第四回 升(のぼ)さんのころ(3)
升(のぼ)さんのころ(3)
子規が、上級になって学んだ武知五友は、松山藩士で本名を幾右衛門といい、藩儒日下伯巌(注1)に学んだ後、江戸昌平黌(しょうへいこう)に入り、松山に帰って明教館教授となった高潔の人である。廃藩後は三津・郡中などで私塾を開き、清風とも号した。明治二六年七八歳で亡くなったとき、子規は、随筆「伊予の一奇儒」を書いて、「徳行能く一郷一村を感化する先生の如きは実に得難きの人物なりと謂ふべし」と述べ「極楽や君が行く頃梅の花」の句を記して追悼している。
その書風は、伯巌に学びつつ進歩的な面があって一家をなした。
五友は子規に目をかけて、子規の雅号「香雲」の額を書いて与えた。子規はそれを勉強部屋に掛けて勉学に励んだが、その額は今も、正宗寺子規堂の勉強室に掛けられている。「香雲」の号は、子規が少年時代を過ごした家の庭にあった桜の老木に因んだものである。その頃のことを柳原極堂は、『回想の子規』の中で次のように述べている。
松山市湊町三丁目の本通りから南へ曲がって柳井町へ出るところ中の川と称する小川に架けられた石橋がある、その橋の西北の角に東向きに子規の屋敷はあった。古びた士族屋敷で門を入ると二、三間の奥に玄関があり玄関の庭を右に入れば、勝手の間、左へ上がれば子規の書斎、三尺の襖を開けると、すぐ三畳の小部屋、南側に障子窓があって、その庭は座敷の庭と通じて居る。三尺の入り口の鴨居には、「香雲」と二字書かれた粗末な額がかけてあり、窓下には机が一脚と本箱が三つばかり並んでいるほか何物もなかった。本箱の内も、机の上も、ほとんど子規の写本で満ちていた。子規は本を借りて来て、盛んに写したものだ。学校の教科書まで写して用いたと、話しに聞いている。
湊町に大和屋という貸本屋があったが、この店の貸本はほとんど、子規の手にかからぬものはないということだ。士族貧乏といって、子規の家もまた貧乏であったことや、字が巧くて筆まめで、写本することを苦にやまなかったのも、その一因であろうが、今一つは、子規をして其の貧に処するに、忍耐と勇気を以てせしめた、母堂八重刀自の平生の訓育が、与って大いに力あることを、私は深く信ずるものである。他日子規は、俳句分類といったような大部の写本を残したが、あれは筆まめや書がうまいぐらいで、到底やれる仕事ではない、と私は思う。
さらに子規は『筆まかせ』で、「その頃歌原大叔などのすすめにより、毎日退校後、中の町の山内氏のもとに習字した」と書いている。この山内氏という人は、元の出淵町二丁目で習字専門の塾を開いていた山之内伝蔵という人で、山之内を推薦した歌原という人は、子規の母八重の母親しげの父、歌原称(松陽)という人である。
第三回 升(のぼ)さんのころ(2)
子規の幼少の頃、松山地方では、天神祭(旧暦六月二四、二五日に催された、立花の井出神社の夏祭り)に手習い(大文字)を奉納する風習があった。そのことについて、先の対談の続きに、律は、
兄は、けふもオモウジの日だ、といふと、其の日に限つて、判紙をついだりしないで、唐紙と言ひましたか、大きな一枚紙を買つて来て書いたりしました。
ついでに、一人の男の子でもあり、外に小言をいふやうな人もゐませんでしたが、ただ紙をよくつかふ、と言つて母からさいさいぶつぶつ言はれてゐました。大方写し物や書き物に、人一倍判紙をつかつたものと見えます。
と語っている。また、友人の柳原極堂は、
子規もこれへ盛んに大文字を出したものである。(中略)子規は幼少の頃から、字が巧みでまた、字を書くことに屈託がなく、盛んに写本をやったなどと、いうもまた所以ある哉と余は思わされるのである。(『友人子規』)
と言っている。井出神社の境内には、子規が明治三〇年の虚子あての書簡に、「立花天神」の詞書で記している句、
