何でもアル牢屋 -9ページ目

何でもアル牢屋

誠に勝手ながらフォロワー申請を御断りさせて頂きます。商売目的の方からの申請が多い事が理由の一つですが、フォロワー数で優劣を競い合う風潮が嫌いなので無い方が良いのかなと。御理解頂きますようお願いします

これを書いてる日に、テレビで<流行語大賞のノミネート>について取り上げていた。歳のせいなのか判らないが、下らないなと思ってしまった。似た様な催しに<今年の漢字一文字>と言うのがあるが、毎度ながら、これも下らないなと思った。
日本と言う国は、何事も下らなくなっているのではないか?と感じてるのは私だけじゃないのだろう。テレビ離れ、活字離れ、これも下らないから離れていく。テレビは下らない事をひたすら取り上げ、視聴者から愛想をつかされる。活字離れにしても、本当の理由は優秀な書き手が居なくなってるから起きていると私は勝手に思っている。と言う事は、本を読まなくなった世間が悪いのではなく、本を売る側に責任があるのだろう。メディアは、そこを判っていながら認めようとしない。何故、認めないのかと言うと反応が怖いのだろう。

メジャーリーグの大谷報道はどうか。私は、大谷報道は<報道ではない>と思っている。分類すれば情報であり、キャラ弄りをしている辺りはエンターテイメントなのだろう。そう思う根拠に、まず、大谷の記録を世間が知った所でどうなる?と言う素朴な疑問がある。この部分を突き付けると、メディアが次に返すのは<経済効果>と言う言葉で、最近メディアは、言葉に詰まると決まって二つの言葉を出してくる。その一つが<経済効果>であり、もう一つが<多様性>と言う言葉。
経済効果って言う言葉も大嫌いな言葉で、この言葉には何か厭らしさが纏わりついている。儲かればいいだろう的なニュアンスがある。勝てば官軍みたいな響きもある。

下らないと思う背景には何があるんだろうか?と考えてみる。
損得勘定、合理主義と言う要領の良さに拘っている風にも見える。自分の身にならない事は時間の無駄と考え、何かしら自分に利があると思えば多少は食い付く。活字離れと言っても、全ての本を読まないと言うのではなく、自分の役に立つ事なら読むと言う意識らしい。要するに、役に立たないエンタメ本ばかりが商品化され本棚を埋めていく。御蔭で本屋は売れない本で溢れ、客足が減るから潰れていく。

出版側にも大いに問題があるだろう。年間、一体どれくらいの新人作家が誕生するのか。デビューしたのはいいが、それっきりと言う流れが普通になる。結果、新人作家は世の中に溢れる。嘘か本当か、我々が日々、無料で読んでいるネット記事は、編集者が書いているのではなく、安い金で雇われた<売れない作家達>なのだと言う。有り得ない話ではないなと思う。その記事に腹を立てて、代理戦争を始めるネット住民達。配信側が笑っているのが目に見えてくる様である。

<生き急ぎ>なんて言葉もある。これを最も実践しているのが大谷翔平だろう。出来る事をやるが口癖の彼は、人生の設計書通りに、とにかく急いで打って、急いで走る。記録尽くしの2024年になったが、人生の計画書に書き忘れたのは、身近な人が災いを運んでくると言う予期せぬ事件だった。
人生の計画書と言う言葉は、実の所、流行語大賞にノミネートされてもイイと思ってる。勿論、皮肉な意味で。マスコミが馬鹿だと思うのは、上手く行った人だけを参考にしてしまう事で、そんな物を推奨して失敗の連続だったら、どう責任を取ってくれるのか?取る義理など無い。それがマスコミの言い分だろう。
今年の大谷騒ぎを客観的に眺めてると、日本国民は大谷翔平の様に生きるべきだと言う風に聞こえてくる。いわゆる<大谷基準>。
何処かのワイドショーで、「大谷はターミネーターだ」と声を大にして言った識者が居た。その識者は間もなくして降板になった。タイミング的に改変期とか一身上の都合と言った感じではなく、明らかにターミネーター発言による影響だと言う事は視聴者に伝わってきた。それで判るのは、この識者は大谷が嫌いなのである。それを公共の電波で発散したまでは気持ち良かったが、その後、消された。この識者は「大谷は嫌いだ」と言った訳ではなく、悪口を言ってる様なニュアンスに取られたから睨まれてしまった。
こう言った出来事を見てると、一種のと言うか、それなりの宗教が出来上がったと思う。宗教の条件とは何か?

