会津から青森県の下北半島へ強制移住させられた「斗南藩」の足跡をたどる旅 | マサミのブログ Road to 42.195km

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お待たせしました。下北半島の旅、ロングロングレポートです。では、どうぞ。

 

 

 

 

10/28(火)の朝8時、夜行バスで青森駅に到着しました。快晴です。

 

 

 

「青い森鉄道」に乗って野辺地(のへじ)を目指します。青い森鉄道って、なんか冗談みたいな名前だけど、もともとはJRだった路線が2001年から第3セクターとして運行しているそうです。2両編成でガタゴト揺られて1時間。

 

 

 

野辺地に着きました。ここでJR大湊線に乗り換えですが、次の電車まで1時間(!)あるので、その辺をぶらぶらしてみました。

 

 

野辺地駅前。

 

 

 

あっ、柴崎岳(しばさき がく)選手はここの出身だったんだ!鹿島アントラーズから、今はヨーロッパの…えーと、どこかのクラブに移籍していますよね~あせる

 

 

 

そうそう。この人。中盤でゲームメイクする、良い選手です。

 

 

 

駅に隣接した野辺地町の観光案内所には、「柴崎岳コーナー」がありました。郷土の誇り!なのでしょうね。ぶらぶらしているうちに電車が来ました。

 

 

 

JR大湊線に乗り換えて終点の大湊を目指します。今度は1両の電車。でも満員で、私も含めて、立っている人が数人いました。ここから、また1時間ほどです。

 

 

 

大湊線は、むつ湾にそって進みますが、森や林の中を通る部分が多くて、意外に海が見える場所は少ない。ちらりと見えたむつ湾を急いで窓から撮りました。先にご紹介した、柴五郎さんの「ある明治人の記録」では、明治3年の秋にこの付近を徒歩で下北に向かった時のことが、次のように書かれています。文語体をマサミが略しました。

「この道は冬になると凍った烈風が吹きまくり、非常な難所になる。吹雪のために凍死することもあるため、この道なき道は『死出の旅路、地獄浜』とも言われた。波のしぶきを浴びると、草鞋(わらじ)に氷の塊が付いて、歩くのも困難になるほどであった」

柴さんの一家がここを通った当時は、道らしい道というものはなく、砂浜の波打ち際を、冷たい風に吹かれながら北へ向かったのだそうです。

 

 

 

当時の様子を伝える絵↑が、飯田橋の観光案内所でもらったパンフレットに載っていました。この絵は、会津若松の鶴ヶ城で見た記憶があります。私はこの絵を、会津を出てから山形か秋田あたりの、日本海側の海岸を歩いて下北へ向かう姿を描いたのかなと思っていました。海が左側にありますからね。

ところが、いまこの記事を書くためにスキャンしてみて気がつきました。向こうに見える山は、むつ市内のどこからでも見える「釜臥山(かまふせやま)」なんですね!つまりこの絵は、まさに柴五郎さんが語っている「地獄浜」のあたりを歩いている所なんだ。そうだったのか!はぁぁ・・・これは、私が現地を訪問して「釜臥山」の姿を目に焼き付けたからこそ分かったことでした。なんかちょっと、いま、胸が一杯になっています。ううう・・・(涙)

 

 

電車は、終点のひとつ手前の「下北」駅でほとんどの人が降りて行きました。そこからほんの数分で、大湊駅に到着です。改札口を出て待合所の壁を見ると、なんと驚いたことに・・・

 

 

いきなり、会津の幟(のぼり)があるじゃないですか!これには驚くとともに、胸が熱くなりました。本州の北の果てで会津の幟に出会うなんて。私は思わず心の中で頭を下げたのでした。大げさながら、私はこれを見ただけで「来て良かった」と思ったものです。

 

 

「会津若松紹介ボード」も設置されています。

 

 

 

近くにある、斗南藩ゆかりの場所が分かりやすく地図になっていました。有難いですね。ではいよいよ、私の旅がここから本格的にスタートです。基本的に、すべての場所を歩いて廻ろうと決めていました。まずは、駅を出て少し戻ったところにある「斗南藩士上陸の地」を目指します。

 

 

 

駅前の国道を歩いていくと、表示がありました。海のほうに曲がります。

 

 

 

また看板を発見。迷わないで済みました。助かります。

 

 

 

