何でもアル牢屋

何でもアル牢屋

趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

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スティーブン・キングの「アウトサイダー」と言う小説を読んだ。2018年に書かれた原作で、2024年の1月に文春文庫から文庫として本屋に並んだ。
私は読書に関しては多少の頑固さを持っていて、単行本で買う事は殆ど無い。よっぽどの興味を引くものでもなければハードカバーにも手を出さない。別に持ち歩く訳でもないのに文庫への拘りが強い。
で、アウトサイダーの文庫本。上下二巻の長編物で表紙のイラストが禍々しくて興味をそそる。こういう視覚効果は重要だ。読む前から物語の不吉さが漂っている。

冒頭から11歳の少年が惨殺死体で発見される。首を絞められたとか、銃で撃たれたとか、刺されたとかの類ではない。少年の死体は何者かに喰われていた。喰われただけでなく、少年の肛門には木の枝が突き刺され、大量の精液が撒き散らされていた。時を同じくして、別の地域でも二人の少女が同じ様に惨殺されていた。
この下りを読んだ時、ピンと来たのはロシアで実際に起きた猟奇事件だった。アンドレイ・チカチーロと言う伝説となった殺人鬼。同じ様に感じた読者も、きっと居た筈。この人物については、過去、このブログで取り上げた。興味のある方は読んで頂きたい。

こう言った描写をしたスティーブン・キングと言う作家は、いわゆるシリアルキラーについて綿密な下調べをした様である。この物語の犯行手口は、殆どチカチーロの事件と同じである。そうだと言い切れる描写までしてある。描写の中に「犯人の肩は撫で肩で、乳首が異様に突起しているのかもしれない」と言うのがある。この身体的特徴を持っていたのがチカチーロだった。アメリカのシリアルキラーと言えば映画にもなるほど有名人が多いが、キングが選んだのはロシアの怪人だったのである。

ネタバレにならない程度に書こうと思うのだが、少年少女の猟奇事件から、物語は思わぬ方向へ移行していく。そこに関して後書き解説の朝宮運河と言う書評家が、私が思った事、感じた事を、そのまんま書いてくれている。少しだけ引用しておこう。

「ある時点まではサスペンスと緊迫感に満ちたミステリー。そこから先は超・自然的存在の脅威を扱ったホラーと言う事になる。この中盤での不意打ちめいたギアチェンジが本書の大きな読み所だ。これにミステリーじゃなかったと腹を立てるか、待ってましたと拍手するかで本書の感想は変わってくるだろう」

私自身は腹を立てる所までいかなかったが、ちょっとした虚脱感はあった。
この文庫の上巻は絶妙なタイミングで終わる。その絶妙とは、ホリー・ギブニーと言う人物の、まさかの登場であった。事件は警察組織が思っている以上に奥が深く、捜査が暗礁に乗った頃、担当刑事の一人が、ある人物に当てがあると言い放つ。その人物は元・刑事で、難事件を解決する凄腕の名探偵。名をビル・ホッジズと言う。
この辺の展開は有名な作品「エクソシスト」とよく似ている。エクソシストでは、少女リーガンの奇行を医学で解明できなくなり、どうしようかとなった頃、一人の担当医がリーガンの母に「悪魔祓いを御存じですか?」と問う。そこで登場するのが悪魔祓いの達人・メリン神父だったと言う展開。ホラー大好きのキングが意識してない筈が無いと、私は堂々と断言出来る。
 

ビル・ホッジズとホリー・ギブニーと言う人物について少し説明したい。

キングは、このアウトサイダーを書く以前に<ミスター・メルセデス><ファインダーズ・キーパーズ><任務の終わり>「ビル・ホッジズ三部作」と言われる三作品を書いていて、老探偵・ビルと助手のホリーが大活躍する物語なのである。
三部作を楽しんだ読者は、ホリーの思わぬ登場にアドレナリンが放出したに違いない。チャーミングな美人さんなんだけど、神経質で軽度の強迫神経症を患っているこの人物が、この猟奇で不可解な事件にどう絡んでくるのか?此処までの濃い登場人物達と、どんな絡みをしていくんだろうとワクワクさせる。

