福沢幸雄さんの命日に… | マサミのブログ Road to 42.195km

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53年前の今日、1969(昭和44)年2月12日、自動車レーサーの福沢幸雄(ふくざわ さちお)さんが、レーシングカーのテスト中の事故で亡くなりました。25歳の若さでした。この新聞記事は、当時小学6年生だった私が、生まれて初めて「新聞の切り抜き」というものをして保存しておいたものです。「新聞を切り抜く」なんて、誰かに教わった記憶はないのですが、どうしてそういう気持ちになったのか、もう分かりません。ただ、学校で校舎の窓から外を見ながら「サチオ、死んじゃったんだ…」と思ったことは覚えています。私は、クルマというか「自動車レース」が好きな子供でしたからね。

 

 

レーサーでありながら、ファッションデザイナーでもあり、モデルを務めたりCMや映画に出たりするなど、まさに時代の先端を行くカッコ良さでした。お父さんは福沢諭吉の孫にあたり、お母さんはギリシャ生まれの音楽家。なので幸雄さんは「福沢諭吉のひ孫」にあたり、育ちの良さやルックスの良さもあって、若者たちの憧れの的でした。上の写真を見ると、まるで俳優が映画の中でカーレーサーの役をやっているように見えますが、本当にレーサーとしてもトップクラスでしたから、信じられないくらいです。

 

 

人気のあるレーサーの事故だったので、社会的な注目を集めました。メーカーであるトヨタが事故の調査に非協力的であったり、証拠を隠そうとした、という噂が広まったりして、トヨタへの非難が高まったものです。上の切り抜きも、私が取っておいたもの。

 

 

幸雄さん…ここからはサチオと呼ばせてください。サチオを悼む声は高まり、このような(↑)本も出版されました。お父さんの福沢進太郎さんの協力を得て執筆されたものなので、「福澤家サイド」に寄った内容になっています。驚くのは、事故があって2カ月もたたないうちに刊行されているんですね。私はこの年の4月に中学校に上がりましたので、中学1年になってすぐに、この本を小遣いで買っています。380円でした。

 

サチオの事故は国会でも取り上げられるほどの社会問題になり、特にトヨタの対応は誠意がない、という点で非難が集まりました。お父さんの進太郎さんは裁判を起こしましたが、長い争いの末、1981年になって和解が成立しています。

 

私の、クルマや自動車レースへの関心は、その後もずっと、今になっても続いています。たくさんのレーサーが走り、競い合い、命を失った人もたくさんいます。そんな中でサチオのことは、私の心の中に「定位置」があって、忘れられない存在でした。たまたま昨年、「いにしえの日本グランプリ」という本をアマゾンで見つけて入手しましたら、中島祥和(なかじま よしかず)さんというモータージャーナリストの方がサチオについての文章を寄せていて、それを読んで急にサチオのことがあらためて気になってきたのです。

 

実は数年前に名古屋にあるトヨタ博物館を訪問した時、サチオが乗ったのと同じトヨタ2000GTというクルマが復刻されているのを見て感動したり、サチオと同僚のドライバーだった細谷四方洋(ほそや しほみ)という方の自叙伝を読んだりして、サチオという人物に対する私の関心が、この数年の間にジワジワと高まってきていたことは確かです。そこで、去年の秋ぐらいから、私は思い切って行動を起こしました。今回は、その顛末を以下にまとめます。

 

 

――

 

 

■2021年10月9日(土)

 

私は、サチオが住んでいたという鎌倉の家を探しに行くことにしました。昔は個人情報に関する考えが今とは違って、サチオの家の住所が新聞記事や『コースに…』という単行本の中に載っていたのです。単行本には『鎌倉市津1656番地。大船から有料道路を抜けて、まがりくねった坂道を登りつめると福沢家がある。ひっそりした屋敷町だ』という記述があります。私はここを読んで、だいたいの場所の見当がつきました。ヒントは「有料道路」という言葉。大船から江の島近くまでを結ぶ「湘南モノレール」の下に、かつて有料道路があったんです。(今は無料化されました) 

ただ「津1656番地」は、住居表示が変わったようで、今の地図では見当たりません。調べてみると、「腰越・津」という地名は残っています。湘南モノレールに西鎌倉という駅があるので、私は大船からモノレールに乗り、西鎌倉で降りてみました。

 

 