駅から10分ほどで到着。 ああ、これですね! 会津からここまでは、船で来る人もあれば徒歩の人もあったそうです。船の人も、中には野辺地に上陸してここまで歩いてきた人もいたそうですが、いちおうこの場所を「斗南藩士上陸の地」と設定したのでしょう。石碑は会津若松の方角を向いて建てられているそうで、故郷を想う気持ちが切ないですねぇ。

 

 

 

説明の碑文もありました。石碑に使われているのは、会津若松の鶴ヶ城の石垣に使われている石が、会津若松市から寄贈されたそうです。

 

 

 

遠くには、変わった形の山が見えました。これが「釜臥山」という、下北半島の代名詞のような山です。特にむつ市内では、ほとんどどこからでもこの山が見える感じ。ではここで、この記念碑がどういう位置に建っているか、動画でご覧ください。30秒ほどです。

 

 

 

目の前の海は陸奥湾、向うの山が釜臥山です。会津からこの地にやってきた人々は、釜臥山を会津磐梯山に、陸奥湾を猪苗代湖に見立てて、遠い故郷を偲んだそうです・・・

 

 

斗南藩士上陸の地を離れ、次は「柴五郎一家住居跡」を目指すことにしました。

 

 

なだらかな坂を登って、野球場やテニスコートがある「むつ運動公園」を過ぎると・・・

 

 

 

道路沿いに「斗南藩柴五郎一家居住地入口」と書かれた杭がありました。「入口」ということは、この奥なんですね。

 

 

 

少し行くと、こんなふうになっています。この、暗くなっている、もっと奥なのかな?

 

 

 

いや、あのぅ、こういう看板もあるんですけど・・・(汗)、仕方ないので、気をつけながら進みます。クマよけの鈴を持ってくるんだった。

 

 

 

薄暗い林の中を100mぐらい進むと、向うに何か看板が見えてきました。あれだな。

 

 

 

柴五郎さんが、お父さんに叱られながら犬の肉を食べて飢えをしのいだのは、ここだったんですね・・・

 

 

 

50mほど離れたところに神社がありました。

 

 

 

柴五郎さんはお父さんと、上のお兄さんのお嫁さんの3人で一軒家に暮らし、下のお兄さんはこの神社の社の中で過ごしました(建物は建て替わっているようです)。五郎さんが住んだ家には囲炉裏があったので、冬にはかろうじて暖を取ることが出来ましたが、この建物には、火の気というものは一切なかったそうです。すきま風が吹き込み放題だったでしょうに、どうやって冬の寒さを耐えたんですかねぇ。

 

この付近の動画です。47秒ほど。

 

 

私は30分ほど、特に何をするでもなくこのあたりに佇んでいましたが、聴こえてくるのは、枝を揺らす風の音だけでした。

 

 

クマとの出逢いが無かったことに感謝して(笑)、柴五郎さんの家の跡を離れ、とりあえず下北の駅に向かいます。駅前に下北観光案内所があるので、何か情報があるかなと思って。

 

 

 

むつ市役所の前を通りました。ちょっと北海道っぽい雰囲気のある建物ですね。駅からも、町の中心部からもかなり離れていて、クルマでないと来れない場所にあります。道路の反対側は、むつ警察署。

 

 

 

むつ市内を流れる大きな川、田名部川を渡ります。

 

 

 

むつ市では、ドラッグストアといったら「薬王堂」のようです。何店舗か、見かけました。向こうにローソンも写っていますが、むつ市内を歩く限り、コンビニはローソンしかなかったようです。セブンもファミマも見かけませんでした。(いま思うと、青森駅の周辺でも同じだったかも?)

 

 

 

下北駅に到着。駅舎の隣にある観光案内所を訪ねましたが、斗南藩に関しては、東京の飯田橋でもらったのと同じパンフレットがあるだけでした。まぁ仕方がない。せっかくなので、下北半島の観光地としては有名な「仏が浦」という場所への行き方などを参考までに教えてもらいました。

ここからさらに歩いて、むつ市の中心部というか繁華街というか、そちらを目指します。予約したホテルがそっちのほうにあって、しかも斗南藩関連で行きたい場所も近いので。県道沿いに、てくてく、てくてく。

 

ホテルを見つけてチェックインしたのが16時すこし前。ちょっとだけ一服して、すぐまた出かけました。見たい場所が近くだったので、日が暮れないうちにと思って。

 

 

こちら、円通寺というお寺です。「斗南藩史跡地」と表示されています。お寺ですが、鳥居のようなものが立っていて面白い。

 

 

 

