何でもアル牢屋 -8ページ目

何でもアル牢屋

趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

ダウンタウンの松本人志の女癖の悪さは昔から有名だった。それを私が知ったのは30年以上前で、その30年前に彼は笑いのネタにしていたし、世間もソレをギャグとして捉え、ゲラゲラと笑って済ましていた。
例えば、アンジャッシュの渡部が多目的トイレでSEXをした事も、30年前だったら笑っていただろう。冗談が通じない世の中になった事を意識している芸能人がどの位いるのか?ビートたけしは、その点を早めに察知した。毎年恒例の、ある深夜番組で、アイススケートの羽生結弦のパネルを指差し「こいつホモだろ」と発言したら、その後、大変な騒ぎに発展した。これが切っ掛けだったのか不明だが、この番組は以降、継続する事は無かった。

松本の女癖の悪さは特種で、彼の場合、女と言う生き物が全てSEXの対象でしかなかった。一人の女と気長に恋愛をすると言うタイプではなく、複数の女を作って目の前の饅頭を食う様に、殿様と大奥の様な関係だった。「今日はお前、明日はお前な」と言う様な、釣った魚にエサはやらないと言うスタイル。
不思議なのは、傍から見れば酷い男でも、何故かホイホイと付いていく女が居ると言う現実だった。そういう男を責めもしなければナジリもしない。そう言う女達からすれば、自分達が遊ばれているのではなく、自分達こそが馬鹿な男を利用して楽しませてやってんだ位の意識がハッキリとあった。
松本の風俗好きは芸人仲間の間でも有名だった。その話題は結婚前ではあったが、そんな情報が出てきてしまうのは、守秘義務を守らない一部の風俗嬢の話からだった。風俗嬢が言うには、松本のチンコは並外れて小さいと言うモノだった。粗チンで性豪と言うのが松本人志であり、粗チンだから精力が弱いと言う理屈など存在しない。

「結婚は芸人を駄目にする」と言っておきながら、松本人志は結婚した。結婚の理由は子供が出来たからだった。
松本はデキ婚について「元々、結婚するつもりだった」と格好つけたが、今となっては、その発言は嘘にしか聞こえず、その実態というのは、複数の女とSEXをし、最初に孕んだ女と結婚すると言う腹積もりだった。嘘を真顔で言える人間と言うのが世の中には居る。芸人ともなれば、その程度の技量は持ち合わせて当たり前なのだろう。
その点だと、相方の浜田は純愛家であった。彼の嫁さんの小川菜摘は女優で、当時の結婚前からすれば、格としては浜田より断然上だった。それなりのメジャーな映像作品の出演歴があり、世間からの認知度も当時の浜田よりは上だった。小川菜摘自身も、自分の付き合っていた男が、こんなに大出世していくとは思っていなかっただろう。それこそ私が食わせていく位の意気込みと覚悟と決意を持っていたかもしれない。
浜田は過去、黒い交際の噂は流れたが、不思議と女遊びで叩かれた事はなかった。それに比べると松本は不純過ぎた。その不純を吉本興業も浜田も知らない筈はない。それこそ「お前って奴は・・・」くらいの認識で、鼻で笑う程度にしか気にもしなかった。

それにしても松本人志は今後どうなっていくんだろう。
被害者とは内々に決着させ、明かに本人の文面ではない文書をマスコミに公開し、相変わらず雲隠れの姿勢は崩さず、それでいて復帰するので応援して下さいと言う。吉本も松本も勘違いしているのは、世間様が自分達を待ってくれていると思い込んでいる事で、世間の反応はどうかと言えば、もう戻って来なくって結構と言う冷たさだった。
平たく言えば、松本は裁判から逃げた。裁判をやっても、どうやら負けが確定したと言う段階で降りた。一軍の将が目の前の戦いを放棄すると、その後、どう言う事が起きるのかを考えなかった点は、吉本からしても浅はかだったとしか言い様が無い。この場合、どうすれば良かったのか?と言うと、負けてもイイから最後まで完走する事だった。戦って負けたなら、世間は、ある程度は納得し、復帰への面倒臭さも、ある程度は軽減した筈。
ゲームに例えると判りやすい。例えばポーカーと言うカードゲームは、最初の参加費を掛けた後、手札が悪ければ降りてもイイと言うルールがある。麻雀ならどうか?麻雀は降りる事が許されない。南二局の時点で、どうやっても最下位確定だからと言って投げる事が出来ない。松本がやった事は、負けると判った時点でゲームを降りた事だった。喧嘩で例えれば、売られた喧嘩を威勢よく買って、勝てそうにないから逃げるのと同じ事だった。

