何でもアル牢屋 -7ページ目

何でもアル牢屋

趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

<長い物には巻かれろ>って諺がある。

物凄く要約すると、世の中の流れに逆らわず、権力者や人気者に纏わりついて、オイシイ人生を送れよって事なんだけど、日本と言う国は御存知の通り、民主国家であり、自分達の意見を持って、考え、答えを見つける権利を持っている。所が不思議なのは、今の日本人は自分で考える事が面倒臭くなって、他人の意見を尊重し、誰々がこう言ったからそうした方がイイみたいな、人任せ的な人が増えた様な気がする。
そうなってくると、実の所、日本と言う国は<共産主義>の方が向いてるのではないか?なんて事を考える時がある。共産主義は、どうするか、何をするかの全てを政治家に任せて、国民は、その通りに行動する。そうなったらなったで、日本人の多くは自分達の自由が利かなくなったと嘆いて反対するに決まっている。自分で決めるのも嫌だ、人に決めて貰うのも嫌だって事になる。
日本人の今を個人的に一言で表現させて頂くと、全てが面倒臭くなった人達って事になる。

全てが面倒臭いと言う流れから見ると、活字離れと言うのも実の所、関連性がある。
 

日本人は何故、本を読まなくなったのか?

 

一部のメディアがアンケートで活字離れの理由を街で聞くと、衝撃的な答えが返ってきた。読まなくなった理由の堂々たる一位は、時間の無駄と言う理由だった。これを出版社や作家達は、どう捉えていいのだろうか。複雑な心境に違いない。
私個人は本を読む側の人間だけど、私は数年前から持論を持っていて、それは<時代は読むから観るに変わった>と言う結論であった。つまり読むより観た方が早くて判り易いだろうと言う単純明快な理屈である。
これはネットの世界でも例えは幾らでもあって、映画レビューと言うコンテンツが流行らなくなったのも、動画で現物を観た方が手っ取り早いだろうと、人々は悟りの境地を開いてしまったからだ。それはその通りだろう。映画レビューと言うコンテンツは、書き手に職人的な作業を求められる。その映画を観て分析し、文字として人を感心させなければならない。所が現物を観た方が早いだろうと言う理屈が通ると、映画レビューと言う企画自体が存在の意味を無くしてしまう。よって、職人的な書き手の需要が無くなる。
寿司屋で例えれば、ガミガミ煩い寿司職人が握る寿司よりも、回転寿司みたいに黙って食える方が気が楽だし、味だって拘りを割り切れれば、そこそこ食える事に人々は気付いてしまう。冠婚葬祭だってそうである。結婚式への拘りを捨てたのは男ではなく、実は女の方だった。一昔前まで、結婚式は何の為にやるのか?と言う議題が上がった事があった。出てきた答えは、結婚式は旦那の為ではなく、女がウェディングドレスを着て輝ける瞬間だからこそやる意義があると答えた人が居た。今はどうかと言えば、殆どの女が結婚式への拘りが無くなったのだと言う。つまりウェディングドレスよりも、友人や知人と盛り上がる飲み会の方が重要度が増したのだそうだ。
家族葬と言う形式の葬儀も、根本にあるのは死人に金を掛ける事の無駄と言う概念から来るもので、これはもう合理主義と言うか、節約の概念と言うか、これも一種の面倒臭いなのだろうと思わざるを得ない。

面倒臭がる日本人は、大きな武器を手に入れた。多様性と言う言葉
この多様性と言う言葉をよく使う人の言葉に耳を傾けてると気付く事がある。自分で説明のつかない事を、何でもありと言う概念で濁そうとする。そういう人に限って、何故か自分と違う考えや違う見方をする人を攻撃する傾向がある。それって多様性に反してるんじゃないの?って突っ込みたくなる時がシバシバある。
多様性が何でもありなんだとしたら、反社会的行動や、非道徳的行為、犯罪だって多様性になるのではないか?犯罪は何故起きるのか?と考えれば、その人にとって、それしか無いからそうするのであって、犯行をする動機が無いのなら犯行をする道理もない。これは多様性では無いのか?と問いたい。誰か納得できる上手い説明が出来るのか?
多様性を犯罪に当て嵌めてはならない。ごもっともな意見が聞こえてきそうだが、では、誰がそう決めたのか?多様性とはポジティブに使うべきであり、ネガティブに使うべきではない。そんな意見も聞こえてきそうだが、自分をポジティブな人間だと思うなら、他人を否定すべきでは無いし、自分がどんなに悪口を言われても、批判をされても、殴られても、蹴られても、人を許すべきだろう。何故かと言えば、その人に悪意があったのかどうかすら、他者には判断する事が出来ないのだから。

