vol.399【大峠をゆく・第5章】山口県大ツーリング④ 萩その2 市内散策 萩城 松下村塾他 | 旅ブログ Wo’s別荘

旅ブログ Wo’s別荘

バイク・鉄道・街ブラ・寺社・ネコ^etc・・
とっ散らかしB級旅ブログ^
~~since 2007.6~~

【大峠をゆく・第5章】、山口県大ツーリング、第4回です^ニコ

 

前作は美祢市・秋吉台~萩市へ入ったところまででしたが、旧大嶺支線や萩駅舎を紹介したので鉄分多めでしたw

今作では鉄分なしであせる、萩市内を歩く作にしたいと思います^走る人

萩といえばご存じ、長州・毛利氏の城下町です。

という事で、まずは城跡から行ってみます^かたつむり

萩城跡は、日本海に近い市街地北西にありますチューリップ紫

駐車場にWo号を停め、歩き出すと~

お!ニャンコが・・wネコ

萩城駐車場、管理ニャンコでしたw車

大峠シリーズも既に第5章ですが、猫が登場するのは今作が初めてですw^^ブタネコ

では城跡へ・

初代城主・毛利輝元像が、木漏れ陽の中迎えてくれます黄色い花

濠の近くには萩焼の窯元もあったり、まさに萩ですもみじ

江戸幕府体制になり『外様大名』となった毛利家、幕府に築城を申請した時、現在の「山口市」「防府市」「萩市」の3ヵ所を候補地として具申しましたが、幕府はその中で、江戸から一番遠い萩を指定してきたとの事です・あせる

1604年、江戸幕府発足の翌年に築城しました。

お濠を渡り、城跡へ入ります

(※国史跡)

城跡は「指月公園」ともいい、全体が有料区域です。

まずは天守の跡へ・

天守は残っていません。明治の廃城令で、櫓等とともに全て破却されました汗

しかし、幕末に写真機が伝来していた日本、古写真が残されていますカメラ

登ってみます右上矢印

天守台には~

お~

礎石が見事にカッチリ残っていますキラキラ

高さ14~5mの五層天守だったそうです。

お濠のむこうまで、眺望もなかなか^^目

↑天守跡の海側にあるのは指月(しづき)山です。

萩城の一名も”指月城”といいますクローバー

茶室が残されています。「花江茶亭」といい、.13代・毛利敬親が造営しました。廃城令での破却を免れ、元家臣だった長屋家に引き取られ市中に移築されたそうですが、篤志家の尽力により再び城跡内へ戻されましたお茶

「東園」という日本庭園も、天守の裏手に現存しています。6代・毛利宗広により築庭された、池泉回遊式庭園ですカエル

東園のはずれに↑”展望所”の看板が・

端っこまで来たみたいです男の子

お~~

日本海が見えました!碧く静かにさざめいていました波

萩城さいごに、↑の松を紹介しておきます

「連理の松」といい、アカマツの一種”多行松”という品種ですが、枝の一部が地上近くを這うように伸びていますクローバー

よく見ると、伸びた枝が再び合わさっている箇所が観察できます。この態様を「連理」というそうですが、一旦別れた枝が再度癒着するという、なぜこんな現象が起きるのかホント不思議です。夫婦和合の象徴として親しまれているとの事です・チョコ

(※松に限らず、樹木でまれに起きる現象との事です)

 

-*-*-

城跡を出て、駐車場の向かい側には~

↑なにやら、長~~い屋敷があります。見学出来るようなので行ってみますしっぽフリフリ

この”長~い屋敷”、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋といいます。

1856(安政3)年築、戦災や火災を免れ、ほぼ原形で幕末の姿を伝える貴重な屋敷です。現在萩市内に残る武家屋敷の中で、最も大きなものといわれています。(※国重文)

「厚狭毛利家」、毛利元就の五男・元秋を始祖とする分家(?)で、主に現在の山陽線厚狭駅周辺(※現山陽小野田市)を所領していたことから”厚狭毛利”と呼ばれていたとの事ベル

この屋敷は、厚狭毛利の家臣が萩へ上がった折の詰所だったという事です手裏剣

屋敷建築の際、用材は全て厚狭で調達・加工した上、海路で関門海峡を通って萩まで運んできたとの事(※パンフによる)