ここには、斗南藩の藩庁、今でいう県庁/役所のようなものが設置されました。藩知事に任命された松平容大(まつだいら かたはる)はまだ幼年だったため、会津藩以来の家臣だった山川浩が実務を取り仕切りました。容大公のお父さんで会津藩主だった松平容保(まつだいら かたもり)もここでしばらく暮らしたそうです。

 

 

 

円通寺の境内には、会津藩士の「招魂碑」が建てられています。

 

 

 

今年は明治維新から数えて150周年なんですよね。招魂碑のそばには、こういう幟が建てられていました。「苦難を越えて明日へ」ですか。ふーむ。こういう幟がむつ市内のあちこちに建っているのかと思いましたが、見かけたのはここだけでしたねぇ。この、2本だけ。

 

 

 

円通寺のすぐ隣には「徳玄寺」というお寺があります。

 

 

 

ここは幼い容大公が遊んだり食事をしたりする場所だったそうです。

 

 

徳玄寺には「うちはこういう理由で御朱印の発行はしていません」という張り紙がありました。そうなのか・・・。勉強になります。

 

 

 

こちらの境内には、川島雄三さんという映画監督の石碑がありました。

 

 

 

名前だけはかすかに知っているような気がする人です。石碑に刻んであるこの言葉も、聴いたことがあるような。いつか、調べてみますね。

 

斗南藩に関する史跡で行きたい場所は全部で6カ所あるのですが、そのうち4カ所、この日のうちに廻ることが出来ました。あと2カ所はちょっと離れているので、明日にまわすことに決定。意外にまだ明るいので、あたりを歩くことにしました。この付近に、最近あいついで開発された新しいスポットがあるらしいので。

 

 

 

10分ほど歩くと着いたのは「むつ来さまい館」。「来さまい」と書いて「かさまい」と読みます。地元の言葉で「いらっしゃい」「お越し下さい」という意味。

 

 

1階の吹き抜けには、田名部まつりの衣装や山車が展示されています。入場無料。

 

 

 

2階は、下北半島の歴史と自然が学べる「しもきたジオパーク」↑になっています。こちらも入場無料。「地層萌え」の方にはたまらない場所なんでしょうねぇ(笑)

 

 

あ、そうそう。これが、怪観・奇石が並び、極楽浄土を思わせるという仏ヶ浦(の模型)。遊覧船で海から眺めるのが定番だそうです。ジオパークは、さら~っとスルーしました。

 

 

 

「むつ来さまい館」の隣にあるのが「まさかりプラザ」。下北半島が「まさかり」の形に似ているからっていうネーミングですね。1階はむつ市の特産品やお土産物の売り場。2階と3階は貸し会議室になっています。お土産売り場をさらっと見ましたが、明日買えばいいかなと思って何も買わず。

 

 

 

そして「むつ来さまい館」と「まさかりプラザ」の間で工事中だったのが、この野外ステージ。私は見た瞬間に「あ、あれと同じじゃん!」と思いました。

 

 

そうそう。名古屋市の栄(さかえ)にある「オアシス21」です。かなりスケールが違いますがニコニコ むつ市も、これを目指したのかなぁ。完成して、夜になるとこんなふうにライトアップされるのでしょうか。

 

「むつ来さまい館」「まさかりプラザ」「野外ステージ」は、この数年の間に出来たものばかりのようです。むつ市の中心地に近いし、おそらくみんなで知恵を出し合ってお金もかけて、起死回生を狙って開発したのでしょうね。その願いが叶って、賑わいが生まれることをお祈りします。

ここらへんまでで日も暮れかけてきたので今日の日程は終了して、ホテルへ戻ることにしました。

 

 

 

ホテルへ戻る道すがらに見かけた、松木屋という・・・なんていうのかな、地方百貨店でいいのでしょうか。中に入らなかったので内容は分かりませんけれど、営業はしていました。歴史は古そうですよね。こういうお店があったり、ホテルも何軒かあるところを見ると、どうやらこの付近が「かつての」繁華街だったのかな?と思いました。でも今は人通りが少ないし、空き店舗、空きビルがやたらと目立ちます。むしろ、この日の昼間に歩いていたエリアのほうが、建っている家もお店も新しくて洗練されていました。なるほどね。街の中心部は寂れてしまって、郊外のほうが伸びていく。いわゆる「ドーナツ現象」ってやつでしょうか。むつ市にもそれを感じた次第です。

 

ホテルへ戻り、昨夜の夜行バスでは2~3時間うとうとしただけだったので、爆睡でした。なお、今回の旅で食べたものについては、別途まとめますのでお楽しみに!

