金沢カレーの歴史 (チャンカレHPより) | スパイシー丸山「カレーなる365日」Powered by Ameba

金沢カレーの歴史 (チャンカレHPより)

1963年までには現在のスタイルが確立したと言われている

 

金沢発祥の金沢カレー。

 

 

その歴史は

 

チャンピオンカレー(チャンカレ)のHPに

 

めちゃくちゃ詳しく載っていますよーー!!
https://chancurry.com/history/

 

と、力を入れて書いても

 

なかなかHPへジャンプしてもらえなかったりするので

 

チャンカレHPより、

 

重要なパートのみを転載してみたいと思います。

 

チャンカレのHPでは注釈の情報がたくさんあったり、

 

貴重な画像がたくさん載っているので

 

このブログ記事をザッと見たあとは


チャンカレのHPでじっくり読んでみましょう。

 

※文中にインデアンカレーが出てきますが、金沢のインデアンカレーと大阪のインデアンカレーは違うお店になります。

 

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金沢カレーの成立
石川県には比較的早くからインド料理専門店などもあり、豊かなカレー文化の根付いた県だったようです。その中で、現在唯一、都市の名前が冠される「金沢カレー」は、他の地域ではみられない特徴的なジャンルです。

 

1950年代
創業者・田中吉和の経歴 ―「ニューカナザワ」以前のこと

金沢カレーのレシピを最初に作ったのは、チャンピオンカレーの創業者・田中吉和です。

 

16歳で洋食の道を志した田中は、当時金沢市内の日銀裏にあった、『ガンコ堂』という洋食屋の店主・早川氏という方の紹介を受け、東京の『東洋軒』へ修行に出ました。

東洋軒には今も残る“ブラックカレー”という看板メニューのカレーがあり、もしかすると田中がカレーに魅せられた遠因になっているのかもしれません。

 

また、『ガンコ堂』は当時石川県内で最も早期にカツカレーの提供を始めた店のひとつとして知られていたようで、田中の人生の節々には早くからカレーの影が見えかくれしているのは面白いところです。

その後、修行を終えた田中は北陸に戻り、石川や富山を中心にレストランやホテルで勤務します。その内のいくつかでは料理長も務めました。

その中には三島由紀夫の小説にも登場する老舗レストラン『狸茶屋』があり、当時狸茶屋が運営していた『繊維会館グリル』で、後に『キッチンユキ』を創業する宮島幸雄氏と既に出会い、共に働いていたようです。

 

1956年
『ニューカナザワ』での邂逅

1956年からは、鉄道弘済会が運営母体である『レストラン ニューカナザワ』に初代チーフコックとして勤務します。
当時の石川県には繊維産業で財を成した名士がたくさんいたそうで、その様な方々に向け作られた瀟洒なレストランがニューカナザワでした。

県内から腕利きのシェフが集められ、その中に田中、宮島氏、後に『アルバ』の運営にかかわり工場長を務めた今度忠氏、野村幸男氏、高田義教氏など…

今の老舗といわれる金沢カレー店の創業者が一堂に会しています。

 

1961年
『洋食タナカ』と、一番はじめの金沢カレーの誕生

田中はニューカナザワで4年ほど勤務した後、1961年に妻・博子の実家である金沢市・高岡町で『洋食タナカ』を開業して独立します。

 

ニューカナザワでもカレーは提供されていましたが、その際に田中の指示の下に作られていたのは通常の洋風カレーだったようです。今でも田中の遺品として保管されている当時のレシピノートでは、野菜やフルーツなどが用いられていたことが確認できます。

 

『タナカ』はほどなく現在の金沢カレーの源流となったカレーを提供しはじめ、これは爆発的な人気を集めました。あまりの人気ぶりに、『タナカ』は徐々にカレー専門店の様になっていきます。

今度氏に直接うかがったところ、『タナカ』では遅くとも1963年までには、現在の金沢カレーとして親しまれるスタイル(ステン船皿、カレーの上にソースの掛かったカツとキャベツが載せられる形式)が確立されていたようです。