1968(昭和43)年に解体修理を行い、美しい姿を保っています波

 

-*-*-

萩城跡を出て、すぐ近くの↑菊ヶ浜の駐車場へWo号を移動させました宇宙人

夏には海水浴場として賑わう美しい砂浜、透明度も日本海有数だそうです波

(※北長門海岸国定公園)

 

↑沖合に島が見えますが、萩市は7つの離島があり”萩六島”等と呼ばれています。うち4島は人住があります。

(※この”六島”ですが、一番沖にある見島を除いての6島を指すと思われます。見島は日本海沖約45kmにポツンとあり、僕はいろいろと興味をそそられる島なんですが、長くなるので今作では割愛します)あせる

萩市の地勢ですが、↑ご覧の通り、中国山地から流れてきた阿武川が市街の手前で橋本川と松本川に分かれ、その間のデルタ地帯に発達したのが萩の街です。実は萩市、広島等と同じくデルタ都市なんですハチ

前作で出た萩駅はデルタの南方、萩城や菊ヶ浜は↑地図の左上あたりになります旗

武家屋敷が残る古い街並は、↑菊ヶ浜のすぐ南側に広がっています。これから歩いてみます走る人

往時の石垣と思われるものが残っています目

↑この立派な門ですが、毛利家別邸屋敷の門だったとの事

現在内部は市のセミナーハウスとなっています。

旅館として活用されているものや、現在も一般の住宅としてお住まいになっている屋敷もあり、現状は様々です家

↑古街と城跡の間から、観光遊覧船が出ています船

旧口羽家住宅等、文化財として公開されている屋敷もあります

↑街路にはクランク状に曲がっている箇所があり、”堀内鍵曲”(ほりうちかいまがり)というそうです。見通しを悪くすることで、敵が侵入した時に迷ったり追い詰めたりしやすいように街を設計したという事です・手裏剣

武家屋敷街は1km弱四方位あり、けっこう歩き甲斐がありますw

しっかり廻るなら2時間位とったほうがいいと思いますあせる

武家街の片隅にあった↑春日神社、本社はアノ奈良・春日大社だそうです霧

↑”晋作広場”の看板を見つけました。

そこには~

高杉晋作像が立っていました。萩は、高杉晋作の出生地でもあります。生家が近くにあるので、見学します目

そんな豪邸ではなくw、わりと小じんまりした感じの家ですわんわん

ご存じ・高杉晋作、今更当別荘で書くまでもないですが、幕末に尊王攘夷の志士として、東奔西走しました。

時には苛烈な行動が仇ともなり、度々投獄や謹慎を繰り返されましたが、そのパワフルな行動力と交流力で幕末の世を泳ぎ切りました。しかし明治維新を見ることなく、その前年、1867(慶應3)年に27才の若さで病死。まさに激動の人生だったと思います・流れ星

毛利氏の城下町、そして幕末には数々の偉人を輩出し、文字通り日本をリードしていた萩の城下街ですが、今は静かに時を重ねています・

 

-*-*-

次はもう1ヵ所、幕末ゆかりの場所へ行きますヒツジ

松本川を渡り、デルタの東側へ来ましたオバケ

萩市の代表駅・東萩駅は松本川のすぐ東にあります電車

前作でご覧頂いた萩駅から約3km北東です。昭和期には萩観光の玄関口だった立派な駅舎ですが、現在は同駅に停車する特急/急行列車はなく、昨年みどりの窓口も廃止され、寂しい代表駅となっています・汗

これから訪ねるのは、松陰神社です。

同神社内に、吉田松陰が開いた塾、アノ松下村塾があります家

神社内には松陰の歴史館もあり、まさに松陰一色ですクリップ

境内の真ん中あたり、小さな建物が・

松下村塾です(※国史跡)

また、2015年に世界遺産へ認定された『明治日本の産業革命遺産』を構成する一つとしても登録されています星

この小さな建物で、先程紹介の高杉晋作をはじめ、伊藤博文や山県有朋ら、明治維新前後に我が国の先頭に立った錚々たる人物たちがここで学びました本

内部も見学できます目

主な部屋は2つあり、当初1部屋だったが塾生が増えたため増築されたそうです。松陰が投獄された等により休講と再開を繰り返したそうですが、明治に入っても後進らが講師を務めて存続、1892(明治25)年に閉塾したそうです・