 

 

 

――――

 

 

 

ぐっすり眠って目が覚めた10月29日(木)。10時頃にチェックアウトして、昨日最後に訪問した「むつ来さまい館」と「まさかりプラザ」の前を通り過ぎ、東へ向かいます。田名部川を渡ると道はグーっと登り坂になっていきました。

 

 

こういう大きな標識があったので、迷わずに進むことが出来ました。だらだらした登りを進んで行きます。

 

 

 

こんな看板がありました。「斗南どんどこ健康村」そして「郷土資料館」。少し興味がありましたが、なにやら寂れている雰囲気がマンマンだったし、目的地はこの先なので、今回はスルーしました。

 

 

 

斗南温泉というのもあるようですね。健康ランドみたいなものかなぁ?でもここも今回はスルー。さらに30分ほど歩くと・・・

 

 

 

おお!「斗南岡(となみがおか)」というバス停が立っています。こんなふうに「斗南」という名前が、150年すぎてもちゃんとむつ市内に生きているんだなと分かって、嬉しくなりました。

 

 

 

バス停のすぐ脇に広がるのが、ここです。50m×100mぐらいの広さでしょうか。

 

 

 

パッと見、こんなふうに「樹の切り株」が並んでいるだけです。ここは会津若松から流されてきた旧会津藩士たちが樹を切り倒し、家を建て、井戸を掘り、道を広げて町をつくり、いわば斗南の中心となる「新しい都市」を作ろうとした場所です。

 

 

 

説明パネルを読むと、ここを「斗南ヶ丘」と名付けて付近を開拓する拠点にする計画でしたが、過酷な冬の風雪で建物が倒壊したり火事で焼けたりして、結局は夢のままに終わってしまったと書かれています。

 

 

 

もう一つのパネルには、戊辰戦争から明治維新、廃藩置県で斗南藩が消滅するまでの流れが簡潔に説明されていました。

 

 

 

ここには「秩父宮両殿下御成記念碑」が建てられています。昭和天皇の弟の秩父宮(ちちぶのみや)は、お妃として、会津藩主だった松平容保の孫娘の勢津子さんを選びます。明治維新いらい、天皇家にさからった朝敵・逆賊という汚名を着せられていた会津の人々は、秩父宮と勢津子さんの婚姻によって天皇家との絆を取り戻すことが出来たわけで、大変な喜びようだったそうです。

昭和11年、その秩父宮殿下と勢津子妃殿下のご夫妻が下北半島を訪問した際、この地にも足を運ばれたことを記念して、この石碑が建てられました。秩父宮からすれば、自分の奥さんのお父さんやお爺さんたちが苦労した場所を訪れることで、「もう昔のことは水に流して仲良くやろう」というメッセージを表明したかったのかな?と私なんかは思ってしまうのですが、どうでしょうね。司馬遼太郎さんあたり、この件について何か書いていないかなぁ。

 

 

 

そういえば、会津若松の鶴ヶ城の近くに「勢津子妃殿下お手植えの松」というのが植わっていたことを思い出します。勢津子さんがお嫁入りする時の記念式典には、会津じゅうから何万人もの人がお祝いにかけつけたんだそうです。そりゃあ、明治~大正~昭和と、長年にわたって胸に秘めてきた恨みと悔しさが一気に晴れた瞬間ですから、会津の人たちにとっては嬉しかったんだろうなぁと思います。

 

 

 

私は切り株の一つに腰かけて、会津からここまではるばる流されて来た皆さんの魂に触れるような思いで「とうとう、私もここまで、来ましたよ・・・」と語りかけました。

 

 

さあ、残る目的地はあと一つです。地図を見ると、この少し先にあるようなので、またテクテク歩きます。

 

 

あ、ありました。「旧斗南藩墳墓の地」ですね。こんなふうに、斗南藩に関連する史跡には目につきやすい標識が必ず設置されていたので、助かりました。でも、真冬で雪に閉ざされると、ちょっとどうですかねぇ?

 

 

 

かなり年季の入った感じの階段を登ると・・・

 

 

 

斗南藩としてこの地を開拓しようと意気込んでみたものの、すぐに廃藩置県で「藩」そのものが無くなってしまいました。会津からこの地にやってきた人々は、会津に戻ったり、東京に出たり、あるいはこの地に残って農業や商売の道を選んだりしました。ここには、会津から移住してきてこの地で果てた人たちのお墓が集まっています。

 

「みちのくの 斗南いかにと人問わば 神代のままの国と答へよ」

 

・・・という、知事代行を務めた前川浩の歌が残されています。私はこの歌は知らなかったなぁ!

