7 文学のゆるい方法論-カテゴライズと様式-
芸術の秋ということで、長年僕が勝手に興味を持って調べ続けている主題である文化史の文学芸術のためのふたつの考察方法。カテゴライズと様式についてのざっくばらんなお話。伝承文学(神話や昔話の類い)のゆるい類型法と、もうひとつはよく国語や美術などで習う「ー派」、「ー様式」、「ー主義」といった中世から現代までの文学史や芸術史の芸術様式論、芸術思想論について、僕ならではのゆるいお話。 まずひとつ目は民話神話体系によく見る伝承文学の類型法、すなわちカテゴライズについてである。 僕のようなちんけな文芸趣味人が小説や物語を考える場合は、用語よりは形式を考えることが多い。今、現在の小説や文章に当てはめると構成やプロットの形式である。 さて民話類型のパターンだ。古い文学や説話、神話を学ぶ場合の形式によってカテゴライズするお話。いわゆる「神話説話類型法」というやつだ。 これ以外にもいくつかその類型考察法はあるのだが、僕の知るものとしては「アールネ・トンプソンのタイプ・インデクス(Aarne-Thompson type index)」で、今日略して「AT分類法」と称されている。アールネとトンプソンによってふり分けられた類型法なのでそう呼ばれる。ここで挙げるのはいわばそれの日本版といったところだろうか。本家の「AT分類法」は結構ナンバリングなどもされて複雑なのでここでは割愛する。それでは同じく内容(コンテンツ)による類型ではあるが、古い日本の「ー譚」での分類といこう。 蛇足だが、まあ類型というのは文学に限らず、多くの研究に用いられていることは周知のことだ。図書館学のデューイ十進分類法などもそうだが、近代は分類学の発達期だった。ただこのデューイはメルヴィル・デューイ(Melvil Dewey)で、二十世紀のジョン・デューイ(John Dewey)とは別の人物だ(現代思想のプラグマティズム、すなわち道具主義の思想家とは別の人です)。クラッシック音楽作品の分類法のオーパスナンバー(opus number・略称OP)もそういったカテゴライズの思想で整理と分類を目的にという類いで言うのなら、やはりこの仲間とも当たらずとも遠からずといった感じだ。 では閑話休題、先に挙げた我が国の一般的な「説話類型」での分類を軽く触れてみたい。 具体例でどういうことかというと、中には現代のSFやファンタジーなどにも通じるものもあるのだが、一部ご紹介すると、異類婚姻譚いるいこんいんたん、貴種流離譚きしゅりゅうりたん、動物報恩譚どうぶつほうおんたんなどがそうである。 妖怪と結婚する「雪女」や「メシ食わぬ女房」、ある種外国の民話「美女と野獣」なども異類婚姻譚、オデュッセイアや光源氏の「須磨流謫」、日本神話の「八岐大蛇」などの高貴な者が流れ者ひとり旅や追放の不遇を受けるようなお話が貴種流離譚、「つるの恩返し」、「浦島太郎」、「因幡の白ウサギ」などの動物の恩返し話が動物報恩譚だ。 まあ「八岐大蛇」のお話は現代なら完全なるSF大作である。西洋のクエスト物にも匹敵する。天叢雲剣あめのむらくものつるぎ、後の草薙剣などの剣が出てくるのもそれっぽい。 日常系としては「致富ちふ譚(長者伝説)」と「長者没落譚」は対義用語であるが、合わせて一対で「長者譚」と見做す場合もある。これらはおおよそ宗教説話などに多く、敬虔に徳を積んだ者が成功し、怠った者が泣きを見るという教訓を交えたオチで結ぶものが多い。 説話以外では、似たような物語展開として、現代創作なら「ドラえもん」に出てくるのび太くんのオチのパターンはこれが多いな、と感じる。宿題やお手伝いなどをないがしろにして、秘密道具を悪用したりと、真面目に生活してないばかりに、のび太くんは小さな不幸に出くわして小話が終わるというまさにこのおきまりのパターンだ。 そして「英雄譚」。これは圧倒的に歴史上の人物を美化することも多い物語だ。そうでないものとしては、虚構作品、「アーサー王伝説」などがある。もともとがケルト説話から来ているとも言うが厳密な正体は不明だ。 面白いのは、中でも一般的な「英雄譚」。ほぼ大部分の作品は、中世欧州お馴染みの吟遊詩人の叙情詩から来ているというのだが、物語の骨子は貴婦人を助けることで、民衆の尊敬を集め、その貴婦人と結ばれるというプロットである。