1:そこにカリスマが居る事

2:崇拝者が居る事

3:そのカリスマが人を狂わす才能を持っている事

4:カリスマを守ろうとする人が居る事


見ようによっては宗教とは、下らない馬鹿騒ぎと取る事も出来る。関係の無い人は、どうでもいいじゃないかと知らんぷりする。宗教の怖い所は、その知らんぷりを許さない所にある。

「なんで、あの人の悪口を言うんだ!」

「なんで、一緒になって応援しないんだ!」


こんな言葉で目の前に迫られると怖くなってくる。同意しないと何をされるか判らない。もしかしたら、次に刺してくるかもしれない。人に危害を加えるのは神でも悪魔でもなく、人自身なんだと言う事を「女神転生」と言うテレビゲームが教えてくれる。実に説得力がある良質なゲームであった。

思うに、日本はドライな人達が増えたんだと思う。何事にも冷めている。損得勘定が優先し、合理主義になると人間関係も希薄になってくる。何をすると楽しいか?とか、充実感とは何か?とか、情報過多で混乱を起こしているとも言える。
情報過多が人を狂わせているんだとしたら、その原因はネットだろう。一つの結論だが、ネットで世の中の動きを知った様な気になっている人達よりも、ネットに依存しない生活を送っている人の方が幸せな人生を歩んでいる様な気がする。

私が今、最も尊敬する人とは、そう言う人達である。

 

人気ブログランキングでフォロー

1984年、多くの日本人が一人の役者に魅了された。山下真司。スクールウォーズの滝沢賢治先生である。
最近、BSのテレビ番組でスクールウォーズの再放送を観る機会があり、全26話、食い入る様に真面目に観た。多くのメディアで語られる有名過ぎる名場面も、次に何が起きるのか判っていながらも、思わず息を殺し、瞬きすら忘れ、見入ってしまう。一体、この山下真司の圧倒的な存在感は何なんだろうか?何故、滝沢賢治に人は魅了されたのか?これを観た後、山下真司と言う人物に好奇心が湧かない筈がない。

 

 

彼の役者としての経歴を見ていると、その殆どがスクールウォーズの影響を受けている事が伺える。それ以前に、刑事ドラマ「太陽にほえろ」のスニーカー刑事を演じているが、ハッキリ言って滝沢賢治と言うキャラはスニーカー刑事を凌駕している。
ある作品では、山下真司演じる刑事の役名が滝沢と言うのも偶然ではあるまい。明らかに制作側が狙ったとしか思えないし、共演者の一部がスクールウォーズに出演した俳優と言うのも偶然ではあるまい。どう言う事かと言えば、山下真司は愛されるべき俳優であり、永遠の滝沢先生なのである。

時代がVHSのビデオからDVDに変わり、スクールウォーズもDVD化され、レンタルで全巻視聴した私だが、特典のコーナーで山下真司や生徒役の松村雄基のトークが収録されており、当時の撮影秘話や共演者との想い出が語られる。一番の驚きは、山下真司がラグビーのラの字も知らなかったと言う事実で、当然ながら用語も全く判らないのだと言う。そんな事実を聞かされながらも視聴者は納得がいかない。だとしたら、あの迫力や存在感は、どう説明すればいいのか。作品の中の山下は、完全無欠のラガーマンなのである。どう見ても、そうとしか思えない説得力がある。
それこそが役者の持つ力なのだとすれば、山下真司と言う俳優は、レベル的には、どの辺に位置している俳優なんだろうか?大御所や天才と言う位置付けではない。ある種の圧倒的なキャラで魅了する点で言えば、森田健作に近いんだろうか。両者の共通点は<熱血>と言うキーワードではあるが、それだけでは割り切れない何かがある。

スクールウォーズから後年、山下真司は各方面でスクールウォーズ絡みのテレビ出演やイベントで、滝沢賢治のキャラを笑いに変える傾向があるが、内心どう思っているのかまでは判らない。仕事として割り切っているのか、仕方なくやっているのか。
一つ判るのは、山下真司と言う俳優にとって、スクールウォーズと言う作品が無かったとしたら、今が無いのかも知れないと言う事で、例えば最近、バラエティー番組でよく見かける藤岡弘と言う俳優も、初代・仮面ライダーと言う肩書きが無ければ、メディアから相手にされない気取り屋の変なオジさんとしか見られないだろう。藤岡にとっても、仮面ライダーと言うキャラは利用すべき絶対的なモノである筈で、その点では藤岡弘と山下真司は似ているかもしれない。