 

1964年
レシピを分けた最初の店舗、『インデアンカレー』

同じ頃、ニューカナザワ時代に田中の下で働いていた今度氏は、東京~金沢間の旧国鉄食堂車で働かれていました。今度氏と田中は特に仲が良く、ふたりは食堂車が金沢に着くたびに交流を持っていたらしいです。

今度氏はタナカでのカレー人気とその味に驚き、田中から直接そのレシピを受け取りました。その後、今度氏はそのレシピに独自のアレンジを加え、ニューカナザワの和食部門で働いていた野村氏から請われるかたちで、店舗設立に尽力します。

 

そして1964年、タナカ以外の最初のカレー専門店『インデアンカレー』ができました。インデアンさんは今度氏のメニュー統括の下、金沢カレー史でも最も早くから新しいメニューを積極的に取り入れられた店舗で、最盛期には富山県にも多く店舗展開をされていました。

 

“野菜玉子カレー”(昔を知る方からは通称・ヤサタマとして今も親しまれています)や、 “ハンバーグカレー”など、トッピングの幅を増やされたのはインデアンさんの功績です。そのため、インデアンから独立したお店の多い富山県では、“ヤサタマ”がポピュラーな一方、石川県内の金沢カレー系店舗での提供はまちまちなのです。

 

1965年
『カレーライスのタナカ』として カレー専門店へ

1965年には洋食タナカはこの動きに呼応するように『カレーライスのタナカ』としてほぼカレー専門店となります。

 

1966年
受け継がれる系譜、『キッチンユキ』と『カレーの市民アルバ』

その後の翌1966年には宮島幸雄氏の『キッチンユキ』が創業され、開業には田中や今度氏などニューカナザワ時代の同僚がサポートに駆け付けました。この宮島氏の独立の際に、キッチンユキにもカレーのレシピが伝えられています。

今度氏は長くインデアンカレーに関わられていましたが、1971年にはご兄弟と『カレーの市民アルバ』を創業、現在では“加賀カレー”という二つ名でも愛される老舗です。

石川県民が敬愛してやまない“ゴジラ”こと元プロ野球の松井秀喜選手が星稜高校時代に召し上がっていたのは、アルバさんのカレーらしいです。

 

余談ですが、実は今度氏はアルバさんの立ち上げが落ち着いた後の一時期、弊社の工場長も務められていたことがあり、チャンカレの古参店員にも今度氏から紹介を受けて入られた方がいるなど関係も深く、この記事を作成した2018年時点でご存命の中では最も黎明期の「金沢カレー」をよく知る方でした。

 

本コンテンツの作成にあたっても、2016年に面談の機会を頂いて色々と昔の話をお聞かせ頂きました。本ページの内容の多くには、今度氏に伺ったこともあります。

 

この時期に、相次いで老舗と呼ばれる店舗が設立されたことが、「金沢カレー」成立の土台となっています。

 

巷の評判とはちょっとだけ違う、「金沢カレー」の実像

今となっては特に行き来などの関係はあまりないのですが、老舗の中でも特に『アルバ』さんと『キッチンユキ』さんには、黎明期からこのジャンルをそれぞれに支えてきたという同志感覚と敬意を(勝手ながら)持っています。

これらの店舗さんは元々腕利きの料理人の方が運営をされているため、独自の研鑽を積まれアレンジを加えて発展させられていますから、勉強させて頂く意味で弊社社員からも人気の高い、石川県が誇るお店たちです。

またいずれの店舗も金沢市繁華街より市外の郊外エリアを本拠地としており、「金沢カレー」の名を冠されながらも金沢市内よりむしろ郊外で地元のお客様を中心にご愛顧を頂いていたお店です。

 