そうほぼイコールで騎士道物語なのである。 あれ? そう、スサノオノミコトの「八岐大蛇」もこっちのパターンに分類出来そうだ。貴婦人は櫛稲田姫くしなだひめ、娘がさらわれた村人を救う役目をかってでる、など全くもって「英雄譚」に適合可能だ。そして他にも現代のロールプレイングゲーム。その大半のゲームシナリオ、こんな感じの物語ですな(笑)。洋の東西を問わず、人々はこういう英雄譚に憧れるのかも知れない。 ここにもうひとつ。僕の勝手なヒロイズム考察を挙げると、現代の日本の物語系譜にその模様替えの進化を観ることが出来ると考える。どんなことかと言えば、大佛おさらぎ次郎の『鞍馬天狗』、川内康範かわうちこうはんの『月光仮面』、そして石森章太郎の『仮面ライダー』がひとつの系譜になる。言うなれば、「勧善懲悪ライダー譚(笑)」。「てんぐのおじちゃん」、「かめんのおじちゃん」、「らいだーのおにいちゃん」は勧善懲悪のプロットの中で、馬や単車にライドするライダー・ヒーローなのである。 ちなみに鞍馬天狗はほぼ読んだのだが、『角兵衛獅子かくべいじし』がダントツに好きである。僕には分かりやすかったためだ(笑)。月光仮面は人並みに知ってはいるが、その知名度ほど本やテレビ番組を観た記憶はない。また『黄金バット』と並び戦後の紙芝居でヒットしたコンテンツであると記憶している。『仮面ライダー』は現在でもシリーズが続いているのでここに書くまでも無い。 そう、ヒーローは皆ライダーなのだ。 では次の「様式論」のお話。学生時代に芸術史、文化史、文学史のどこかで必ず勉強させられるのに、いまいち把握出来ないと多くの人たちが述べる、ぼやっと雲のなかのような実体が見えない、捉えられないと言われてきたモノが様式論である。国語の文学史、芸術の美術史、音楽史などでよく巻末に年表と一緒に載っている用語である。それぞれの単語、用語自体は何となくどこかで聞いたことがあるのだ。しかしながら、それはどういうモノ? それって何? って中身を訊かれると、多くの人が途端に眉間にしわを寄せて「うーん」と唸るのも事実だ。 例えやすいモノでその要素を鑑みてみよう。西暦の一八〇〇年代後半と言えば、政治史や元号の時代区分でいえば、明治時代なのだが、様式論、美術史や文学史の時代区分で言えば、ロマン主義時代なのである。文化史様式論の時代名称では、「ロマン主義」という用語は大きな基本用語である。我が国の近代化の象徴芸術と捉える人も多い。また「ロマン主義」から「印象主義」までの芸術様式はほぼ文明開化とともに一気に、一緒に我が国に伝播している。 その文化史様式論の基本用語、時代名称とは、時系列にいけば、主要様式でルネサンス様式、バロック様式、ロココ様式、新古典主義(美術史のみ)、ロマン主義、写実主義(一部自然主義と混同)、印象主義、後期印象主義、世紀末美術、アールヌーヴォー、シュールレアリスムなどなどを実年代ではなくて、文化や思想のカテゴリーで時代区分をする文化史の方法論の形式であり、その時代の特徴を大雑把にまとめたものである。 文学部出身の僕は学生時代、この類いの講座を物凄く履修している。もっと言えば履修しなくて良いモノまで履修している。文学好きなアホの行動である(笑)。この情熱、今の僕に欲しいモノだ。 勿論選択科目、必修科目にも「○×文学史」などという講義がわんさかあった。ちょっと大袈裟に言えば、ヨーロッパの国や地域の数だけ講座がある感じだ。 例えば僕の好きな十九世紀の芸術文学論なら、ロマン主義といえば、一般に文学ならワーズワース、ルソー、ゲーテ、森鴎外、音楽ならショパン、シューベルト、リスト、美術ならターナー、ドラクロワなどのジャンルこそ違えど、みなロマン主義の思潮に乗った旗印のもとで作品を発表した芸術家なのである。なので人によっては様式-論とは言わずに「芸術思想論」などと換言する人もいる。 ちなみに各国全てで登場する様式名もあれば、局地的な様式名もある。 ロマン主義はヨーロッパ、アメリカ、日本にも伝播した芸術思想なので、世界的なムーブメントであるが、ロココなどはフランスの一部、ラファエル前派はイギリスのみ、ロマン主義の分派である星菫派せいきんはは日本独特の詩歌の中で成立している。