この一件、国内で治まれば御の字で、下手すると再びBBCが出て来て、ジャニーズの時の様な大騒動に発展するケースも考えられる。性被害のスキャンダルを外国は許さない。日本は懲りてないのか?と騒ぎ出しかねない。
泣いて馬謖を斬るかどうか。日本のメディアの尊厳が掛かっている。

 

人気ブログランキングでフォロー

これを書いてる日に、テレビで<流行語大賞のノミネート>について取り上げていた。歳のせいなのか判らないが、下らないなと思ってしまった。似た様な催しに<今年の漢字一文字>と言うのがあるが、毎度ながら、これも下らないなと思った。
日本と言う国は、何事も下らなくなっているのではないか?と感じてるのは私だけじゃないのだろう。テレビ離れ、活字離れ、これも下らないから離れていく。テレビは下らない事をひたすら取り上げ、視聴者から愛想をつかされる。活字離れにしても、本当の理由は優秀な書き手が居なくなってるから起きていると私は勝手に思っている。と言う事は、本を読まなくなった世間が悪いのではなく、本を売る側に責任があるのだろう。メディアは、そこを判っていながら認めようとしない。何故、認めないのかと言うと反応が怖いのだろう。

メジャーリーグの大谷報道はどうか。私は、大谷報道は<報道ではない>と思っている。分類すれば情報であり、キャラ弄りをしている辺りはエンターテイメントなのだろう。そう思う根拠に、まず、大谷の記録を世間が知った所でどうなる?と言う素朴な疑問がある。この部分を突き付けると、メディアが次に返すのは<経済効果>と言う言葉で、最近メディアは、言葉に詰まると決まって二つの言葉を出してくる。その一つが<経済効果>であり、もう一つが<多様性>と言う言葉。
経済効果って言う言葉も大嫌いな言葉で、この言葉には何か厭らしさが纏わりついている。儲かればいいだろう的なニュアンスがある。勝てば官軍みたいな響きもある。

下らないと思う背景には何があるんだろうか?と考えてみる。
損得勘定、合理主義と言う要領の良さに拘っている風にも見える。自分の身にならない事は時間の無駄と考え、何かしら自分に利があると思えば多少は食い付く。活字離れと言っても、全ての本を読まないと言うのではなく、自分の役に立つ事なら読むと言う意識らしい。要するに、役に立たないエンタメ本ばかりが商品化され本棚を埋めていく。御蔭で本屋は売れない本で溢れ、客足が減るから潰れていく。

出版側にも大いに問題があるだろう。年間、一体どれくらいの新人作家が誕生するのか。デビューしたのはいいが、それっきりと言う流れが普通になる。結果、新人作家は世の中に溢れる。嘘か本当か、我々が日々、無料で読んでいるネット記事は、編集者が書いているのではなく、安い金で雇われた<売れない作家達>なのだと言う。有り得ない話ではないなと思う。その記事に腹を立てて、代理戦争を始めるネット住民達。配信側が笑っているのが目に見えてくる様である。

