富山妙子著「アジアを抱く 画家人生 記憶と夢」(岩波書店)のパート(4)
第三章 時代の迷路 ラテンアメリカ、そして第三世界との出会い
1 一九六〇年代 ラテンアメリカへの旅
2 ラテンアメリカと革命
三池闘争、安保闘争とデモに参加したが、あの闘争はなんだったのだろう。台風が過ぎたたあとの流木が、どこかに漂着したようなわたし。一年近い政治の季節のあいだ、ほとんど仕事をしなかったため、経済的な問題がわたしの背に重くのしかかってきた。
そんなとき、武谷三男氏が、炭坑で体験したことを単行本にしてはどうかといわれる。
と、ここまで読み進んでぼくの眼は止まった。
武谷三男氏の名前を目にしたからだ。
50年以上前、工学部に入学しながら工学を学ぶことの意味を見失っていた時期、ぼくは授業にも出ずにデモに参加するとき以外は、部屋に籠っていろんな本を読み漁っていた。
そのうちの一冊に武谷三男氏の著作があった。
その本の題名も、内容も覚えちゃいないのだが、なぜか「技術とは人間実践における客観的法則性の意識的適用である」という言葉だけは頭に残っている。
ただそれだけのことなのだが・・・。
本旨に戻る。
移民船の見送り風景。
北海道の炭鉱からな南米移民となって出国する一家を横浜港で見送ったことなどを契機に、著者は南米に行くことを決意する。
ブラジルに渡った日本の炭鉱移民を訪ねること、チリの銅山に行って日本との関係を見ること。わたしの次のテーマが拓かれた。
と。
1961年10月の夕闇の中、著者はオランダ船に乗船する。
その航海は、
神戸、沖縄・那覇、香港、シンガポール、モーリシャス島、モザンビーク、南アフリカ、ブラジル・リオデジャネイロ
と続き、船旅は約二ヶ月間を要している。
それぞれの寄港地で見聞きし、考えたことを著者は記している。
が、それらをぼくは割愛しようと思う。
ただし、二か所を除いて。
東アジアの海を公開していたときは、日本が東南アジアでした戦争という罪の重さを考えさせられた。南半球に入ってからは、驚きの連続だ。持参したアフリカ史やブラジル史の本を読み始めると、黒人奴隷狩り、イギリスの奴隷船など、西洋文明の罪の深さを思った。(中略)
南米航路は、西洋文化の裏街道だ。植民地収奪の凄さを知り、南アフリカではアパルトヘイトの黒人差別を目のあたりにした。この航路の旅によって、西洋近代の負の歴史を知って、西洋を見るわたしの視線は代わりはじめていた。
その後日本が経済成長期にあったころ、ブラジルから日系ブラジル人が大挙して移民労働者となって押し寄せた。
2009年、世界同時不況がはじまった現在、日系移民は職場を追われようとしている。移民とは近代産業が生み出す、さまよえる民なのか。
ぼくはこの文章の後半を読み進めながら、現在の技能実習制度を思い浮かべていた。
二度目に務めた会社の現場にも日系ブラジル人が働いていた。
少しでも多くのお金を稼ぎたいと、進んで残業を引き受けていたことを、今想い出している。
その彼は、恐らくもうブラジルに帰っているのだろう。
もう20年以上も昔の話だ。
その後著者はブラジルで知り合った画家の紹介でキューバを訪問し、キューバ危機の発生とともにメキシコにも渡っている。
さらに著者は1967年9月から約4ヵ月をかけて、西アジア、中央アジア、南アジアの遺跡と美術館をめぐる旅にも出ている。
著者の驚くべき行動力には驚嘆するがが、その旅のこともまた割愛しようと思う。
画家としての著者の生き様の内面に触れることは、ぼくなどには出来かねると考えたから。
ただ、それだけでは少々味気ないので、著者がインドで出会った日本の老僧が語ったという言葉を紹介しておく。
「日本の仏教は民衆の生活と無縁なものになりました。わたくしども僧の責任です。仏教は権力者の言いなりになり、葬式を行い、墓を守るだけの葬式仏教になりました。それは正しい宗教ではありません。仏教は人格仏教です」
連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力を尽くさずして挫けることを拒否する(谷川雁)
「1968年 造反有理」と題された文章には、ベトナム反戦運動、米国における黒人の抗議運動、パリの学生・労働者のゼネスト、そして日本の全共闘運動等について触れられている。
が、それをも割愛する。
その時代の端っこを生きたぼくだが、そのことを簡単に総括して語ることなど50年を経た今でも、できないからだ。
もし語るとすれば、その一つひとつの出来事に対して断片的にならできるかもしれない。
ということで、ここでも著者が取り上げていた羽仁五郎氏の言葉を紹介しておくにとどめる。
「原水協はどこからおこったか!杉並区の主婦からだ。戦前の富山の米騒動も貧しい女性たちから起こった。どうも男はふがいなくてね。ぼくもそうだが(笑い)。石を投げなくては歴史は動かない。投げると医師の転がり方から時代は動き始める。さあこうどうしよう」
断わるまでもないが、氏は具体的に投石しろと言っているわけじゃない。
ぼくがもっとも激しく同意できたのは「どうも男はふがいなくてね。ぼくもそうだが」というくだり。
さて、この章の終わりは、
朝鮮の話を聞くと、胸に陣痛がはしる。戦争中に出会ったハルビンの旧友の、朝鮮人のことや、釜山から鴨緑江まで、朝鮮半島を縦断する鉄道で、車中から見た風景が思い出された。1970年、わたしは韓国に行き、その後の人生は韓国の状況とともに動いていくことになる。
という文章で結ばれている。
次章は、
第四章 凍ったソウルの春 韓国民主化運動とともに
1 一九七〇年代 韓国で
2 韓国と日本 光と影
3 女からの問い
4 金芝河の詩とともに
5 光州の光と闇