他にもマンネリズムや北方ルネサンス様式などの地域性のあるローカル様式論はごまんとある。 ちなみに美術では最後の芸術思想はナビ派と言われることが多い。ただこれは一部の専門書の区分でそう言われているだけで、その後も人間の文化はグループ分けが好きなので各ジャンルでそこそこ生まれている。キュビズムやダダからの進化形でシュールレアリスムは美術、文学で発展するし、新感覚派しんかんかくはは日本文学の持つ控えめな比喩や背景を巧みに利用した美学を作品に入れた新しいモノだった。なので、必ずしも一昔前のセオリーのように、二十世紀に近づいて芸術思想そのものが完全に廃れたと言うわけではなさそうだ。「じゃあ、そういう名称があるのは分かったけど、ロマン主義の思潮、共通概念、通底思想はどういったイデオロギーなのさ?」という質問が来そうなので、特徴を挙げると、おおよそ三つの意味にまとめられる性質がある。❶壮大さ、荒々しさ、煩雑と静寂、激しい情熱❷自然との調和、果て無き旅、旅情、局地的な風景や地域性への賞賛❸美術なら新古典主義、他なら古典主義やロココ様式への反復作用 というのがおおよその文化史の書籍には類似傾向も含めて書かれている。 具体例で行こう。ドラクロワ(Eugène Delacroix 1789-1863)の「民衆を導く自由の女神」なら例えやすい。フランスという国家的な地域性とデッサン技法に基づかない誇張やデフォルメの構図を許した構図。人体の比率、直線的、幾何学的な理路整然とする新古典主義のような調和でなく、イメージを彩る煩雑さや躍動感が前面に出たモノである、と一般に捉えられている。 同じロマン主義でも視点を変えてターナー(William Turner 1798-1863)の「雨、蒸気、速力-グレートウエスタン鉄道」なら、写真のブレのように朦朧体もうろうたいで、ディテールを省いた精密さや緻密さのない絵画で、悪天候の荒々しさやスピード感を表現した作品という場合もある。 森鴎外(1862-1922)では『舞姫』は異国での果て無き人生観や旅情を回想するもの。そこに万感の思いを詰め込んだ物語に当時に人たちは共感を得たようだ。旅情回想である。また与謝野晶子(1878-1942)の『みだれ髪』は恋愛を情熱的、叙情的にしていると言われている。 そして局地的ロマン主義の代表は、イギリス特有として、牧歌的ロマン主義というパターンが伝統のように囁かれ、自然賞賛、自然回帰の概念で成立している。詩歌な-らワーズワース(William Wordsworth 1770-1850)、湖水地方の豊かな自然を謳ったり、絵画ならコンスタブル(John Constable 1776-1837)の牧場や農場の穏やかな風景、長閑のどかな風景を描いたものが存在する。 こういった各項目のパラメーターを纏った芸術作品をひとつの時代としてカテゴライズしたモノがロマン主義と世間では呼ばれている。 ちなみに印象主義なら技法としての点描、色使いとしての光源や補色、中間色の当て方なども共通のアイテムとなる。それは十九世紀にならではの科学の進歩が、思想感に通底している部分が大きい。それぞれの様式にそれぞれの特徴が存在して、その時代や流派の概念が根底には存在している。 光源としての太陽を一つのシンボルと捉える動きも見逃せない。美術のこの主題、ここに被せたのは音楽の印象派たちである、ドビュッシー(ClaudeDebussy 1862-1918)やラベル(Maurice Ravel 1875-1937)などだ。ハープの音色を陽光に見立てることで、彩色の豊かさを音で表現している。油性絵具の明るさを試みた美術の印象派を追った形だ。音楽の中で、色彩は音色なのだ。美術だと高村光太郎などは自分の目に見える色があれば「素直にそれを描けば良い」という印象派の教えを作品に活かしているという。 興味のある方はそれぞれの様式や流派の特徴を頭に描きながら芸術鑑賞をするとまた違った角度での芸術鑑賞が楽しめるのではないだろうか。 どっぷりと道楽的芸術思想を囓ったことのあるポンコツおじさんの芸術史、文学史の蘊蓄うんちくをほんの少し出してみた。ではまた。