真のポジティブとは、その行為に走ったのには何か理由があるのだろうと考えてやる事だろう。

 

 

 

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<推しの子>なんて作品は興味が無いが、齋藤飛鳥には興味がある。今に始まった事ではなく、乃木坂の頃から気になる存在ではあった。
乃木坂時代、他の子とは何か雰囲気が違っていた。他の子が同調意識の中で白々しくやっている中で、一人醒めている感じで、アイドルと言う色に染まろうとしない。素直さが無いのか、変わっているのか、奇をてらっているのか、判断はし辛いが、そういう特殊な存在感を放っていた。

2023年に乃木坂46を卒業。率直に何故、今、卒業何だろう?とは思った。年齢的には、もう3年くらいの賞味期限はあったにも拘らず辞めてしまう。
アイドルを辞めた後、明確に何かをやりたいとか、目標が見えてこない。ひたむきに役者としての修行を重ねてる風にも見えないし、かと言って芸能を今すぐにでも辞めて自由になりたいと言う気配もない。取り敢えずアイドルを辞めて、空っぽにしたい。そんな所なんだろうか。

1:乃木坂を辞めた本当の理由。秋元康との関係性について

波紋が広がるので本人は公表する気は無いだろうけど、乃木坂を辞めた理由と言うのは、プロデューサーの秋元康との方針の食い違いなのではないか?と私は思っている。
その切っ掛けになったのは5期生として入ってきた井上和(いのうえ なぎ)と言う高卒上がりの新人で、彼女の扱いぶりを見ても、秋元の入れ込みぶりは相当なものである事が伺える。方針の食い違いと言うのは、要するに秋元は乃木坂の新エースとして井上を機能させたいと言う強い思いがある。プライドの高い飛鳥からすれば当然面白くない。乃木坂から白石麻衣が去り、生田絵梨花が去り、華のある看板が次々と去っていく中、センターは自分しかいないと思うのは古参としては当然だろう。
だが、その想いとは裏腹に秋元康には違った構想がある。それは両者の喧嘩ではなく、意見の食い違い、方向性の違いであり、あいつが悪い、こいつが悪いと言う次元の話ではない。合わない以上、お別れするしかないのは世の常で、飛鳥からすれば「乃木坂を辞めます」となり、秋元からすれば「いいよ」となる。

2:秋元康と言う男について

以前、やっていたブログで、秋元康を評論した事がある。その時、私が書いたのは、秋元は作るのが上手いが辞めるのが下手と言う内容だった。80年代の<おニャン子クラブ>が正にそうだった。
今時の訓練された大所帯アイドルと比べると、比べ物にならないくらい素人だったおニャン子達は、解散と同時に皆が路頭に迷った。芸能界に残った者、辞めた者、それぞれがバラバラに散っていった。作るのが上手な秋元は、終わった後の後始末が物凄く下手だった。
今現在の秋元を見てても、基本的に昔と変わっていない。彼のモットーは<去る者は追わず>で、辞めて去っていく者を追う事が無い。乃木坂のメンバーに関してもそうである。辞めると言ってきた子に、未練たらしく「どうして?何で辞めちゃうの?」みたいな事は言わない。「うん。判った」の一言で終わり。メンバーからすれば、引き留めてくれないの?って突っ込みたくなるほどアッサリしている。
だが、これは秋元の長所でもある。自分の仕事とは何か?と考えた時、自分の仕事はプロデュースであると結論を出す。つまり、相手が辞める辞めないと言うのは仕事とは無関係であり、自分が首を突っ込む事ではないと考える。どうするかは自分で決めなさいと言うのが、彼のプロデュースの基本概念であると思われる。
そこに照らし合わせれば、齋藤飛鳥が辞めると言ってきた時、ある種の想いはあったが、もう少し待ってくれる?みたいな問答は一切無かった。秋元の切り札は、井上和を中心とする乃木坂5期生であり、ファンからの評判も上々で、かつての1期生にも劣らない個性派ぞろい。この時点で、飛鳥の居場所は、真ん中では無くなった事は確かだった。

