何でもアル牢屋

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趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

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光栄から三国志シリーズの新作「三國志8 REMAKE」の発売予定日が10月24日に決定した。
ナンバリングの予定で行けば15作目の筈だが、今作は過去作のリメイクとの事で、そうきたかって感じである。単に気紛れのリメイクなのか?何かの布石なのか?何か意味が在りそうな感じはする。
光栄の三国志シリーズは14作目までプレイしてるんだけど、8の記憶ってかなり希薄で、詰まらなかった想い出の方が強い。どう詰まらないのか説明すると、売りである武将プレイが期待に反して、それほど盛り上がらない。通常では君主プレイが基本で、選んだ君主に成り代わってプレイヤーが国盗りの戦略を練って行く訳なんだけど、武将プレイの最大の欠点はプレイヤーの思う通りの戦略が反映され辛い所で、此処はこうだと意気込んでも主君に反対され、別な戦略を立てられてしまう。


武将プレイの面白い所って、国盗りとは関係の無い所で街中や外の領地をプラプラして、自由を満喫出来たりする。偶然訪れた有名武将と交友を結んだり、店でお土産買って贈り物をしたり。関係が深まれば義兄弟みたいな特殊な関係になれたりもする。だが、武将プレイが楽しめる限界値はあって、自由度と国盗りのバランスが必ずしもマッチしない。武将プレイ故に、絶対的な目的を持たないので次第に飽きが来る。
多くのユーザーが私みたいに感じたかどうかは判らないが、8の失敗と悔しさをリベンジしたのが13作目だった。三国志13も武将プレイシステムを導入した。技術も当然ながら進歩し、武将の追加やイベント、絵的なモノや声優達の真剣な吹き替えの甲斐あって、中々楽しめる作品に仕上がった。14作目は元通りの君主プレイに戻り、さて、15作目はどうなるやらと思っていた時に8のリメイクの御登場となった次第。
このゲームが面白くなるかどうかは、戦闘システムに掛かっている。武将やイベント、自由度を増やした程度では面白くはならない。国盗りシミュレーションである以上、戦闘システムはコアと言っていい程、重要である。プレイヤーが求めるのは癖になり、病み付きになる程のハマるシステムだ。制作陣は、そこの所をどう考えたか?

シリーズのファンなので期待をしたい。

このゲームの見所の一つに、武将達の吹き替えを誰がやるか?と言うのがある。今回、公式サイトで一回目の担当声優陣が公開された。
まず、森川智之が劉備玄徳を担当。この人の個性だと五虎将軍の馬超あたりがハマりそうだが、劉備は意外だった。諸葛亮は子安武人。私的にはアニメ版・ジョジョの奇妙な冒険のディオがハマっていたが、諸葛亮をやらしても違和感は全然無い。インテリ役が得意なんだろうか。
個人的に最もビッグな声優さんだったのは黒田崇矢。黒田崇矢と言えば「龍が如く」の桐生一馬。圧倒的に桐生一馬である。あの堂島の龍が、三国志・最強武将の呂布を担当する。驚くほどマッチして、何故今まで無かったんだろうと思うほど、これほど合うのかと思ってしまった。
当然ながら今回は一回目の公開なので、発売までに二回目、三回目の追加公表があるのだが、董卓や黄巾党の長角、南蛮の孟獲と祝融の夫婦、それぞれ魏、呉、蜀の有名武将達の担当も公開されていくだろう。

 

 

光栄の<三国志><信長の野望>のシリーズと言えば、定番になっているのがPK版(パワーアップキット)で、無印版から大体、一年後くらいに発売されるのだが、時代の流れもあってか、ユーザーの反応が余り宜しくない様だ。
追加要素で買い直しするのはイイとしても、結局の所、無印版でやっていた事をなぞる様な展開になるので、ワクワク感が乏しいのが否めない。そもそもPK版なんてやってるのは光栄だけだし、他のゲームメーカーも有料ダウンロードの追加要素を入れたバージョンを出す事はあっても、パワーアップ版なんて出さない訳だし、そろそろどうなのかな?とは思う。
今作の三国志8のリメイク版を個人的に深読みすると、もしかしたらPK版から脱却をする為の一つの策とも考えられる。つまり、ナンバリングを出すからPK版を出さなきゃならなくなると言う宿命から逃れる為のリメイクなのかもしれない。光栄自身もPK版に対する限界を感じてるのかもしれない。第一、リメイク版と銘打つ以上、リメイクPKなんて発想は変な訳だから出来ない。
しかしながら、今回のリメイク版が癖になって、三国志のみならず信長の野望までもリメイクに走っていくと「おやおや?」って感じになる訳で、安易にはリメイク連発と言う訳にもいかなくなる。人気作のナンバリングだけに、今後、難しい所だな・・・

