第六回 中学のころ | 美の創造者 正岡子規━書について━

第六回 中学のころ

中学のころ

子規の模写した『画道独稽古』

子規は何事にも凝り性であったが、手習いにおいても同様であった。子規の筆跡で現存する最も古いものは、北斎の『画道独稽古』を模写したものだといわれているが、その写本の表紙には、「明治一一年九月朔日製之」「画道独稽古」「正岡常規」と記されている。『画道独稽古』は、絵を描いて行く順序を、分解して懇切に解説したものであるが、その順序を狂歌風に書いてあって、作歌のてほどきにもなる。例えば、最初の魚を釣っている人の図には、次の歌が添えられている。

つりひとは十の心に人をそへ五十の杭に小山おくなり


こういうのが全部で六九図あり、子規は最後の一枚まで見事に筆写している。子規の幼友達の三並良は、「子規が俳句全集を作るため、何万枚かの写本をやっていたのは、私も見ていたが、矢張り少年時代の手写の趣味が養われたからだとおもう。」(『日本及び日本人』)と述べている。


子規が松山中学へ入学したのは明治一三年である。しかし子規は、学校よりも五友や静渓らの塾での勉強の方に、強い影響を受けたようである。


中学時代に書いた物には、一三歳の『桜亭雑誌』『弁論雑誌』『五友雑誌』、一四歳の『秀頴詩鈔』『近世雅懐詩文』『同親会詩鈔』などが、国立国会図書館や、正宗寺に現存している。これらは中学時代の学生仲間の回覧雑誌で、各自で書いたものを綴り合せたものであるが、三並良によると、「子規が全体を清書したこともあった。彼は書くことを苦としなかったのだ。」ということである。この頃の子規の書体を見ると、なにか写経を思わせるようで、当時の塾の教育は、精神面にかなり重点が置かれていたことが知られる。


さらに子規は、一六歳(中学三年)の時に、『近世雅感詩文』という回覧雑誌の巻頭に堂々と題字を書いている。この「金玉之詩文足駆暑塵芥之吟詠堪生睡」の中の「塵」や「睡」にしても、すべて書法にかなっていていい加減ではない(講談社版『子規全集』第九巻六七九頁参照)。これは、師の五友や静渓の偉大さにもよるが、少年子規の努力ともみることができる。しかも面白いことには、「香雲」「香雲散人」の雅号を臆面もなく書いて「正岡子規」の判も押していて、まさに一家の文人気取りであることである。こういう仕草は、やはり五友と観山の影響であろうと思われる。子規はこのようにして、中学時代から書を楽しみ、文人的な風雅を愛したのである。