 

松下村塾の裏手には、「学びの道」という小径が境内に延びています男の子

路傍には、松陰らが残した格言を書いた柱が立てられ、僕はこれらを読んで人生を反省しながら(汗)歩きましたあせる

境内奥・本殿のすぐ脇には、もう一軒の古家が・

この家、杉家旧宅といい、吉田松陰が海外渡航しようとして失敗した時の罪に問われ、投獄された後に幽閉(※現在でいえば軟禁)されていた住宅です。

しかし、当時の禁を破ってまで海外事情をこの目で見ようという心意気というか情熱・知識欲にはホント唸ります。先程の高杉晋作も夭折しましたが、吉田松陰も安政の大獄により、わずか29才で世を去りました。明治政府で活躍する人材を育てた松陰は、自ら明治政府の樹立をみる事なく、幕末の刑場の露と消えたんですね・汗

境内には↑な碑も・

「薩長土連合密議の処」

土佐の坂本龍馬らがこの地で、倒幕の密議をもった場という故事にちなんで建てられた碑。とにかく萩、維新の歴史が凄すぎます・グッド!

 

-*-*-

さらには同神社のすぐ近くには”伊藤博文旧宅”もあります。

どれだけ偉人だらけなのか・・恐るべし、萩w

神社の横は、ふつ~の住宅地ですが、その中に博文旧宅がありますカメ

伊藤博文は、現在の光市で「林利助」として生まれましたが、父が当地の伊藤家に養子として入り、博文も帯同して萩へ移住。その事が松下村塾入塾、そして明治新政府で活躍し、後に初代総理にまで上り詰める契機になったんです。↑の家は、1868(明治元)年に初代兵庫県知事として赴任するまで住んでいました。

旧宅の隣には小さな公園があり、旧千円札でおなじみのアノ顔、博文像もありますチューリップ紫

 

-*-*-

 

萩ブラ、ラストに近づいてきましたが、少し郊外へ出て、維新前後の”産業遺産”を訪ねてみたいと思います。日本海沿いを走る国道181号へ出ますDASH!

↑コンビニと宝くじ売場がある共同駐車場、ここには~

萩反射炉があります。

幕末、大砲鋳造のためつくられた溶鉱炉の跡です。

ちなみにここの共同駐車場、↑『セブン専用』と『宝くじ専用』はありましたが、『反射炉専用』はありませんでしたwあせる

(※空白のマスに駐車可)

反射炉は丘を少し登ったところにあります右上矢印

丘の上には~

見えてきましたクローバー

レンガの塔のような外観、萩反射炉です(※国史跡)

1856(安政3)年、萩藩は先に反射炉の稼働に成功していた肥前・佐賀藩に技術指導を請うたが当初拒否され、再三要請の結果ようやくスケッチだけする事が許されたそうですあせる

萩藩がそれを基に造った独自の試作炉が↑です星

 

・しかし、技術面でうまくいかなかったようで、その後造る予定だった本格炉は着工されませんでした。しかし、幕末そして開国という激動の世に懸命に対応しようと情熱を注いだ当時の人々、ある意味、往時の生々しさを感じる場所です・

現在残っている↑は”煙突部”ですが、その他の部分は残ってないとの事です。

なお、我が国の反射炉で現存するのは、静岡・伊豆の韮山反射炉とこの萩、そして鹿児島にある3基だけという貴重なものです。

先程の松下村塾とともに、世界遺産『明治日本の産業革命遺産』の構成物として指定されていますキラキラ

 

・韮山反射炉ですが、当別荘の過去作で訪ねています。末尾にリンクを貼っておきますのでご覧下さい^^ロボット

反射炉の横には、↑山陰線の線路が走っています電車

反射炉の火は消えましたが、当時の人々の情熱が今なお燃え盛っているような場所です・メラメラ

 

-*-*-

産業遺産、もう1ヵ所行きます。反射炉からすぐの漁港に~宇宙人

幕末の造船所跡が保存されています。

『恵美須ヶ鼻造船所跡』です(※国史跡)

駐車場の前には沢山の解説板が・・

なかなか力が入ってますグッド!