このモノレール、何十年ぶりに乗ったかなぁ?思い出せませんでした。そして「こんなに揺れるんだっけ?」と驚いてしまった。

 

 

西鎌倉の駅で降り、進行方向左手の山が「腰越・津」というエリアなので、そちら方面の坂を適当に登ってみます。

 

 

うん。どうやらこの坂が怪しい感じ。

 

 

どんどん登っていくと、住宅街になりました。

 

 

本には「まがりくねった坂道を登りつめたあたり」と書いてあります。登りつめてみると、どうもこのあたりなのですが…ぐるっと回ってみても、「福沢」という表札の家はありません。そもそも、昔の「津1656番地」はこのあたりで合っているのかも、分からない。たまたま、車庫で洗車されている男性がいらしたので伺ってみましたが「最近、越してきたばかりなので…」とのお答えでした。確かに、近辺は新しく建った感じの、広くて綺麗なお宅ばかりでした。

30分ぐらいウロウロして、私は諦めました。そして「ここまで来たんだ、もういいだろう!」という満足感を得て、サチオの家を探すことは諦めたのでした。

 

 

■2021年12月3日(金)

 

モノレールに乗ってのサチオの家さがしから1カ月半ほど経過。私は気持ちが変わって「やっぱり、もう一度、出来る限り調べてみよう」と思い、鎌倉市立図書館へ向かいました。鎌倉駅を江ノ電のほうに降り、御成通りを歩いて3分ほどです。係の人に「昔の『津』という地名の場所を探しているのですが」と訊ねると、古い地図が並んでいるコーナーを紹介してくれました。とても丁寧・適切な対応で気持ちが良く「さすが鎌倉の図書館だけあるな!」と感心しました。

昭和40年~50年頃の『津』の付近の地図はすぐに発見できました。地図には住んでいる人の名前も載っているので、「福沢」という苗字を探します。しかし見つかりません。ページをめくってめくって、探しても探しても出てこない。2時間ぐらい探しても発見できないので、私は半分ぐらい諦めかけて、それまでとはちょっと違うエリアのページを探してみました。すると…!

 

 

あるじゃないですか!「福沢進太郎」という、サチオのお父さんの名前が! 私は『津』という地名にこだわっていましたが、この地図で見ると『鎌倉山』のエリアです。どうやら地名変更があったギリギリの前後だったみたいですね。「曲がりくねった坂道を登りつめた家」というのも、確かにモノレールの下にあった有料道路から登ってきたなら、そう言えるかもしれない。

ただ、この家が今でいうとどの辺なのかがよく分からなかったので、また係の人に訊いてみると「これは…旭が丘のバス停の近くですね」とのことでした。よし。これで判明しました。もちろん、この付近が今はどうなっているのかは分かりませんが、とにかく「このあたり」まで行くことは出来そうになってきました。この日はここまで。

 

 

■2021年12月13日(月)

 

図書館でだいたいの見当がついてから10日後。鎌倉駅からバスに乗ります。「旭が丘」は鎌倉山方面…ていうか、路線図を見たら、、なーんだ!「ローストビーフの鎌倉山」とか「らい亭」とか、「ホルトハウス房子の店」があるほうじゃん!このブログでも「鎌倉山の桜を見るジョグ」なんていう記事を書きましたよね。つまり私には何十年も前から、馴染みのある場所なのでした。

 

 

 

鎌倉の大仏様の前を通り過ぎ、しばらく行って左折して山道に入ってすぐのあたりです。降りて、地図を見ながら歩き始めました。

 

 

すると、見るからに美術館のような建物がありました。「旧・棟方志功板画美術館」という看板がかかっています。古い地図を見ると、たしかにこのあたりに「棟方」という苗字の大きな家があります! 版画家の棟方志功さんが住んでいたのかな?と思いましたが、あとで調べたら、親族の方が建てたもののようです。今では棟方志功さんの故郷の青森県の施設に統合され、ここは閉館。とにかく、こっちで合ってることは間違いなさそう!