スクールウォーズの話題に戻ると、放送が84年と言う事は、昭和50年生まれの私は9歳の少年だった訳だが、リアルタイムでは観てなかった。何処で観たのかと言えば、小学校から帰ってきて、夕方枠の再放送で観ていた。私の世代は、そういう人が大半ではないかと思う。
で、どう感じたのか?と言えば、何故か薄ら笑いを浮かべながら観ていたと言うのが記憶で、その薄ら笑いが何処から来ていたのか想い出すと、やはり絵的な面白さだったのではないかと思う。例えば、オープニングで麻倉未稀が歌う主題歌に乗せて流れる映像などは強烈なインパクトだった。本屋で堂々と万引きしてる最中、止めに入る店員が眉毛の無い怖い不良に殴られてる場面とか、テニスコートで部活に励む部員に、バイクで乱入して荒らし回る場面であったり、小沢仁志が演じる水原の兄貴分の藤堂さんが滝沢に放つ、リズミカルなパンチだったり、水原の子分だったがまともな人間に成長する内田と言う厳つい生徒が、学習ノートに同じ漢字をビッシリ書き込んでいたりするシーンなどにしても、子供ながらに感じる<何か得体のしれない絵的な面白さ>の要素が盛り込められている訳である。
シリアスの中に笑いがあるのか、それとも、笑いの中にシリアスがあるのか。このボヤけた所がスクールウォーズの魅力の一つなんだろうと思う。

改めて観ると、全26話と言う回数に不思議感を覚えた。何だか、もっと長く感じるのである。この感覚は何故なんだろうと考えてしまう。
84年10月6日から85年4月6日までの2クールが放送期間だった訳だが、子供の頃に観た感覚だと、半年以上やっていた様な感覚がある。実際そんな筈はないのだが、不思議である。有名な109対0で大敗し、滝沢がロッカールームで生徒を殴り倒すシーンは、随分後半の様に思えたが、実際はかなり前の回だった。名物キャラだったイソップと言う綽名の生徒が登場し、死ぬまでの回も意外に短いなと感じた。子供の記憶は曖昧でアテにならないと言う事なんだろうか。

 

そして90年。前作から6年後、まさかの続編「スクールウォーズ2」が同局のTBSで放送された。あの滝沢賢治が帰ってきたと言う宣伝文句は中々の衝撃だった。
学園モノから一変、舞台は少年院になり、その少年達にラグビーを教えると言う話。率直に何故、少年院の少年にラグビーを教えるんだろうと言うのが最初の印象だった。前作のスケールと感動には程遠く、1990年9月4日から1991年1月8日と言う有り得ない中途半端な回数で終了し、物議を醸したが、丸山みゆきが歌う主題歌の「FIRE」だけは偉いカッコ良く、作品から浮く様に印象に残っていく。この主題歌を聴いていると、前作に対するオマージュ的な要素を感じさせてくれる。ロックな感じと、麻倉未稀っぽさが何処となく見え隠れしているのである。
実の所、これを書いている日にBSで「スクールウォーズ2」の再放送が始まる。DVD化もされていない、この作品。ハードディスクに保存しながら存分に懐かしさに浸ろうと思う。

 

 

 

人気ブログランキングでフォロー

外国俳優のクリス・クリストファーソン、往年の名女優・マギー・スミス、日本ではイラストレーターの山藤章二。連日、有名人の死去報道がネットを賑わせている最中、目に留まった記事があった。

 

唐沢俊一、2024年9月24日死去。享年66歳。
 

この名前と記事の写真を見たのは実に何年ぶりだろうか。私が20代の頃に、よくテレビで見掛けた顔だった。いつも黒っぽい服を着て、頭には金田一耕助みたいなカマ帽を被っている。独特な嫌味を醸し出す声と喋り方。私の印象は、何か判らないが<いつも怒っている人>。そんな感じだった。

今も昔も、テレビには素人とプロの境界線が曖昧な人達が存在している。
当時、唐沢俊一をテレビで観ていた時、何をやっている人なのか判らなかった。ウィキペディアによると、日本のカルト物件評論家、コラムニスト、ラジオパーソナリティ、劇作家、演出家。元朝日新聞書評委員・・・これでは肩書と言うより、取り合えず無理やりこじつけたとしか思えないし、そのどれもが中途半端である。
オタク評論にしろB級評論にしろ、この評論家と名乗る人は勝手に名乗っているだけの人達な訳で、当然ながら、そんな肩書で飯は食っていけないし、小銭稼ぎをした所で埒が明かない。不思議な事にテレビと言うメディアは、そう言った人達を何処からともなく連れて来ると言う習性を持っている。
80年代から90年代初期に至っては、超常現象、心霊、未確認飛行物体、UMA、こう言ったオカルトが流行った時期で、謎の霊能者がタレント化し、テレビは大いに彼等を活用した。冝保愛子や織田無道、矢追純一が代表的な人達だろう。こう言った流行にテレビは、もう一工夫する。彼等に反抗する人達を仕向け、口論バトルを展開させる。つまり視聴者に喧嘩を見せる。視聴者は、その喧嘩を面白がる。すると視聴率は上がる。その悪乗りでスポンサーが増える。こう言う仕組みだった。