<生き急ぎ>なんて言葉もある。これを最も実践しているのが大谷翔平だろう。出来る事をやるが口癖の彼は、人生の設計書通りに、とにかく急いで打って、急いで走る。記録尽くしの2024年になったが、人生の計画書に書き忘れたのは、身近な人が災いを運んでくると言う予期せぬ事件だった。
人生の計画書と言う言葉は、実の所、流行語大賞にノミネートされてもイイと思ってる。勿論、皮肉な意味で。マスコミが馬鹿だと思うのは、上手く行った人だけを参考にしてしまう事で、そんな物を推奨して失敗の連続だったら、どう責任を取ってくれるのか?取る義理など無い。それがマスコミの言い分だろう。
今年の大谷騒ぎを客観的に眺めてると、日本国民は大谷翔平の様に生きるべきだと言う風に聞こえてくる。いわゆる<大谷基準>
何処かのワイドショーで、「大谷はターミネーターだ」と声を大にして言った識者が居た。その識者は間もなくして降板になった。タイミング的に改変期とか一身上の都合と言った感じではなく、明らかにターミネーター発言による影響だと言う事は視聴者に伝わってきた。それで判るのは、この識者は大谷が嫌いなのである。それを公共の電波で発散したまでは気持ち良かったが、その後、消された。この識者は「大谷は嫌いだ」と言った訳ではなく、悪口を言ってる様なニュアンスに取られたから睨まれてしまった。
こう言った出来事を見てると、一種のと言うか、それなりの宗教が出来上がったと思う。宗教の条件とは何か?

1:そこにカリスマが居る事

2:崇拝者が居る事

3:そのカリスマが人を狂わす才能を持っている事

4:カリスマを守ろうとする人が居る事


見ようによっては宗教とは、下らない馬鹿騒ぎと取る事も出来る。関係の無い人は、どうでもいいじゃないかと知らんぷりする。宗教の怖い所は、その知らんぷりを許さない所にある。

「なんで、あの人の悪口を言うんだ!」

「なんで、一緒になって応援しないんだ!」


こんな言葉で目の前に迫られると怖くなってくる。同意しないと何をされるか判らない。もしかしたら、次に刺してくるかもしれない。人に危害を加えるのは神でも悪魔でもなく、人自身なんだと言う事を「女神転生」と言うテレビゲームが教えてくれる。実に説得力がある良質なゲームであった。

思うに、日本はドライな人達が増えたんだと思う。何事にも冷めている。損得勘定が優先し、合理主義になると人間関係も希薄になってくる。何をすると楽しいか?とか、充実感とは何か?とか、情報過多で混乱を起こしているとも言える。
情報過多が人を狂わせているんだとしたら、その原因はネットだろう。一つの結論だが、ネットで世の中の動きを知った様な気になっている人達よりも、ネットに依存しない生活を送っている人の方が幸せな人生を歩んでいる様な気がする。

私が今、最も尊敬する人とは、そう言う人達である。

 

人気ブログランキングでフォロー

1984年、多くの日本人が一人の役者に魅了された。山下真司スクールウォーズの滝沢賢治先生である。
最近、BSのテレビ番組でスクールウォーズの再放送を観る機会があり、全26話、食い入る様に真面目に観た。多くのメディアで語られる有名過ぎる名場面も、次に何が起きるのか判っていながらも、思わず息を殺し、瞬きすら忘れ、見入ってしまう。一体、この山下真司の圧倒的な存在感は何なんだろうか?何故、滝沢賢治に人は魅了されたのか?これを観た後、山下真司と言う人物に好奇心が湧かない筈がない。

 

 

彼の役者としての経歴を見ていると、その殆どがスクールウォーズの影響を受けている事が伺える。それ以前に、刑事ドラマ「太陽にほえろ」のスニーカー刑事を演じているが、ハッキリ言って滝沢賢治と言うキャラはスニーカー刑事を凌駕している。
ある作品では、山下真司演じる刑事の役名が滝沢と言うのも偶然ではあるまい。明らかに制作側が狙ったとしか思えないし、共演者の一部がスクールウォーズに出演した俳優と言うのも偶然ではあるまい。どう言う事かと言えば、山下真司は愛されるべき俳優であり、永遠の滝沢先生なのである。

