第九回 子規と陸羯南 | 美の創造者 正岡子規━書について━

第九回 子規と陸羯南

さて、明治二五年暮れに、子規は『日本』新聞社に入社する。社長の陸羯南は国士肌の人で、書にも優れていた。当然子規は、書の上でも大きな影響を受けるが、このことについて、寒川鼠骨が次のように詳しく述べている。


子規居士は羯南翁を尊敬していた。交遊が密になるにつれて、羯南翁の書風に影響されるのであった。羯南翁の書は、曽てはその同僚であり、後同志であり親友であるところの自恃居士高橋健三…この人は内閣書記官長として松方内閣を率ゐ、大臣以上の権威を示した当年の俊秀で、後に閑雲野鶴で療養生活で空しく他界した…の影響を被ってといふよりも殆ど同じ人の手になったほど、似通った字を書いて居た。
羯南の書 (羯南の書)


石斎先生(自恃の父)は、王右軍(注1)の書を習ったと伝え聞いて居るが、果たして然るか否かは確かでない。其の書風は幾分、欧陽公の率更体に潤沢な味を付加えたようにも見受けられる。いづれにせよ剛健に然も、雄渾な書体であった。其の書風が健三自恃居士に伝はって自恃の個性により幾分の繊麗さを加へてゐる。其が再転して羯南先生に至り、又その人の個性が加はり先鋭さを加へてきた。三転して子規居士に至ると、またその個性を交へて逸脱洒落味を加へて来てゐる。(『随考子規居士』)


即ち、「石斎→自恃→羯南→子規」という系譜を作り得るわけであるが、鼠骨はこのように書いた後、子規の書が「明治二六、七年に及んで全然一変して大躍進する」のは、この結果だといっている。


(注1)王右軍━王義之(三〇七?~三六五?)のこと。中国東晋の書家。隷書・草書において古今に冠絶。


参考文献
『子規全集』  正岡忠三郎他編  講談社
『子規の書画』  山上次郎  青葉図書
『子規・虚子』  大岡信  花神社
『正岡子規』  坪内稔典  リブロポート
日本文学アルバム『正岡子規』  和田茂樹  新潮社
『仰臥漫録』  正岡子規  岩波書店
『中江兆民全集』      岩波書店
『子規の周辺の人々』  和田茂樹  愛媛文化双書
『俳句の里 松山』  松山教育委員会  松山市
『書道全集』    平凡社

『良寛全集』    日経新聞
『王義之』    講談社
『万有百科大辞典』    小学館
『世界百科大辞典』    平凡社
『良寛に会う旅』  中野幸次  春秋社