これほど書を極めた子規でも、四十円の月給ではそれが出来なくて、その当時のことを、妹の律は碧梧桐に次のように話している。

子規は支那筆の「小筌亳(こせんはく)」といふ、十銭か十五銭ぐらいのものを、当時日本新聞社の近くの、支那ものばかり売って居る小店から買った。元来が安筆で、それに穂を少しばかりおろして、先で細書されるのであるから、筆がすぐ禿びてしまった。それに原稿や分類で、普通の人の何十倍か筆を使ふ。十本宛買ひ溜めても時には二ヶ月位でおしまひになった。


また律は、「兄の使って居た硯、墨、筆の類も、此の頃の小学生でももっと気の利いたものを持って居ますぐらい、まことにお恥ずかしい安物でした。」とも言っている。


赤木格堂は、「用筆はずっと以前から、安い唐筆『金不換』一本槍でした。例の俳句分類も、短冊揮毫もみな『金不換』で一貫し、その間筆を選ばれたことを知りません。書家として此の位手軽な人は、古来ありますまい。」と『子規言行録』「先師の晩年」で言っている。「弘法筆を選ばず」とはまさにこのことを言うのだろうと思う。「金不換」とは「金に換えず」の意で、書を売り物にしないという、子規の気持にあっていたのかも知れない。子規の偉いところは、これほどの書を、生前一度も売り物にしなかったことだろうと思う。


子規の書の素晴らしさについて、理事の白田三雅氏から、十年余り前に子規記念博物館で、平成一〇年文化勲章を受けられた村上三島氏の講演があり、その中で「今まで見た書の中で最高のものは、子規の絶筆である。私はとてもあのような文字は書けない。」と話されたということをうかがった。また、松山子規会南予支部長の乾燕子氏も、六七一回子規会例会において、「平成四年文化勲章を受章された青山杉雨氏が、ある時新聞記者から『書の中で一番立派なものはなんでしょうか。』と質問されて、即座に『正岡子規の絶筆です。』と答えたそうです。」とお話になった。本来子規は、書家ではない。しかし書の道一筋に、何十年も研鑚を積んでこられた文化勲章受賞者が口を揃えて、子規の書を最高だと言い切るところに、子規の偉大さがあるのではなかろうか。その偉大さは、激しい病苦の間にも「書」を通して、理屈抜きの「美」を、楽しみながら真摯に求めていた生き方から醸成されたと言えると思う。


参考文献
『子規全集』  正岡忠三郎他編  講談社
『子規の書画』  山上次郎  青葉図書
『子規・虚子』  大岡信  花神社
『正岡子規』  坪内稔典  リブロポート
日本文学アルバム『正岡子規』  和田茂樹  新潮社
『仰臥漫録』  正岡子規  岩波書店
『中江兆民全集』      岩波書店
『子規の周辺の人々』  和田茂樹  愛媛文化双書
『俳句の里 松山』  松山教育委員会  松山市
『書道全集』    平凡社
『良寛全集』    日経新聞
『王義之』    講談社
『万有百科大辞典』    小学館
『世界百科大辞典』    平凡社
『良寛に会う旅』  中野幸次  春秋社

(会員・平成一一年七月例会の講演)


第十三回 子規と良寛・王義之その他の書

子規は、芭蕉の書の真髄を看破したように、良寛の書もほめている。すなわち子規は、明治三三年の『病床読書日記』の中で、「僧良寛歌集を見る。越後の僧、詩にも歌にも書にも巧みなりとぞ。詩は知らず。歌集の初にある筆蹟を見るに絶倫なり。歌は書に劣れども萬葉を学んで俗気無し。(十一月十四日)」と言っている。


子規が「絶倫なり」と言った良寛の書は、どういうものであったのだろうか。山上次郎氏の『子規の書画』によると、安田靫彦氏はその編著『良寛』(筑摩書房)で「木版の良寛書」といっているだけで有る。このことについては、国会図書館でかなり調べたが不明で、宿題としていたが、その後ふと会津八一の鹿鳴集によって、それは村山半牧の美濃紙版の木版のものの、『僧良寛歌集』であることがわかった。八一は明治三三年新潟の中学を卒業して上京、六月に子規を訪ねて居て次のように書いて居る。