ホリーの登場は私流に書かせて貰うならば、バンパイア・ハンターの登場だった。
刑事達の手にする銃の弾丸では殺せない吸血鬼。だけどホリーには、過去に吸血鬼に立ち向かった経験と武器がある。無論、アウトサイダーと言う作品は吸血鬼の話ではない。しかし、話の展開を読んでいけば、ホリーの役どころは正に女版のバン・ヘルシング教授と言っても差支えは無い。
中盤以降、犯人探しから異次元の怪物退治に移行する物語。終盤、不吉な洞窟へと潜入していく刑事とホリーの姿は、吸血鬼が徘徊するドラキュラ城に乗り込むヘルシング御一行と絶妙に被る。

それにしてもキングの人物描写は衰えない。イキイキとした弾む様な会話文は、どんな中傷や批判も黙らせる力を持っている。もしかしたら、途中、展開に怒って読むのを辞めた人も居たかもしれない。でも多少、気分を害しながらも、この本を完走出来た読者に共通したのは、キングの圧倒的な場面描写と脚本力を感じたからではなかっただろうか?
特にホリー・ギブニーと言う突然参加してくる意外なキャラの描写を読む限り、このキャラへの並々ならぬ愛情と期待を込めている様な気がしてならない。ホリーと言う人物は、もはやビル・ホッジズの助手と言う枠では収まり切れない魅力を放っている。明らかにキングは、自分が創作したホリーに恋をしている。
キングは今後、ホリーをビルの後継者として描くつもりなのか?ビルの手綱を放れたチャーミングなモンスターハンターとして描くのか?彼女を主人公にした物語が出て来るのは時間の問題だろう。

 

地元に一軒しか無くなった三階建ての大きな本屋があるのだが、二階と三階に店員を置かなくなった。どう言う事かと言えば、二階と三階での会計が出来なくなり、わざわざ一階まで持って行って会計をする。
当然ながら万引きが発生するのではないか?となるのだが、そこは対策済みで、床に足跡のマークが書いてあって、その足跡を辿って階段を降り、一回のレジへと向かう。ビルなので、それぞれの階にエレベーターがあるのだが、乗ると万引き扱いになりそうな気配がするので乗らない様にしているw
でもこれって、五体満足、健康体なら良いけど、足が不自由だったり、移動が困難な人だったりすると困ってしまう。本は買いたいけど、あの本屋さんは移動が大変だからと言う気の毒な理由で、足が遠のくのも悲劇かなと。しかも、本屋だって客足が減るし、売り上げは伸びないし、良い事が一つも無い。この苦境を、どうすればいいのか。

単純な発想からすれば、本屋もセルフレジにすれば良いのではないか?となる訳だが、それだって最低でも一人、店員を置かないと、セルフのやり方が判らない人はパニックになってしまう。その辺の事情はガソリンスタンドと似ている。セルフであっても店員は配置しなければならない。
皆さん、本屋で本を買うと判ると思うけど、昔と比べると随分と面倒臭くなった。ポイントカードはあるかどうかとか、作るか作らないか聞かれたり、袋入りますか?と聞かれたり、店員とのやり取りが偉い増えた。おまけに、未だに会計の場所にビニールのカーテンをしてて何を言ってるのか聞こえ辛い。いつになったらビニールのカーテンを辞めるのか見当もつかない。これは何を怖がってる訳?
こんな風になる前はどうだったのか。買いたい本をレジに持って行って、店員が会計をして、せいぜい「カバーをお掛けしますか?」と聞かれ、後は勝手に袋に入れて、渡されて、それで終わり。元来、本屋と客の関係性は、そういう感じではなかったのか?
実の所、本屋だけに関して言えばセルフも悪くない。むしろ大歓迎かもしれない。勿論、本屋さん側からすれば、カバーを掛ける事自体が熟練した技なんですとなるのだが、客からすれば必ずしも必要ではない。そこを抜けば、後は本の裏面にあるバーコードを読み取って袋に入れて渡すだけとなれば、客も、それほど苦労する訳ではない。

良い例がゲオやTSUTAYAなどのレンタルビデオ店で、借りるビデオやCDなどはセルフで出来てしまう。慣れてしまえば客も快適だと思う訳だし、店側も手間を減らせて尚且つ、売り上げにもなる訳だし、御互いの為に良い。
コンビニだと少し事情が変わってきて、手間の類が違う。出来る事はあるけど出来ない事もある。小難しい手続きなんかは流石に店員さんにやって貰わないと不安。セルフに向いてるか向いてないかはモノによるのである。

セルフと言えるのかどうか判らないが、最近、焼き肉や鍋物などの店に行くと、注文用のタブレットが置いてあるのをチョクチョク見掛ける様になった。これは個人的には「待ってました!」と拍手したいくらいで、何故かと言うと、焼き肉や鍋などは、いちいち具材や肉の種類を口頭で伝えるのが意外に苦なのである。