今現在、テレビ業界は<一般の素人>の起用を辞めている。辞めた原因の最大の理由は、一般の素人は怒りを抑えきれず、すぐに怒り出すからだった。
テレビタレントは、他者からの悪口、誹謗中傷に慣れている。それは彼等が訓練されているからで、一般の素人はそうはいかない。番組中、タレントが冗談半分でからかったりすると、血相を変えて怒り出す。タレントの方は、まさかこの程度で怒り出すとは思わないからビックリする。すると番組は異界と化し、スタジオに居る共演者も唖然とし、視聴者も、その妙な雰囲気に気付く。

「これって、ヤラセとかドッキリじゃないよね?」

それどころじゃなく、番組の進行が完全に止まった状態。この流れを作ったのは、明かに素人の出演者であった。
プロのタレントではない唐沢俊一には、そう言う所があった。業界用語では、進行を妨げる<壊し屋>とか、生放送中に危ない発言をする輩を<ボンバーマン>とか言うらしいw
今は違うが、売れる以前のマツコ・デラックスにも、そう言う危なさがあった。彼はワイドショーのコメンテーターをしていた時期があって、司会者がネタを振る度に危ない発言が返ってきた。そんな緊張感が嫌で、番組は彼を卒業と言うオブラートな表現で辞めさせてしまった。そんな危なさが今でもあるのか、彼が生放送をやってるのは東京MXのマイナー番組「五時に夢中」だけで、他は全部、編集の出来る収録だけである。

会った事も話した事も無いが、唐沢俊一と言う人は、世間とソリが合わない人だった気がする。自分には没頭するモノがある。それは楽しい事だ。何故、他の連中は判ってくれないんだと言う戸惑いと怒り。今時のネット住民と言われる人達が正にそうだろう。怒り易く、人の迷惑を考えない。自分が楽しいと思う事だけを優先する。自分と何の関係もない事に怒り出し、ネット記事を見つけてはコメント欄に書き込み、聖戦の如く代理戦争を始める。
今にして思えば、唐沢俊一って言う人は、その先駆けの様でもあった。更に言えば、唐沢俊一みたいな人達が、日本に一杯出てきた。そういう意味では、唐沢俊一と言う人は決して過去の人ではない。むしろ、早く出過ぎた<時の人>なのかもしれない。

 

 

みうらじゅんと言う人が居る。御存知、サブカルの帝王である。

みうらじゅんと唐沢俊一は同じタイプの様な気がする。趣味を愛し、探求心を持って分析や考察をし、モノを集めたりする。だが、みうらじゅんは愛され、唐沢は嫌われた。それは何故か?何故違うのか?誰か説明できる人が居るのか?こっちは愛され、あっちは嫌われる。何故、そうなってしまうのか?
みうらじゅんに聞けば、きっとこう答える。

「運がイイだけですよ。他に何の意味もありません」

この言葉一発で終わらせるだろう。
みうらじゅんを愛する人達は、彼の趣味に恐れ入ってる訳ではなく、その人柄に惚れ込んでいるのである。何か凄い事が出来る訳でもない。凄い才能で唸らせる訳でもない。にも拘らず、彼の元には人が集まる。まるで漢の劉邦か、三国志の劉備玄徳か、その類としか思えない。

劉邦と劉備の共通点は、大した事は出来ない、これと言った特技が無い、むしろ弱いと言う点だった。その弱さ故に、何かしてやりたくなる、放っておけなくなる、助けてやりたい、何も無くてもイイから一緒に居たいと思わせてしまう奇妙で不可解な天才達であった。唐沢と、みうらじゅんの違いはソコにあった。弱さを見せられるみうらじゅん、自分は強いんだぞと強がってしまう唐沢俊一。この点で二人の個性は分かれた。

唐沢俊一は度々、文章盗用をしていたらしい。簡単に言えば、他の著書から文章を引用し、自分が考えた文章の様に細工して、自分の著書として商品化してしまう。この事に関して彼は「引用のミス」と言う発言をしたそうだが、引用のミスと言うよりは、デリカシーの無さと言った方が判り易いのかもしれない。
引用が悪いのではなく、引用するならするで、本の中に参考文献として明記すれば良いだけの事だったのだが、それをしなかった。本が商品として流通した時点で、そこには礼儀と筋と言う概念が出る。唐沢俊一は、その筋を通さなかった事によって身を滅ぼした。当然、世間に明るみになる。信用を失う。テレビの仕事も来なくなる。出版業界からも総スカンを喰らう。そうして唐沢俊一は忘れ去られていった。
彼の唯一の慰みは動画配信だった。私は思う。盗用の一件が在ったにせよ無かったにせよ、唐沢俊一の居場所は無くなっていたと思う。ネットの普及で、彼の需要が無くなってしまった。その居場所を奪ったネットにすがるしか手が無くなった。何という皮肉だろうか。