3:小悪魔としての齋藤飛鳥

出てくる言葉が一々面白いと感じてる人が多いのだろう。可愛らしい外見から出て来る痛々しい言葉をいくつか挙げてみる。

「人が困ってる姿を見るのが楽しい」

「人と向かい合って食べるのが嫌だから、壁を向きながら食べる」

「会場のアンコールは辞めた方がイイ。皆、遠くから来てるし、早く帰った方がイイ」

「アイドルは一種の呪いの様なもの」


この程度を並べてみても、相当面白い。
この小悪魔と言う表現も、ゲームから来たんだろうか。ロールプレイングゲームに登場する小悪魔は、大体、可愛らしい女子の姿で描かれる。女神転生シリーズなんかが代表格だろうか。ネコマタとかサキュバスとか。女神転生と言うゲームでは、出会う悪魔と会話交渉が出来るシステムで、それぞれの種族で個性的な喋り方をする。この悪魔なら、こういう喋り方をするであろうと言う制作側の工夫がされていて面白い。
並べてみた中でも特に目を引くのは「アイドルは呪いと同じ」と言う発言。ネットのインタビュー記事だったと思うが、これを読んだ時、意中の誰かに向けた言葉なのかな?と穿った想像をしてしまった。乃木坂の後輩達が読んだら、どんな印象だったんだろう。
聞かれたから出た<ぽっと出の言葉>ではなく、乃木坂時代から秘めていた言葉なのだろう。いわゆる<反乱分子>である。いつか反乱してやると言った気概すら感じる。気になるのは呪いの内訳であり、アイドルは自分の意思を持つ事が許されず、操られる人形の様な存在なのだと解釈できる。アイドルが意思を持って自由行動をする時、アイドルはアイドルでなくなる。齋藤飛鳥は、そう言いたいのだろうか。
アイドル業界のジャンヌダルクと言ったら大袈裟だろうか。言いなりにならないアイドル、自由意志を持つアイドル、その理想郷を夢見たのが齋藤飛鳥なのだとも言える。
推しの子の出演を一度断って改めて受けると言う行動も意味ありげではある。制作側からすれば、乃木坂のトップアイドルだった飛鳥に、その延長線上の役をやってくれと要求したが断られた。映画のインタビューによれば、制作側は何故断られたんだろう?と考えたらしい。二度目の交渉で成立したと言う背景に、飛鳥のアイドルへの怨念が見え隠れしている風に思えるのである。

 

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2024年12月6日。中山美穂・死去。享年54歳
美人薄命(びじんはくめい)と言う言葉がある。以前から知っていた言葉だったが、この言葉の意味が判らなかった。どうして美人だと命が短いのか?その点が疑問だった。調べてみたので引用してみる。

美人薄命

<容姿端麗な女性は、とかく病気がちであったり、短命であったり、不幸せであったりするということ。 〔例〕「まれに見る正統派女優の彼女ががんで亡くなるとは信じられない気持ちです。 美人薄命とはいえ惜しい」というように使う>

なるほど。だがこれだけでは、まだ納得がいかない。もう少し掘り下げてみる。

<美人の女性は運に恵まれず、不幸なことが数多く起こり、幸せな人生が送れないという意味の言葉である。転じて、美人の女性は、病気や事故などに遭遇しやすいため、短命なことが多いという意味である>

これらを総合して考えてみると、美人は、その人気ゆえに忙しく安らぎが無い。結果的に体力は消耗して疲れやすい。或いは、その存在ゆえに疎まれやすい。他人の手によって果てると言う展開も無くはないだろう。
中山美穂はどうだったのか?54歳と言う年齢は若者でもなく老人でもない。その中間と言う年齢の死は早いのか、それとも、それなりなのか?私の個人的な見解では、早いと言わざるを得ない。
私が最初に聞いた美人薄命の代表格は女優の夏目雅子だった。白血病で28歳と言う若さで亡くなった類まれな美貌を持つ彼女は、骨髄移植と言う医療技術が発達していなかった時代だった為に手の施しようがなかった。
美人薄命の代名詞になった人達は他にも居る。市川團十郎の妻だった小林麻央、歌手の本田美奈子、ZARDのボーカリスト坂井泉水。この人達も早世し惜しまれた美女達だった。