時代がVHSのビデオからDVDに変わり、スクールウォーズもDVD化され、レンタルで全巻視聴した私だが、特典のコーナーで山下真司や生徒役の松村雄基のトークが収録されており、当時の撮影秘話や共演者との想い出が語られる。一番の驚きは、山下真司がラグビーのラの字も知らなかったと言う事実で、当然ながら用語も全く判らないのだと言う。そんな事実を聞かされながらも視聴者は納得がいかない。だとしたら、あの迫力や存在感は、どう説明すればいいのか。作品の中の山下は、完全無欠のラガーマンなのである。どう見ても、そうとしか思えない説得力がある。
それこそが役者の持つ力なのだとすれば、山下真司と言う俳優は、レベル的には、どの辺に位置している俳優なんだろうか?大御所や天才と言う位置付けではない。ある種の圧倒的なキャラで魅了する点で言えば、森田健作に近いんだろうか。両者の共通点は<熱血>と言うキーワードではあるが、それだけでは割り切れない何かがある。

スクールウォーズから後年、山下真司は各方面でスクールウォーズ絡みのテレビ出演やイベントで、滝沢賢治のキャラを笑いに変える傾向があるが、内心どう思っているのかまでは判らない。仕事として割り切っているのか、仕方なくやっているのか。
一つ判るのは、山下真司と言う俳優にとって、スクールウォーズと言う作品が無かったとしたら、今が無いのかも知れないと言う事で、例えば最近、バラエティー番組でよく見かける藤岡弘と言う俳優も、初代・仮面ライダーと言う肩書きが無ければ、メディアから相手にされない気取り屋の変なオジさんとしか見られないだろう。藤岡にとっても、仮面ライダーと言うキャラは利用すべき絶対的なモノである筈で、その点では藤岡弘と山下真司は似ているかもしれない。

スクールウォーズの話題に戻ると、放送が84年と言う事は、昭和50年生まれの私は9歳の少年だった訳だが、リアルタイムでは観てなかった。何処で観たのかと言えば、小学校から帰ってきて、夕方枠の再放送で観ていた。私の世代は、そういう人が大半ではないかと思う。
で、どう感じたのか?と言えば、何故か薄ら笑いを浮かべながら観ていたと言うのが記憶で、その薄ら笑いが何処から来ていたのか想い出すと、やはり絵的な面白さだったのではないかと思う。例えば、オープニングで麻倉未稀が歌う主題歌に乗せて流れる映像などは強烈なインパクトだった。本屋で堂々と万引きしてる最中、止めに入る店員が眉毛の無い怖い不良に殴られてる場面とか、テニスコートで部活に励む部員に、バイクで乱入して荒らし回る場面であったり、小沢仁志が演じる水原の兄貴分の藤堂さんが滝沢に放つ、リズミカルなパンチだったり、水原の子分だったがまともな人間に成長する内田と言う厳つい生徒が、学習ノートに同じ漢字をビッシリ書き込んでいたりするシーンなどにしても、子供ながらに感じる<何か得体のしれない絵的な面白さ>の要素が盛り込められている訳である。
シリアスの中に笑いがあるのか、それとも、笑いの中にシリアスがあるのか。このボヤけた所がスクールウォーズの魅力の一つなんだろうと思う。

改めて観ると、全26話と言う回数に不思議感を覚えた。何だか、もっと長く感じるのである。この感覚は何故なんだろうと考えてしまう。
84年10月6日から85年4月6日までの2クールが放送期間だった訳だが、子供の頃に観た感覚だと、半年以上やっていた様な感覚がある。実際そんな筈はないのだが、不思議である。有名な109対0で大敗し、滝沢がロッカールームで生徒を殴り倒すシーンは、随分後半の様に思えたが、実際はかなり前の回だった。名物キャラだったイソップと言う綽名の生徒が登場し、死ぬまでの回も意外に短いなと感じた。子供の記憶は曖昧でアテにならないと言う事なんだろうか。

 