 

 

 

やりたい事があるのに出来ない。目指す場所があるのに辿り着けない。思い通りになってくれない人生にもどかしさを感じる気持ち。諦めがつかないと言う心境。
フジテレビで毎週金曜日の深夜一時から二時までの生放送「オールナイトフジコ」と言う番組は、アイドルの道を諦めきれない女の子達にとって最後の希望とも言える。その最後の希望とは、アイドルをプロデュースしたら敵う者が居ない秋元康の事で、その彼が番組の総合プロデューサーになっている。頑張って彼の目に留まれば道が切り開けるかもしれないと言う、一縷の望みを賭けるのである。

タイトルの由来は、知る人ぞ知る懐かしのエロ番組「オールナイトフジ」。少し説明すると、フジテレビの土曜の深夜番組で、83年から91年まで放送されたテレビ史上最もエロい深夜番組。スタートした時期が昭和と言う景気のイイ頃で、規制も緩く、うるさく言われない幸せな時代だった。
どう言う風にエロいのかと言えば、アダルトビデオの性交場面の一部を平気で流してしまうのである。この時代、私は成人ではなく思春期の少年だった。この番組にまつわる想い出が沢山ある。夏休みや冬休みになると、私は一つ年上の近所の幼馴染みと一緒に知人の家に泊りに行った。泊まれる曜日は何故か土曜だった。大人になって知った事だが、知人の家の旦那が浮氣をして、土曜の夜は帰って来なかったからだった。それで後になって「なるほど、だからか・・・」と思った。
宿泊は必ず一泊。幼馴染と泊る際、私達は一種のノルマを課した。

「朝まで寝ちゃだめだぞ!」

御互い小学校の高学年の身でありながら、徹夜の約束。私は、どう言う訳か夜遅くまで起きている子供だった。今年、102歳で死んだ祖母の遺伝子かもしれない。祖母は若いころ理容師で、日中は仕事漬けで自由が無い分、人が寝静まる深夜を楽しんでいた。孫の私から見て、そんな祖母が個性的で宇宙人的な大人に見えた。

 

 

今でもそうなのだが、私は巨乳が好きだ。小学生の頃に夜更かしして観てたオールナイトフジに、たまにAV女優がゲスト出演する事があった。当時、まだ村西とおる監督が全盛期で、その監督の会社の所属女優がたまに来ていた。私のお目当ては松坂季実子と言う女優だった。
松坂季実子はレジェンドとも言える昭和の女優で、バスト100センチ越えの巨乳の主で、巨乳AVの先駆者だった。今時、100センチ越えのスタイル抜群の巨乳女優は珍しくないが、松坂季実子は丸顔でポッチャリ体型で、御世辞にもスタイルはイイとは言えない。だが、少年の目から見て彼女は大変な魅力の持ち主で刺激的だった。出演する時は大体の場合、新作の宣伝で、その彼女がバックからピストンされ巨乳がユッサユッサ揺れる映像が平然と流された。今となっては信じられない光景で、新成人からすれば、一体何処の国の話ですか?と突っ込まれてもおかしくないとさえ思う。そんな凄い時代のテレビだった。

2024年現在、テレビはドンドン規制され、エロは駄目、グロも駄目、お笑いですら企画制限され、それでどうなったかと言えば、救いようの無い悲惨な現状。テレビはひたすら視聴者から怒られ続け、テレビを語れば悪口しか出て来ないと言う有り様。何で、こんな風になってしまったのか?
そんな中、オールナイトフジコは僅かながら挑戦を続けている。つい先日に観た時、AV女優の桃園怜奈がゲスト出演していた。当然ながらエロ企画が始まる。その企画によれば、ピコピコハンマーを握って、どのくらい高速で動かせるか?ピンポン玉を口に咥え、どのくらい飛ばせるかでAV女優としての素質が判るんだそうだ。要するに手扱きとフェラチオの素質を試す訳だ。ハッキリ視聴者にそう伝えればいいのに、そうストレートには表現しない辺りが、今時のテレビ事情なんだろう。
個人的には、AV女優さんにドンドン、テレビ出演して貰いたいと思っている。

そもそも彼女達の何がイケないのか?