「六月の某日、根岸庵に子規子を訪ひ、初めて平素敬慕の渇を医するを得たり。この日、俳句和歌について、日ごろの不審を述べて親しく教へを受けしが、梅雨の煙るが如き庭上の青葉を、ガラス戸越しに眺めながら、午後の静かなる庵中にて、ひとりこの人に対座して受けたる強き印象は、今にして昨日の如く鮮やかなり。(中略)この日余は又子規子に向かひて、我が郷の良寛禅師を知り玉ふや、とただしたるに、否と答へられたり。ここを以て帰郷するや先ずその歌集一部を、求めて贈れり。そは同じく我が郷里にして戊辰の志士の一人なりし村井半牧が、萬葉仮名もて草体に書きし美濃紙版の木版本なりき」(鹿鳴集後記)

ということで山上氏はさらに

明治三十三年に稀覯(きこう)本といえるものを、贈った八一は偉いと言うべきだろう。それは子規から短冊を五枚書いて貰った感謝の気持ちもあったろうが、其れが子規の良寛発見につながっていった事を思うと意義が深い。
と述べておられる。


また、子規は『墨汁一滴』の中で、王義之について、「世に義之を尊敬せざる書家無く……しかも義之に似たる書……に至りては、幾百千年の間絶無にして稀有なり(二月十四日)」書いている。碧梧桐によると、「子規は、史徴墨宝類の古人の手鑑や稀覯の義之の『淳化法帳』などを見て居たし、秀吉の書簡をほめたり、弘法大師の筆跡に傾倒したこともあった」と『子規の回想』の中で言っている。

  書き初めや尊円親王(注1)の流を汲む  子規  (明治三〇年)


(注1)尊円親王━一二九八~一三五六 伏見天皇の皇子。青蓮院門主、天台座主となる。書を世尊寺行房に学び、上代の書法を参酌して青蓮院流と呼ばれる一家を成した。江戸時代に流行した御家流は、この書風の低俗化した実用書である。


参考文献
『子規全集』  正岡忠三郎他編  講談社
『子規の書画』  山上次郎  青葉図書
『子規・虚子』  大岡信  花神社
『正岡子規』  坪内稔典  リブロポート
日本文学アルバム『正岡子規』  和田茂樹  新潮社
『仰臥漫録』  正岡子規  岩波書店
『中江兆民全集』      岩波書店
『子規の周辺の人々』  和田茂樹  愛媛文化双書
『俳句の里 松山』  松山教育委員会  松山市
『書道全集』    平凡社
『良寛全集』    日経新聞
『王義之』    講談社
『万有百科大辞典』    小学館
『世界百科大辞典』    平凡社
『良寛に会う旅』  中野幸次  春秋社


第十二回 子規と芭蕉の書

明治二八年一〇月一九日、子規が松山を発って上京する時、さすがに漱石との別離を悲しんで、

  行く我にとどまる汝に秋二つ

の句を残した。そして途中奈良に寄って、あの有名な

  柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

句を吟じた。帰京後の子規は、腰痛に苦しむ。


その頃広島の五百木飄亭に、「死は益々迫りぬ文学はやうやく佳境に入りぬ」と書いた。翌二九年腰痛がリュウマチでなく、脊椎カリエスであることがわかり驚く。しかし子規は、病気には屈しないで、俳句に、和歌に、写生文に、随筆に、不滅の業績を残すのはこれからであるが、書についても同じことがいえる。子規は、俳句の面ではまず蕪村を推奨した。しかし、書の面では芭蕉を称揚絶賛していて、次のように言っている。

俳諧三百年の間最も書をよくするものは、松尾芭蕉なり。俳句において芭蕉を圧倒せる蕪村も書においては数歩を譲らざるを得ず、否徳川三百年において仮名交じりの書を善くする者、一人の芭蕉の右に出づる者無し。(後略)(「俳人の手跡」)


子規は芭蕉の書についてこれほどに書いているが、その肉筆を見るのは、この後のことである。明治三二年五月二五日、大原恒徳あてに次のような手紙を出している。

 (前略)芭蕉之手紙も拝見仕候 眞物ニ無相違候 芭蕉の肉筆ハ生れて始めて見申候 これハ少しの間拝借仕度候(下略)

恒徳は観山の次男で、子規の母の弟にあたり、このとき松山に住んでいた。芭蕉の真筆がどのようなものであったのかは不明であるが、「肉筆ハ生れて始めて」「これハ少しの間拝借」に、深い感動の様子がうかがえる。