そして90年。前作から6年後、まさかの続編「スクールウォーズ2」が同局のTBSで放送された。あの滝沢賢治が帰ってきたと言う宣伝文句は中々の衝撃だった。
学園モノから一変、舞台は少年院になり、その少年達にラグビーを教えると言う話。率直に何故、少年院の少年にラグビーを教えるんだろうと言うのが最初の印象だった。前作のスケールと感動には程遠く、1990年9月4日から1991年1月8日と言う有り得ない中途半端な回数で終了し、物議を醸したが、丸山みゆきが歌う主題歌の「FIRE」だけは偉いカッコ良く、作品から浮く様に印象に残っていく。この主題歌を聴いていると、前作に対するオマージュ的な要素を感じさせてくれる。ロックな感じと、麻倉未稀っぽさが何処となく見え隠れしているのである。
実の所、これを書いている日にBSで「スクールウォーズ2」の再放送が始まる。DVD化もされていない、この作品。ハードディスクに保存しながら存分に懐かしさに浸ろうと思う。

 

 

 

人気ブログランキングでフォロー

外国俳優のクリス・クリストファーソン、往年の名女優・マギー・スミス、日本ではイラストレーターの山藤章二。連日、有名人の死去報道がネットを賑わせている最中、目に留まった記事があった。

 

唐沢俊一、2024年9月24日死去。享年66歳
 

この名前と記事の写真を見たのは実に何年ぶりだろうか。私が20代の頃に、よくテレビで見掛けた顔だった。いつも黒っぽい服を着て、頭には金田一耕助みたいなカマ帽を被っている。独特な嫌味を醸し出す声と喋り方。私の印象は、何か判らないが<いつも怒っている人>。そんな感じだった。

今も昔も、テレビには素人とプロの境界線が曖昧な人達が存在している。
当時、唐沢俊一をテレビで観ていた時、何をやっている人なのか判らなかった。ウィキペディアによると、日本のカルト物件評論家、コラムニスト、ラジオパーソナリティ、劇作家、演出家。元朝日新聞書評委員・・・これでは肩書と言うより、取り合えず無理やりこじつけたとしか思えないし、そのどれもが中途半端である。
オタク評論にしろB級評論にしろ、この評論家と名乗る人は勝手に名乗っているだけの人達な訳で、当然ながら、そんな肩書で飯は食っていけないし、小銭稼ぎをした所で埒が明かない。不思議な事にテレビと言うメディアは、そう言った人達を何処からともなく連れて来ると言う習性を持っている。
80年代から90年代初期に至っては、超常現象、心霊、未確認飛行物体、UMA、こう言ったオカルトが流行った時期で、謎の霊能者がタレント化し、テレビは大いに彼等を活用した。冝保愛子や織田無道、矢追純一が代表的な人達だろう。こう言った流行にテレビは、もう一工夫する。彼等に反抗する人達を仕向け、口論バトルを展開させる。つまり視聴者に喧嘩を見せる。視聴者は、その喧嘩を面白がる。すると視聴率は上がる。その悪乗りでスポンサーが増える。こう言う仕組みだった。

今現在、テレビ業界は<一般の素人>の起用を辞めている。辞めた原因の最大の理由は、一般の素人は怒りを抑えきれず、すぐに怒り出すからだった。
テレビタレントは、他者からの悪口、誹謗中傷に慣れている。それは彼等が訓練されているからで、一般の素人はそうはいかない。番組中、タレントが冗談半分でからかったりすると、血相を変えて怒り出す。タレントの方は、まさかこの程度で怒り出すとは思わないからビックリする。すると番組は異界と化し、スタジオに居る共演者も唖然とし、視聴者も、その妙な雰囲気に気付く。

「これって、ヤラセとかドッキリじゃないよね?」

それどころじゃなく、番組の進行が完全に止まった状態。この流れを作ったのは、明かに素人の出演者であった。
プロのタレントではない唐沢俊一には、そう言う所があった。業界用語では、進行を妨げる<壊し屋>とか、生放送中に危ない発言をする輩を<ボンバーマン>とか言うらしいw
今は違うが、売れる以前のマツコ・デラックスにも、そう言う危なさがあった。彼はワイドショーのコメンテーターをしていた時期があって、司会者がネタを振る度に危ない発言が返ってきた。そんな緊張感が嫌で、番組は彼を卒業と言うオブラートな表現で辞めさせてしまった。そんな危なさが今でもあるのか、彼が生放送をやってるのは東京MXのマイナー番組「五時に夢中」だけで、他は全部、編集の出来る収録だけである。

