節分が終わった。ある意味、異なる区切りの新年の始まりとも言う。時の移ろいの中、最近になっていろいろと人間模様を見つめる機会が増えた。時代が変わったせいもあるのだろう。五十代という年齢のせいもあるのだろうか? リタイアに近い状態で細々と生活を送っている身の上だ。一度きりの人生、謳歌し楽しみたい気もするが、こういう出処進退などというものは、自責ではなく運に任せるのが一番よろしい(笑)。

 

 さて閑話休題としよう。

 文学の勉強がしたくて大学の文学部に入ったころは、もっと文学は理論とか概念のお話が多くて困った記憶がある。その後時代も移り文学は寄り身近にある存在へと変化していった。

 社会も随分とその在り方を変えた。ITやスマホ、GPSと全ての生活習慣を一新していき情報勝者が生活の利便性を手にできる社会に変わってしまった。

 

 それとは逆に昔から変わらない感覚も残っている。モノの考え方だ。

 

 多くの人が思うことに、二十歳を過ぎると時間の進みがはやいという感想だ。これは未だ僕も思っている。いやまだあの頃がついこの間の出来事のように感じるのだ。幼少期や成長期の真っ只中のことは懐かしいと記憶がフィルターをかけてくるのだが、それ以降の記憶は境界線のないままでくすんでいないのだ。そのくせして詳細な記憶は子ども時代の方が良く覚えていたりもする。いい加減な僕故のいい加減な記憶なのかもしれない。

 

 さて恒例行事の節分祭に少しだけ顔を出してきた。神事を遠くから見学して豆まきもこぼれてきたモノを三つほど頂いて帰ってきた。この神社の豆を食べて立春に迎えるのがここ十年近くの恒例となっている。

 

 僕の文学好きには三つの軸がある。先に挙げてしまうと、「神話(なので神社だ)」、「十九世紀文学」、「SF文学」である。SFや十九世紀作品には少しだけ「推理小説」の要素も入るので、四つの軸とも言える。

 

 筆頭の「神話」。とりわけ「記紀神話」である。言わずと知れた『古事記』、『日本書紀』だ。特に僕は本居宣長の著作を囓った経緯もあるので『古事記』側へのシフトがある。でもどちらも好きな日本神話である。「ふることぶみ」と解した音に親近感を持つ。

 

 そして十九世紀文学は「ロマン主義」と「自然主義」が入口だった。欧州から近代のしずくが一滴落とされ、鴎外、漱石などがそれを吸収したパラダイム感の視点で文学をみる近代的方法論。その雰囲気を感じるのが楽しかったため、クセになった。そして翻訳物ではベルヌやジッドなどにも興味をもった時期もあった。

 

 最後はSFと推理。これは僕の青春時代の愛読書による。眉村卓さん、赤川次郎さん、筒井康隆さん、星新一さんなどなど、ジュビナエル小説やショートショートが入口だったが、やがてそれが発展してクリスティやドイルなどにも波及していった。少々ミーハーな部分も否めないが、今っぽくて僕は自分のこの読書遍歴が好きである。

 

 さてさて自己満足の文学雑記。お暇な方だけお寄り下さい。さほど難しいことも書けないし、のほほんとした体験で文学との思い出話をするこの記事。毒にも薬にもならない蘊蓄ネタ、日記として読み流して頂くのが筆者の本望である(笑)。