解説板の背後に広がる草地

↑ここが、造船所の跡ですクローバー

ここで1860(安政6)年、庚申丸という船をオランダ人の指導により造った、との現地看板です。

ペリー来航によって、半ば無理矢理開国させられた日本、慌てた幕府はそれまで禁じていた大きな船舶や重武器の製造を各藩に解禁し、それに応えて萩藩も反射炉や造船所を築造したんですあせる

 

萩藩では、先に西洋式船舶を完成させた伊豆へ船大工を視察させたり、前述の通りオランダから技術者を招請したりして、艦船築造を急ぎました船

明治以降は長らく放置され、草むすに任せてきたようですが、2009(平成21)年度から萩市は本格的調査を行い、貴重な幕末の産業遺産だった事が判明。2013年に国史跡の指定をうけたとの事です・キラキラ

現在はひなびた漁港となっている恵美須ヶ鼻ですが、ここに幕末の造船所があったとは、ちょっと意外な感じもします。時代の変化は、ホント早いです・虹

萩市、知れば知るほど深い街です・メモ

 

-*-*-

ちょっと海辺で休憩します、恵美須ヶ鼻近くの、美萩海浜公園へDASH!

前述のように、北長門海岸国定公園に指定されている萩は、海岸の美しさでも知られています波

弓型の砂浜が広がる、静かな海岸宇宙人

しかし、公園横の道路は少々賑やかw

ニャンコの集団がいました^^ネコ

近づくと寄ってきますw

裏手に工場や住宅があるので、近所の方々にかわいがられていると思われますブタネコ

しかしここの猫、車が来ても道の真ん中から動きませんw

なんとも自由な、萩のニャンコでした^^あせる

さらば、萩ニャンコ^虹

 

-*-*-

まもなく日没です、萩市役所まで戻ってきましたビル

ラストに紹介したいのは、↑市役所の向かい側にある長~い建物

これは・

旧萩藩校・明倫学舎です(※国史跡)

当地には萩藩の藩校があり、日本三大学府とも言われる程の高い教育水準だったといいます。(※日本三大学府、当別荘で2015年に訪ねた岡山・閑谷学校も入っています vol.201参照)

廃藩置県で藩校は閉校、その跡地には、新学制による小学校が入りました。その名も明倫小学校、2014年までこの木造校舎が使われていましたベル

『日本一長い木造校舎』とも言われる、この旧明倫小校舎、2014年に移転後、旧校舎を改修し、2019年『萩・明倫学舎』観光拠点としてオープンしました。一部教室の復元とかもしているそうですドア

残念ながら夕刻で閉館時間直前だったので内部見学は控えましたが、まずはここで情報を仕入れてから城下町見学も良いと思いますグッド!

藩校当時の門や武道場は原形の姿で保存されていますキラキラ

 

本日の日程、終了しました、市役所前をあとに、宿の山口市へ一旦戻りますリサイクル

 

・いかがでしたでしょうか、城下町として歴史の薫り溢れ、維新前後の激動の史実にも思いを馳せられる街、一体何人いるのかという程の偉人をも輩出している、ホント実に深みのある街です。現在人口わずか4万余という事ですが、そんな事を微塵も感じさせない風格ある街、さすがは山口県を代表する観光都市・萩です星

 

・今作ここまでです!ニコ

次作は日本海側の街を、もう1ヵ所訪ねます。次の街が今シリーズさいごの街となります。それはどこなのか?次作をお楽しみに^^グッド!

 

ヒマワリ関係作リンク↓

 

☆韮山反射炉

vol.139 2013ツーリング始め 早春の伊豆、スキマ旅(清水町柿田川湧水・韮山反射炉他) | 旅ブログ Wo’s別荘 (ameblo.jp)

 

☆閑谷学校

vol.201 岡山ツーリング(後編)備前/播磨国境をゆく^ 閑谷学校~赤穂御崎 | 旅ブログ Wo’s別荘 (ameblo.jp)