何でもアル牢屋

何でもアル牢屋

趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

動画が流行ってる時代だからこそ文章を大事にしたい。時には厳しく、時には楽しく。文章に拘るブログこそが我が志!宜しく御願い致します!

私の地元、神奈川県川崎市にある元住吉と言う街は、有名人がよく遊びに来る。この元住吉に、TBSに勤めていた当時の久米宏が住んでいた。当時、久米宏は独身で、通勤は東急東横線を使っていた。
元住吉の最大の自慢は、圧倒的な飲食店の数である。元住吉にはブレーメン通りオズ通りと言う二つの商店街が在り、和食、洋食、中華、焼き肉、ラーメン、カレーなど、何件あるんだろう?と探すのが大変なくらいアッチコッチにある。この商店街に、有名人たちが御忍びで来てたりする。
大御所で言えばタモリ。彼の自宅は田園調布と言う高級住宅地である事は有名だが、タモリは昔から美食家で田園調布の駅から東急東横線を使って元住吉の駅で下車し、一人でコッソリ食べに通っていた。元住吉の隣町である武蔵小杉と言う街の方が世間的にはメジャーなのだが、タモリはソッチには行かず、敢えてマイナーな元住吉にやってくる。いかにもサブカルなタモリらしい。
今では無くなってしまったが、私の住んでる近所に<焼肉交差点>と呼ばれた少し広めな交差点があった。その焼き肉屋に俳優の反町隆史と松嶋菜々子の夫妻がやってきた。この店は私も通った常連なのだが、店に行くとレジの近くに反町&松嶋夫妻と店長の記念写真が自慢気に飾ってあったのを覚えている。
他にも、まだまだ居る。俳優の要潤も元住吉に住んでいた。彼は焼き鳥が好きで、駅から少し離れたオズ通りにある総菜屋さんの焼き鳥を買いに来ていた。ついでに総菜屋の近くにあったゲームセンターに居たりもした。要潤は背が高いので、それなりに目立っていた。
ブレーメン通りには女優の吉岡里帆が御忍びでカレー屋さんに来ていた。このカレー屋は漫画喫茶みたいな内装なのだが、いつ行っても客が入って繁盛している。吉岡が好んで注文していたのはハンバーグカレーとナポリタンのセットで、テレビで観る様な華やかな感じではなく、眼鏡を掛け、普通で地味な格好でやってくる。居ても気がつかれないのかもしれない。流石に店長さんは知っていたと思うが。
仕事の撮影と言う所では、芸人のサマーズが来た。番組はテレビ東京のモヤさまでは無いかと思う。片岡鶴太郎もドラマ撮影でやってきた。テレビで観たまんまの人で、テレビで観る以上に小柄な感じだった。

その元住吉と縁があった久米宏が亡くなった。享年81歳。肺ガンだったらしい。若い頃から煙草が大好きな人だった。煙草が原因かどうかまでは判らないが、ストレスの溜まり易いテレビマンともなれば、煙草と言う嗜好品は欠かせなかったのかもしれない。
亡くなったのは2026年の1月1日。年明けの元旦だった。公式な発表は13日だったが、報道を観てみると司会者や出演者も妙に落ち着いている。世間一般からすれば、テレビメディア側は前持って知っていたと取るのが常識だろう。少なくとも正月三日が明けた頃には情報が入ってきて知っていた筈である。全然慌てて驚いてる様子も見られない。
年明けと言えば女優の長澤まさみの結婚が発表されたが、こちらの方は不自然な程、ラジオでもテレビでもネタにされない。事務所側と長澤まさみが完全に情報のシャットアウトに徹したので、メディアも騒ぎ様が無かった。しかしながら、この対応が良かったのかどうかと言えば、少々拙いのではないかとも思う。プライベートに踏み込んでくれるなと言う言い分は判る。発表だけはするから、それだけで終わらせてくれと言うのも判る。しかしながら、お目出度事だし、人気者の長澤まさみともなれば多少の祝福くらい良いではないか?くらいの事はメディア側も思う事だろう。それすらも拒絶された。心配なのは長澤まさみとメディアの<これからの関係>である。溝が出来たりはしないのだろうか?或いは宣伝の時だけはメディアを利用するのか?とか言われそうではある。
久米宏の死去報道も長澤まさみの結婚報道も、事後報告、もしくは情報のシャットアウトともなれば、世間一般と芸能とメディアの三角関係の在り方が大きく変化するのではないか?とも思えてくる。その究極系は、もうプライベートは一切発信しないと言う所に尽きる。完全なる隔絶こそが目指すべき終点なんだろうか。