85年にアイドルとして芸能界デビューした中山美穂は、アイドルとしては美人過ぎるアイドルであった。これは誉め言葉なのか?それとも揶揄なのか?どちらでもない。彼女は美人過ぎてアイドルの枠を超えていた存在だった。
85年と言えば私は当時10歳で、小学4年生だった。その時期、TBSの歌番組「ザ・ベストテン」をよく見ていた。中山美穂は毎回出てくれるタイプの常連のゲストだった。同じ時期に活躍していたのが小泉今日子で、二人は80年代中期の顔とも言える存在で、双璧のアイドルだった。
キャピっとした感じの元気アイドルだった小泉今日子に比べると、中山美穂は大人しめでシットリとした感じのアイドルに見えた。今で言えば、長澤まさみと新垣結衣みたいに比べられる二人だった。

10代のデビューから20代、30代と年齢を重ねる度に、持ち前の美貌はドンドン増し、作家と結婚し、出産し、成熟していった中山美穂。
ドラマなんか、まともに観なかった私が珍しく夢中になってみたのが、98年フジテレビで放送された連続ドラマ「眠れる森」。中山美穂は当時28歳。洗練された容姿になっていた。個人的に、このドラマの最大の魅力は、当時、絶頂期だった木村拓哉との共演ではなく、仲村トオルとの共演だった。
ビーバップハイスクールと言う今も語られる作品で、仲村トオルと中山美穂は初めて共演した。中山美穂はビーバップ世代の女神的な存在で、ヤンキーの憧れの的だった。その人気ぶりは、共演者でもない不良が撮影現場に何処からともなくやってくるほどだった。

 

だが、当の中山美穂は不良が大嫌いだった
 

私に言わせれば、眠れる森でビーバップ以来の共演を果たした仲村トオルと中山美穂は、ビーバップの中間徹と泉今日子の成長した姿だった。そこに注目すると、木村拓哉は、どうでもいい存在だった。
二人の共演は絶対に狙ったものに違いなかった。偶然の筈がない。あのビーバップの二人が婚約者と言う設定で登場したのは、制作者の思い入れが無ければ実現する筈がない。手の付けられない悪ガキだった中間徹と、清楚な美少女だった泉今日子が成長して帰ってきた。それこそが眠れる森の本質だったのではなかろうか。

時は流れ、中山美穂にとって晩年となってしまった2024年。暫くぶりにテレビで観た中山美穂は以前より顔がむくんで見えた。54歳と言う年齢からくる容姿の変化なのか。それとも何処か具合が悪いのか。
死去の報道によれば、浴槽で亡くなっていたと言う。自殺の線は薄く、状況的な所から専門家が考察するには<ヒートショック>が原因だったのではないかと言う。ヒートショックは、急激な温度差で引き起こされる血管へのダメージで、血管の壁が弱くなっている人ほど危険が増す。
亡くなる少し前に出ていた番組で酒好きである事をカミングアウトし、周囲を驚かせていた。意外な一面と取られたのだろう。その時、顔のむくみは過剰なアルコールの摂取から来ているものだと腑に落ちた。私生活が全く見えてこない人だったせいもあるが、もしかしたらアル中であった可能性もある。それに加え、精神症状が余り良くなかったか。その際は、睡眠剤、抗不安薬も常用していたかもしれない。

中山美穂は業界内にもファンが多い。ビーバップの時もそうだが、人を魅了し、引き寄せる特性があるタイプなのだろう。生きる伝説なんて言葉が使われる時があるが、この人が正にそうだろう。年齢や時代に左右されない不滅さを持てると言うのは、芸能人としては、この上もない程に幸せである。芸能人の誰もがそうありたいと思うが出来ない。
近年、アイドルは大所帯が規準になっている趣があるが、マイナーではなく、単体の国民的アイドルとして成功した人は意外に少ない。数えるほどしか居ないのではないか?中山美穂は、その貴重な代表格として、死して尚、語り継がれていくのだろう。

 

 

 

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プレイステーション5のマーケット事情を見てると、総体的にゲームソフトが弱いなと感じる。
結局、大手ソフトメーカーのゲームがプレステ4版と同時発売なら、4でイイやって感じになる。流れ的には旧作のリメイクが流行ってるんだけど、リメイクは所詮リメイクでしかなく、キラーソフトには為り得ない。キラーソフトと言うのは、そのゲームをやりたいが為に本体を同時購入させてしまうほどのパワーを持った作品の事で、こう言った作品がプレステ5には無い様な気がするのである。

2024年11月14日に「ドラゴンクエスト3 そして伝説へ・・・」のリメイクが発売された。
ネットのファミ通・COMの集計によると、現時点で任天堂Switch版が64万本、プレステ5版が18万本。機種として圧倒的な差を付けられてるプレステ5だが、この数字はプレステ的には大健闘の数字で、これまでを見てると、プレステのゲームソフトは総じて売り上げの伸びが悪い。
 

何故、プレステのソフトは売り上げが伸びないのか?