唐沢俊一の最期は孤独死だったらしい。誰かに見取られた訳ではなく、自分以外、誰も居ない場所で、暫くの間、遺体は放置されていた。記事によれば9月24日に死亡し、漫画家の弟の元に連絡が言ったのはいつだったのかは公表されていない。心臓から来る体調不良だったとの事なので、見つけたのは担当の介護ヘルパーだったかもしれない。
唐沢俊一の名誉の為に書いておくけど、間違いなく彼には才能があった。書籍があり、世間様に出て来れた時期があったと言う事は、運と才能が無ければ出来ない事で、そう言う天運が一時彼にはあった。
何となく想像してしまう。唐沢が全盛だった時代から時が流れ、日本は大きく変わった。人も社会の仕組みも変わった。多様性なんて便利な言葉も出てきた。表舞台に出る事が無くなった唐沢は、日陰からどう見えていたんだろう。弟によれば、晩年の彼は恨み節であったと言う。社会を憎み、人を恨み、浮世を離れて隠遁生活を送っていた。
唐沢に欠けていたのは、人徳と他人への思いやりだった。もしも彼に筋を通す潔さと、他者に対する愛情があったら、別の運命が待っていただろう。今となってはタラレバと、もしもの世界である。

 

今も昔も「于禁(うきん)が女の三国志」と聞けば、何の事か一発で判るほど有名な作品がある。それが1985年、シンエイ動画と言う会社から制作されたアニメ版・三国志。
これ、映画館用の作品ではなく、テレビ用の三国志アニメ映画と言う位置付けらしい。この作品、テレビがまだアナログ放送で、地上デジタルではない頃に放送された訳だが、地デジになってからテレビで再放送された事は一度も無い。ケーブルテレビ、BSでも放送されない。ウィキペディアによれば、有料のネット動画で観れる様になったらしいのだが、それは論外。あくまでも、テレビで観れなくなった三国志アニメと言う事。
アナログ時代に過去、何度放送されたかは知らないけど、前編、後編の二本立てになってて、前編の初回放送が85年3月20日。後編が一年と半年後の86年8月22日となっている。
この作品、とにかくバタバタしない静かな三国志と言う感じで、中村雅俊が歌う主題歌「夢一途に」が印象的だった。85年は中村雅俊も脂が乗ってて絶頂期でカッコ良かった。独特な籠った感じの歌声が特徴的で、今現在も似た様な人が居ないから唯一無二なのかもしれない。

三国志と言えば武将達の活劇無くして始まらない訳だが、この作品の武将達はドタバタの激しさって無くて、気取った一言で言うと美しく繊細。特に散り際の美しさが描かれている。後編では関羽や張飛も死んでいくんだけど、二人の死に方も工夫されている。
余韻を残す場面が多いせいか、懐かしがる視聴者は、微かに残る記憶を引っ張り出して、あんな場面、こんな場面を想い出して、その想いが募る余りに再び観たがってしまう。私もそうであるw
総体的に良質な三国志であり、史実と違う展開であっても感情的に冷める事は無く、観てる内に引き込まれていく魔法が掛かった三国志と言っても過言ではない。年寄りは懐かしいばかりの作品だが、若い世代が観た感想は、どんな感じなんだろう。若い世代が想いを寄せる三国志は、どちらかと言うと激しさ、熱量、ド派手なアクションに慣れてると思うんだけど、この三国志の静かさが、どれだけ受け入れられるか。その点が興味深い。

次に吹き替えについて書いていこう。
まず曹操を当てた俳優の中山仁。最初、中山仁と気づかなかった人は多かったのではないか?後で知って「あっ!そうなんだ」と感じた人は結構いた筈。劉備役は声優の井上和彦。この人の歴史は深い。今も現役の大ベテラン。偶然なのか、10月に発売される「三国志8 REMAKE」で曹操の役を当てている。まさか、この作品のオマージュなんだろうか。
関羽役には俳優の瑳川哲郎。関羽がリアルに喋ったとしたら、こう言う声で、こう言う喋り方なんだろうなと思わせるほどの威厳を備えている御方。ミスター関羽声優と言っても良い位、素敵過ぎる。私の世代で瑳川哲郎と言えば「大江戸捜査網」の井坂十蔵がガチのハマり役だった。
諸葛孔明の声が富山敬。私の世代の富山敬と言えばゲゲゲの鬼太郎の、ねずみ男。ねずみ男と諸葛孔明と言うギャップが凄い。演じ分ける富山敬はもっと凄い。

この作品の最大の謎は、何故、于禁が女なのか?そして、何故、于禁が女武将として選ばれたのか?って所で、今もって紐解かれていない。
于禁と言う武将を少し説明すると、曹操直属の将軍で、A級の部下が夏侯惇や夏侯淵、張遼や徐晃なんだとすると、もう少しランクが下で、B級武将と言う位置付け。余り優秀な武将としては描かれてなくて、狡猾な汚れ仕事を担当するイメージがある。物語的にも華があるとは思えない于禁が何故、女として描かれなければならなかったのか?正直、推測や憶測も難しい。
例えば制作陣のアイデアで「曹操の部下の誰かを女に変えて、曹操に叶わぬ恋をさせるキャラを作りたいんだけど、誰がイイかな?」と言う会議が行われたとして、何処の誰が「ああ、それだったら于禁が適任ですよ。この人物以外、考えられません」とか超押しの人が居たとしたら、その意図が全く意味不明であるw
 