久米宏・死去の報道当日、沢山の久米宏の昔の映像が流された。その殆どがテレビ朝日のニュース・ステーションの映像だった。破天荒、今となっては有り得ない演出、刺激的な口調など、若い世代が観たら大変魅力に感じた人も多かったろうと思う。
私が一つ懸念するのは、テレビ大不況の真っただ中で、テレビ側が受けを狙って久米宏の真似事を活性化させる事で、私はこれを<久米宏・症候群>と名付ける。私に言わせれば、古舘伊知郎、宮根誠司に代表される奇をてらった司会者は皆、久米宏の猿真似をしている。そして共通してるのは、久米宏、古舘伊知郎、宮根誠司の三人は、いずれも報道出身ではなくエンタメ出身のアナウンサーである。
テレビ業界がやってきた事は、経験値を必要とするポジジョンに、敢えて未経験者を放り込んでやらせる事で、一種の化学反応を狙っていた。例えれば、ラーメン屋にカレーを作らせたら美味かったとか、寿司職人に中華を作らせたら意外な料理が出てきたとか、SEX経験の無い童貞を面白がってAV男優として出演させたら意外なテクニックを御披露したとか、そういう類であったと私は思っている。

これから予想される事は、何人かの知ったかぶりの作家が得意げに<久米宏とは何者だったのか?>と言う類の本を出版する事。その多くが革命だとか、新しい時代だとかのワードを使う事だろう。
各局の報道を観てて気づいた事は、殆どの人達が「ニュースを判り易くして、難しいイメージを取っ払った功労者」と表現していた。

本当にそうなんだろうか?

だから久米宏の様な人がもっと出てきた方が良いと言えるんだろうか?

落ち込んだテレビ業界の今、この辺を議論する価値は大いにあるだろうと思う。

久米宏は、限りなくアメリカンなタイプの司会者であった。此処で例えたアメリカンと言うのは、とにかく聞きたい事をストレートに聞く、遠慮をしない、相手と喧嘩してでも本音を引き出すと言う類いの事を言う。
日本のメディアは、相手を下から見て遠慮しながら話をする。アメリカでは、司会者と相手が同じ目線で対等に話をする。だから緊張感が違ってくる。久米の聞き方は、これを聞いたら怒るんじゃないか?と思わせる様なネタを振ってくる。不思議なモノで、本当に聞きたい事は、相手が聞いてほしくない事と上手い具合にリンクするのである。久米の話術は、この辺を心得ていた。だから彼の聞き方に、いつもドキドキハラハラさせられた。
久米には名台詞がある。

「私はキャスターじゃないんです。司会者なんです」

報道番組を担当する司会者を日本ではキャスターと言ってしまう。だが、日本の殆どの報道番組の司会者はキャスターの意味を履き違えている。まず、キャスターは意見をコメンテーターから拝聴などしない。自分で説明が出来るからキャスターなのである。この点で、殆どの情報・報道番組の司会者は失格である。
苦言だが、日本は履き違えるのが得意な国で、例えばクリスマスやバレンタインデーを恋人の集いみたいにしてしまったり、お盆にしても本来なら故郷に帰省するのが目的なのに、連休を使って旅行をしてしまったり、ハロウィンに仮装して飲めや歌えやの大騒ぎにして迷惑を掛けたり、外国からすると浮世離れした不思議な国に見えているのだろう。だからよく「おお~ファンタジー!」と外人に言われる。

私は思うのだが、久米宏は居なくなったけども、久米宏の様な人は意外にアッチコッチに居るのではないか?
久米宏の様な人が出て来れないのは、テレビ側が発言の封じ込めをしているからだろう。久米宏はテレビと言う業界で一種の教祖になったと言える。その信者達は各方面にうごめいていて、飛び出す機会を今か今かと待ち構えている。

 