店内がうるさければ大声を出さなきゃいけないし、具材の一々を注文取りの店員さんに上手に伝える事や、発声や発音に気を使わないと、御互いに「え?もう一度御願いします」とか言われて、気まずい雰囲気になって気が滅入るなんて事もある。その点、タブレットは一々の注文にうってつけのアイテムで、欲しい物をまとめて頼める利点がある。私なんかは、そう言った店でタブレットが置いてあったりすると「この店、正解!」とか、内心はしゃぐ時すらある。
タブレットの利点は面倒臭さからの解放だけでなく、体調を崩している人にも優しいアイテムと為り得る。例えば喉が不調の時とかは大活躍する。或いは精神的に不安症で、店員さんとのやり取りも苦手な場合も、直接の言葉のやり取りが無くても安心して注文出来る。そうする事で、そう言った客も「次も、この店に来よう」と意欲が沸くし、社会に対する自信にも繋がる。良い事ずくしで、マイナスを探す方が大変だと思う。極論で言えば、日本全国の焼肉屋さん、鍋屋さんは、全店でタブレットを標準にして頂きたいと願っている。

 

 

記事と関係ないけど、ドナルド・サザーランド(上の写真の人)が亡くなったそうな。享年88歳。病気だったらしいけど、この歳だと老衰の域かな。息子のキーファーの方が大好きだけど、親父の方も個性的で一度見たら忘れないタイプの俳優だなと思う。ロックアップと言う映画の極悪な所長役が一番好きかな。この映画をレビューした事あるんだけど、挙げる機会があったらやろうと思う。

ラーメンマンは何故、素敵なのか。
キン肉マンと言う有名な漫画の脇役として出て来るキャラなのだが、余りの人気と個性が際立って、ラーメンマンを主人公にした「闘将・拉麺男」と言う作品まで作られた。漫画のサブキャラを主人公に仕立てるのは、今時、珍しくなくなったが、キン肉マンが連載されていた79年から87年と言う時代背景を考えれば、異例の事だったに違いない。
ラーメンマンと言うキャラは、とにかく一々カッコいい。登場の仕方、台詞、技、雰囲気、作品の中でラーメンマンが登場するとワクワクしてくる。そのワクワクは何処から来るのかと言うと、彼が現れる所、乱ありって感じなのである。何か大きなドラマが起きるに違いないと読者は思う。こう言う流れを変えるキャラ設定を<作者のゆでたまご>が意識してるのかどうかは不明。テリーマンやロビンマスクもカッコいいが、そう言うオーラは感じられない。凄いキャラを作ったモンだと今更ながらに思う。

ラーメンマンへの愛情を書くにあたって、ウィキペディアに書いてない事を書いていこうと思うんだけど、まず、ラーメンマンのモデルになった人物が居る。ジャイアント馬場である。ジャイアント馬場はアントニオ猪木と並ぶ有名過ぎるプロレスラー。ジャイアント馬場って言う人は、見た目の鈍重感に反して頭の切れる頭脳派の人で、理論と知性を兼ね揃えている秀才だった。
ラーメンマンは、超人オリンピックでブロッケンマンをキャメルクラッチで殺し、ロビンマスクと戦って反則負けをした時の顔と、ウォーズマンやブロッケンマンの息子・ブロッケン・ジュニアと戦った時の顔が違う。初期の頃の顔はジャイアント馬場そっくりで、途中からドンドン顔がスマートにツルっとした感じになって見た目がカッコ良くなった。
これだけ時が流れても、ラーメンマン創作の秘話と言うのを見掛けないのだが、作者のゆでたまごが過去に語ったのかも知らない。仮説と言う事で書かせて貰うと、おそらく日本にやってきた少林寺ブームに乗せて作られた感じがする。と言うのも、キン肉マンの連載が始まった79年から87年の終了まで、テレビ映画などでクンフー映画が度々流されていた背景がある。

