三島由紀夫(1) | 定年後の風景

定年後の風景

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先日書いた1970年頃の騒がしい事件の一つに、三島由紀夫事件があります。日米戦争も忘れられる今日、48年前のこの事件も、知らない人の方が多い気がします。特に若い方には、学校で教えられる訳でも無く、また、歴史的事件でも無いので、知る機会も殆ど無いでしょう。

 

ただし、作家としては、ノーベル文学賞候補になるくらいですから、文学者のやや詳しい経歴書きの中に、最期が、自衛隊市ヶ谷駐屯地にて割腹自決と異様な事が書かれている位でしょうか。しかし、この事件は、体験した人には、忘れ難い、衝撃的な記憶を残したと思われます。

 

高名な作家で、純文学の一人者でありながら、、テレビに出たり、映画に出演したり、また、自主製作映画作ったり、私設軍隊作ったり、ボディビルで肉体改造したり、写真集作ったり、自衛隊に体験入隊したりと、こうして書くだけても、どれだけ話題性に事欠かない人物だったか解ります。

 

現在に至るまで、これほど、純文学を極めながら、多彩に活動した人物を他に知りません。この活発な活動は、30代中頃から、ボディビル始めてから、始まったと思われます。それまでは、早熟のひ弱な純文学青年でした。川端康成に見いだされて世に出てきました。

 

だから、恩師である川端がノーベール賞受賞した時は、非常に喜んだと同時に、恩師を差し置いて自身が受賞したくも無く、文学賞受賞の可能性は無いと、見ていたと思われます。この頃は既に、三島も筋肉のついた身体になってて、何らかの活動始めてた時期かも知れません。

 

身体が出来てからは、自費で100人の私設軍隊「盾の会」を作り、自衛隊に体験入隊し、自らの肉体を被写体にした、写真集を出したりしてました。「盾の会」は勿論、当時盛んだった、左翼学生運動に対抗する、右翼的団体でした。ただし、実際、訓練は自衛隊の場を借りてしてましたが、実際に左翼と衝突するような活動は無かったです。

 

それで、いよいよ、肉体も出来て、思いを同じくする、集団も出来て、訓練も進んだところで、1970年11月25日の昼頃に、上記場所に、盾の会隊員4人とともに、普段の様子で、総監に面会に出向き、面会中に、突如、総監を人質にして、椅子に縛り、部屋をバリケードで封鎖し、自分は、広いバルコニーに出て、隊員とともに、檄文のビラを撒き、垂れ幕を下げ、自衛隊員をバルコニー前に集合させ、憲法改正のために自衛隊決起を呼びかける演説を、10分間行い、それが叶わぬと、見極めをつけた後、総監室に戻り、自らは実際に割腹自決し、隊員の一人に、介錯させ、さらには、介錯した隊員も割腹し、別のもう一人の隊員が、その隊員を介錯し、その後残りの隊員は、警察に日本刀などを渡して投降して、事件は終わります。

 

平日の白昼の出来事です。私は18歳で、確かその頃は、受験前の高校生だったと思います。学校から帰ってきて、母の言葉と、テレビで事件を知りましたが、その時は、それどころでは無く、事件や三島のことを知ろうとしたのは、世間の騒ぎのずっと、後のことでした。

 

とにかく、異常です。世間が、ハチの巣をつついたように、お大騒ぎになったのは確かです。誰もが、立場立場で、自分の解釈を述べようとする、意味不明の事件です。高名な人間が、ほんとに切腹して、首を刎ねるなど、考えられません。それも二人も。

 

新聞は何ページにも渡って記事を書き、しかも、某新聞の夕刊には、間違って二人の生首が映った写真が、搭載されてしまったのでした。事件現場の、乱雑な室内を撮った写真でしたが、まさか、部屋の片隅に二人の生首が映ってるとは、思わなかったようです。

 

何故、こんな事を今頃書いたかと言うと、11月25日が、三島の命日であった、とともに、当日、某番組で、最近の三島由紀夫の捉えられ方が解ったのも、あったのでした。やはり、経緯書くだけで、長くなってしまいました。続きはまたにします。三島は、その思想や政治性を別にしても、全くの独自性が、やはり気になるのでした。