そのため、最初に「金沢カレー」と呼称され始めた際には、昔からご存知のお客様ほど、あまりピンと来なかったのではないでしょうか。

「金沢市民や石川県民が等しく食べるもの」というより、一部のお客様から熱狂的に支持を頂いていたものといった方が実態に近かったと思います。ただし、現在ではメディア等でもお取り上げ頂いたおかげで広くお客様からご支持を頂けており、ここ数年で一般化して来ました。

 

『ターバンカレー』から
『カレーのチャンピオン』へ至る経緯

今でもよく訊かれるのが、一部で“金沢カレーの真の元祖”と語られる『ターバンカレー』に関することです。現在のターバンカレーさんは、今も金沢市庁舎のお近くで営業されています。

私たちも『カレーのタナカ』の後に『ターバンカレー』を経て現在に落ち着いた経緯があるのですが、積極的に語るようなことでもなかったため、色々な噂の錯綜するところでもありました。今回初めて、この辺りについても少し記しておこうと思います。

 

1971年
『ターバンカレー』のはじまり

カレーのタナカが軌道に乗り、老舗系金沢カレー店が立ち上がって黎明期を迎えてしばらく経ったころ、当時のタナカに足繁く通って頂いたお客様に地元金融機関にお勤めされていた岡田隆さんという方がいらっしゃいました。

岡田氏はタナカのカレーを気に入って頂いていたようで、お誘い頂いて『カレーのタナカ』の名を変え共同経営としたのが、初代のターバンカレーです。田中は料理の腕に覚えはありましたが、会社経営にはあまり自信がなかったようで、協業に魅力を感じたようです。

 

1971年、現在の香林坊東急スクエアさんの向い辺り、“金沢おでん”で有名な菊一さんの裏手辺りに『ターバンカレー片町店』を新設、同時にカレーのタナカを『ターバンカレー 高岡町店』とした2店舗体制でスタートしました。

それを機に、わずかに残っていたカレー以外のメニューもほとんど廃止、はっきりとカレー専門店の道を歩み始めます。田中はこれまで通り調理や店の切り盛りを担当し、岡田氏が経営を担当していたようです。

 

1973年
2つに分派した『ターバンカレー』と、野々市への移転

ですがこの体制は業務負担の不均衡などからあまりうまく行かなかったようで、2年後の1973年に共同経営を解消し、この時に私たちは金沢市お隣の郊外エリア・野々市へ移転します。

当時、ターバンカレーの店名は商標登録されておらず、田中は名前に愛着もあったことから、店名に苗字を足すかたちの『タナカのターバン』として、長らくそのまま使用していました。

 

つまり、1973年以降は石川県内に『ターバンカレー』と『タナカのターバン』というほぼ同じ名前と外観、ロゴマークのチェーンが2系統存在しており、これは1996年に私たちが『チャンピオン』と名を変えるまで続きました。

2つの『ターバン』は、棲み分けながらもそこから20年ほど共存しました。分裂後、田中は「名前で違いが分からないのだから、より美味しくしなければ」と、洋食タナカ時代から使っていたカレーのレシピにある大胆な変更を加えています。

これはルーの焙煎時間と火力にかかわる変更で、私たちは便宜上この変更前を“旧レシピ”、それ以降用いているものを“新レシピ”と呼称しています。“新レシピ”の詳細は弊社の他、一時弊社のカレーの製造をご担当頂いていた今度氏のみが知っていました。

この部分の評価は味の好みによるため、今となっては優劣で考えるべきものとは思いませんが、少なくとも変更した私たちのカレーはそれまで以上に大きなご評判を頂きました。

また、1970年代は日本のモータリゼーションが本格化した時期で、外食業界がこぞって郊外商圏に進出を始める最初期でもあります。その流れは石川県も例外ではありませんでしたから、この時期に郊外に移転するのは実は理にかなったことでもありました。

 

当時の石川県郊外の主だった外食チェーンといえば『8番らーめん』さん以外にないような状況でした。移転後の私たちの店舗にも金沢市内で頂いていた以上に、一層のご来客を頂きました。どうも田中にはその種の先見の明があった様に思われます。