薫風や大文字を吹く神の杜
の句碑が建立されている。
子規が小学校に入ったのは、明治六年のことである。当時松山には小学校が六校あり、子規はその中の、法龍寺の末広学校(のち智環学校)に入学した。当時のことを子規は『筆まかせ』の中で、「八歳の頃智環学校に入学せしがこの頃は同校は、法龍寺にありて課業は習字一方なりき、その後間もなく習字の専門やみ、小学を上、下等に分かち、各八級となし、習字は毎日一時間づつとなりたり。然し上等の上級に至りては、手本は我勝手なるものに、すべしといふことにて余は武知五友先生に手を習ひたり」と記している。従って子規の頃は、「昔の子供は読書をするよりは、手習ひの方を専一とせし故、従つて拙筆といへども、可なり上手なりき」ということであり、特に子規は優れていたようである。
第二回 升(のぼ)さんのころ(1)
升(のぼ)さんのころ(1)
正岡子規は、慶応三年九月十七日、現在の松山市新玉町に、松山藩の禄高一四石の下級武士御馬廻加番の隼太(三五歳)と八重(二三歳)の間に生まれた。本名を常規、幼名を升(のぼる)といい、通称「のぼさん」と呼ばれていた。子規は、六歳の時に父に死別しているが、それより前三歳の時に、不慮の火災で生家を全焼するという悲運にも遭っていて、生活面では、幼年時代は恵まれたものではなかった。
しかし「書」の学習の上では、恵まれた環境にあったといえる。子規自身『筆まかせ』(第一編「父」)の中で、死別した父に手習いを教わったことを回顧して、「余は父のまだながらへ給ふ折に手習を教えられしことあり。其時の清書を佐伯伯父に見せ給ひしが 其字の書きぶり今に記憶しゐるの心地する」と述べている。この佐伯伯父とは、松山藩の佑筆佐伯政房のことで、子規の父常尚(佐伯家からの養子)の兄に当たる。その関係で、政房が、幼少の子規に手習いを教えたのであろう。正宗寺所蔵の子規学生時代の写真(明治二三年撮影)の裏面に、達筆で「佐伯様」と書かれてあるのも、この政房のことであろうと思われる。
その頃のことを、『子規全集』別巻三「回想の子規二」で、妹の律が、次のように語っている(碧梧桐との対談)。
サァ、兄がまだ小学校にも上がらない前のことであろうと思ひます。自分もはつきりは覚えてゐませんが大原へ素読にも行きます時分、佐伯にも手習ひに往つてゐました。或時、佐伯が不在で、しばらく待つてゐる中居合した従兄━名は正直を兄さん兄さんと呼んでいました━が、俺が教へてやらうと言つた。お帰りまで待つてゐます。と言つてもきかず、そんなら、そこお動きなよ、と言はれて、可なりな時間、ぢつと坐つたきりでゐました。やつと伯父が帰つて、サァ教へてあげようと兄の様子を見ると変だし、又た部屋中が妙に臭い。升さんどうかおしたか、と言つても急に返事もしない筈、べつとり大便をしてゐたさうで、あとで、どうしてあんなことをしたのか、と詰問すると、それでも、そこお動きなよ、と言はれたからだ、と言つたさうです。(「家庭より観た子規」)
いかにも子規らしい一面が出ている。
第一回 はじめに
はじめに
子規は、三十五年の短い生涯を通じて、俳句、短歌、写生文、漢詩、俳句分類に励み、晩年にはモルヒネで痛みを抑えながら、草花の写生なども描いたが、その生涯を一貫していたものは、「美」ではなかったろうかと考える。
書においても、画においても、また、最晩年の叫喚逆上の病苦の中で、苦しみをまぎらわせるために、果実、菓子、食事など驚くほどの量を取っているが、これらは全て、結局のところ「美」を感じ、「美」を定着することによって、日ごとの生命の充実感を、我が物としようとしたのだと、思われる。
まず最初に、花神社から発行された大岡信著の『子規、虚子』の中に、このような一文があるので、本題への導入の意味で少し引用してみたい。