 

 

 

静かな森の奥の一画に、30~40基ほどのお墓が並んでいました。決して荒れ果てた感じはなく、お花を供えた跡もあったし、わりと最近に建てられた感じのお墓もありました。旧会津藩士でこの地に骨を埋めた人の子孫の皆さんが今でも手入れをされているようです。

 

 

資料を見たら「嶋影家」というおうちの皆さんが中心になって墓地の維持管理を務められていると書いてありました。嶋影家のお墓、これのようですね。昔むかし、女子バレーボールの日本代表で「嶋影」という名字の選手がいたことを思い出しましたが、ご縁があるのでしょうか。「嶋影せい子」さんといったかなぁ。元気いっぱいの威勢のよい人だった印象があります。

 

ここで、この墓地を歩いていて、発見したことがあるんですよ。ちょっとこの写真を↓ご覧ください。

 

 

ね?何か植物の実のようなものに糸を通して輪っかにして、それを石塔の頭にかけてあるんです。同じものがいくつもありました。これは下北地方の風習なのでしょうか?それとも会津の風習がこの地に伝わったのかな? 私はどうしても知りたくなって、この日のランチを食べたお店の仲居さんや、帰りがけにまた寄った下北観光案内所の係の人にこの画像を見せて訊いてみたのですが、「さぁ・・・?」という答えでした。ひょっとして何かご存知の方がいらっしゃいましたら、お教え頂けたら嬉しいです。これは何の実なのかな?それだけでもヒントになりますので、ぜひ。

 

 

これで、私が今回の旅で行きたかった場所はコンプリートできました!思った以上に、むつ市内では斗南藩に関する史跡がきちんと、綺麗に整備されていて、私はとても嬉しく、また有難く思いました。まぁ、むつ市と会津若松市は「姉妹都市」の提携を結んでいるそうですから、それもそのはずなのかもしれませんが。

私はここから来た道をそのまま戻り、ホテルがある市街地でランチを食べた後、少し早いけれどもう帰ろうと思い、タクシーで下北の駅に向かいました。

 

私は旅先でタクシーに乗ったら、必ず運転手さんと会話することにしています。意外な、興味深い話が聴けることがありますので。この時は「会津からここへやってきて、そのまま居ついた人もいるんですよね?」と尋ねたところ、運転手さんは「ええ、いますよ。嶋影さんとか・・・」と答えてくれました。いきなり嶋影さんの名前が出たのには驚きでしたね。むつ市内で「会津」と言ったら「嶋影さん」という感じなのでしょうか。

 

 

 

下北の駅にあるモニュメント。昨日は気がつかなかった。駅に着くまで「電車は1時間に1本はあるよね?」と勝手に思い込んでいたのですが、その時間帯はちょうど、次の電車まで2時間待ち! なので海沿いのほうを再びぶらぶら歩きました。

ちなみに、隣の大湊の駅には、前述の通り「会津」に関する展示がいくつかありましたが、この下北の駅には、会津に関するものはまったく無かった。

 

 

 

海沿いの一帯は、どうやら埋め立てられて新しく出来た土地のようです。広大な運動公園や、画面の左に白く見えるドーム、ヨットハーバーなどがあるようですが、回り切れませんでした。下北半島のヨットハーバーってどんななのか、見てみたかったんですけどね。まだ何もない空き地もたくさんあります。そして振り返ると、釜臥山の姿が。

 

 

 

ドームまでやって来ました。正式名称は「むつ市ウェルネスパーク」の中にある「克雪ドーム」と言います。かなりの大きさなので、人気アーティストのライブなんかに使われるのでしょうね。

 

 

 

ドームの屋根越しに太陽を撮ってみたら「ピンクフロイド」のジャケットのようになってしまった(笑)

 

 

 

日も暮れかけてきたので、下北の駅に戻りました。田名部川の河口から見る釜臥山。手前はJR大湊線の鉄橋。

 

 

 

「上路電器」という、家電製品の販売店だったらしいお店が閉店して、取り壊しになっている所を通りかかりました。おそらく、かつてはむつ市内の多くの人が「家電を買うならここ」と集まったんだろうなと思います。それが閉店に至った理由は、すぐ分かりました。というのは・・・

 

 

 

道路をはさんで真向かいにこれが出来たんですよね。これじゃぁ、かなわないよなぁ。ヤマダ電機も、むごいことをすると思ってしまいました。でもまぁ、これが地方都市の現実ですね。

 

 

 

ぶらぶら歩いて時間をつぶして、電車の時間になったので下北駅から野辺地経由、青森駅に向かいます。さようなら下北!ありがとう下北!