子規が書簡や短冊以外で芭蕉の真筆を見たものとして、『鹿島紀行』と『幻住庵記』を挙げているが、前者は貞享四年、後者は元禄三年に書かれていて、共に芭蕉晩年のものである。子規はこれらについて、「老熟の極、人工を脱して一点の塵気を止めざる処、得難き珍宝」とまで言っている。ここまで心酔した子規は、芭蕉の書から何を摂取したか。斎藤茂吉はこのように言っている。

子規の書は芭蕉の書の影響が著しい。子規は僅かばかりの芭蕉の真蹟をみつけて、心を傾けてその手習いをしたことが実に明瞭である。子規は一面芭蕉の句の月並的傾向については、遠慮なく批評しているが、やはり芭蕉を第一等の俳人として崇敬していたことが分かる。
斎藤茂吉もまた、歌人としては言うまでもなく、書においても蘊奥を極めていたと言われている。

 試みに芭蕉の題字蘇子(注1)に擬す  子規  (明治三〇年)


(注1)蘇子━蘇軾(一〇三六~一一〇一)のこと。中国宋代の詩人・文章家、唐宋八大家の一人。東坡居士とも称した。卑俗な生活に新しい美を見いだす繊細な感覚と、博い教養に培われた豊かな詩藻によって、従来の詩人にはない飄逸清雄な詩境を開いた。書にも優れ宋代四大家に数えられる。


参考文献
『子規全集』  正岡忠三郎他編  講談社
『子規の書画』  山上次郎  青葉図書
『子規・虚子』  大岡信  花神社
『正岡子規』  坪内稔典  リブロポート
日本文学アルバム『正岡子規』  和田茂樹  新潮社
『仰臥漫録』  正岡子規  岩波書店
『中江兆民全集』      岩波書店
『子規の周辺の人々』  和田茂樹  愛媛文化双書
『俳句の里 松山』  松山教育委員会  松山市
『書道全集』    平凡社
『良寛全集』    日経新聞
『王義之』    講談社
『万有百科大辞典』    小学館
『世界百科大辞典』    平凡社
『良寛に会う旅』  中野幸次  春秋社


第十一回 子規と漱石

子規と漱石の関係は、明治二二年一月からで、漱石の『木屑録』を読んで感動した子規は、その序文で漱石を激賞、「吾兄の如きは千万人に一人のみ余幸い咳嗽に接することを得、豈此れを敬して愛せざるべけんや」とさえ言い、同年の『筆まかせ』の「交際」には、「畏友 夏目金氏」と記している。


一方の漱石も子規を畏敬して、「彼は僕などより早熟で、いやに哲学などをふりまはすものだから、僕などは恐れをなしてゐた。こちらはいよいよ幼稚なものであった」(『正岡子規』)と言い、更に「彼は僕には大抵のことは話したやうだ」と書いてゐる。


漱石は子規の書について、「正岡はそれより前、漢詩をやっていた、それから一六(注1)風か何かの書体を書いていた。(『正岡子規』)」と言っている。漱石の文面から推察すると、其の時期は、子規が漱石に「俳句を強いたとき」であり、『月の都』を露伴に見せた時だとあるから、大体明治二五年頃だと思われる。

明治二八年八月、子規は松山に帰ると、直ちに、丁度愛媛県尋常中学校に赴任していた漱石の下宿愚陀仏庵へ

  桔梗活けてしばらく仮の書斎哉

と転げ込む。このため俳人たちの来訪がにわかに増え、運座は連日連夜に及び、ついに「松風会」が結成され、専ら子規が指導することとなる。


二人は同居五二日の間に、意気投合して短冊や画仙紙などにいろいろ書いたが、勿論筆も墨も漱石の物であった。極堂の『友人子規』によると、「日時は明確でないが、一回は漱石と共に、一回は単独にて、画仙紙に二、三十枚ぐらいづつ漢詩や俳句の大筆揮毫をなしたことがある」といい、森円月も、思い出話を次のように語っている。

依頼しておいた揮毫がもはや出来たらうと思って、子規の寓居をたづねたところ、書くことは書いたが、松風会会員の連中が見つけて皆持って行ってしまったから、あらためてもう一度書くことにしやうと言ふことで、詮方ないから僕は再び画仙紙に十数葉を買ひ込んできて、今回は自分見張りの下に、揮毫を依頼したところ、居士は快く引き受けられて、早速筆を揮はれた。

