夙川
ぼくは子供の頃、少なくない数の引越しを経験してきた。
そんなぼくが暮らしてきた土地の中で大好きな場所の一つが夙川だ。
当時ぼくが住んでいたマンションは阪急夙川駅と阪神香枦園駅の中間地点当たりに位置する夙川沿いのマンションだった。父が勤めていた銀行の借上げ社宅である。当時の建物は、阪神大震災で倒壊し既に無いらしい。ぼくは、ここで小学校5年生途中からから中学2年生途中まで生活した。1985年の阪神優勝の頃である。
夙川駅周辺は関西では歴史的に高級住宅地が散在していた地域である。
夙川の位置する西宮周辺はたいへん歴史があり、灘の酒造が多くあることでも有名だ。酒造といえば、江戸時代においては呉服商と並んで為替業務を営む商業の中心的存在である。そして明治の文明開化以降も、阪急の小林一三など多くの企業家がビジネスを展開してきた地域である。だから西宮、芦屋周辺には歴史的な富裕層、名家がたくさん居を構えている。
また南へ足を伸ばせばすぐに海がある。当時家から徒歩10分~15分ぐらいのところに香枦園浜があり、関西近辺の大学生がヨットやカヌーの練習をしていた。wiki で調べてみると、この浜は1965年に閉鎖されるまで、関西を代表する海水浴場であったらしい。ここの海は決して綺麗な海水ではなかったが、潮の満ち引きで風景が大きく変わり、海鳥がたくさん飛来し、夕日がとても綺麗だったことを覚えている。ボラがよく海水から飛び跳ねてもいた。
神戸西宮地区の北側は六甲山脈が連なっている。小学生の頃は、夙川上流にも自転車で上った。上流の夙川は下流と違って水がとても綺麗だった。網で簡単に魚がすくえ、家に持ち帰って飼ったりもしていた。テレビで毎年放映される福男えらびでも有名な西宮神社 もすぐそこだ。
まあ、当時の思い出を全て書くわけにもいかないが、夙川という土地はとても瀟洒でかつ歴史と多様性があるところなのである。ぼくは、ちょうど多感な時期に差し掛かる小学生高学年から中学生の半ばまでをこの土地で生活できたことはとても恵まれていたのだ、と考えている。感性の引き出しを増やす上で、少なからずいい効果があったはずだと思うのだ。
問題意識の源泉
仕事の現場を離れて、大学院生としてすごしてから、これまでの自分の人生を振り返ることが多くなっているように思います。卒業して仕事の現場に戻り、忙しくなるとこのような時間もなくなるとは思いますが。
今日は、ぼくが今持っている、企業経営における問題意識の源泉が、どこにあるのかを振り返ります。
ぼくは97年入社の団塊ジュニア世代に属します。
ぼくら世代が入社してから辿ってきた10年は、日本企業が戦後から積み上げてきた経営システムを、外圧によって、否定され、破壊され、アメリカが求める自由(グローバル)資本主義(株主主権型資本主義)に適したシステムへ構築しなおすプロセスにあった10年だったと思います。
ぼくが入社してからの10年(97年~07年)は本当に激動でした。
ぼくが入社した年に、戦後からそれまで絶対に潰れないであろうと思われていた大手の証券会社(山一)や都市銀行(北海道拓殖銀行)が破綻しました。そしてこれを契機に日本長期信用銀行、日本債権信用銀行といったエリート集団の大銀行も経営破綻していきます。
この間、日本企業は組織をフラット化して中間管理職ポストを減らし、報酬形態を一気に成果主義へと舵を切ります。あの頃は、年功序列、終身雇用を全面否定し、好景気を謳歌するアメリカ型の成果主義システムが絶対的に正しいというような風潮が、世間を支配していたように思います。
この転換期のほとんどを営業の現場で過ごしていたぼくは、転換によって混乱する渦中でいろいろな経験をしてきました。営業現場はミドルマネジメントを中心に運営されています。多くの現場のミドルは、転換のスピードが早いと、これまでの自分の経験をベースに今起こっている出来事を処理・把握できません。また、成果主義が導入されると、職場では同僚同士の競争が激化し、あの頃よくいわれた「勝ち組、負け組」へと同僚同士が区分けされる戦場と化します。つまり、現場スタッフ間の横の関係がギスギスして、助け合いや先輩が後輩に仕事を教えるという精神が欠如していきます。このように、ミドルはトップの意図を正確に現場に伝えることができず、かつ現場でも横の関係が希薄になり、現場は混乱の渦となっていました。