諸葛孔明はどうか。ボーイズライフを描くには、まだ早い時代であった。だが不思議な事に、諸葛孔明と言う人物は男だか女だか判らない様な中性的な仙人風のキャラとして描かれるパターンは昔からあった。事実、この作品がそうである。見た感じだと、ピーターこと池畑慎之介みたいな風貌をしている。そうやって見ると、なるほど、池畑慎之介は諸葛孔明が似合うのかもしれないなとさえ思ってしまう。
酷い諸葛孔明を描いたのは蒼天航路と言う漫画で、作者が面白がってたとしか言いようがない。孔明に何か恨みでもあるのか?と言う憎しみすら感じた程で、前にやっていたブログで蒼天航路を扱き下ろす記事を書いたらファンからクレームが来た事があった。
蒼天航路と言う漫画は総体的に高評価らしいが、全巻読破した私の個人的評価は、それほど高くない。連載された雑誌も<モーニング>と言うリーマン向けの漫画雑誌で、当然ながら作者も殿方向けにエロを盛り込んで喜ばせていたのだが、三国志人気とは凄いモノで、小学生の子供がモーニングを立ち読みして蒼天航路を読んでいるらしい事がリサーチで判明した。
作り手にとって読者が増える事は素晴らしい事だが、子供にとって教育上、エロやグロの描写は拙いって事になる。その影響もあって蒼天航路は中盤から過激なエログロ描写が減り、描いたとしても序盤程の過激さは潜んだ。つまり蒼天航路と言う漫画は、地味な大人向けから、人気取りの為の少年漫画に化けた。初志貫徹できない妥協を許す漫画になってしまった訳だ。

アニメの話題に戻ると、86年8月22日に後編が放送される。タイトルは<三国志II 天翔ける英雄たち>。
勘のイイ三国志好きならピンと来ると思うが、後編ともなれば確実に武将達が死んでいく。関羽、張飛以外にもスター武将が散っていく。魏軍との乱戦の最中、呉の孟将・甘寧の首が飛び、老いて益々盛んの代名詞になった老将・黄忠は、孤立する関羽の救援に単身突撃して果てる。先にも書いたが、この作品は武将の散り際に拘っている。
こう言った展開に、三国志の物語を知っている人ならば「おや?」と思う筈で、それもその筈、登場の仕方や散り際が演義や正史と違うのである。作り手と言うのは面白いもので、今に至るまで漫画にしろアニメにしろ映画にしろ、関羽の散り際に関しては大体同じである。魏と呉に挟撃され麦城(ばくじょう)と言う小城に孤立して最期を迎える。
このアニメ版の三国志は、張飛の散り際に愛を注ぐ。史実では部下の暗殺によって戦わずして死ぬ張飛だが、このアニメ版は関羽の仇討に呉ではなく魏の曹操に向かって張飛の怒りが爆発する。しかも曹操の手によって果てる。果てる際、確か曹操は、こんなセリフを言う。

「張飛、英雄として死なせてやる」

これは粋な演出であり、三国志を引っ張ってきた張飛ほどの豪傑が暗殺如きで舞台を去っていった事に対する、愛情表現としか思えないのである。

 

 

 

 

 

口には出さないけど皆が思ってる事。大谷翔平は凄い。だけど面白くない。
面白みに欠けるのは、彼が機械的だからだろう。突いて出てくる言葉も面白味がない。何処か血の通ってなさそうな会話をする。事実そうらしい。彼と食事をした者の証言によると、食事の最中もトレーニングの話ばかりしてくるのだと言う。しかも彼は酒を飲まない。何を飲んでいたのかと言うとノン・アルコールのビールだったそうだ。大谷の本音を言えば、ノン・アルコールすら飲みたくなかったのかもしれない。体の事を考え、出来ればお茶系統の方が良かった。どこぞのプロスポーツ選手は、飲み会の席でもプロテインを手放せず、プロテインと酒を混ぜて飲む筋金入りの馬鹿が居るそうだ。
おそらく大半の人が今年の大谷は駄目だろうと思っていた筈で、その理由と言うのは<水原事件>なんだけど、これだけの嫌な事に見舞われながらも、無表情、無感動で打ち続け、走り回り、その活躍ぶりを見せつけられたアメリカ人に付けられたあだ名がロボット。これを誉め言葉と取るか、中傷と取るか。大谷が取ったのは中傷だった。