会った事も話した事も無いが、唐沢俊一と言う人は、世間とソリが合わない人だった気がする。自分には没頭するモノがある。それは楽しい事だ。何故、他の連中は判ってくれないんだと言う戸惑いと怒り。今時のネット住民と言われる人達が正にそうだろう。怒り易く、人の迷惑を考えない。自分が楽しいと思う事だけを優先する。自分と何の関係もない事に怒り出し、ネット記事を見つけてはコメント欄に書き込み、聖戦の如く代理戦争を始める。
今にして思えば、唐沢俊一って言う人は、その先駆けの様でもあった。更に言えば、唐沢俊一みたいな人達が、日本に一杯出てきた。そういう意味では、唐沢俊一と言う人は決して過去の人ではない。むしろ、早く出過ぎた<時の人>なのかもしれない。

 

 

みうらじゅんと言う人が居る。御存知、サブカルの帝王である。

みうらじゅんと唐沢俊一は同じタイプの様な気がする。趣味を愛し、探求心を持って分析や考察をし、モノを集めたりする。だが、みうらじゅんは愛され、唐沢は嫌われた。それは何故か?何故違うのか?誰か説明できる人が居るのか?こっちは愛され、あっちは嫌われる。何故、そうなってしまうのか?
みうらじゅんに聞けば、きっとこう答える。

「運がイイだけですよ。他に何の意味もありません」

この言葉一発で終わらせるだろう。
みうらじゅんを愛する人達は、彼の趣味に恐れ入ってる訳ではなく、その人柄に惚れ込んでいるのである。何か凄い事が出来る訳でもない。凄い才能で唸らせる訳でもない。にも拘らず、彼の元には人が集まる。まるで漢の劉邦か、三国志の劉備玄徳か、その類としか思えない。

劉邦と劉備の共通点は、大した事は出来ない、これと言った特技が無い、むしろ弱いと言う点だった。その弱さ故に、何かしてやりたくなる、放っておけなくなる、助けてやりたい、何も無くてもイイから一緒に居たいと思わせてしまう奇妙で不可解な天才達であった。唐沢と、みうらじゅんの違いはソコにあった。弱さを見せられるみうらじゅん、自分は強いんだぞと強がってしまう唐沢俊一。この点で二人の個性は分かれた。

唐沢俊一は度々、文章盗用をしていたらしい。簡単に言えば、他の著書から文章を引用し、自分が考えた文章の様に細工して、自分の著書として商品化してしまう。この事に関して彼は「引用のミス」と言う発言をしたそうだが、引用のミスと言うよりは、デリカシーの無さと言った方が判り易いのかもしれない。
引用が悪いのではなく、引用するならするで、本の中に参考文献として明記すれば良いだけの事だったのだが、それをしなかった。本が商品として流通した時点で、そこには礼儀と筋と言う概念が出る。唐沢俊一は、その筋を通さなかった事によって身を滅ぼした。当然、世間に明るみになる。信用を失う。テレビの仕事も来なくなる。出版業界からも総スカンを喰らう。そうして唐沢俊一は忘れ去られていった。
彼の唯一の慰みは動画配信だった。私は思う。盗用の一件が在ったにせよ無かったにせよ、唐沢俊一の居場所は無くなっていたと思う。ネットの普及で、彼の需要が無くなってしまった。その居場所を奪ったネットにすがるしか手が無くなった。何という皮肉だろうか。