ぼくは、このような現場でキャリアを積んできたからこそ、野中郁次郎教授を中心とした日本の組織論の重鎮の方たちが唱えるミドルがトップ+シニア、そして、ボトムのスタッフと連携していく場のマネジメントの論理や、経営学の大家であるミンツバーグやドラッカーが提唱する日本の終身雇用の効用(終身雇用は多くの「生え抜き」と呼ばれる会社員を育て、そしてこの生え抜きには組織を強くする効果がある)におおいに共感します。
成果主義は、移民の国であるアメリカで発展してきました。言葉も異なり、人種も異なり、宗教も異なるために、密な横の関係で組織を束ねることが難しい移民の国には、成果主義や契約による雇用は有効なシステムでした。
既に上記のような97年からの10年間で導入してきたドライな成果主義的組織マネジメントは、日本において否定される傾向に転換してきています。
ぼくが持っている、有効な組織マネジメントのあり方とは何なのかという問題意識は、上記のような経験から来るものです。そして、この10年で日本企業が経験してきたことの中に、何かヒントが隠されているような気がしています。
今日は、ぼくが今持っている、企業経営における問題意識の源泉が、どこにあるのかを振り返ります。
ぼくは97年入社の団塊ジュニア世代に属します。
ぼくら世代が入社してから辿ってきた10年は、日本企業が戦後から積み上げてきた経営システムを、外圧によって、否定され、破壊され、アメリカが求める自由(グローバル)資本主義(株主主権型資本主義)に適したシステムへ構築しなおすプロセスにあった10年だったと思います。
ぼくが入社してからの10年(97年~07年)は本当に激動でした。
ぼくが入社した年に、戦後からそれまで絶対に潰れないであろうと思われていた大手の証券会社(山一)や都市銀行(北海道拓殖銀行)が破綻しました。そしてこれを契機に日本長期信用銀行、日本債権信用銀行といったエリート集団の大銀行も経営破綻していきます。
この間、日本企業は組織をフラット化して中間管理職ポストを減らし、報酬形態を一気に成果主義へと舵を切ります。あの頃は、年功序列、終身雇用を全面否定し、好景気を謳歌するアメリカ型の成果主義システムが絶対的に正しいというような風潮が、世間を支配していたように思います。
この転換期のほとんどを営業の現場で過ごしていたぼくは、転換によって混乱する渦中でいろいろな経験をしてきました。営業現場はミドルマネジメントを中心に運営されています。多くの現場のミドルは、転換のスピードが早いと、これまでの自分の経験をベースに今起こっている出来事を処理・把握できません。また、成果主義が導入されると、職場では同僚同士の競争が激化し、あの頃よくいわれた「勝ち組、負け組」へと同僚同士が区分けされる戦場と化します。つまり、現場スタッフ間の横の関係がギスギスして、助け合いや先輩が後輩に仕事を教えるという精神が欠如していきます。このように、ミドルはトップの意図を正確に現場に伝えることができず、かつ現場でも横の関係が希薄になり、現場は混乱の渦となっていました。
ぼくは、このような現場でキャリアを積んできたからこそ、野中郁次郎教授を中心とした日本の組織論の重鎮の方たちが唱えるミドルがトップ+シニア、そして、ボトムのスタッフと連携していく場のマネジメントの論理や、経営学の大家であるミンツバーグやドラッカーが提唱する日本の終身雇用の効用(終身雇用は多くの「生え抜き」と呼ばれる会社員を育て、そしてこの生え抜きには組織を強くする効果がある)におおいに共感します。
成果主義は、移民の国であるアメリカで発展してきました。言葉も異なり、人種も異なり、宗教も異なるために、密な横の関係で組織を束ねることが難しい移民の国には、成果主義や契約による雇用は有効なシステムでした。
既に上記のような97年からの10年間で導入してきたドライな成果主義的組織マネジメントは、日本において否定される傾向に転換してきています。
ぼくが持っている、有効な組織マネジメントのあり方とは何なのかという問題意識は、上記のような経験から来るものです。そして、この10年で日本企業が経験してきたことの中に、何かヒントが隠されているような気がしています。