同窓会に行って感じた事は、懐かしさと同時に自分の存在の確認行為と言う意味合いもあったのかな?と言う事。
これまでの人生の総決算とも言い換える事も出来る。此処まで何をして、どう生きて来たのか?と言う、自分なりの成績表を恐る恐る開いて見ると言うイベントだったのかもしれない。そこを踏まえて、来たいけど来れなかった人、来れない事情があった人、行くか行くまいか散々悩み、最終決断として行かないと言う選択をした人、高校デビューで中学時代は詰まらなかった人、精神的に病んで動けない人、積もる話になるとヤバいと言う不安に駆られた人、療養中で行くに行かれなかった人・・・様々である。

下世話な事だが、同級生のSEX事情が凄く気になってしまった。
35年前、15歳の同級生の殆どが童貞、処女であった。その童貞と処女が、この35年の何処かで私の知らない誰かと出会い、SEXをしたのである。そう考えた時、彼等のSEXが、どう言うSEXであったのか想像をしてしまった。
SEXは身近にあるようで身近になく、遠い果ての様で意外に近くにあったりする。風任せに普通に生きているとSEXに遭遇する事は無いだろうと私は思う。SEXをしたければ、SEXと言うゴール地点を設定し、そこに向かって走らなければならない。その先に誰が待っているのか、どんな人が自分のSEXの相手になるのか予測は全く不可能である。
少なくとも、同窓会に集まった既婚の同級生は、その道筋を辿った。例えば当時、どう見ても異性に人気の無さそうな同級生が驚くほど速く結婚し、子供を3人も作った。その同級生が裸になってパートナーと抱き合っている姿を想像すると、どうにもシックリ来ない。こんな想像自体が大変失礼な事だと言う事は重々承知なのだが、そんな時に限って想像が膨らんでしまう。
50歳と言えば、結婚適齢期の20代半ばで結婚し、子作りが上手い事いけば、20代前後の子供が居てもおかしくない。その子供の結婚が早ければ、孫だっているかも知れないのである。そう考えると随分と歳を取ったもんだと感慨深くなる。
そう言えば、同じクラスの同級生にAV男優になりたいと言う夢を持った奴が居た。彼は登校拒否で滅多に学校に来なかった。卒業式にも参加せず、卒業式が終わった頃、式場の体育館の入り口の近くでポケットに手を突っ込んで立っていた。卒業式の日は寒く、小雪がパラついていたのを今でも覚えている。

同窓会の連絡を受けてアメリカから帰国し、参加してくれた女子の同級生がいた。
途中参加で、偶然同じテーブル席だったので話す事が出来た。この同級生は中々複雑で、小学校は3年生まで一緒で、進級と同時に転校していった。その事を聞いて見た所、親の仕事の都合で通学が困難になると言う事情で、やむなく学校を変えざるを得なかったと言う事らしかった。
中学へ進学した頃、私とは別のクラスで彼女を見掛けたので「あれ?」っと思った。その時は、また地元に戻ってきたんだなと思ったのだが、事実はそうではなく、要するに同じ地元で学校だけ変えたと言う事だった。正に35年目の真実。
中学の頃から垢抜けた存在感ではあった。中学生にしてエレガントな雰囲気を持った生徒に見えた。実際、育ちが良いのだろう。同窓会にやってきた彼女はアメリカンな感じだった。挨拶は御辞儀や握手ではなくハグだった。私も含めた数人の同級生とハグをした。昔と違って肌を触れ合わせる事が難しくなった今の時代で、突然のハグと言う行動に戸惑ったが、自分でも意外な程、自然に出来た。彼女の肌は適度に日焼けし、柔らかく暖かかった。
成人を過ぎた同窓会の定番だが、どうしても結婚や家庭の話になる。左手薬指を見ると指輪をしていたので結婚はしてるなと思ったので、子供の事を聞いてみた。残念ながら、このエレガントな彼女は子供には恵まれなかったらしい。その事を話している時、彼女は子宮のある下腹部をさすっていた。
彼女に感心したのは、自分の弱みを今日だけしか接しない同級生に堂々と打ち明けた事だった。アメリカンなノリだからと言う理由だけではない。人によっては避けたがる話題だし、弱い部分を見せる事は容易な事ではない筈。それを出来た彼女がカッコ良く見えた。そんな彼女がアメリカに帰国したのは、同窓会から二日後だった。