前にも書いた事があるが、少林寺ブームの火付け役はブルース・リーではなくジャッキーチェンだった。ブルース・リーが起こしたブームは、あくまでもブルース・リーと言う役者本人に起きたブームであって、それだけで一般大衆が少林寺そのものに興味を持つと言う現象までには至らなかった。その役目を担ったのは明らかにジャッキーチェンだった。
強いんだけど陰気なブルース・リーよりも、馬鹿で明るくて最後には悪をやっつけるジャッキーのキャラの方が日本人には判り易く、ジャッキーへの好奇心が少林寺と言う媒体に連鎖的に興味を持たせたと言ってもいい。
ゆでたまごと言う作家が、本格的にクンフー映画が好きなんだなと思わせたのが闘将・拉麺男であり、この作品に出て来るネタの殆どが70年代中期から80年代中期に作られたB級クンフー映画からであり、通な人が見れば「このシーン、あった、あった」と喜んだ人が確実に居たはず。

ラーメンマンがカッコいいと感じる、もう一つの要素は、アニメ版の声である。

キン肉マンでは、最終的に5人の声優が拭き替えたのだが、圧倒的にカッコいい声は最初に吹き替えた蟹江栄司(かにえ えいじ)だろう。残念な事に85年に43歳と言う若さで世を去った。
蟹江の声は独特な低さで、低さの中に知性と艶がある。ラーメンマンと言うキャラは、他の超人と比べると大人びていて達観している。出て来る台詞や落ち着きぶりが見事に描写されていると思う。そんなラーメンマンの個性と、蟹江の低い声と知性を感じさせる喋り方がピッタリとマッチした。
おそらく私の世代は、荻昌弘が司会をしていた月曜ロードショーの予告ナレーションや、ジャッキーチェンの「スネーキーモンキー蛇拳」の師範代とか、リー・リンチェイの「少林寺」など、クンフー映画などで聴いていた筈である。聞いたら忘れないタイプの声優で、こう言う人を唯一無二と言うのだろう。
同じくアニメ化された「闘将・拉麺男」では、森功至(もり かつじ)が吹き替えていた。この人の代表作は、私の中ではタイガーマスクの伊達直人や、北斗の拳の南斗白鷺拳のシュウだと思っているが、ラーメンマンの声とは意外だった。ラーメンマン役の違和感は殆どなく、流石、一流の声優だなと感心する。何気に忘れていたのは魁男塾のアニメ版で、二号生筆頭の明石剛次も当てている。

キン肉マンと言う作品が大したモンだと思わせるのは、超人ごとにテーマソングが設けられている事で、当然、ラーメンマンにも存在する。それが今回の動画。
主役のキン肉マンのテーマはアニメの主題歌そのまんまで、串田アキラさんのイメージが強い。このラーメンマンのテーマソングはアニメ版の導入歌で流されていて、フルで聴いた事は無かった。こうして容易に聴ける様になったネットは凄い。蟹江さんの声も入ってて、これは素晴らしい!

 

 

 

ドナルド・トランプがアメリカ大統領であった時、彼が面白い事を言っていた。

「日本は小さい島国なのに、プライドだけはデカい」

これを聞いた時、素晴らしいブラックジョークだなと感じたものだが、これって今の日本で問題になっているカスタマー・ハラスメント(略してカスハラ)と直結してるなと思った。
通称、王様病、お姫様病と言って、一種の我がまま症候群の事。何でも思い通りじゃなきゃ嫌だ、こうじゃなきゃ嫌だ、あれが欲しい、これが欲しい、ああしてくれ、こうしてくれ・・・国王クラスなら分かりそうなモノだが、日本は厄介な事に、庶民が王様、お姫様を気取ってしまっている。

カスハラ問題は、日本の行き過ぎたサービス産業が生み出した怪物だと私は思う。
日本のサービス産業は世界でも有数のトップクラスだが、メリットとデメリットはあった。メリットとは行き届いたサービスと厳しい教育で世界のトップに躍り出た事で、デメリットとは社員や従業員に苦しんで貰う事。日本のサービス業の教育方針の基本的概念に、客に逆らうなと言うのがある。頭を下げろ、笑顔で対応しろ、何を言われても謝れと言う教育。
カスハラは意外に身近にあったりする。例えばコンビニ。店に入って「いらっしゃいませ」の声が聞こえてこないだけでイラつく客って普通に居たりする。或いは会計の時に無表情でレジ対応する店員に微かな苛立ちを感じたりする事も日常茶飯事。今の日本人は、この程度の事でさえ不快感を感じてしまうほど脆くなってしまった。何かと国際基準と言う言葉が好きな日本だが、日本人の神経質は世界的に見て異常。