どうして駄目なのか?

何の害悪があるのか?

誰も説明が出来ない。にも拘らず、ゲテモノのオカマ連中だけは平然と出すと言う感覚が判らない。しかも御茶の間でメジャー扱いしている。こんな汚い人達を出すより、桃園怜奈や三上悠亜みたいな可愛いAV女優さんを出した方が目の保養にどれだけ良い事か。必ずしもエロ企画じゃなくても彼女達の需要はあるだろう。

世間の反応や視聴率は知らないけど、オールナイトフジコみたいな深夜番組は長く続けて貰いたいと心から願っている。少なくとも今のテレビ業界には、こういう挑戦的な番組が必要だろう。AV女優さんをテレビで観れると言う点もポイントが高い。普通にトークも出来る彼女達の素顔が意外に可愛らしい事に気付かされる点も見所なのである。

 

 

スティーブン・キングの「アウトサイダー」と言う小説を読んだ。2018年に書かれた原作で、2024年の1月に文春文庫から文庫として本屋に並んだ。
私は読書に関しては多少の頑固さを持っていて、単行本で買う事は殆ど無い。よっぽどの興味を引くものでもなければハードカバーにも手を出さない。別に持ち歩く訳でもないのに文庫への拘りが強い。
で、アウトサイダーの文庫本。上下二巻の長編物で表紙のイラストが禍々しくて興味をそそる。こういう視覚効果は重要だ。読む前から物語の不吉さが漂っている。

冒頭から11歳の少年が惨殺死体で発見される。首を絞められたとか、銃で撃たれたとか、刺されたとかの類ではない。少年の死体は何者かに喰われていた。喰われただけでなく、少年の肛門には木の枝が突き刺され、大量の精液が撒き散らされていた。時を同じくして、別の地域でも二人の少女が同じ様に惨殺されていた。
この下りを読んだ時、ピンと来たのはロシアで実際に起きた猟奇事件だった。アンドレイ・チカチーロと言う伝説となった殺人鬼。同じ様に感じた読者も、きっと居た筈。この人物については、過去、このブログで取り上げた。興味のある方は読んで頂きたい。

こう言った描写をしたスティーブン・キングと言う作家は、いわゆるシリアルキラーについて綿密な下調べをした様である。この物語の犯行手口は、殆どチカチーロの事件と同じである。そうだと言い切れる描写までしてある。描写の中に「犯人の肩は撫で肩で、乳首が異様に突起しているのかもしれない」と言うのがある。この身体的特徴を持っていたのがチカチーロだった。アメリカのシリアルキラーと言えば映画にもなるほど有名人が多いが、キングが選んだのはロシアの怪人だったのである。

ネタバレにならない程度に書こうと思うのだが、少年少女の猟奇事件から、物語は思わぬ方向へ移行していく。そこに関して後書き解説の朝宮運河と言う書評家が、私が思った事、感じた事を、そのまんま書いてくれている。少しだけ引用しておこう。

「ある時点まではサスペンスと緊迫感に満ちたミステリー。そこから先は超・自然的存在の脅威を扱ったホラーと言う事になる。この中盤での不意打ちめいたギアチェンジが本書の大きな読み所だ。これにミステリーじゃなかったと腹を立てるか、待ってましたと拍手するかで本書の感想は変わってくるだろう」

私自身は腹を立てる所までいかなかったが、ちょっとした虚脱感はあった。
この文庫の上巻は絶妙なタイミングで終わる。その絶妙とは、ホリー・ギブニーと言う人物の、まさかの登場であった。事件は警察組織が思っている以上に奥が深く、捜査が暗礁に乗った頃、担当刑事の一人が、ある人物に当てがあると言い放つ。その人物は元・刑事で、難事件を解決する凄腕の名探偵。名をビル・ホッジズと言う。
この辺の展開は有名な作品「エクソシスト」とよく似ている。エクソシストでは、少女リーガンの奇行を医学で解明できなくなり、どうしようかとなった頃、一人の担当医がリーガンの母に「悪魔祓いを御存じですか?」と問う。そこで登場するのが悪魔祓いの達人・メリン神父だったと言う展開。ホラー大好きのキングが意識してない筈が無いと、私は堂々と断言出来る。
 