水原事件を取り調べたのはロサンゼルス市警だった。略してロス市警。日本人にとってロス市警と言う言葉を初めて知ったのは殆どの人が映画であると思われる。それほどにロス市警を舞台にした映画作品が多い。だから馴染みがある。
だが残念な事に、このロス市警の歴史は汚職と隠蔽にまみれていた。凶悪な殺人事件、マフィア絡みの抗争、コールドケースになった猟奇事件も多数。ロス市警は事件の解決よりも、早く終わらせると言う意識の方が高い。そこには面倒臭さとイイ加減さがあり、最も手っ取り早い解決法が金だった。日本には「地獄の沙汰も金次第」と言う諺がある。不思議な事に、その諺は日本では通じず、アメリカでは通用した。それを地で行ってるのがロス市警であった。
 

水原事件には五者が絡んでいる。ドジャース、ロス市警、弁護士、大谷、水原。この五者の中で誰が一番厄介者だったのかと言うと、水原ではなく大谷だった。ドジャースはカリフォルニア州の所有物で、そのドジャースが大谷翔平と言う小さな日本の片田舎からやってきた怪物を10年1000億と言う大枚をはたいて買ったばかりの出来事であった。この騒動はカリフォルニア州と言う一つの州ぐるみによる壮大な事件に発展する事になった。
日本時間の早朝4時頃、NHKで、戦争でも起きたかの如く大袈裟な緊急速報が報道された。カリフォルニア州の大御所まで飛び出してきて「大谷は無実だ」と無表情かつ沈着冷静な真顔で訴えた。報道によると、水原事件は州の法に照らし合わせ、この会見を持って、この事件の終わりを宣言すると言う内容だった。
ハッキリ言って、この大袈裟な映画の様な展開は、水原事件が只事ではない事を余計に思わせてしまう結果になった。つまり大谷サイドは何かを隠している。しかもロス市警が絡んでいる。雇った弁護士の報酬は莫大な報酬を貰う予定で、その総額は大谷がエンゼルス時代に稼いだ金額のほぼ全てに相当する額なのだと言う。そんな額を何故払えるのか?答えはドジャース入団の1000億円だった。後払いは幾らでも出来ると言う算段だった。
私が思うに水原事件は、もっと単純で、その始まりは子供の火遊びだったのではないか?と考えてみる。つまり、水原に対する善意の想いで口座を自由に使わしていた。その権限を大谷が与えていた。当然、パスワードは教える。ロス市警の捜査によると、大谷からパソコンやスマホなどの機器類の提供を受けたそうだが、必ずしも機器類が必要か?と問われれば、そうは思わない。自分の口座を使わせる事くらい口約束で済むからだ。
この時点で銀行はどうなってるんだ?と疑問が浮かぶ。この点について信じ難い報道が展開された。水原が電話口で大谷の声を真似て銀行員が信じ込んだのだと言う。それって無理があるだろうと誰もが耳を疑ったが、その報道は何故か、まかり通った。皆が信用した。一部の人は疑った。その一部が事件の真相を追おうとすると圧力が掛けられた。これが大谷とマスコミとの戦争の始まりだった。

大谷とマスコミの関係は、水原事件を機に少しづつ溝が深まっていった。アメリカと喧嘩をしたくない大谷が選んだ喧嘩相手は日本だった。
水原事件は終わっていないと嗅ぎ回る一部のマスコミとフリージャーナリスト達。結婚した真美子の身辺をうろつくパパラッチ。12億円で買った新居を一度も住まないで売却する羽目に陥った上空からの撮影写真。その全てのイライラとムカつきは、日本のマスコミに向けられた。
プライベートのまとわりつきや誹謗中傷に関しては、ハッキリ言って日本よりアメリカの方が辛辣な筈にも関わらず、大谷の怒りの矛先は日本に向けられた。それは、ある意味賢い。大谷にとってアメリカ人とは、絶対に喧嘩してはならない相手だと言う認識がある。アウェイと言う状況は勿論だが、それ以上に防衛本能の方が大きい。アメリカでは何を書かれても言われても笑う。だが、同じ事を日本がすれば容赦はしない。事実、大谷は日本テレビとフジテレビに脅しをかけた。

「俺を馬鹿にするな。真美子に近づくな。水原事件の真相を追うな。取材拒否より、もっと怖い目に合わせるぞ」

大谷が以前とは違う<人変わり>を起こしているのは歴然とした事実だろう。顔つきも何処となく変わってきた。エンゼルス時代の様な澄んだ目が、今は人を疑う様な目付きをする様になった。その目付きは試合後の日本人記者に対する質疑応答に顕著に現れる。以前は記者の目を見て話していたが、今の大谷は、日本人記者の目を見ない様に喋っている事に気付いてる人が、どれ位いるだろうか?返答も何処となく刺々しくなり、太々しい笑みをする様になった。

「俺はお前ら日本のマスコミが憎い。お前らが俺を困らせてるんだ・・・」

水原事件は大谷翔平と言う子供の様な大人を強制的に変える切っ掛けになった。褒める事しかしてこなかった人達が自分を責めている。人はこうも変わる生き物なのか?と、生まれて初めて人を疑い、野球が詰まらないと感じた。
ドジャースに来なければ良かったと大谷は思っている。ロクな事が無い。自分を取り巻く称賛や畏敬、尊敬、それらがサーカスの見世物染みた模様を呈している。何か気持ち悪さを感じて仕方が無い。その気持ち悪さが何処から来ているのか?