 

最盛期の『タナカのターバン』野々市町店は、店舗規模が30席で連日1,000名を超えるご来客を頂くまでになり、その間に10店舗ほどのフランチャイズ店舗を増やす機会にも恵まれました。

最盛期には月商で2,000万円を悠に超える売上を作ることができており、確証はありませんが、「郊外立地で単価¥1,000を切る店舗」という条件を付ければ日本国内でも一番に近かったはずです。この時期に『ターバン』という名前は、県内で揺るぎないものとなっていました。

 

1996年
『ターバンカレー』の商標登録と、名称変更

その後、分裂から20年以上を数えた1996年、同年に現在のターバンカレーさんが「ターバン」の店名を商標登録されたことにあわせて、名称使用しないよう通告を頂きました。

弊社が悪いのですが、当時私たちはその種の手続きに非常に疎かったため、その時点まで商標の所有権についてほとんど意識していませんでした。また分裂以降は特に連絡もない中で突然のことだったため、慌てながらも『カレーのチャンピオン』と名称を変更することとなります。

私たちも長らく『ターバン』の名を冠し営業を続け愛着もありましたから、これは決して小さくない変化でした。

『チャンピオン』という名前には「カレー業界のチャンピオンになりたい」という思いが込められている……と説明させて頂くことが多く、それも間違いではないのですが、実はほぼ思い付きです。通告を受けてからほぼ3日間で決まりました。

単純に語感・響きが小気味よかったことと、田中にはゲンを担ぐ癖があり、(『ターバン』と名付けた際も同様だったようですが)「“ン”が付くのは“運”が付くことに通じる」という旧いゲン担ぎから、「“ン”が2つ付くから、より良いだろう」と決めています。

また、この際に赤と黄色を全面的に打ち出す主張の強い店舗カラーへと変化していますが、これは田中の妻・博子が傾倒していた風水を参考に決めたようです。

ちなみに、金沢カレー系最大手チェーンとして知られるゴーゴーカレーさんがほぼ同じようなカラーパターンを採用されているため、県外のお客様では「金沢カレー店といえば赤と黄色」と思われる向きもあるかもしれませんが、石川県発祥の店舗であのカラーリングで営業しているのは私たちだけで、実は一般的とは言えません。

 

……以上は私たちの側から見たストーリーで、違う角度から見た時にはまた違う捉え方があると思います。また、これらをもって店舗間の優劣を論じるつもりはありません。

 

主要店の関係・レシピの流れ

ご参考までに、「金沢カレー」として広く知られる代表店舗を、大元となるカレーレシピの変化を中心に示しておきます。私たちから見たかたちで配置しているため、チャンカレを主軸としていますが特に主従などはありませんし、各店舗がそれぞれにアレンジを加えているため、内容が全く同じことを示すものでもない点はご注意ください。

 

 

※図にあるインデアンカレーですが、金沢のインデアンカレーと大阪のインデアンカレーは違うお店なのでご注意を。


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転載はここまで。

 

以降、金沢カレーのスタイルと製法について

 

貴重な豆知識がさらに載っています。

 

ぜひチャンピオンカレーのHPでご覧になってみてください。

https://chancurry.com/history/



ちなみに金沢カレーという言葉を全国区にし

 

金沢カレーとしては店舗数が最大の

 

ゴーゴーカレーは2004年に東京・新宿で創業。

https://www.gogocurry.com/company/outline.html

 

ルーツはターバンカレーにあるのでした。

 

 

そんな金沢カレーですが、

 

東京でもチャンピオンカレー、ターバンカレー、

 

カレーの市民アルバ、ゴーゴーカレー、

 

番外編ですがアパ社長カレーなど、

 

金沢に行かなくてもけっこう食べることが出来ますよ!!

 

濃厚ルー+揚げ物なのでちょっと重たいですが、

 

都内の金沢カレー食べ歩きも楽しそうですね。

 

 

スパイシ~~♪♪♪

 

 

 

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