 

自分なりに考察してみると、新機種を購入するライト・ユーザーが居ないからだろうと思う。

プレステのゲームは難し過ぎると言うイメージが定着し、ゲームに対する愛着心が無い人は手を出し辛い傾向がある。それに比べると任天堂はゲーム作りと人気取りが上手で、売り上げを伸ばすゲームの殆どが<マリオ関連>で、ファミコン世代のゲーマー達の期待を裏切らない。

それは例えば、プレステにもマリオの様な強烈な個性と人気を取れるキャラが居ればイイのか?ではなく、もっと重要なのは<ゲーム性>と言う要素で、システム、操作感、繰り返し遊びたいと思わせる中毒性、買って損はしないと思わせる信頼感と安心感なんだと思う。

正直な所、ドラクエ3リメイクが、プレステにとって一つの起点になると私は予測した。つまり、新規のファン獲得よりもファミコン世代のオールドゲーマー達が、ここぞとばかり本体と同時購入するほどのキラーソフトに成り得るのではないかと。
ファミコンを知らない若い世代は信じられないかもしれないけど、今に至るまで、どれだけの新機種が出てもファミコンソフトの売り上げには届かないのである。100万本、200万本は当たり前の様な景気の良かった時代であり、いかに最高峰のゲーム機・プレステ5でも、この売上本数に到達するのは不可能なのではないか?とさえ思う。
 

 

で、ドラクエ3リメイクの評判はどうなのか?

 

Amazonのコメント欄を覗いてみると、やはりと言うかオールドゲーマーの書き込みが多い。実の所、若い世代は手を出してなくて、ファミコン世代のオジサン、オバサン達が期待を込めて買ったのではないかと思う。
それで言えば、私自身もドンピシャのファミコン世代であり、当然ながらファミコン版のドラクエ3に嵌まった。オールドファンがドラクエ3リメイクに込めた期待とは何だったのか?と言うと、幼かった頃に体験したドキドキ感、ワクワク感を与えてくれと言う願いだった。気持ちは判るが、それは無理と言うモノだろう。何故ならば、我々は歳を取り、考え方や感性も少年時代とは全く変わってしまったからだ。

自分自身、歳を取ってみて感じてる事は、あらゆる事に<偏屈>になってきている事で、ああじゃなきゃいけない、こうじゃなきゃいけないと言った<拘り>が強くなってきている。
まだ青年だった頃、世間の中年のオジサン達の偏屈と拘りを傍から聞いててウザいなと感じた事もあったが、いざ自分達が歳を取ってみれば、あの頃の中年達と同じ事をしている訳だ。それが悪い事なのではなく、自然現象なのだろうと私は思っている。その自然現象とは、それなりに世間と人を見て来た訳だし、揉まれもした。そう言った経験の集大成が今なのだろうと素直に受け入れられる。

当然、ゲームに対する意識と考え方も変わって当たり前なのである。

 

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兵庫県の斎藤知事の報道に関して、神奈川県民の一人として感想を述べさせて貰うと、要するに兵庫県と言う局地で起きている事件であって、他の都道府県民からすれば、あの土地で一体何が起きてるんだろう?と言うのが率直な感想だったのではないか?
この騒動が始まって、まず私の住んでる東京、神奈川に入ってきたニュースは、兵庫県の斎藤知事が部下を叱り、叱られた部下が後に自殺をした。自殺をした部下の遺族が兵庫県の議会に訴え、やがてメディアに拡散していった。その後の事は、多くの人が御存じの通り。
連日、この話題はワイドショーで取り上げられたが、伝えてる側も何だか真相がよく判らない。判らないながらに、メディアが取った姿勢と言うのは、遺族の仇討への加担だった。ワイドショーに出演するコメンテーター達も事情なんか判らない中で仇討に加担しなければならない立場で、とにかく斎藤知事の人格批判に徹していた。
それで今、事態が急転して、こちら東京、神奈川に入って来ている情報と言うのは、どうやらこの事件は、兵庫の議会の利権が絡んだ派閥争いだったのではないかと。利権をむさぼる議会に「異議申し立て」をして戦おうとしたのが斎藤知事だったのではないかと。その斎藤知事を陥れる為に兵庫の議員の一部がメディアを煽り、この騒ぎに発展していったのが真相なのではないかと。以上が、この時点までに、こちら側に入って来ている情報である。