長くなってしまった同窓会の記事だが、今回で最後。最後に同級生ってどういう存在なんだろう?と考えてみた。
個人的な結論だが、同級生とは、同時代を同じ時間軸で生きている人達。これでどうだろうか。一般人も芸能人もスポーツ選手も文化人も芸術家も、もっと視野を拡げれば1975年に生まれた世界中の人々が同級生であると言う事。

年々感じる事だが、同世代に対する想いに関して、若い頃とは違う感情がある事を実感している。同じ時間軸で同級生たちは、各々が自分とは違う行動をしている。あの日、あの時、あの同級生は何をしていたんだろう?と言う好奇心が湧くのである。
例えば、ニュースで犯罪を犯して連行されていく同い年の容疑者を見ると複雑な心境になる。人の道を踏み外していった同級生がいる。一方で称賛される同級生も居る。波風を立てず、慎ましく生きる同級生もいる。
 

経験則として伝えたい事は、もし同窓会に参加しようか迷っている人が居たら、思い切って参加してみる事をお勧めする。私の場合、同窓会の話が来たのが5月で、開催は7月の中旬だった。その期間、随分と迷い悩んだ。いっそ、これだけ参加に苦しむなら辞めようと何度も思った。だが、最後の一週間で私は腹を括り覚悟を決めた。

頭の中は不安で一杯なのである。孤立したらどうしようとか、話し相手が居なくて飲み物だけグビグビ飲んで終ったらどうしようとか、中傷されたら嫌だなとか、そんな嫌な想像ばかりに襲われたが、実際に行ってみると、嫌な想像も、所詮は想像だなと思い知らされた。想像って想像に過ぎない。そして想像は当たらない。良い意味で想像とは違う全くの別な展開が待っていた。
私もそうなのだが、同窓会に行く際、当時仲良くしてた人が来ないとテンション上がらないなと思っていたのだが、行ってみると、当時、話した事も無い様な同級生と不思議と会話が弾む。これは未だに不思議に思う。と言うのは、自分が相手を知らなくても意外に他の同級生が自分の事を知っていたりする。そこに対する嬉しさを反動に会話が弾んでくる。そんな展開もあるのである。

 

 

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これはどうしても避けられない現実だった。死は年寄りの特権では無い。若くても死ぬのだと言う事を人生で学んできた。
50歳ってどんな時期なんだろう?と考えてみた。爺さんや婆さんとは思えない。だが結婚や出産が早ければ、孫が居てもおかしくはない年齢ではある。その場合、随分と外見の若い爺さん婆さんとなる。時の流れを痛感せざるを得ない。
知っただけでも4人の死亡者が居た。二人が病死、一人は事故死、一人は自殺であった。自殺した同級生は男子で、事業に失敗し、多額の借金を抱え、嫁さんと子供を残して風呂場で首を吊ったと言う事だった。この自殺した同級生は多少縁があった男だった。陸上部の100メートル走で11秒台を叩き出した俊足だった。私の通った中学校では、1年生は必ず何かの部活に強制的に入部しなければならないシステムだった。最初から帰宅部と言う選択は許されなかった。遊びたい連中は、部活に籍を置きながら活動はせず、幽霊部員としてサボってバックレるしか手段は無かった。
私は陸上部に入り、嫌々練習をし、朝練をサボり、放課後、どうやって逃げようかと思案を巡らす不良だった。自殺した同級生は真面目な部員で、400メートルリレーの一人であり、100メートル走の選手だった。とにかく速いので花形の存在だった。実家は床屋だった。
中学を出てからの彼を知る事は無かったが、総体的に学校時代のスターは結構な頻度で不幸になる様な気がする。いわゆるエリート人生。他人から褒められ続ける人生。そう言うスターが会社勤めから実業家に転身し、最後には悲劇的な死を迎えるパターンは、この同級生だけではないだろう。
自殺した彼は、もう歳を取る事は無くなった。肉体そのものが無くなってしまった。50歳を迎える事が出来なかった。そこで考える。この同級生は生きていたら、今回の同窓会に来たんだろうかと。自殺をしなければ彼は生きて50歳になっていた。そう考えると複雑な心境になる。