 

 

 

約2時間で青森駅に到着。ここでまた2時間、バスの出発まで時間があります。駅前の通りをまたもやぶらぶら。「しんみち通り」と言ったかなぁ? お店の前にアーケードがあって、いかにも雪国らしい雰囲気ですね。

 

 

私の野性の勘で(笑)、「ここは絶対に良いお店!」と感じたのがこちらです。もう閉店時間でしたが、いい感じですよねぇ。お店がやっていて、私のお腹が空いていたら、絶対に入りたかったなぁ。次回の楽しみです。

 

 

 

ここも気になったんですよ~。青森名物「味噌カレー牛乳ラーメン」のお店。サラリーマンと高校生たちで、カウンターは満員でした。時間はじゅうぶんにありましたが、お腹いっぱいだったので入店はせず。

 

 

 

我ながらうかつで恥ずかしいのですが、青森駅って、廃止されるまでの青函連絡船が発着する場所だったんですね。JRの青森駅から連絡船のターミナルまで、橋1本でつながっていました。そしてこのように、青函連絡船に使われていた「八甲田丸」が観光資源として繋留されていました。そうだったのか! そういえば確かに「♪上野発の夜行列車降りたときから 青森駅は雪のなか・・・」でしたねぇ~。観光MAPをみたら「津軽海峡冬景色の碑」というのもあるらしいのですが、発見できず。この港かいわいは開発の途上のようでした。いずれ綺麗に整備されて、多くのお客さんが集まる観光スポットになるのでしょうね。その頃、ぜひまた来てみたいです!

 

そして午後9時、青森駅前を夜行バスは静かに出発。翌朝の8時前に東京駅八重洲口に到着して、私の2日間にわたる旅は無事に終了したのでした。2日とも天候に恵まれて幸運だったです。寒いんだろうなぁと思って、もこもこTシャツやウルトラライトダウンのジャケットを追加で着られるようにリュックに詰めていたんですけど、まったく出番なし。それどころか、歩いていると暑くなって、来ていたフリースジャケットを脱いでしまったほどでした。青森県に滞在中はずっと、ヒートテックの長袖シャツの上に、薄手の長袖Tシャツという軽装で過ごせました。

 

前述したとおり、むつ市内には斗南藩に関連する史跡がきちんと整備され、標識もはっきりしていました。放置されたり、寂れているようなものはまったく無くて、むつ市の皆さんが斗南藩との係わりを今でも大切にされていることが分かり、頭が下がる思いがしました。「いつか必ず来よう」と思い続けていた私は、今回の旅を終えて、大きな課題を終えたような、肩の荷を下ろしたような気持ちになっています。

 

少しだけ残念だったのは、イタコで有名な「恐山」や、「大間のマグロ」、そして「仏ヶ浦」など、下北半島を代表する有名な観光スポットを一つも回れなかったこと。「下北半島まで、いったい何しに行って来たの?」と言われてしまいそうです(笑)。でもそれらは今回の旅のテーマではなかったので、また次回の楽しみに取っておきます。行ってみて分かりましたが、仏ヶ浦なんかは「ちょっとついでに」行ける距離と時間ではないですね。仏ヶ浦を観るだけで丸1日とっておかないと行けない場所でした。

 

それと、青森県に行くんならこれを観たかった!という絵があるんです。

ジブリのファンなら「あ!」とお思いですよね? このブログで前に記事にしましたが、「魔女の宅急便」で、森の中に住む画家ウルスラがキキのために描いた絵のモデルがこれ↑です。八戸市立湊中学校の養護学級の生徒の作品『天馬と牛と鳥が夜空をかけていく』という版画。これが、青森市立美術館にあると聞いていたので、ぜひ観たいと思っていました。

美術館に行けば観られるものと思って、念のために電話で尋ねたところ「所蔵はしていますが、いつも展示しているわけではない」のだそうです。今年は7月頃まで展示されていたのですが、ちょうど今は外されているとのこと。残念でしたが、これもまた、次回の青森旅行の楽しみになりました。

 

 

 

 

 

<むつ市内で食べたもの>

 

1日目の午後、下北観光案内所からホテルへ向かって県道沿いを歩いていると、こういう看板が↓目に入りました。

 

 

「日本一のおいしさ 銘菓 フライボール」ですか。観光MAPを見ると「お菓子工房やなぎや」が、ちゃんと載ってますね。これは気になる。

 