其日は松風会員も誰も来訪するものなく、僕が始終紙を押へ役で、居士は且つ吟じ、且つ書くといったふうに、詩句を口誦しつつ、悠々と書き進んで最後に「木蘇雑詠(ママ)」の一なる律詩を、全紙に大書し始めたとき、漱石が中学校から帰って来て、両手を洋服のポケットに差し込んだまま、居士の背後に立って見て居たが、「こんな大書になると落款の印章が無いのは実に寂しいナア」と独語しつつ上がってしまった。(『友人子規』)


この時子規は、納戸から漱石の書いた半切を数葉持ち出して、「此は僕と同じ時に夏目の揮毫したものだが、入用なら持って行き給え」と言ったが、円月は、漱石はたかが中学校の一英語教師と、貰う気になれなかったと後日苦笑しながら、後悔したという。漱石も、その頃から書は上手だったようである。


子規と漱石は競うように書いた。二人の間には逸話が多いが、その中にこのような話がある。子規は負けず嫌いな性格で、漱石に対しても気位が高かった。漱石の俳句や漢詩に無遠慮に朱を入れたが、その態度があまりにも傍若無人なので、漱石はある日、わざと英文の詩を書いて渡した。さすがの子規もこれには弱って、Very Goodと書いて返したという。揮毫の時にも、互いにそういう天真爛漫なやりとりがあったろうと思われる。


「松山時代の漱石の書は、決して拙ではないが、子規よりは拙である。それでいて普通の書家に見られない風韻をすでに包蔵している。子規に無いものがある。それだけに愚陀仏庵時代は、子規の書における一つの、大きい転機であったと考えられる」と、『子規の書画』の著者山上次郎氏は言っておられる。


(注1)一六━巌谷一六 (一八三四~一九〇五) 書家。来日した清の揚守敬に中国六朝の書法を学び、一家を成す。


参考文献
『子規全集』  正岡忠三郎他編  講談社
『子規の書画』  山上次郎  青葉図書
『子規・虚子』  大岡信  花神社
『正岡子規』  坪内稔典  リブロポート
日本文学アルバム『正岡子規』  和田茂樹  新潮社
『仰臥漫録』  正岡子規  岩波書店
『中江兆民全集』      岩波書店
『子規の周辺の人々』  和田茂樹  愛媛文化双書
『俳句の里 松山』  松山教育委員会  松山市
『書道全集』    平凡社
『良寛全集』    日経新聞
『王義之』    講談社
『万有百科大辞典』    小学館
『世界百科大辞典』    平凡社
『良寛に会う旅』  中野幸次  春秋社

第十回 子規と愚庵

子規が天田愚庵を知るのは、陸羯南を通じてである。羯南は司法省の法律学校時代に、友人の国分青崖や福本日南を訪ねて来る愚庵を知って懇意になる。他方子規の叔父加藤拓川も、法律学校で羯南と同級であり親友であったので、当然愚庵を知っていた。だから子規は拓川からも愚庵のことを聞いていたに違いない。愚庵は剃髪して禅門に入り、京都嵯峨の天竜寺管長滴水禅師に師事して修行の傍ら、熱心に書を学んでいた。特に懐素(注1)の草体を練習して、書の面でも有名になった傑僧である。

愚庵の書 (愚庵の書)


子規が愚庵を、京都東山の庵に訪ねたのは、明治二五年一一月五日、愚庵三九歳子規二六歳の時である。この時愚庵は、子規に短冊を書かせている。子規はその時のことを、『松羅玉液』に次のように記している。

つたなき発句などものすれば短冊にしたためてよと強ひらるヽいなみも得ず、庵主能書なれば代りに其筆跡を得て帰りぬ。
愚庵は鼠骨に対して、「書は器用ではいかぬ。器用だと器用に溺れて小手先になる、下手でも精神をこめて書かねばならぬ」と、厳しかったというから、子規に対しても、同様のことを言ったものと思われる。


明治二六年六月、愚庵は、子規を根岸に見舞っている。二人の交わりは俳句よりも和歌が主であったようであるが、書においても深いものがあって、互いに半切や短冊などのやりとりをしていて、子規庵には今も、子規への為書「獺祭書屋主人一燦」と揮毫された愚庵の大画仙紙一幅が、秘蔵されているとのことである。愚庵もまた、子規の亡くなる年の五月二九日に、子規にわざわざ紙を送って揮毫を求めている。二人の書風には、脱俗していてしかも生気の充溢しているところに相通じるものが感じられる。