唐沢俊一の最期は孤独死だったらしい。誰かに見取られた訳ではなく、自分以外、誰も居ない場所で、暫くの間、遺体は放置されていた。記事によれば9月24日に死亡し、漫画家の弟の元に連絡が言ったのはいつだったのかは公表されていない。心臓から来る体調不良だったとの事なので、見つけたのは担当の介護ヘルパーだったかもしれない。
唐沢俊一の名誉の為に書いておくけど、間違いなく彼には才能があった。書籍があり、世間様に出て来れた時期があったと言う事は、運と才能が無ければ出来ない事で、そう言う天運が一時彼にはあった。
何となく想像してしまう。唐沢が全盛だった時代から時が流れ、日本は大きく変わった。人も社会の仕組みも変わった。多様性なんて便利な言葉も出てきた。表舞台に出る事が無くなった唐沢は、日陰からどう見えていたんだろう。弟によれば、晩年の彼は恨み節であったと言う。社会を憎み、人を恨み、浮世を離れて隠遁生活を送っていた。
唐沢に欠けていたのは、人徳と他人への思いやりだった。もしも彼に筋を通す潔さと、他者に対する愛情があったら、別の運命が待っていただろう。今となってはタラレバと、もしもの世界である。

 

今も昔も「于禁(うきん)が女の三国志」と聞けば、何の事か一発で判るほど有名な作品がある。それが1985年、シンエイ動画と言う会社から制作されたアニメ版・三国志
これ、映画館用の作品ではなく、テレビ用の三国志アニメ映画と言う位置付けらしい。この作品、テレビがまだアナログ放送で、地上デジタルではない頃に放送された訳だが、地デジになってからテレビで再放送された事は一度も無い。ケーブルテレビ、BSでも放送されない。ウィキペディアによれば、有料のネット動画で観れる様になったらしいのだが、それは論外。あくまでも、テレビで観れなくなった三国志アニメと言う事。
アナログ時代に過去、何度放送されたかは知らないけど、前編、後編の二本立てになってて、前編の初回放送が85年3月20日。後編が一年と半年後の86年8月22日となっている。
この作品、とにかくバタバタしない静かな三国志と言う感じで、中村雅俊が歌う主題歌「夢一途に」が印象的だった。85年は中村雅俊も脂が乗ってて絶頂期でカッコ良かった。独特な籠った感じの歌声が特徴的で、今現在も似た様な人が居ないから唯一無二なのかもしれない。

三国志と言えば武将達の活劇無くして始まらない訳だが、この作品の武将達はドタバタの激しさって無くて、気取った一言で言うと美しく繊細。特に散り際の美しさが描かれている。後編では関羽や張飛も死んでいくんだけど、二人の死に方も工夫されている。
余韻を残す場面が多いせいか、懐かしがる視聴者は、微かに残る記憶を引っ張り出して、あんな場面、こんな場面を想い出して、その想いが募る余りに再び観たがってしまう。私もそうであるw
総体的に良質な三国志であり、史実と違う展開であっても感情的に冷める事は無く、観てる内に引き込まれていく魔法が掛かった三国志と言っても過言ではない。年寄りは懐かしいばかりの作品だが、若い世代が観た感想は、どんな感じなんだろう。若い世代が想いを寄せる三国志は、どちらかと言うと激しさ、熱量、ド派手なアクションに慣れてると思うんだけど、この三国志の静かさが、どれだけ受け入れられるか。その点が興味深い。

次に吹き替えについて書いていこう。
まず曹操を当てた俳優の中山仁。最初、中山仁と気づかなかった人は多かったのではないか?後で知って「あっ!そうなんだ」と感じた人は結構いた筈。劉備役は声優の井上和彦。この人の歴史は深い。今も現役の大ベテラン。偶然なのか、10月に発売される「三国志8 REMAKE」で曹操の役を当てている。まさか、この作品のオマージュなんだろうか。
関羽役には俳優の瑳川哲郎。関羽がリアルに喋ったとしたら、こう言う声で、こう言う喋り方なんだろうなと思わせるほどの威厳を備えている御方。ミスター関羽声優と言っても良い位、素敵過ぎる。私の世代で瑳川哲郎と言えば「大江戸捜査網」の井坂十蔵がガチのハマり役だった。
諸葛孔明の声が富山敬。私の世代の富山敬と言えばゲゲゲの鬼太郎の、ねずみ男。ねずみ男と諸葛孔明と言うギャップが凄い。演じ分ける富山敬はもっと凄い。