ビル・ホッジズとホリー・ギブニーと言う人物について少し説明したい。

キングは、このアウトサイダーを書く以前に<ミスター・メルセデス><ファインダーズ・キーパーズ><任務の終わり>「ビル・ホッジズ三部作」と言われる三作品を書いていて、老探偵・ビルと助手のホリーが大活躍する物語なのである。
三部作を楽しんだ読者は、ホリーの思わぬ登場にアドレナリンが放出したに違いない。チャーミングな美人さんなんだけど、神経質で軽度の強迫神経症を患っているこの人物が、この猟奇で不可解な事件にどう絡んでくるのか?此処までの濃い登場人物達と、どんな絡みをしていくんだろうとワクワクさせる。

ホリーの登場は私流に書かせて貰うならば、バンパイア・ハンターの登場だった。
刑事達の手にする銃の弾丸では殺せない吸血鬼。だけどホリーには、過去に吸血鬼に立ち向かった経験と武器がある。無論、アウトサイダーと言う作品は吸血鬼の話ではない。しかし、話の展開を読んでいけば、ホリーの役どころは正に女版のバン・ヘルシング教授と言っても差支えは無い。
中盤以降、犯人探しから異次元の怪物退治に移行する物語。終盤、不吉な洞窟へと潜入していく刑事とホリーの姿は、吸血鬼が徘徊するドラキュラ城に乗り込むヘルシング御一行と絶妙に被る。

それにしてもキングの人物描写は衰えない。イキイキとした弾む様な会話文は、どんな中傷や批判も黙らせる力を持っている。もしかしたら、途中、展開に怒って読むのを辞めた人も居たかもしれない。でも多少、気分を害しながらも、この本を完走出来た読者に共通したのは、キングの圧倒的な場面描写と脚本力を感じたからではなかっただろうか?
特にホリー・ギブニーと言う突然参加してくる意外なキャラの描写を読む限り、このキャラへの並々ならぬ愛情と期待を込めている様な気がしてならない。ホリーと言う人物は、もはやビル・ホッジズの助手と言う枠では収まり切れない魅力を放っている。明らかにキングは、自分が創作したホリーに恋をしている。
キングは今後、ホリーをビルの後継者として描くつもりなのか?ビルの手綱を放れたチャーミングなモンスターハンターとして描くのか?彼女を主人公にした物語が出て来るのは時間の問題だろう。

 

地元に一軒しか無くなった三階建ての大きな本屋があるのだが、二階と三階に店員を置かなくなった。どう言う事かと言えば、二階と三階での会計が出来なくなり、わざわざ一階まで持って行って会計をする。
当然ながら万引きが発生するのではないか?となるのだが、そこは対策済みで、床に足跡のマークが書いてあって、その足跡を辿って階段を降り、一回のレジへと向かう。ビルなので、それぞれの階にエレベーターがあるのだが、乗ると万引き扱いになりそうな気配がするので乗らない様にしているw
でもこれって、五体満足、健康体なら良いけど、足が不自由だったり、移動が困難な人だったりすると困ってしまう。本は買いたいけど、あの本屋さんは移動が大変だからと言う気の毒な理由で、足が遠のくのも悲劇かなと。しかも、本屋だって客足が減るし、売り上げは伸びないし、良い事が一つも無い。この苦境を、どうすればいいのか。