 

 

坂を登っていくと、意外にも、海が見えてきました。方向的には七里ガ浜~腰越~江の島の方角ですね。

 

 

そして、ついに!到達しました。古い地図に載っているのと同じお名前のお宅が見つけられたので、その奥です。間違いない。上の写真のレンガ色の建物と、その奥の、同じデザインのお家。場所としては、ここに間違いありません。しかし2軒とも表札がかかっていませんでした。今でも福沢家と関係のある方が住んでいるかはどうかは、分からず…でも、そこまで調べるのは失礼だし、私も求めていないので、「ここでサチオが暮らした」という場所さえ分かれば、十分でした。

 

 

 

ついでに、あたりをウロウロとお散歩。12月にしては温かくて、歩くには良い陽気でした。木々の向うには相模湾。そして伊豆の山並みの向うに、富士山のシルエットが見えました。サチオは、この景色を見ながら暮らしていたんだなぁと思うと、胸の奥から感慨が湧いてきます。

 

実際には、レーサーとして活躍するようになってからは、サチオは都内にもアパートを借りていました。でも鎌倉の、この家が本拠で、事故で亡くなる前の夜もここで過ごしたそうです。お父さんの回想によれば、前夜のサチオはどことなく落ち着かない様子で、テストにはあまり乗り気でないようだったと伝えられています。何か、イヤな予感があったのでしょうか。

ともかく、私がずっと思い続けていた「サチオが暮らした家を見てみたい」という願いは叶ったので、帰ることにしました。ジョギングするのにとても良さそうな場所なので、いつか、走ってみようと思っています。

 

 

■2022年1月13日(木)

 

サチオはトヨタに所属するドライバーとして、1966(昭和41)年10月、開発中のTOYOTA2000GTというクルマで「スピードトライアル」に挑戦します。サチオを含む5人のドライバーが交替でハンドルを握り、72時間にわたってテストコースを走り続けるというもの。結果としていくつもの世界新記録を打ち立て、TOYOTA2000GTは世界的な注目を集めたのでした。

このスピードトライアルの記録がVHSビデオとなって発売されているのを知った私は、なんとか手に入れたくてあちこち探しました。数年前にヤフオクに出たのを見つけましたが、定価3300円のものが1万円近い値段になっていて、さすがに手が出ずに諦めたんです。しかし今年の1月になって、同じビデオがなんと!1000円で出品されているのを発見しました。さっそく入札。「5000円までなら出す」という条件をつけたところ、幸い、私の他に誰も入札した人がいなくて、最低価格の1000円で購入できたのでした!やったぁ!それが今年1月13日のことでした。

 

 

これです。『世界記録への挑戦 TOYOTA2000GT スピードトライアル1966』。製作は岩波映画。こういう、古いけれど自分にとっては価値があるものが手に入ることがあるので、私は今でもVHSテープが再生できるビデオデッキを所有しています。オタクでしょう?(笑) この中から、サチオが映っている部分を一部、抜粋しますね。2分弱あります。音声は無い点、ご理解ください。(実際のビデオはちゃんと音声付きです)

 

 

 

私はこの映像で、生まれて初めて「動くサチオ」を見ました。彼の名前を知ってから50年以上が過ぎた今になって「生身のサチオ」の姿が見られるとはねぇ。それにしてもハンサム!イケメン!多くの女性と浮名を流したと伝えられるのも納得してしまいます。

 

 

■2022年1月19日(水)

 

サチオの足跡を巡る私の旅も、終着駅が近づいてきました。

 

 

先月19日、私は静岡県の袋井という駅に降り立ちました。新幹線を掛川で降り、東海道線に乗り換えて2つ目です。あともう少し行くと浜松になります。サチオは、今でもここにある、ヤマハ発動機のテストコースで亡くなったのでした。私はどうしても、サチオが亡くなった現場に行かずにはいられませんでした。彼が亡くなったニュースを聞いたその日から「袋井」という地名は心の隅に固くこびりついていましたので。

 

ちなみに、トヨタのクルマをなぜヤマハのテストコースで走らせたかというと、当時のトヨタのレース部門はヤマハと親密に連携していて、レ-スカーのエンジン製造や車体の組み立ては、ヤマハが受け持っていたと言われています。愛知県のトヨタ本社がある豊田市からも近いし、都合が良かったのでしょう。

 

 

 

駅からタクシーで15分ほど。ここが正門前のようですが、門は固く閉ざされ、すぐにトンネルがあって、中の様子はまったく伺えません。

 

 

少し行くと、コースのほうに向かう坂道があったので、入って行ってみました。

 

 

しかし、行けども行けども、こんなふうなフェンスに遮られて、テストコースはまったく見えません。仕方なくあともどりして、逆の方向にある丘を登ってみましたが…

 

 

 

 

 