この作品の最大の謎は、何故、于禁が女なのか?そして、何故、于禁が女武将として選ばれたのか?って所で、今もって紐解かれていない。
于禁と言う武将を少し説明すると、曹操直属の将軍で、A級の部下が夏侯惇や夏侯淵、張遼や徐晃なんだとすると、もう少しランクが下で、B級武将と言う位置付け。余り優秀な武将としては描かれてなくて、狡猾な汚れ仕事を担当するイメージがある。物語的にも華があるとは思えない于禁が何故、女として描かれなければならなかったのか?正直、推測や憶測も難しい。
例えば制作陣のアイデアで「曹操の部下の誰かを女に変えて、曹操に叶わぬ恋をさせるキャラを作りたいんだけど、誰がイイかな?」と言う会議が行われたとして、何処の誰が「ああ、それだったら于禁が適任ですよ。この人物以外、考えられません」とか超押しの人が居たとしたら、その意図が全く意味不明であるw
 

諸葛孔明はどうか。ボーイズライフを描くには、まだ早い時代であった。だが不思議な事に、諸葛孔明と言う人物は男だか女だか判らない様な中性的な仙人風のキャラとして描かれるパターンは昔からあった。事実、この作品がそうである。見た感じだと、ピーターこと池畑慎之介みたいな風貌をしている。そうやって見ると、なるほど、池畑慎之介は諸葛孔明が似合うのかもしれないなとさえ思ってしまう。
酷い諸葛孔明を描いたのは蒼天航路と言う漫画で、作者が面白がってたとしか言いようがない。孔明に何か恨みでもあるのか?と言う憎しみすら感じた程で、前にやっていたブログで蒼天航路を扱き下ろす記事を書いたらファンからクレームが来た事があった。
蒼天航路と言う漫画は総体的に高評価らしいが、全巻読破した私の個人的評価は、それほど高くない。連載された雑誌も<モーニング>と言うリーマン向けの漫画雑誌で、当然ながら作者も殿方向けにエロを盛り込んで喜ばせていたのだが、三国志人気とは凄いモノで、小学生の子供がモーニングを立ち読みして蒼天航路を読んでいるらしい事がリサーチで判明した。
作り手にとって読者が増える事は素晴らしい事だが、子供にとって教育上、エロやグロの描写は拙いって事になる。その影響もあって蒼天航路は中盤から過激なエログロ描写が減り、描いたとしても序盤程の過激さは潜んだ。つまり蒼天航路と言う漫画は、地味な大人向けから、人気取りの為の少年漫画に化けた。初志貫徹できない妥協を許す漫画になってしまった訳だ。

アニメの話題に戻ると、86年8月22日に後編が放送される。タイトルは<三国志II 天翔ける英雄たち>
勘のイイ三国志好きならピンと来ると思うが、後編ともなれば確実に武将達が死んでいく。関羽、張飛以外にもスター武将が散っていく。魏軍との乱戦の最中、呉の孟将・甘寧の首が飛び、老いて益々盛んの代名詞になった老将・黄忠は、孤立する関羽の救援に単身突撃して果てる。先にも書いたが、この作品は武将の散り際に拘っている。
こう言った展開に、三国志の物語を知っている人ならば「おや?」と思う筈で、それもその筈、登場の仕方や散り際が演義や正史と違うのである。作り手と言うのは面白いもので、今に至るまで漫画にしろアニメにしろ映画にしろ、関羽の散り際に関しては大体同じである。魏と呉に挟撃され麦城(ばくじょう)と言う小城に孤立して最期を迎える。
このアニメ版の三国志は、張飛の散り際に愛を注ぐ。史実では部下の暗殺によって戦わずして死ぬ張飛だが、このアニメ版は関羽の仇討に呉ではなく魏の曹操に向かって張飛の怒りが爆発する。しかも曹操の手によって果てる。果てる際、確か曹操は、こんなセリフを言う。

「張飛、英雄として死なせてやる」

これは粋な演出であり、三国志を引っ張ってきた張飛ほどの豪傑が暗殺如きで舞台を去っていった事に対する、愛情表現としか思えないのである。