第五回 升(のぼ)さんのころ(4) | 美の創造者 正岡子規━書について━

第五回 升(のぼ)さんのころ(4)

升(のぼ)さんのころ(4)

書家以外で、子規の書に影響を与えた人に、河東静渓(注1)と大原観山がある。二人とも昌平黌を出て明教館教授になった人物で、特に観山は子規の外祖父にあたり、子規は七歳の時から観山に教えを受けていたが、それまでにも観山の家にはよく行っていたようで、父隼太が死んだ時も観山の家にいたということである。観山は元来漢学者であったが、伯巌に書を学んで書にも優れていて、子規には特に書を教えたそうである。観山は、子規が九歳の時に五八歳で亡くなっているが,計り知れないほど大きい感化を受けていたことは、子規が晩年まで観山の書軸を大切にして、明治三二年観山の二五回忌に、「軸かけて椿活けたる忌日哉」の句を詠んでいることをみても分かる。また、明治二八年愚陀仏庵にいたころ、「観山翁の墓に詣でて」と題して、「朝寒やひとり墓前にうづくまる」の句を残している。

大原観山の書(子規記念博物館蔵)

このように見てくると、子規は、父隼太をはじめ伯父で松山藩佑筆の佐伯政房、漢学者の武知五友、大原観山、河東静渓、手習師山之内伝蔵らから書を学んだことになるが、これらの人は、松山で今に名を残している人物であることを考えると、子規は幼年時代において、書の師に大いに恵まれていたことが分かる。これを系統的に書けば、伯巌は趙子昂(注2)の書を学んでいるので、趙子昂→伯巌→五友→子規 または、趙子昂→伯巌→観山・静渓→子規 となる。

観山も静渓も伯巌の弟子であり、従って子規の書には晩年までこれらの師匠の書風が随所に現れてくるのである。

  

それが濃厚に現れてくるのは、子規が明治二七年に揮毫した「星河雲霧」の聯である。
星 河 半 落 岩 前 寺
雲 霧 初 開 嶺 上 関     子規子

この書を一緒に見た碧梧桐と不折が、次のように言っている。

「子規居子の書に相違ないよ」と碧梧桐がいうと、「趙子昂の風だね」と不折が不思議がる。「子規居子の郷里松山にありしころは日下伯巌を習った。伯巌は趙子昂を習ったのだ」(『子規遺墨集』)

この話は、不折・碧梧桐ともに、書の面で大成してから後のことであるから、一層興味深いことである。不折の指摘のとおり、この子規の書と趙子昂の「天冠山詩帖」などを比べてみると非常によく似ているのに驚く。

趙子昂の書『天冠山詩帳』
子規の書『星河雲霧』

(注1)河東静渓━一八三〇~一八九四 松山藩士。昌平黌に学び、後明教館教授となる。廃藩後旧藩主久松家の家扶をつとめ、かたわら私塾を開いた。子規は親友鍛が、静渓の三男であった関係で、静渓の門に学ぶことになり、特に漢詩の創作に大きな影響を受けた。碧梧桐の父。明治二七年六五歳で没。

(注2)趙子昂━一二五四~一三二二 中国元代最大の書家・画家。本名孟フ(兆+頁)、号は松雪道人。宋の太宗一一世の孫。書は流麗清雅で各体の妙を極め、画は山水・人物・花竹を善くした。また、詩文にも優れている。六九歳で没。