この間のことについて、鼠骨は次のように述べ、子規の書を絶賛している。
愚庵は座禅観法の余暇にまかせて、熱心に習字した。唐懐素の草体を練習した…これは良寛和尚の学んだのと同じ唐僧の法帳である…その結果にや書が俄然躍進した。それで、羯南先生らのグループにおいては、愚庵の書を激賞するにいたった。そうした関係から子規居士も、愚庵の書を大きく瞳をもって眺めるようになった。ついに幾分はその影響を受けて、暢達悠和な味を居士自身の書に添加するようになった。

尤も注意すべきは、子規居子晩年の書は、愚庵の書よりも遥かにあか抜けしていることである。愚庵の書は巧は即ち巧であり、実に自由を極めて居るが、未だ幾分脂粉の気を脱せずに居るのに反し、子規居子晩年、即ち明治三三、三四年以後の書は、愚庵ほどの自在はないけれども、其の老成逸脱の点において、遥かに愚庵を凌駕しているのである。(『随考子規居子』)


(注1)懐素━七二五頃~七八五頃 中国唐代の書家、僧。飄逸な草書を得意とし、酒に酔って自由奔放に書いたという。


参考文献
『子規全集』  正岡忠三郎他編  講談社
『子規の書画』  山上次郎  青葉図書
『子規・虚子』  大岡信  花神社
『正岡子規』  坪内稔典  リブロポート
日本文学アルバム『正岡子規』  和田茂樹  新潮社
『仰臥漫録』  正岡子規  岩波書店
『中江兆民全集』      岩波書店
『子規の周辺の人々』  和田茂樹  愛媛文化双書
『俳句の里 松山』  松山教育委員会  松山市
『書道全集』    平凡社
『良寛全集』    日経新聞
『王義之』    講談社
『万有百科大辞典』    小学館
『世界百科大辞典』    平凡社
『良寛に会う旅』  中野幸次  春秋社

第九回 子規と陸羯南

さて、明治二五年暮れに、子規は『日本』新聞社に入社する。社長の陸羯南は国士肌の人で、書にも優れていた。当然子規は、書の上でも大きな影響を受けるが、このことについて、寒川鼠骨が次のように詳しく述べている。


子規居士は羯南翁を尊敬していた。交遊が密になるにつれて、羯南翁の書風に影響されるのであった。羯南翁の書は、曽てはその同僚であり、後同志であり親友であるところの自恃居士高橋健三…この人は内閣書記官長として松方内閣を率ゐ、大臣以上の権威を示した当年の俊秀で、後に閑雲野鶴で療養生活で空しく他界した…の影響を被ってといふよりも殆ど同じ人の手になったほど、似通った字を書いて居た。
羯南の書 (羯南の書)


石斎先生(自恃の父)は、王右軍(注1)の書を習ったと伝え聞いて居るが、果たして然るか否かは確かでない。其の書風は幾分、欧陽公の率更体に潤沢な味を付加えたようにも見受けられる。いづれにせよ剛健に然も、雄渾な書体であった。其の書風が健三自恃居士に伝はって自恃の個性により幾分の繊麗さを加へてゐる。其が再転して羯南先生に至り、又その人の個性が加はり先鋭さを加へてきた。三転して子規居士に至ると、またその個性を交へて逸脱洒落味を加へて来てゐる。(『随考子規居士』)


即ち、「石斎→自恃→羯南→子規」という系譜を作り得るわけであるが、鼠骨はこのように書いた後、子規の書が「明治二六、七年に及んで全然一変して大躍進する」のは、この結果だといっている。


(注1)王右軍━王義之(三〇七?~三六五?)のこと。中国東晋の書家。隷書・草書において古今に冠絶。


参考文献
『子規全集』  正岡忠三郎他編  講談社
『子規の書画』  山上次郎  青葉図書
『子規・虚子』  大岡信  花神社
『正岡子規』  坪内稔典  リブロポート
日本文学アルバム『正岡子規』  和田茂樹  新潮社
『仰臥漫録』  正岡子規  岩波書店
『中江兆民全集』      岩波書店
『子規の周辺の人々』  和田茂樹  愛媛文化双書
『俳句の里 松山』  松山教育委員会  松山市
『書道全集』    平凡社

