前回のブログ記事、「黄色いバナナ」の補足記事を書くつもりでいた。
が、amebaが教えてくれる4年前の今日のブログを読み返していて行間がバラバラになっていたり、挿入した挿絵が横を向いているのを見つけてしまった。
にもかかわらず、多くの方からいいねやコメントを頂いていた。
さぞかし、読みにくかっただろうと申し訳なく思った。
と、いうことでその箇所を中心に手直しをして再掲することに。
いま改めて読み直してみると、あちらこちらに脱線をしながらの記事になっている。
しかも、今日の過去記事は長い。
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アジアを抱く 画家人生 記憶と夢
2020年7月23日付
すごい本を手にしたと言うべきか。
それともすごい人を見つけたというべきか。
いや、いや、それも違う。
その方を今までまったく知らなかったということをこそ、ぼくは恥ずべきなのだろう。
富山妙子著「アジアを抱く 画家人生 記憶と夢」(岩波書店)という本のこと。
書き出しの「はじめにー原風景から」を読み始めた瞬間から、その想いにとらわれ続けている。
と同時に、どのような形でこの本(著者)を紹介したらいいのか戸惑ってもいた。
なぜなら、その本に記載されている時間軸は1920年代から2001年までと幅広い。
しかもその活動の空間的な広がりまでもが世界規模で展開されている。
ぼくには本を読むときに、付箋を付けながら読む癖がある。
が、この本に付したその付箋の数が通常の本と比べて異常に多くなってしまった。
それをどうまとめて紹介したらいいのだろうか。
何回かに分けるにしてもその量は半端でないものになってしまうだろうとの予想が容易にできる。
数日考えて出した結論は、その目次だけを紹介すという方法。
とはいっても、それだけではあまりにも味気ないと考えあぐねてコメントでぼやいたところ、ざいにち80さんから背中を押されるコメントを頂いた。
「ぼくらしいものを読んでみたい」とのありがたいお言葉。
ならばということで、少しずつぼくの想いも併せて語らせていただこうと思い直した。
とはいうものの、何回で終ることやら。
では、
まずは、はじめにー原風景から
第一章 若い日 満州から戦時下の日本へ
1 一九二〇年代 神戸
2 一九三〇年代 満州
3 一九四〇年代 戦意下の東京
4 一九四〇年代 戦争拡大と疎開
1921年に著者は神戸郊外の御影で生まれている。
まったくの余談だが、阪急電車・御影駅にはぼくが通った予備校があった。
1931年9月18日には「満州事変」が勃発している。
著者は10歳。
1932年3月には満州建国宣言が出され、その満州国(現、中国東北部)へ著者一家は移住している。
その満州へ行くのは、大陸浪人や一攫千金を夢見る山師か、犯罪者か、食い詰めた者たち、そこに行く女たちは農村や漁村から女郎に売られた「からゆきさん」や流れ者の芸者か、女給たち堅気の人が行くところではない。(中略)それが日露戦争世代の人たちの満州認識だった。
佐賀の農家の三男坊だったぼくの伯父夫婦も満州に渡っている。
当時の日本は長男が親の家督を全て相続するというもので、次男や三男は部屋済みで一生を送るか、思い切って家を飛び出して働くしかなかったからだ。
関西での大学入試に失敗したぼくは晴耕雨読の生涯をおくろうとの想いで、ミカン山を経営していたその伯父の家でお世話になっている。
奇跡的な偶然が幾つか重なって北九州市の大学に入学できたのだが、その話は今日のブログとはまったく関係ない。
おじさん宅でお世話になっていた折に、伯母から満州から引き上げてくる際には顔に墨を塗り頭を丸坊主にした男の姿で逃げ帰ってきたことなどを聴かされた。
が、当時はまだ酒が飲めなかったぼくは、満州協和会のメンバーだったという伯父の話を聴く機会を逃がしている。
19歳だったぼくには、受験勉強以外の知識は何もなかったからでもある。
このポスターを制作したのは拓務省。
本の話に戻す。
1930年代末の満州・ハルビンの様子を、著者は自身の原風景として語っている。