個人的な経験談を書かせて貰うと、100円ショップでバイトをして居た頃、100円の商品を買うのに万札を出してきた客が居た。9900円の釣りを出せばいいだけの事だが、レジから金を出している作業に苛立ったらしく、その客は「9900円だろ!」と不機嫌な言い方で凄んできた。「今、やってますよ」と私は返した。今度は、その返しに対して不機嫌になった。その場の会計は終わったが、その後にドラマがあった。一日明けて店から私に呼び出しが掛かった。私個人に苦情が来たらしい。その時点で何の苦情かピンと来る訳だが、苦情の主は店に直接、苦情を申し立てたのではなく、わざわざ本社に電話したらしい。クレーマーと言うのは本人の前で苦情を言うのではなく、意図的に大事にしようと言う腹積もりで本社に電話するのである。
サービスを提供する側としては、客が何に対して怒っているのか?不満なのか?まず話を聞く事が大事で、その上で、客の言い分に矛盾点がないか、難癖がないか、こちらに非があるのか無いのか、こう言った事を、その場で分析する対応力を鍛えなければならない。この辺を日本のサービス業は、どう考えてるのか?
現状では、客が怒り出したら大火事になると言う恐怖と警戒心しかなく、社員や従業員からすれば、明らかに対応する為の手持ちのカードが不足している。だから困る。戦々恐々の現場であり、快適な職場の提供とは程遠いのが実情では無いのか?この実情があるにも拘らず、日本のサービス産業は世界に誇っていいのか?と言う疑問がある。

現時点でカスハラに対してどうしたらいいのか?と言う問題を、サービス産業は取り合えずメディアを通して世間に訴えてみようと言う布教活動をしている。その心は、自主的にそう言った事を辞めて貰いたいと言う御願いである。それって他力本願であって、根本的な解決には程遠い。例えば、犯罪は悪い事だから皆さん辞めましょうと訴えて無くなったのかどうか?って事と同じではないのか?
サービス産業がやらなければならないのは教育と方針の見直しだと思う。だが容易な事ではない。サービスの水準を変えるって事は、挑戦であり、冒険であり、博打に値する。サービスは今まで通り。客とのやり取りに変化を加える。具体的には社員や従業員に<抗う術>と言うカードを持たせなければならないと言う事。それは喧嘩の道具であってはならない。相手を傷つけず自分も傷つかないと言う高難度の接客術を誰がどういう風に教えていくのか。
カスハラ対策の究極って、そう言う事なんじゃないの?

 

清原和博には、捨てられない三つの頑固がある。

1:何故、坊主頭なのか?

2:何故、眉毛を細くするのか?

3:何故、顎に個性的なデザインの髭を生やすのか?


個人的な見解だけど、清原は、この三つの頑固を辞めれば流れが変わると思う。
清原からすれば、「これが俺の生き方なんです」となる訳だが、世間は個人の御都合主義なんか見向きもしない。社会の仕組みとは何かと言えば、まず外見なのである。坊主頭に髭と言う組み合わせは典型的にヤクザな男を彷彿させる訳で、これだけで人は敬遠する。そもそも清原の顔に細眉は似合わない。むしろ濃く太い眉の方がカッコ良くなる顔立ちで、元々、端正な顔立ちな訳だし、細く見せるのは逆効果。
反省の態度とは裏腹に外見が伴ってないので、世間からは「大人しくしてるけど反省はしてないのかな?」って取ってしまう。世間は自分が思ってる以上に誤解をすると言う事を学ばなければならない。
同じ様なケースに、横浜銀蝿のボーカル・翔が居る。覚醒剤・撲滅運動のキャラだった時期もあり、暴漢に襲われた他人を救って警察から表彰され、その後、覚醒剤で逮捕されると言う珍しいタイプの人だったが、刑期を終え、出演した番組でテリー伊藤と共演した際、テリーに突っ込まれた。

「反省してないよ。だってカッコつけてるもん」

テリーが突っ込んだ<翔のカッコつけてる部分>とは、髪型のリーゼント、サングラス、髭、相変わらずの不良チックな喋り方の事だった。
翔からすれば、「これが俺のキャラですから」となる。外見への拘りが優先した時点で人は厳しい態度に出る。今の清原と全く同じである。どうしたら良かったのかと言えば、嘘でもいいから真面目な外見で人前に出る。それは媚ではなく騙しでもない。賢さであり機転である。清原も翔も、そこが判っていない。
人や世間は良い意味で騙せるって事を、悪い事をしてしまった人達には学んで貰いたい。そう言う期待を込めた今回の記事と受け取って貰いたい。