『良寛全集』    日経新聞
『王義之』    講談社
『万有百科大辞典』    小学館
『世界百科大辞典』    平凡社
『良寛に会う旅』  中野幸次  春秋社

第八回 喀血後自号子規(2)

明治二一年子規は、第一高等中学校本科に進むが、その年の八月鎌倉で二度血を吐き、翌二二年五月九日に大喀血をする。翌十日に書いたという書が二つ残っている。一つは、服部嘉陳(子規の母の義兄弟藤野海南の弟)にあてた書簡で、


「我師とも父とも頼みぬる服部うしの都を去りて遠き故郷へ帰へらるると聞きていとと別れのつらきおりから如何にしけん昨夜より血を吐くことおひたたしければ一しほたのみ少なき心地して


ほとときすともに聞かんと契りけり血に啼くわかれせんと知らねば」と、もう一つは「子規」と題する「喀血後自号子規」の漢詩である。山上次郎氏はその著『子規の書画』の中で、

明治二四年に子規が書いた画帳

此れを見て感ずることは、子規は喀血という重大事に直面しながら、些か動揺をみせないのみか、其の書がいかにも美しいということである。内容は寂しいが、書には悲愴感が全くなくて、文学的であり、芸術的でさえある。

と述べておられる。思うに子規は喀血後、これだけの詩を作ったくらいであるから、すでに心にゆとりができていて、淡々として書くことが出来たであろう、一字一字ゆっくりと、虚心坦懐に書いているように見える。こういうところに既に、二三、四歳と思えぬ子規の偉大さを見ることが出来る。


何より、血を吐いた自分を「子規」と号すること自体、大変なことである。普通であれば、失意落胆すると同時に、病名をひた隠しに隠すところを、堂々と天下に宣言している。ここに、当時としては人に嫌われた恐れられた結核という病気を、すでに呑んでしまっている子規の姿がある。


子規は、この後さらに喀血を続け、死に至るまで筆舌に尽くすことが出来ないほどの苦痛をなめるが、それでいてあれだけの大事業を成し遂げたのは、常人では決して成し得ないことである。


子規の活動は、喀血を契機にめざましいものがある。その後常盤会寄宿舎に「もみぢ会」を作って俳句に熱中し、明治二三年九月に東京大学文科国文学科に入る。碧梧桐や虚子を指導するのも、この前後からである。二四年には『俳句分類』の大事業に着手、後さらに『俳家全集』をまとめた。その原稿は、等身大の高さに及んだというから、恐るべきものである。子規はその後小説を志し、明治二四年十二月から『月の都』を書くが、幸田露伴の認めるところとはならなかった。


その頃の子規は、まだ短冊や色紙に揮毫を依頼されるということは少なかったと思われるが、たまたま明治二四年に書いたという画帳が残っている。


 白猪・唐岬二瀑     子規子

 見渡せば雪かとまがふしらいとの瀧のたえまはもみちなりけり

 たれきくに秋をつき出すたきの音


これは、その年の八月、帰省の折、松山から約六里の現川内町の山中にある白猪・唐岬の瀧を見物に行ったとき同地の素封家の近藤本家に二泊した時に、床の間に置いてあった書画帳に書いたものである。後年(明治二八年一二月)漱石がこの二瀧を見に来て近藤本家に宿泊し、この画帳を見て子規宛に、「近藤家にて観瀑の書画帳一覧中に、貴兄の発句及び歌あり、発句も書も頗る拙の様に思はれ候。僕此の書画帳を看て貴兄の処に至りて不覚破顔微笑す。(下略)」との書簡を送っている。この時漱石は、俳句五十句を作り、子規に批評を求めているが、子規はほとんど全句に朱をいれて、「初心、平凡、いやみ」「まづい」「非俳句」「巧ならんとして拙なり」「陳也拙也」などと点評している。互いに「拙」と言い合っているのが面白い。


ところで子規が漱石の句を見て、「拙」と言ったのは理解できるが、漱石が子規の字を見て、「頗る拙」と言ったのは、ちょっと理解できない。あるいは子規の達者な字を見て、型通りで上手ではあるが、少しも面白くない、いわば平凡な書という受け取り方をしたのかとも思われる。

第七回 喀血後自号子規(1)


