概念表現って、文字にすると結構堅い。つまりは比喩とか、具現とかっていう話だ。
 SFは基本概念表現が多い。既述の通り、着想自体が概念の具現化というのが多い。じゃあ、SF文学だけの方法論なのか? というとそうでも無い。児童文学にもそこそこ多い。いやもともと概念設定というのは、古典文学やおとぎ話を含めて結構古くからある。『浦島太郎』や『竹取物語』だって、なにかの代弁をしていると捉えられている。

 児童文学で言われるのは、設定概念のことでならスイフトの『ガリバー旅行記』、人物概念ならバリーの『ピーターパン』かな。やはり両者ともに何かを代弁している。本当に作者がそれを思ったかはさておき、後の文学研究者や評論家の一部がそういう見地を持っているのは確かだ。かたや政治思想であったり、かたや心理象形であったりする。さらに両者を上手く合体させてSFにしたのがエンデである。
 エンデはあまり覚えていないのと、僕より詳しい人がその手の読者には多そうなので、控えるが、スイフトのガリバーに限らず、ルソーなども僕の言っているところの設定概念を使う。なぜなら架空の世界の話として、理想郷や体制批判の道具として使われて来た歴史がある。
 今日ではおとぎの国に迷い込んだ巨人ガリバーというファンタジーのように扱われ児童文学とされているが、書いた本人大まじめの社会派である(笑)。
 十八世紀前後まで、文学の中には検閲の際に露見し、時の権力者に逆らうものと分かると掴まってしまうため、架空の世界を設定して、そこで社会批判など擬似的に行う作家が多かった。どの国にも探せば一人や二人はいるようだ。ドーミエなどが出てきてカリカチュアの類いを発想するまでは、それが常套手段だったようだ。
 ゴールドラッシュや金本位制、はたまたプロレタリア的な視点で世の中を皮肉った内容などの富裕と貧困を扱ったものや、民主化のための独裁権力者への抵抗などを物語にした作品もごまんとある。SFッぽいモノでこれをやった人は、地底人の国、未知の惑星が舞台の話と言って言い逃れの材料にしたのだろう。これも結局は時局やコンテンポラリーなメッセージの道具となっているので、今更感はある。まあ、ドキュメンタリーやルポルタージュというジャンルが確立して、今となってはこんな回りくどい批判をする作家はいない。


 そしてもっと言うと現代に生きる僕はこういう物語は、個人的には現代的なSFやファンタジーとは少し違うかな、と違和感を持っている。科学的未来世界や宇宙世界の人間ドラマや冒険ロマンなどを描くのが僕の考えるSFだからだ。その中に一部、微量の味付け程度に上の社会派的な内容がある分には問題ないが、主題がそれだと個人的には読みにくくなる。
 マンガで例えるなら、コスモクリーナーを取りに行く宇宙戦艦ヤマトはおおざっぱには環境にも繋がる。機械の身体をもらいに行く銀河鉄道999は機械世界を危惧する未来への警鐘と捉えることも出来る。こういった一般的な大義名分や万人共通の余地を残しておいて、特定層をターゲットにしないで皆の読み物でないといけない。設定概念を間違えるとプロパガンダ的な御用作品に落ちてしまう。良くも悪くもエンターテイメントではなく、啓蒙家の教科書のようになる。

 一方で社会ではなく個人内面からのアプローチで、ピーターパンのように心理面で幼い頃に自分の中にいた自由な生き方の概念が人物化したのがピーターパン。大人になると忘れてしまう概念の具現化だ。よくこの手の話では心理効果の「ピーターパン・シンドローム」なんていう名称を目にする。まあ今で言う中二病なのかな? ちょっと違うかな?

 この類いとしては隣の垣根の側だが、『ジキルとハイド』にも繋がる。同じ人格の概念化、そのイメージの具現化したモノが自由に動くと言うことだ。勿論『ジキルとハイド』はSFではない。けれどそれに近い内容だ。心の中の葛藤という心理支配を巧妙に使った文学ならではの作品である。
 こちらの分野も扱い方を間違えると道徳論に隣接してしまう。自分の考える正しいことの押しつけを平気でするお馬鹿を生み出すことになりかねない。世の中は様々な見地の人間がいるので、必ずしも自分の言っていることが正論だと思わないことであるし、それが理解できている人は道徳を押しつけたりはしない。自ずと自分だけで実行するのである。場所や時代が変われば正しさも変わるのだ。
 なのでピーターパンは決して清廉潔白な存在では無い。けっこう邪心と無邪気の狭間で無茶を言う存在だ。だって子どもなんだから。
 ファンタジーが児童文学と密接に絡む理屈の原因はこう言った心理効果を物語に載せることに成功したためと考えられている。でもこのセオリーは賛否両論存在している。ここで詳細は割愛するが、ピーターパンやティンカーベルなどを含む妖精などの存在を子どもたちに教えても意味は無いとする考えもある。実在しないものを見ようとする非現実主義の拠り所になるためらしい。
 でも考えて見れば自己体験ではあるが、「のんのさん」と祖父母が言っていた神さま、自然とピンチにあったときに「神さま助けて!」とおさな心の拠り所になっていたのも事実だ。いもしない妖怪が夜に自分のところに来るかも知れないから、神さまに助けてもらって、夜は家から出ないと誓っていたのも幼い自分だ。日本の伝統的な森や自然への信仰には、こういう世界観は馴染んでいるようにも思う。
 結構自分の心の成長には意味のある存在であった。実際は心の中にしかいないのかも知れなくても、気休めでも、子供心に人ではない「なにか」にすがったり、遊んだり出来るのは心の豊かさに繋がると信じたい。そもそも説話文学という古典作品は八割はそう言った部分から派生している。戯作と近代文学は除くと今存在する物語は昔話や民話というその類いとなる。『ゲゲゲの鬼太郎』や『ドロロンえん魔くん』の世界だ(笑)。