二人の病死の内、一人は、小学生時代の大親友であった。どうやって仲良くなったんだろうと想い出すと、共通の趣味がクンフー映画だった。昭和50年代、テレビ映画が全盛で、今みたいにジブリ作品や御馴染みのメジャー作品だけでなく、多くの人が知らないB級映画がテレビで沢山流されていた時代だった。
そこで登場したのがジャッキーチェンだった。彼の持つ個性は少年の心を惹き付けた。映画を観た翌日、学校へ行くと話のネタになった。そういう流れで仲良くなれた友人が何人か居た。死んだ友人は小学生の頃、私の家によく来た。少し薄暗い部屋で一緒にテレビを観てたのを想い出す。
不思議なモノで、小学校時代の6年間は、2年おきに友人が変わっていった。死んだ友人とは2年生まで仲良くしていたが、3年生からは御互いに遊び相手が変わり、一緒に遊ぶ事が無くなった。喧嘩とかではなく、自然と離れていった感じだった。
中学に入ると完全に遊ぶ事は無くなった。先日、卒業アルバムを見て驚いたのは、3年生の時、一緒のクラスだった事だった。クラスが一緒だった事すら忘れているのである。と言う事は、御互いに完全に関心を失っているのである。
風の便りと言う言葉がある。実際に会わなくても、誰かからの話で、その人の情報が入ってくる時に使う言葉だ。その風の便りで、彼の今の情報を知った。彼は中学を卒業した後、高校へ進学したが長続きせず学校を辞めてしまった。辞めた後、彼は料理人の道を歩んだ。ジャンルは中華である。地元の街中華屋で修業し、独立はせず、勤め人として過ごした。
30歳を過ぎた頃、思わぬ所で彼と再会した。地元の大病院で検査をした帰りに、近くにある年季の入った街中華屋に入ったら彼が厨房に居たのである。台所でエビの皮むきをしていた彼は客として入ってきた私に気付いた。照れ臭そうに笑っていたのを覚えている。
「いらっしゃい」と言って彼は注文を聞きに来た。「久しぶり」と私は答えた。台所の親方の視線を感じたので、長々と話はできないと察したので早々と注文をした。頼んだのはチャーハンと餃子だった。チャーハンと言うより焼き飯と言う言い方の方がシックリくるのではないかと言う感じのチャーハンだった。
この再会が生きている彼を見た最後だった。その後、この街中華屋は立ち退きで潰れ、友人は、この時点では職を失った事になる。その後、彼は地元の商店街の近くでアパートを借りて住んでいたと言う所までが、私が知ってる彼の情報だった。
その続きを同窓会で同席した昔の友人から聞いた。

「あ、そう言えば○○、死んだよ」

それを聞いた時、鳥肌が立った。
苦労人だと言う事は知っている。しかし、それであっても何とか生きて頑張ってくれていると思っていただけにショックだった。死因は癌だったらしい。中華屋の後、配達で生計を立て、その傍らで母親の介護をし、疲れに疲れ切って病に倒れた。私はそれを聞いた時、涙が出そうになった。どうして彼は、そんな苦労を背負わなければならなかったんだろう。同窓会は皆、笑顔で盛り上がり、酒を飲んで楽しそうにしている。どうして彼は、この席に来る事を許されなかったんだろうと。

 

 

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同窓会と言えば初恋の人。その人が来ると判った時点で行く気が起きたのも事実。
初恋の彼女は小学生の時から仲良くしていた子だった。元気でハツラツで明るくて、暗さとは無縁の様な感じの子だった。小学校の席替えで、意図的に隣になる様に細工をする様な仲だった。その仲も中学までで、彼女は中2の頃に同級生の彼氏が出来た。学校の帰りに時々、彼女と彼氏を見掛けた。彼女は彼氏の自転車の後ろに乗って楽しそうだった。そう言う光景を奇妙な感覚で見ていた記憶がある。
そんな私も彼女も今年50歳になった。ロビーで幹事と話していると、彼女がホテルにやってきた。どんな容姿になってるんだろう?と言うのが一番の関心だったが、彼女は瑞々しかった。少し色黒で可愛い感じだった彼女の肌は白くなり、洗練された容姿になっていた。50の女には見えなかった。
テーブル席が違っていた為、接近する事が出来なかったのだが、終わり際に彼女の方から寄って来て話し掛けてくれた。