喀血後自号子規(1


明治一六年、一七歳の子規は中学校を中途退学して、叔父加藤拓川を頼って上京する。明治一七年大学予備門に入り、別に進文学舎で坪内逍遥に英語を学んだりした。翌一八年には学年試験に落第している。しかしこの年、『筆まかせ』に「習字」と題して、次の文を書いている。


 他人の書法に模擬せんとすれば始めは必ず拙き字を書くべし

 是れ其形を見て其神を見ざるが為なり


これは、書を学ぼうとする者への厳しい箴言である。初心者が陥りやすい陥穽を見事についているが、また、自戒の言葉でもあったろう。要するに、子規は一八歳で既に、書について悟るところあったものと思われる。子規自身『筆まかせ』に記しているように、短歌を学び始めたのが明治一八年、俳句を学び始めたのが明治二〇年であったことを考えると、子規の書への開眼が如何に早かったかが分かる。


また子規は、『筆まかせ』第一編(明治一九年)の「右手左手」で、次のように記している。

右手にて文字を書すること巧になれば左手にて書くことも其割合に発達する者也 右手は通常之を使用せざることもなく毎日毎日字をかヽぬことなければ上達するは勿論なれども 左手は手習ひすることもなく使用することも少きに此結果あるを見れば 字の巧拙は手に得るといふよりは心に得るといふ方適当ならんか

 母八重によれば、子規は「小さい時は佐伯の祖父似で左利きでございました。(中略)学校へ行くと先生が右で食べ…と言はれるので、お弁当はどうしても、持っていきません、右で食べるやうになったのは、ずっと後のこと……」(「子規言行録」)ということであったという。昔から左利きは器用だと言われるから、子規も器用であったろう。


明治三三年安江不空が、奈良薬師寺の「仏足石」の石摺を送ってきたことへの返礼として、短歌とともに送った三四歳の手形が残っているが、いかにも優しい手に見える。まるで女人仏の手のひらのようで、こういうところにも、子規の流麗な書が生まれた秘密があったのかも知れない。


上京後の子規は、将来政治家になるとの野望に燃えたり、哲学に凝ったり、「詩歌を愛すること甚だしく、小説無くては夜が明けぬ」状態になったり、寄席にしきりに通うというふうで、書に精進したようには見えないが、それでいて前述の『筆まかせ』に見られるような見識を見せたのは、忙しい中にもやはり書に対する関心が強く、自ら工夫するところがあったからであろう。


それを示すものとして、『筆まかせ』や『寒山落木』の稿本がある。『筆まかせ』は、明治一七年から二五年にかけての随筆で、四編からなるが、毎年題字を新たにしていて、しかもその書体が一つ一つ違っている。子規は、少年時代松山の塾で学んだ書法を、上京後先輩に接し、あるいは先人の書などを見つつ、心の中で深めていって、その後の著しい心境を示すようになったであろうと思われる。

第六回 中学のころ

中学のころ

子規の模写した『画道独稽古』

子規は何事にも凝り性であったが、手習いにおいても同様であった。子規の筆跡で現存する最も古いものは、北斎の『画道独稽古』を模写したものだといわれているが、その写本の表紙には、「明治一一年九月朔日製之」「画道独稽古」「正岡常規」と記されている。『画道独稽古』は、絵を描いて行く順序を、分解して懇切に解説したものであるが、その順序を狂歌風に書いてあって、作歌のてほどきにもなる。例えば、最初の魚を釣っている人の図には、次の歌が添えられている。

つりひとは十の心に人をそへ五十の杭に小山おくなり


こういうのが全部で六九図あり、子規は最後の一枚まで見事に筆写している。子規の幼友達の三並良は、「子規が俳句全集を作るため、何万枚かの写本をやっていたのは、私も見ていたが、矢張り少年時代の手写の趣味が養われたからだとおもう。」(『日本及び日本人』)と述べている。


子規が松山中学へ入学したのは明治一三年である。しかし子規は、学校よりも五友や静渓らの塾での勉強の方に、強い影響を受けたようである。


中学時代に書いた物には、一三歳の『桜亭雑誌』『弁論雑誌』『五友雑誌』、一四歳の『秀頴詩鈔』『近世雅懐詩文』『同親会詩鈔』などが、国立国会図書館や、正宗寺に現存している。これらは中学時代の学生仲間の回覧雑誌で、各自で書いたものを綴り合せたものであるが、三並良によると、「子規が全体を清書したこともあった。彼は書くことを苦としなかったのだ。」ということである。この頃の子規の書体を見ると、なにか写経を思わせるようで、当時の塾の教育は、精神面にかなり重点が置かれていたことが知られる。