 

 

ありました。こちらが「お菓子工房 やなぎや」さん。さっそくお邪魔してみましたよ~。

 

 

 

こちらが「フライボール」。2個入りが最小単位で、6個入り、10個入り、20個入りなど何種類かあるほか、ばら売りもしていました。

 

 

食べてみると、「ひとくちサイズのあんドーナツ」って感じですね。美味しい。むつ市内のコンビニや、駅のお土産ショップなどでも売っていましたので、確かにこのあたりの「銘菓」のようです。1個80円ぐらいだったかな? 砂糖をまぶしたものがメインですが、まぶしてないものもあり。

 

 

 

やなぎやさんの前を通り過ぎてさらに歩いていると、こういう幟が目に止まりました。吉田ベーカリーのアンバター。「むつ下北名物」と書いてあるのを見ると素通りできなくなって(笑)入ってみました。

 

 

 

ふつうの菓子パンや総菜パンも並んでいますが、このコーナーでは、オーダーするとお姉さんがパンに好きなものを挟んでくれます。挟むものが1種類なら150円、2種類なら160円、3種類だと180円。私は、むつ下北名物という「アンバター」と「バターピーナツ」を頼みました。女子高生のアルバイトらしい、可憐な女性がきびきびと作ってくれました。明るい店内にはカフェもあって、いい感じ。

 

 

 

私は勝手に「コッペパンに挟んでくれるんだろうな」と思っていたら、やや薄めの食パンに挟んであったのが意外でした。耳付きですが、とてもふわふわで美味しい。何の飾りもない素朴な作りが、イイネ~!

 

 

 

この日の夕方、市内の「旧目抜き通り」らしいエリアを歩いていたら「吉田ベーカリー」を発見しました。こちらはすでに閉店していて、さっき私が寄った「もんぶらん」というお店が新しい拠点になっているようです。これもまた「ドーナツ現象」ですねぇ。パン屋さんだけに・・・(苦笑)

 

こんなふうに、初日は、朝食は青森駅の売店で買ったパン、昼食は「フライボール」と「あんバター」「バターピーナツ」というふうにパンだけで済ませました。夕食は「ここに行こう!」と出発前から楽しみにしていたお店があったんです。飯田橋の観光案内所でもらったグルメガイドで見て、決めていました。

 

 

 

こちらです。ホテルから徒歩5分ぐらいの所にある「駐車場食堂」。ここで、青森名物の「味噌カレー牛乳ラーメン」を食べるのが目的でした。

 

 

 

むつ市内のスーパーやコンビニでも、こんなふうに「味噌カレー牛乳(ミルク)ラーメン」が普通に売られているんです。まぁ正直なところ「怖い物見たさ」「ブログのネタ欲しさ」ではありましたけれど、食べてみようと思って。で、食堂の扉を開けようとして、貼り紙があるのに気がついたんです・・・

 

 

 

「青森、岩手、秋田、山形県以外からお越しのお客様の入店はご遠慮くださるよう・・・」 あぁ~!そうか!そういうことですか。これは想定していませんでしたねぇ。でも仕方がない。お店の方針ですからね。残念ですが、入店は諦めました。

 

そこで仕方なく、他のお店を探して歩きました。でもお酒を飲む店はやたらとたくさんありますが、食事できる店が見当たりません。ラーメンでなくてもなんでもいいやと思ってグルグル歩きましたけれど、これというお店がないんです。諦めかけて、もうダメ元で、ふと見かけた細くて狭くて暗い路地にふらっと入ってみると・・・(こういう冒険は、女性にはちょっとやりにくいですよねぇ。男子であるワタクシだからこそだと思います)

 

 

 

おおお~。天の恵みか!「ラーメン みゆき」の看板を発見しました。雰囲気も、まさに私好みのお店なので、一秒も迷わず、突入です。入口で「あのう・・・地元の人間じゃないんですけど、いいですか?」と聞くと「ああ」と簡潔な返事で安心しました。

 

 

 

ものすごくたくさんのメニューが壁に貼ってありましたが「味噌カレー牛乳ラーメン」は見当たりませんでした。でも、この貼り紙を見て即決です。「自称・カツカレー評論家」でもある私としては「カツカレーラーメン」を頼むしかないでしょ! カツカレーとラーメンの組み合わせは、あちこちでいろんな物を食べて来た私も初めて見るものです。

 

 

 

はい来ました~。カツカレーラーメン。ネーミングそのまんまのストレートな作品です。

 