彼女:「〇〇ちゃん、久しぶり。元気」

私:「久しぶりだね」


こんな会話から始まった。
彼女は20代の前半で公務員と結婚し、女の子を産んだ。その女の子はもう20代後半になる。

私:「結婚、早かったよね」

彼女:「うん。結婚しなきゃよかったよ」


話のノリと勢いでそう言ったと私は解釈した。と言うのも、私の母も彼女と同じ様な事を言った事があるのを覚えていたからだ。女は結婚して時が経つと、そう言う事を言うのかもしれないなと私は思った。

私:「娘さん、可愛いでしょ」

彼女:「家に居るよ。あんなの可愛くないよ」


サバサバした彼女の言い方に私は笑った。我が子を可愛くない母親など居ないのである。彼女なりのユーモアだと思うし、サービス精神と社交性のある彼女らしいなと懐かしく思った。
50に見えないほど若く見えたし、もっと話せたらなと正直思った。きっと昔話で盛り上がれただろう。今だから聞きたい事もあった。もういつ会えるかも分からない。だけどもタイミングと時間が無いと言う煩わしさ。この同窓会で感じた唯一の不満だった。
 

話し込んだら好きになってしまうかもしれないと言う妙な感覚が私にはあった。彼女には無かったかもしれない。でも50になった彼女が、とても魅力的に見えた。でも彼女には旦那が居るし、娘も居ると言う現実がある。本当に実ってしまう50歳同士の恋だとすれば、それは非常に危険な恋になるだろう事は判っているのである。
同窓会の翌日、幹事からスマホのLINEの誘いが来て、参加した30人が全てLINEで繋がると言う現象が起きた。この中には当然、初恋の人のLINEも入っていた。だが、このLINEはあくまでも幹事が主催しているグループなので、個人的な書き込みは避けなければならない。なので、初恋の人にピンポイントで「お疲れ様、元気?」とかやってしまうと違和感があるし、他の連中にも見られるので、それは出来ない。
どういう考え方をすればよいのだろう。何か違う考え方が必要だと感じた。そこで辿り着いた考え方とは、プラスマイナスだった。つまり、良い事も悪い事も半々でイイじゃないかと言う考え方。そもそも、タイミング的には奇跡的な同窓会だった。2度あって2度参加せず、3度めがあった事自体が、もはや奇跡だったんじゃないかと。初恋の彼女目当てでなくても、当時、よく遊んだ友人達と再会できて話が出来た事だけでも上出来だったんじゃないかと。
その上で、これ以上は高望みだし、欲の搔き過ぎなんじゃないかと。何か行動を起こして波紋や波風を立てるよりも、静かな日常へ戻った方が良いのではないかと。そうやって自分の精神をコントロールする事が、今の私に出来る事だった。
 

最近感じる事だが、男と女では初恋に対する拘りが違うのではないか?と言う事。男はいつまで経っても初恋の相手を忘れず、どれだけの月日が経っても記憶の片隅に残り続ける。50歳になった今でも、寝ている夢の中に初恋の人が登場する事もある。そんな夢を見た後の寝覚めは妙に体が重い。
一方で、女は初恋の男がどんな存在であったのか?と言う事に関しては謎めいている。引きずる事も無く、曲がり角を振り返らないと言う話を過去に聞いた事はあった。初恋の男など過去の産物で、ただ今現在こそが現実の全てなのよ!なんてカラッと笑われるかもしれない。
色んな意味で初恋は特種だと思わざるを得ない。

 

次回に続く!