正岡子規の『仰臥漫録』の中に、中江兆民(注1)の有名な『一年有半』を浅薄なキワモノと痛罵した箇所がある。『一年有半』は言うまでもなく兆民が喉頭ガンにかかり、医者から余命一年半と言われて、「生前の遺稿」として書きつづった随想、批評集である。死を目前にしながら、一日生きるも百年生きるも畢竟同じ事なのだ、と観念した精神が、充実した気力で、同時代のこと、過去のこと、西洋思想のこと等、思いつくまま筆を運んだもので、発売と同時に大反響を呼び、版を重ねた本である。
ところが子規は、この評判の本についてこんなふうに書いている。
兆民居士はのどに穴が一つあいたそうだ。私は腹、背中、尻といわず、体中にハチの巣のように穴があいている。余命一年半という点も似たようなものだろう。しかし兆民は「まだ美といふ事少しも分からずそれだけ吾等に劣り可申候 理が分かればあきらめつき可申美が分かれば楽み出来可申候」。たとえばアンズの実を買ってきて細君と共に食うということも楽しみにはちがいないが、どこかにまだ一点の理がひそんで居る。だが、「焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐところ何の理屈か候べき」。
子規の日本主義と兆民の民権論と、思想的に相いれぬこともあっただろうが、子規の兆民への痛罵の主な理由は「生命を売り物にしたるは卑し」というところにあった。多年、病床で激しい苦痛に号泣し乱罵し逆上を強いられてきた子規の目に、兆民のいかにも警世の遺言状らしい名文が片腹痛く思われたのかもしれない。
いずれにせよ、子規の兆民評は興奮気味で、異様な感じをいだかせる。
しかし、私が子規の文章を引いたのは、そういうことについて、感想を書くためではない。「美」に対する子規の、このような確信、ほとんど信仰といってもいいほどの帰依にうたれ、深く考えさせられることを、いいたいのである。
子規はこれを書いた日の前前日、あまりにはげしい苦痛のため、手元の錐と小刀で自殺をはかろうとしたほどである。そういう状態の人が、美の「楽しみ」をいっていることの意味、この不屈の意力がそなえている真の快活さに、私はむちうたれるのを、感じる。「美」と言うものが、ほんとうに命をかけてあがなわれるものであることを子規の生涯は語っている。
このような生涯を送った子規の美意識に、私もこれから「書」を通して、少しでも迫ってみたいと思う。
本稿は、「子規会誌第八四号(平成一二年一月一九日発行)」に掲載したものです。
「子規会誌」についてのお問い合わせは、松山子規会 松山市末広町正宗寺内まで。
明治期の思想家・評論家。土佐藩出身で本名は篤介、秋水などとも号する。父は、足軽の身分であったが、藩校で学び長崎に留学し、後フランスにも留学する。坂本竜馬から大きな影響を受ける。一九〇〇年に喉頭ガンで余命一年半を宣告され、『一年有半』『続 一年有半』を著す。『一年有半』は、一九〇二年までに二三版を重ね、二十余万部を売り尽くしたといわれる。子規は『日本』紙上に「命のあまり」と題する文章を書き、「評は一言で尽きる。平凡浅薄」と批評した。この子規の批判に対しては、賛否両論が寄せられ、しばし『日本』紙上を賑わわせた。
参考文献
『子規全集』 正岡忠三郎他編 講談社
『子規の書画』 山上次郎 青葉図書
『子規・虚子』 大岡信 花神社
『正岡子規』 坪内稔典 リブロポート
日本文学アルバム『正岡子規』 和田茂樹 新潮社
『仰臥漫録』 正岡子規 岩波書店
『中江兆民全集』 岩波書店
『子規の周辺の人々』 和田茂樹 愛媛文化双書
『俳句の里 松山』 松山教育委員会 松山市
『書道全集』 平凡社
『良寛全集』 日経新聞
『王義之』 講談社
『万有百科大辞典』 小学館
『世界百科大辞典』 平凡社
『良寛に会う旅』 中野幸次 春秋社