単純な発想からすれば、本屋もセルフレジにすれば良いのではないか?となる訳だが、それだって最低でも一人、店員を置かないと、セルフのやり方が判らない人はパニックになってしまう。その辺の事情はガソリンスタンドと似ている。セルフであっても店員は配置しなければならない。
皆さん、本屋で本を買うと判ると思うけど、昔と比べると随分と面倒臭くなった。ポイントカードはあるかどうかとか、作るか作らないか聞かれたり、袋入りますか?と聞かれたり、店員とのやり取りが偉い増えた。おまけに、未だに会計の場所にビニールのカーテンをしてて何を言ってるのか聞こえ辛い。いつになったらビニールのカーテンを辞めるのか見当もつかない。これは何を怖がってる訳?
こんな風になる前はどうだったのか。買いたい本をレジに持って行って、店員が会計をして、せいぜい「カバーをお掛けしますか?」と聞かれ、後は勝手に袋に入れて、渡されて、それで終わり。元来、本屋と客の関係性は、そういう感じではなかったのか?
実の所、本屋だけに関して言えばセルフも悪くない。むしろ大歓迎かもしれない。勿論、本屋さん側からすれば、カバーを掛ける事自体が熟練した技なんですとなるのだが、客からすれば必ずしも必要ではない。そこを抜けば、後は本の裏面にあるバーコードを読み取って袋に入れて渡すだけとなれば、客も、それほど苦労する訳ではない。

良い例がゲオやTSUTAYAなどのレンタルビデオ店で、借りるビデオやCDなどはセルフで出来てしまう。慣れてしまえば客も快適だと思う訳だし、店側も手間を減らせて尚且つ、売り上げにもなる訳だし、御互いの為に良い。
コンビニだと少し事情が変わってきて、手間の類が違う。出来る事はあるけど出来ない事もある。小難しい手続きなんかは流石に店員さんにやって貰わないと不安。セルフに向いてるか向いてないかはモノによるのである。

セルフと言えるのかどうか判らないが、最近、焼き肉や鍋物などの店に行くと、注文用のタブレットが置いてあるのをチョクチョク見掛ける様になった。これは個人的には「待ってました!」と拍手したいくらいで、何故かと言うと、焼き肉や鍋などは、いちいち具材や肉の種類を口頭で伝えるのが意外に苦なのである。

店内がうるさければ大声を出さなきゃいけないし、具材の一々を注文取りの店員さんに上手に伝える事や、発声や発音に気を使わないと、御互いに「え?もう一度御願いします」とか言われて、気まずい雰囲気になって気が滅入るなんて事もある。その点、タブレットは一々の注文にうってつけのアイテムで、欲しい物をまとめて頼める利点がある。私なんかは、そう言った店でタブレットが置いてあったりすると「この店、正解!」とか、内心はしゃぐ時すらある。
タブレットの利点は面倒臭さからの解放だけでなく、体調を崩している人にも優しいアイテムと為り得る。例えば喉が不調の時とかは大活躍する。或いは精神的に不安症で、店員さんとのやり取りも苦手な場合も、直接の言葉のやり取りが無くても安心して注文出来る。そうする事で、そう言った客も「次も、この店に来よう」と意欲が沸くし、社会に対する自信にも繋がる。良い事ずくしで、マイナスを探す方が大変だと思う。極論で言えば、日本全国の焼肉屋さん、鍋屋さんは、全店でタブレットを標準にして頂きたいと願っている。

 

 

記事と関係ないけど、ドナルド・サザーランド(上の写真の人)が亡くなったそうな。享年88歳。病気だったらしいけど、この歳だと老衰の域かな。息子のキーファーの方が大好きだけど、親父の方も個性的で一度見たら忘れないタイプの俳優だなと思う。ロックアップと言う映画の極悪な所長役が一番好きかな。この映画をレビューした事あるんだけど、挙げる機会があったらやろうと思う。

ラーメンマンは何故、素敵なのか。
キン肉マンと言う有名な漫画の脇役として出て来るキャラなのだが、余りの人気と個性が際立って、ラーメンマンを主人公にした「闘将・拉麺男」と言う作品まで作られた。漫画のサブキャラを主人公に仕立てるのは、今時、珍しくなくなったが、キン肉マンが連載されていた79年から87年と言う時代背景を考えれば、異例の事だったに違いない。
ラーメンマンと言うキャラは、とにかく一々カッコいい。登場の仕方、台詞、技、雰囲気、作品の中でラーメンマンが登場するとワクワクしてくる。そのワクワクは何処から来るのかと言うと、彼が現れる所、乱ありって感じなのである。何か大きなドラマが起きるに違いないと読者は思う。こう言う流れを変えるキャラ設定を<作者のゆでたまご>が意識してるのかどうかは不明。テリーマンやロビンマスクもカッコいいが、そう言うオーラは感じられない。凄いキャラを作ったモンだと今更ながらに思う。

