<長い物には巻かれろ>って諺がある。
物凄く要約すると、世の中の流れに逆らわず、権力者や人気者に纏わりついて、オイシイ人生を送れよって事なんだけど、日本と言う国は御存知の通り、民主国家であり、自分達の意見を持って、考え、答えを見つける権利を持っている。所が不思議なのは、今の日本人は自分で考える事が面倒臭くなって、他人の意見を尊重し、誰々がこう言ったからそうした方がイイみたいな、人任せ的な人が増えた様な気がする。
そうなってくると、実の所、日本と言う国は<共産主義>の方が向いてるのではないか?なんて事を考える時がある。共産主義は、どうするか、何をするかの全てを政治家に任せて、国民は、その通りに行動する。そうなったらなったで、日本人の多くは自分達の自由が利かなくなったと嘆いて反対するに決まっている。自分で決めるのも嫌だ、人に決めて貰うのも嫌だって事になる。
日本人の今を個人的に一言で表現させて頂くと、全てが面倒臭くなった人達って事になる。
全てが面倒臭いと言う流れから見ると、活字離れと言うのも実の所、関連性がある。
日本人は何故、本を読まなくなったのか?
一部のメディアがアンケートで活字離れの理由を街で聞くと、衝撃的な答えが返ってきた。読まなくなった理由の堂々たる一位は、時間の無駄と言う理由だった。これを出版社や作家達は、どう捉えていいのだろうか。複雑な心境に違いない。
私個人は本を読む側の人間だけど、私は数年前から持論を持っていて、それは<時代は読むから観るに変わった>と言う結論であった。つまり読むより観た方が早くて判り易いだろうと言う単純明快な理屈である。
これはネットの世界でも例えは幾らでもあって、映画レビューと言うコンテンツが流行らなくなったのも、動画で現物を観た方が手っ取り早いだろうと、人々は悟りの境地を開いてしまったからだ。それはその通りだろう。映画レビューと言うコンテンツは、書き手に職人的な作業を求められる。その映画を観て分析し、文字として人を感心させなければならない。所が現物を観た方が早いだろうと言う理屈が通ると、映画レビューと言う企画自体が存在の意味を無くしてしまう。よって、職人的な書き手の需要が無くなる。
寿司屋で例えれば、ガミガミ煩い寿司職人が握る寿司よりも、回転寿司みたいに黙って食える方が気が楽だし、味だって拘りを割り切れれば、そこそこ食える事に人々は気付いてしまう。冠婚葬祭だってそうである。結婚式への拘りを捨てたのは男ではなく、実は女の方だった。一昔前まで、結婚式は何の為にやるのか?と言う議題が上がった事があった。出てきた答えは、結婚式は旦那の為ではなく、女がウェディングドレスを着て輝ける瞬間だからこそやる意義があると答えた人が居た。今はどうかと言えば、殆どの女が結婚式への拘りが無くなったのだと言う。つまりウェディングドレスよりも、友人や知人と盛り上がる飲み会の方が重要度が増したのだそうだ。
家族葬と言う形式の葬儀も、根本にあるのは死人に金を掛ける事の無駄と言う概念から来るもので、これはもう合理主義と言うか、節約の概念と言うか、これも一種の面倒臭いなのだろうと思わざるを得ない。
面倒臭がる日本人は、大きな武器を手に入れた。多様性と言う言葉。
この多様性と言う言葉をよく使う人の言葉に耳を傾けてると気付く事がある。自分で説明のつかない事を、何でもありと言う概念で濁そうとする。そういう人に限って、何故か自分と違う考えや違う見方をする人を攻撃する傾向がある。それって多様性に反してるんじゃないの?って突っ込みたくなる時がシバシバある。
多様性が何でもありなんだとしたら、反社会的行動や、非道徳的行為、犯罪だって多様性になるのではないか?犯罪は何故起きるのか?と考えれば、その人にとって、それしか無いからそうするのであって、犯行をする動機が無いのなら犯行をする道理もない。これは多様性では無いのか?と問いたい。誰か納得できる上手い説明が出来るのか?
多様性を犯罪に当て嵌めてはならない。ごもっともな意見が聞こえてきそうだが、では、誰がそう決めたのか?多様性とはポジティブに使うべきであり、ネガティブに使うべきではない。そんな意見も聞こえてきそうだが、自分をポジティブな人間だと思うなら、他人を否定すべきでは無いし、自分がどんなに悪口を言われても、批判をされても、殴られても、蹴られても、人を許すべきだろう。何故かと言えば、その人に悪意があったのかどうかすら、他者には判断する事が出来ないのだから。
真のポジティブとは、その行為に走ったのには何か理由があるのだろうと考えてやる事だろう。



