第十一回 子規と漱石 | 美の創造者 正岡子規━書について━

第十一回 子規と漱石

子規と漱石の関係は、明治二二年一月からで、漱石の『木屑録』を読んで感動した子規は、その序文で漱石を激賞、「吾兄の如きは千万人に一人のみ余幸い咳嗽に接することを得、豈此れを敬して愛せざるべけんや」とさえ言い、同年の『筆まかせ』の「交際」には、「畏友 夏目金氏」と記している。


一方の漱石も子規を畏敬して、「彼は僕などより早熟で、いやに哲学などをふりまはすものだから、僕などは恐れをなしてゐた。こちらはいよいよ幼稚なものであった」(『正岡子規』)と言い、更に「彼は僕には大抵のことは話したやうだ」と書いてゐる。


漱石は子規の書について、「正岡はそれより前、漢詩をやっていた、それから一六(注1)風か何かの書体を書いていた。(『正岡子規』)」と言っている。漱石の文面から推察すると、其の時期は、子規が漱石に「俳句を強いたとき」であり、『月の都』を露伴に見せた時だとあるから、大体明治二五年頃だと思われる。

明治二八年八月、子規は松山に帰ると、直ちに、丁度愛媛県尋常中学校に赴任していた漱石の下宿愚陀仏庵へ

  桔梗活けてしばらく仮の書斎哉

と転げ込む。このため俳人たちの来訪がにわかに増え、運座は連日連夜に及び、ついに「松風会」が結成され、専ら子規が指導することとなる。


二人は同居五二日の間に、意気投合して短冊や画仙紙などにいろいろ書いたが、勿論筆も墨も漱石の物であった。極堂の『友人子規』によると、「日時は明確でないが、一回は漱石と共に、一回は単独にて、画仙紙に二、三十枚ぐらいづつ漢詩や俳句の大筆揮毫をなしたことがある」といい、森円月も、思い出話を次のように語っている。

依頼しておいた揮毫がもはや出来たらうと思って、子規の寓居をたづねたところ、書くことは書いたが、松風会会員の連中が見つけて皆持って行ってしまったから、あらためてもう一度書くことにしやうと言ふことで、詮方ないから僕は再び画仙紙に十数葉を買ひ込んできて、今回は自分見張りの下に、揮毫を依頼したところ、居士は快く引き受けられて、早速筆を揮はれた。

其日は松風会員も誰も来訪するものなく、僕が始終紙を押へ役で、居士は且つ吟じ、且つ書くといったふうに、詩句を口誦しつつ、悠々と書き進んで最後に「木蘇雑詠(ママ)」の一なる律詩を、全紙に大書し始めたとき、漱石が中学校から帰って来て、両手を洋服のポケットに差し込んだまま、居士の背後に立って見て居たが、「こんな大書になると落款の印章が無いのは実に寂しいナア」と独語しつつ上がってしまった。(『友人子規』)


この時子規は、納戸から漱石の書いた半切を数葉持ち出して、「此は僕と同じ時に夏目の揮毫したものだが、入用なら持って行き給え」と言ったが、円月は、漱石はたかが中学校の一英語教師と、貰う気になれなかったと後日苦笑しながら、後悔したという。漱石も、その頃から書は上手だったようである。


子規と漱石は競うように書いた。二人の間には逸話が多いが、その中にこのような話がある。子規は負けず嫌いな性格で、漱石に対しても気位が高かった。漱石の俳句や漢詩に無遠慮に朱を入れたが、その態度があまりにも傍若無人なので、漱石はある日、わざと英文の詩を書いて渡した。さすがの子規もこれには弱って、Very Goodと書いて返したという。揮毫の時にも、互いにそういう天真爛漫なやりとりがあったろうと思われる。


「松山時代の漱石の書は、決して拙ではないが、子規よりは拙である。それでいて普通の書家に見られない風韻をすでに包蔵している。子規に無いものがある。それだけに愚陀仏庵時代は、子規の書における一つの、大きい転機であったと考えられる」と、『子規の書画』の著者山上次郎氏は言っておられる。


(注1)一六━巌谷一六 (一八三四~一九〇五) 書家。来日した清の揚守敬に中国六朝の書法を学び、一家を成す。


参考文献
『子規全集』  正岡忠三郎他編  講談社
『子規の書画』  山上次郎  青葉図書
『子規・虚子』  大岡信  花神社
『正岡子規』  坪内稔典  リブロポート
日本文学アルバム『正岡子規』  和田茂樹  新潮社
『仰臥漫録』  正岡子規  岩波書店
『中江兆民全集』      岩波書店
『子規の周辺の人々』  和田茂樹  愛媛文化双書
『俳句の里 松山』  松山教育委員会  松山市
『書道全集』    平凡社
『良寛全集』    日経新聞
『王義之』    講談社
『万有百科大辞典』    小学館
『世界百科大辞典』    平凡社
『良寛に会う旅』  中野幸次  春秋社