「俺を馬鹿にする奴等を黙らせてやる・・・」

大谷は数字に拘った。数字と言う絶対的な結果を見せつける事で人は黙る。大谷は、自分の価値がホームランだと言う事を知っている。ヒットや盗塁が先ではない。ホームランを打たなきゃ自分で居られなくなると言う強迫観念が、異常なまでの原動力となる。
40-40が済めば50-50だと騒ぎ立てる。これを達成すれば60-60になり、今度は70-70だと言い出す。そうこうしてる間に来年はピッチャーの仕事が課せられている。ピッチャーとして求められる数字は15勝から20勝。ホームラン数は50以上。走れるイメージも定着した今、盗塁数も50以上。

「俺は野球に殺される・・・」

10年後の1000億円は実の所、条件付きと言う事になっている。細かい提示までメディアに公開する義務は無いが、どうにも胡散臭さを感じる契約金ではある。
もしも明日の試合で再起不能の怪我をした場合、その契約はどうなるのか?野球が出来なくなった異国のメジャーリーガーに何処までの恩恵を施すのか?そもそも面倒を見る気があるのか?無いのか?
過去、メジャーリーグは汚い事は何度でもやってきた。薬物による筋肉増強、その体から繰り出された圧倒的な数のホームラン。それが嘘っぱちのインチキだとバレると、ホームランが出にくい<低反発ボール>と言う、いわゆる<飛ばないボール>にコッソリ代え、ホームランを沢山打たなくなるように細工をする。今度はそれがバレた。アメリカの野球ファンは怒った。だが、ファンが怒ったのはインチキ・ボールの事ではなく、ホームランが出ない事に対する純粋な怒りだった。私はこれを知った時、アメリカと日本の野球の質の違いを知った。その違いとは、日本が求める野球がアメリカには無く、アメリカが求める野球は日本には無いと言う事だった。

メジャーリーグに少なからず関係してるかなと思う事を書いておく。先日、フジテレビの報道番組「BSプライム」を観ていたら、ジョセフ・クラフトと言う論客が非常に気になる事を言っていた。

「今のアメリカには誇りが感じられない」

彼はそう言った。
ジョセフ・クラフトと言う人は最近出てきた新鋭の評論家なんだろうか。肩書は外交・安全保障アナリストと言う事らしい。何だかよく判らないが、話を聞いてると中々面白い。ズバズバと鋭い指摘と分析をする。アメリカ人が器用に日本語で話す。鋭い事を言う人は地上波のテレビで使い辛いのか、BSフジのプライムでしか今の所、観た事はなく、他局では見掛けない。
それで、この言葉を聞いた時、真っ先にメジャーリーグの大谷を思い浮かべた。メジャーリーグはアメリカ人が作ってきた文化と伝統である。その文化と伝統が今や日本人に蹂躙されている事実。しかも拍手喝采で迎え入れていると言う現実。私は思う。お前ら悔しくないのか?お前らアメリカ人が調子に乗ってる日本人をやっつけないで何をしてるんだと。何処の誰が大谷をやっつけるんだと。お前たちアメリカ人がメジャーリーグの主役なんだろうと。
ジョセフさんが言った「今のアメリカには誇りが感じられない」と言う言葉は、今やっているアメリカ大統領選の話ではあったが、メジャーリーグにも十分当て嵌まる言葉だと思う。世間はどう思うかと言えば、メジャーリーグと言う大要塞は、一人の日本人によって陥落したんだと取る。そんな事は無いと言う野球好きの人の気持ちは判るつもりだが、世間と言うモノは、そう受け取るのである。
私が懸念するのは、アメリカと言う国で外国人が天下を取る事の危うさと怖さである。大谷は来年ほぼ間違いなく、ベビーフェイスからヒールに転向せざるを得ないだろう。島国から来た田舎者に、大国の王の座に就かれる事の悔しさと忌々しさは計り知れないだろう。謙虚さの裏に野心を秘めたアジア人を、メジャーリーグは本当に歓迎しているのかどうか?
アメリカのスポーツ・ジャーナリストに、聞けるものなら是非聞いてみたい事がある。

「アメリカは大谷翔平と言う日本人を、今後どう扱うおつもりですか?」

私としては、50-50だとか、ホームランの数よりも、そっちの方に興味がある。