さらに子規は、一六歳(中学三年)の時に、『近世雅感詩文』という回覧雑誌の巻頭に堂々と題字を書いている。この「金玉之詩文足駆暑塵芥之吟詠堪生睡」の中の「塵」や「睡」にしても、すべて書法にかなっていていい加減ではない(講談社版『子規全集』第九巻六七九頁参照)。これは、師の五友や静渓の偉大さにもよるが、少年子規の努力ともみることができる。しかも面白いことには、「香雲」「香雲散人」の雅号を臆面もなく書いて「正岡子規」の判も押していて、まさに一家の文人気取りであることである。こういう仕草は、やはり五友と観山の影響であろうと思われる。子規はこのようにして、中学時代から書を楽しみ、文人的な風雅を愛したのである。

第五回 升(のぼ)さんのころ(4)

升(のぼ)さんのころ(4)

書家以外で、子規の書に影響を与えた人に、河東静渓(注1)と大原観山がある。二人とも昌平黌を出て明教館教授になった人物で、特に観山は子規の外祖父にあたり、子規は七歳の時から観山に教えを受けていたが、それまでにも観山の家にはよく行っていたようで、父隼太が死んだ時も観山の家にいたということである。観山は元来漢学者であったが、伯巌に書を学んで書にも優れていて、子規には特に書を教えたそうである。観山は、子規が九歳の時に五八歳で亡くなっているが,計り知れないほど大きい感化を受けていたことは、子規が晩年まで観山の書軸を大切にして、明治三二年観山の二五回忌に、「軸かけて椿活けたる忌日哉」の句を詠んでいることをみても分かる。また、明治二八年愚陀仏庵にいたころ、「観山翁の墓に詣でて」と題して、「朝寒やひとり墓前にうづくまる」の句を残している。

大原観山の書(子規記念博物館蔵)

このように見てくると、子規は、父隼太をはじめ伯父で松山藩佑筆の佐伯政房、漢学者の武知五友、大原観山、河東静渓、手習師山之内伝蔵らから書を学んだことになるが、これらの人は、松山で今に名を残している人物であることを考えると、子規は幼年時代において、書の師に大いに恵まれていたことが分かる。これを系統的に書けば、伯巌は趙子昂(注2)の書を学んでいるので、趙子昂→伯巌→五友→子規 または、趙子昂→伯巌→観山・静渓→子規 となる。

観山も静渓も伯巌の弟子であり、従って子規の書には晩年までこれらの師匠の書風が随所に現れてくるのである。

  

それが濃厚に現れてくるのは、子規が明治二七年に揮毫した「星河雲霧」の聯である。
星 河 半 落 岩 前 寺
雲 霧 初 開 嶺 上 関     子規子

この書を一緒に見た碧梧桐と不折が、次のように言っている。

「子規居子の書に相違ないよ」と碧梧桐がいうと、「趙子昂の風だね」と不折が不思議がる。「子規居子の郷里松山にありしころは日下伯巌を習った。伯巌は趙子昂を習ったのだ」(『子規遺墨集』)

この話は、不折・碧梧桐ともに、書の面で大成してから後のことであるから、一層興味深いことである。不折の指摘のとおり、この子規の書と趙子昂の「天冠山詩帖」などを比べてみると非常によく似ているのに驚く。

趙子昂の書『天冠山詩帳』
子規の書『星河雲霧』

(注1)河東静渓━一八三〇~一八九四 松山藩士。昌平黌に学び、後明教館教授となる。廃藩後旧藩主久松家の家扶をつとめ、かたわら私塾を開いた。子規は親友鍛が、静渓の三男であった関係で、静渓の門に学ぶことになり、特に漢詩の創作に大きな影響を受けた。碧梧桐の父。明治二七年六五歳で没。

(注2)趙子昂━一二五四~一三二二 中国元代最大の書家・画家。本名孟フ(兆+頁)、号は松雪道人。宋の太宗一一世の孫。書は流麗清雅で各体の妙を極め、画は山水・人物・花竹を善くした。また、詩文にも優れている。六九歳で没。