 

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恐縮ながら個人的な今年の総決算と言う事で書き綴りたい。長くなりそうなので、数回に分けようと思う。年内には終わる予定。
35年ぶりの中学の同窓会に行って来た。場所はホテルの宴会場で、集まった人数は30人。35年ぶりと言うのは昭和50年生まれの世代が今年50歳と言うキリ番と言う事で、クラス会を更に拡げ、4クラスで集めてみようと言う趣向だったらしい。
一つのクラスが男22人、女22人。偶数の44人だから、4クラスで全員集まった場合、160人を超える訳だが、集まれたのは1クラス以下の30人。幹事に聞いたら、連絡が取れないのが一番の来れない理由らしい。これはもう仕方が無い。私達の時代は携帯電話やスマホなんか無かったし、連絡の手段が卒業アルバムの自宅番号しかない。仕事の都合で地元を出た人、女子なら嫁いで他所の土地へ行ってしまったとか、まあ色々。
連絡は取れたけど自分の意思で来なかった人もチラホラ。こう言う人達も気持ちは判る。私達くらいの歳になると純粋さよりも合理主義や損得勘定が強くなってくる。今更会ってどうなる?とか、会った所で何を話すんだとか。恋の出会いを求めてと言うのも現実味が無くなってくる。特に女子は、50と言う年齢で仮に独身だったとしても、妊娠&出産と言う流れも実質無理。付き合っても展開が望めない以上、テンションが上がらない。
会費は一人8千円だったが、この値段を払うなら国産の新米を買った方がどれほどの得なのか?と考える人も居ただろうと思う。かと言ってこう言う同級生を責める気は全くしない。同窓会とは全く突然のイベントであり、唐突であり、急であり、時には日常のバランスさえ乱しかねない大仕事な訳だから。
 

それで、いざ35年ぶりに再会してみた訳だが、皆、若い。若く見える。私の想像では禿やデブなど、極端に容姿が変わった姿だったのだが、冗談じゃなく本当に一人もそう言うのが居なかった。
私がホテルのロビーに到着し、幹事は何処かなとキョロキョロしてると、幹事はすぐにサングラスを掛けた私を見つけてくれた。

幹事:「〇〇さん?御無沙汰してます。〇〇です」

私:「おお、久しぶり」


35年ぶりにも関わらず、御互い自然体の笑顔の再会で全く違和感が無い。これは不思議であった。
中学の同窓会は過去2回あったが、私は2回とも参加しなかった。参加しなかった理由は忙しいとかじゃなく、不安が強かったからだった。具体的には話し相手が居るんだろうか?とか、近づいてきてくれる人が居るだろうか?とか、要は孤立に対する不安が強く、それだけ悩んで苦しい位なら行かない方がイイかもしれないと言う考え方に支配されていった。
私にとっては3度目の正直であった。心の何処かで「もう一回くらい同窓会無いかな?・・・」と思う事もあった。それが5月下旬に同窓会の連絡があった。連絡は幹事からで、彼とは一時期、遊んだ仲だった。電話越しの彼の声と喋り方は、当時と変わってなかった。その電話で懐かしさの余り、1時間ほども話し込んでしまった。喉の渇きや喋り疲れも忘れ、過去や今、同窓会の大体の雰囲気など、彼は丁寧に話してくれた。そんな彼に応えたい想いが芽生えてきた。3度目の正直、これも何かの導きかもしれない。よし、会おうと!

30人は少ないかな?と思ったが、いざ行ってみると少数精鋭で大盛り上がり。嬉しかったのは、今の私に当時の愛称で呼んでくれた事だった。寄って来てくれる同級生が皆、当時の愛称で話し掛けてくれる。本当に懐かしく至高の一時だった。行くと言う選択は正解で、来てよかったと心から思った。
当時の私は女子と話すのが苦手だった。男友達ばかりの毎日であった。歳は取ってみるモノで、自分でも驚くほど女子達と会話が出来た。話した事も無い女子も、私を愛称で呼んでくれた。そう呼ばれていたのを何となく覚えてくれていたのだろう。この事も私のテンションを上げてくれた。
午後6時に乾杯し、2時間と言う会場の時間制限の中で大いに盛り上がり、会話は弾み、ビールを次々に注がれ、心地よい酔いがやってきた。幹事が卒業アルバムを持参し、それを各テーブルに回しながら見る。写真の同級生は皆15歳。目の前の同級生たちは50歳になった。皆、面影があるし崩れていない。変わった事と言えば、当時、小柄だった同級生の身長が伸びていた事だった。顔立ちも若い頃より今の方がイイんじゃないか?と正直に思った。

 

次回に続く!

 

 

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