ラーメンマンへの愛情を書くにあたって、ウィキペディアに書いてない事を書いていこうと思うんだけど、まず、ラーメンマンのモデルになった人物が居る。ジャイアント馬場である。ジャイアント馬場はアントニオ猪木と並ぶ有名過ぎるプロレスラー。ジャイアント馬場って言う人は、見た目の鈍重感に反して頭の切れる頭脳派の人で、理論と知性を兼ね揃えている秀才だった。
ラーメンマンは、超人オリンピックでブロッケンマンをキャメルクラッチで殺し、ロビンマスクと戦って反則負けをした時の顔と、ウォーズマンやブロッケンマンの息子・ブロッケン・ジュニアと戦った時の顔が違う。初期の頃の顔はジャイアント馬場そっくりで、途中からドンドン顔がスマートにツルっとした感じになって見た目がカッコ良くなった。
これだけ時が流れても、ラーメンマン創作の秘話と言うのを見掛けないのだが、作者のゆでたまごが過去に語ったのかも知らない。仮説と言う事で書かせて貰うと、おそらく日本にやってきた少林寺ブームに乗せて作られた感じがする。と言うのも、キン肉マンの連載が始まった79年から87年の終了まで、テレビ映画などでクンフー映画が度々流されていた背景がある。

前にも書いた事があるが、少林寺ブームの火付け役はブルース・リーではなくジャッキーチェンだった。ブルース・リーが起こしたブームは、あくまでもブルース・リーと言う役者本人に起きたブームであって、それだけで一般大衆が少林寺そのものに興味を持つと言う現象までには至らなかった。その役目を担ったのは明らかにジャッキーチェンだった。
強いんだけど陰気なブルース・リーよりも、馬鹿で明るくて最後には悪をやっつけるジャッキーのキャラの方が日本人には判り易く、ジャッキーへの好奇心が少林寺と言う媒体に連鎖的に興味を持たせたと言ってもいい。
ゆでたまごと言う作家が、本格的にクンフー映画が好きなんだなと思わせたのが闘将・拉麺男であり、この作品に出て来るネタの殆どが70年代中期から80年代中期に作られたB級クンフー映画からであり、通な人が見れば「このシーン、あった、あった」と喜んだ人が確実に居たはず。

ラーメンマンがカッコいいと感じる、もう一つの要素は、アニメ版の声である。

キン肉マンでは、最終的に5人の声優が拭き替えたのだが、圧倒的にカッコいい声は最初に吹き替えた蟹江栄司(かにえ えいじ)だろう。残念な事に85年に43歳と言う若さで世を去った。
蟹江の声は独特な低さで、低さの中に知性と艶がある。ラーメンマンと言うキャラは、他の超人と比べると大人びていて達観している。出て来る台詞や落ち着きぶりが見事に描写されていると思う。そんなラーメンマンの個性と、蟹江の低い声と知性を感じさせる喋り方がピッタリとマッチした。
おそらく私の世代は、荻昌弘が司会をしていた月曜ロードショーの予告ナレーションや、ジャッキーチェンの「スネーキーモンキー蛇拳」の師範代とか、リー・リンチェイの「少林寺」など、クンフー映画などで聴いていた筈である。聞いたら忘れないタイプの声優で、こう言う人を唯一無二と言うのだろう。
同じくアニメ化された「闘将・拉麺男」では、森功至(もり かつじ)が吹き替えていた。この人の代表作は、私の中ではタイガーマスクの伊達直人や、北斗の拳の南斗白鷺拳のシュウだと思っているが、ラーメンマンの声とは意外だった。ラーメンマン役の違和感は殆どなく、流石、一流の声優だなと感心する。何気に忘れていたのは魁男塾のアニメ版で、二号生筆頭の明石剛次も当てている。

キン肉マンと言う作品が大したモンだと思わせるのは、超人ごとにテーマソングが設けられている事で、当然、ラーメンマンにも存在する。それが今回の動画。
主役のキン肉マンのテーマはアニメの主題歌そのまんまで、串田アキラさんのイメージが強い。このラーメンマンのテーマソングはアニメ版の導入歌で流されていて、フルで聴いた事は無かった。こうして容易に聴ける様になったネットは凄い。蟹江さんの声も入ってて、これは素晴らしい!