氷点下30度にもなる極寒のハルビンの冬の朝、登校の道路に凍死体がころがっていた。わたしには衝撃的な事件と思える人間の死骸の横を、人々はまったく無関心に通り過ぎてゆく。
また、
戦争の拡大とともに子どもの乞食が増えてきた。一人の子どもに一銭を渡すと、かぎつけた子どもの群れがわたしを囲み、「おいらにもおくれよ」と言っているのだろう。わたしは恐怖で商店に駆け込んでしまった。道路の片隅には、餓死寸前のような赤ん坊を抱いた女が道行く人に物乞いをしているがだれも足を止めない。
さらには、
日没が早い冬の夕暮れのキタイスカヤ街には、少女の娼婦が通行人に寄り添い、客を呼んでいる。
これでもぼくは刺激の少ない箇所のみを選んで転記している。
ぼくも12年前にハルビンを訪問したことがある。
その折、731部隊跡やスラム化した満鉄の社宅跡、伊藤博文が安重根に射殺されたハルビン駅なども訪れている。
伯父たちが見たであろう地平線に沈む真っ赤夕日を見たかったこともハルビンを訪れた理由の一つ。
広々と広がる湿原を眺めながら、よくもまあこの大地を支配できるなどと大そうな夢を見たものだという想いと、その夢を求めて海を渡った若者たちの心情もそれなりに理解できるような気もした。
もちろん、そんな感傷などは侵略者の身勝手な言い分で許されるものではないことぐらいはわきまえている。
しかも、日本人はまだその時代のことを心から謝罪をしていない。
チチハルからハルビンへの帰途に見た満州の大地に沈む夕日。
1938年に著者は両親を満州に残して神戸に戻っている。
1940年代の日本は、
近衛文麿内閣が新体制運動を表明した。大東亜共栄圏を実現するために大政翼賛会が結成され、芸術のすべてのジャンルが国家の目的に統一されることになった。すでに日常生活の米、味噌、マッチ、砂糖など必需品が店頭から姿を消し切符制になってきた。
という。そして、
町内会長が隣組を軍事体制の末端として仕切っていた。隣組常会の寄り合いは趙会長宅で行われ、「天皇・皇后のご真影」を壁にかかげ、たくさんの表彰状の額が並ぶ客間で彼は権威の代弁者として発言した。
また芸術家たちも、
見渡すと画家の多くが絵の具配給を受けられるということから、戦争に協力し、詩人は愛国詩を書き、音楽科は軍歌や隣組の歌などを書いている。演劇人は軍隊の慰問にゆき、ほとんどが戦時体制の中に組こまれていた。芸術家にとって発表の場は戦争協力の落とし穴だ。
と。
ここまで書いてきて、ある危惧が頭に浮かんだ。
2020年今現在20歳の若者の74年前といえば1946年、つまり日本の敗戦直後ということになる。
他方、ぼくが生まれたのは1948年、つまり20歳になったのは1968年。
その年からの74年前といえば1894年の日清戦争。
お分かりだろうか。
ぼくが1945年の日本の敗戦を語ろうとするとき、今の二十歳の人にとっては、ぼくが二十歳の時に抱いた日清戦争のイメージと同じものしか持てないのではないかという事を。
そして、30歳の人にとっても、それは日露戦争だということを。
1930年代や40年代の話は、ぼくの拙い筆力でどこまで伝わるのだろうか。
木口小平は死んでもラッパを話しませんでした。
軍国美談の元になったこの絵の人物をわかる人は何人いるのだろうか?
生まれ育った時代の差を悔やんでも詮無いこと。
このテーマで始めたからには、最後まで続けるしかない。
とはいうものの、先は長くなりそう・・・。
それに、このテーマを連続してアップし続けられるという保証もできない。
とりあえず、「アジアを抱く」というテーマを作ることにした。
全六章の内まだ一章を終えたばかり。
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この過去記事、(1)~(6)までを8月22日まで約一ヶ月間を要して途切れ途切れに続けている。
今、その全てを読み返してみると変換ミスなども多く、いかに推敲がずさんだったのかがよくわかる。
長い文章を読むことはぼく自身も苦手。
またその価値があるのかと自問すると、はなはだ怪しい。
すこし迷ったが、ぼく自身その過去記事に目を通したという証拠のために、リブログをしておくことにした。