とすると、遺族の仇討ち云々は何だったのか?斎藤知事を陥れる為の単なる餌とネタでしかなかったのか?
斎藤・元知事が再び<斎藤知事>に返り咲いたのが週末の事で、週明けの各局報道機関は荒れに荒れた。バツが悪いと感じながらも、やらない訳にはいかない報道番組は、事後処理の対応が三つに分かれた。素直に「申し訳なかった」と謝罪した番組、ネット投票なんて手回しの利いたインチキだと認めない番組、百条委員会が終わるまでは真相が判らないと中立を崩さない番組。
謝罪の最先鋒は私の見た所だとフジテレビだった。丁度、日曜午後10時放送の「Mr.サンデー」がそうで、再当選した斎藤知事とリモート越しに「申し訳ない」と詫びた。徹底抗戦の姿勢を崩さないのはTBSで、平日・夜11時放送の「ニュース23」は「あんなのは選挙じゃない」とコメンテーターの大学教授が発言。日本一の高視聴率・報道番組と言われるテレビ朝日の「報道ステーション」は、百条委員会の話題を持ち出して、まだ最後まで判らないと言う姿勢を崩さず静観と言った感じ。

テレビがネットに敗北した日だと発言する識者が出てきたが、過去にはオウム真理教の事件で、テレビは事実無根の人を罵倒し、人生を狂わされた人も居た。つい最近では、ジャニーズ事件の忖度問題で大いに叩かれ批判された。兵庫県の斎藤知事への<間違った報道>も恥の歴史に加わり、今後一層、テレビメディアは信用を失い、嫌われ、視聴者は離れていくのだろう。
後に残るのは、視聴者そっちのけの<お笑い>だけが浮く様にのさばり続けるのだろう。

近い将来、私は本気で東京のテレビ局は<何処かが潰れる>と思っている。深刻なスポンサー離れと視聴者離れで、収支支出が、どうにもならなくなる。タレントへのギャラも払いはするが、極端な小銭払いともなれば、タレント達だって生活がままならなくなって離れていく。自前のアナウンサー達も愛想を尽かし、イマイチ自信の無いフリーへの道を嫌々ながら選択する。

怖い話を聞いた事がある。日本のテレビ局が外国に買われると言う話。既にNHKとTBSの二局に、その手が伸びているのだと言う。その片鱗は確かに感じられる。民放ではない国営のNHKは流石に買われないとは思うが、此処数年で韓国タレントの起用が積極的に行われている。紅白歌合戦を見ても出演者に韓国勢が増えている。
TBSに至っては、現在、経営者が韓国人で、会社方針が韓国寄りになっているんだそうだ。これらの事態をどう見るかと言えば、日本のテレビは、日本人を当てに出来なくなっていると言う事。外国の手を借りなければ番組を作る事すら困難になってきていると言う事。
もう一つ感じるのは、日本のテレビ業界は人材の発掘力が無くなってきている。その証拠にSNSからの登用が増えてきた。本来ならSNSは競い合う筈のライバル関係であり、視聴者を取り戻さなきゃならない筈なのに、仲良くやっていきましょうと言う気概の無さ。危急存亡の時期に、敵に助けを求めると言う歴史は一度や二度ではない。昨日の敵は今日の友なんて気の利いた諺など実際には無く、現実は敵に踏み込まれて乗っ取られていたと言うのが結末。

これを<道を借りて草を枯らすの計>と言う。
三国志を知ってる方ならば聞いた事があるだろう。呉の周瑜と言う軍司令官が劉備に「領地を通らせて頂ければ、こちらが敵の領地を奪って差し上げましょう」と提案する。劉備の軍師の諸葛孔明は、周瑜の策を看破し、逆手に取って周瑜を懲らしめると言う話。
残念ながら、日本には諸葛孔明の様な<優れた軍師>が居ないようである。

 

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