こちらも厳重な警戒ぶりです。有刺鉄線の隙間から潜り込めそうな隙間はあるのですが、おそらくすぐに監視カメラに見つかるでしょう。この日はテストの予定がなかったのか、中からは「音」もいっさい、聴こえてきませんでした。

 

 

これは↑いくつかの雑誌などに掲載された、事故直後の写真。左手前に、クラッシュして炎上しているマシンが見えます。近所に住んでいた人がたまたま撮影したものだそうです。こんなふうに、当時は周囲に視界を遮るものは皆無だったんですね。なお、このテストコースは1969年に新しく建設されて竣工式が済み、本格的なテストが行われた初日にサチオの事故が起きました。

 

ぶらぶらとあたりを散歩すること1時間ぐらい。私は「とうとう、ここまで来たよ、サチオ!」と、心の中で呼びかけました。吉行淳之介さんが幼年期を過ごした市ヶ谷の街や、高校に通った静岡の街、宮城まり子さんと長く暮らした上野毛の街を訪れた時も「吉行さん、ここまで来ましたよ」と心の中で呼びかけましたが、それと同じです。もう、いいかと思って帰路につき、帰りはタクシーでなく歩くことにしてテストコースを離れました。小さなトンネルをくぐり、明るい場所に出た、その時!

 

 

私の背後から「ウワァァァァァン!!」という激しいエキゾースト・ノイズが聴こえて来たのです。私がハッとして振り返ると、いかにも走り屋仕様に改造したように見えるマツダのRX-7がこの道を走り抜けて行きました。その音が、小さなトンネルの壁に反響して、何倍にもなって聴こえたのでしょう。私にはそれがまるで、サチオが空の上から私を見て「わざわざここまで来てくれて、ありがとう。嬉しいよ!」と言ってくれたような気がして、背筋がゾクッとしたのでした。そしてコースの方に向かって、この場所から手を合わせて「安らかに眠ってください」と祈りを捧げました。

 

 

 

■2022年2月3日(木)

 

この日、私は早番の仕事を終えてから電車でお茶の水まで行きました。

 

 

 

サチオのお葬式が行われた、神田ニコライ堂です。正式名称は「日本ハリストス正教会東京復活大聖堂」という長い名前。委細は分からないのですが、おそらくサチオのお母さんのアグリヴィさんがギリシャのお生まれだったことから、ここでサチオのお葬式が営まれたのかなと思います。

 

事故の2日後、1969(昭和44)年2月14日のバレンタインデーに、サチオは多くの関係者に送られて旅立ちました。式場に入れない女性ファンで、ニコライ堂の敷地は埋まったそうです。人気絶頂のアイドルが突然、天に召されたのですから、ファンのショックは大きかったことでしょう。私はこの場にたたずんで、冷たい雨が降っていたという53年前のことに思いを向けようとしたのですけれど、周囲を高いビルに囲まれ、すっかり変わってしまったニコライ堂界隈の雰囲気に押されてしまい、胸には何も浮かんでこないままでした。内部の拝観が停止されていて、祭壇などが見られなかったのも、残念なことでした。

 

 

 

 

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これで、終わりです。本当は、サチオが好きで通っていたレストランなども巡ってみたいなとも思いましたが、この辺で区切りをつけることにします。この記事はどうしてもサチオの命日の今日、UPしたいと思っていました。なんとか間に合って良かった。「自分が生きているうちには書きたい」と思っていた内容ですので、私としても本望です。最後までお付き合いくださり、有難く思います。心より御礼申し上げます。

 

 

 

 

福沢幸雄 (1943.6.18 ~ 1969.2.12)  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<参考文献・映像記録>

『コースにかげろう燃えて スピードに散った福沢幸雄の記録』 三栄書房

『古(いにしえ)の日本グランプリ』 三栄書房

『トヨタ2000GTを愛した男たち』 著者:細谷四方洋 三恵社

『世界記録への挑戦 TOYOTA2000GT スピードトライアル1966』 岩波映画

 

 

 

ジム・クラーク、ブルース・マクラーレン、ピアス・カレッジ、ヨッヘン・リント、ジョー・シファート、ジル・ヴィルニューヴ、川合稔、鈴木誠一、風戸裕、小川等、ローランド・ラッツェンバーガー、アイルトン・セナ…スピードに命を賭け、サーキットに散ったドライバーたちにこの記事を捧げます。そして彼らの遺族や親友の皆さんが平穏な暮らしを続けられますように、祈ります。 マサミ