 

 

普通の、ご飯にカツを乗せたカツカレーだと、食べているうちにルゥが無くなってご飯が余って困ることがありますけれど、これならその心配なし。

 

 

 

まず、豚カツの肉の厚さに感動ですね。そしてカレーが美味しい。ラーメン屋さんや日本蕎麦屋さんのカレーって意外な美味しさに驚くことがありますけど、こちらのカレーも深いコクがあって「当たり」でした。麺も太くてどっさり入っています。お腹ペコペコの私だったのに珍しく食べきれなくて、豚カツとカレーは全部食べたものの、麺は少し残してしまいました。お腹パンパンです。

 

 

2日目の朝は、昨夜のカツカレーラーメンの余波でまったく食欲なし(笑)。朝食抜きでホテルを出て、昼食は斗南が丘で昨日の残りの「フライボール」を食べて済ませました。午後2時近くに市内に戻った頃、ようやくお腹が空いてランチに選んだのは、こちらも事前に決めておいたお店です。

 

 

むつ市内の旧目抜き通りにある日本料理のお店「楠こう」。「楠公」といったら「楠木正成」ですよね? 何か縁があるのかと思ってお店の名前の由来を仲居さんに訊いたら、説明してくれたんですが、よく聞き取れませんでした。申し訳ない。

 

 

 

もっとカジュアルな、ファミレス的なお店を想像していたのですけれど、かなりランクの高そうなお店でした。6人まで入れる個室に通して頂いて、ちょっと恐縮。すごく豊富なメニューの中から考えて考えて、私が選んだのはこちら↓です。

 

 

 

ほたての釜めしと、味噌貝焼き(みそかやき)。どちらも下北の名物なので、ぜひ食べたかったんです。セットでなく単品を2点頼んだところ、お店の方が気をきかせてくれて、定食のように仕立ててくれました。こういうサービスが嬉しい!

 

 

 

陸奥湾でとれるホタテをどっさり使った釜めし。そういえば、昨日訪問した「斗南藩士上陸の地」のすぐ隣には「大湊ホタテセンター」というのがあって、新鮮なホタテが売られていました。

 

 

 

ほたての出汁が効いたご飯が美味しい~。口にいれたとたん、笑顔になってしまいます。「んん~、むふっ」という感じ(^^)

 

 

 

こちらも下北名物の「味噌貝焼き(みそかやき)」。ホタテの貝をお皿にして、味噌と出汁を入れ、季節の野菜やきのこ、魚介類などを煮込んで卵につけて頂きます。海老、イカ、ウニ、しいたけ、鮭、鶏肉、キャベツ、昆布?などが入っていました。これまた美味しい~!食べることが出来て良かったです。

 

ちなみにこのランチ、お値段は、ほたての釜めしが1000円、味噌貝焼きが700円、ノンアルコールビールを入れても2000円ちょっとでした(税別)。それなりの格式のあるお店だったわりに、サービス料が無いのが驚きでした!有難いことです。仲居さんのサービスもテキパキして気がきいていたし、良いお店を見つけられました。こんな感じで、私にしては、グルメ的には控えめな旅になりましたが、いい印象しか残らなかったですねぇ。

 

 

 

 

3日がかりで少しずつ書いた長い長いレポート、最後まで飽きずにお読み頂き、ありがとうございました。私の旅はいつもだいたいこんな感じで、目が覚めるような美しい景色もないし、有名な名所旧跡には行かないし、お洒落で洗練されたグルメよりはB級なものばかり食べてるしてへぺろ、こんなレポートで、読んでも楽しんで頂けるかどうか分かりませんが、まぁこれがMyスタイルなもので。ご理解いただければ嬉しいです。

 

ちなみに、この旅では1日目に28000歩、2日目に30000歩、歩きました。GPSを稼働させていませんでしたが、たぶん2日間で30kmほど歩いたと思います。2日目のランチ後に下北の駅までタクシーに乗った以外は、すべて徒歩。日頃のジョグで足腰を鍛えておいて良かったなぁと、つくづく思った次第です。

 

それにしても、明治維新とか、戊辰戦争とか、会津とか、ましてや「斗南藩」なんかに興味のない方には、「いったい、この旅の何が面白いの?」と思われたかもしれません。でも私にとっては、とても意義深い2日間になりました。今回は地元の方とゆっくりお話をする時間が無かったのが心残りなので、いつかまたお邪魔したいものだと思っています。嶋影家の方とお会いできたりしたら、いいなぁ。