何でもアル牢屋

何でもアル牢屋

趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

動画が流行ってる時代だからこそ文章を大事にしたい。時には厳しく、時には楽しく。文章に拘るブログこそが我が志!宜しく御願い致します!

同窓会に行って感じた事は、懐かしさと同時に自分の存在の確認行為と言う意味合いもあったのかな?と言う事。
これまでの人生の総決算とも言い換える事も出来る。此処まで何をして、どう生きて来たのか?と言う、自分なりの成績表を恐る恐る開いて見ると言うイベントだったのかもしれない。そこを踏まえて、来たいけど来れなかった人、来れない事情があった人、行くか行くまいか散々悩み、最終決断として行かないと言う選択をした人、高校デビューで中学時代は詰まらなかった人、精神的に病んで動けない人、積もる話になるとヤバいと言う不安に駆られた人、療養中で行くに行かれなかった人・・・様々である。

下世話な事だが、同級生のSEX事情が凄く気になってしまった。
35年前、15歳の同級生の殆どが童貞、処女であった。その童貞と処女が、この35年の何処かで私の知らない誰かと出会い、SEXをしたのである。そう考えた時、彼等のSEXが、どう言うSEXであったのか想像をしてしまった。
SEXは身近にあるようで身近になく、遠い果ての様で意外に近くにあったりする。風任せに普通に生きているとSEXに遭遇する事は無いだろうと私は思う。SEXをしたければ、SEXと言うゴール地点を設定し、そこに向かって走らなければならない。その先に誰が待っているのか、どんな人が自分のSEXの相手になるのか予測は全く不可能である。
少なくとも、同窓会に集まった既婚の同級生は、その道筋を辿った。例えば当時、どう見ても異性に人気の無さそうな同級生が驚くほど速く結婚し、子供を3人も作った。その同級生が裸になってパートナーと抱き合っている姿を想像すると、どうにもシックリ来ない。こんな想像自体が大変失礼な事だと言う事は重々承知なのだが、そんな時に限って想像が膨らんでしまう。
50歳と言えば、結婚適齢期の20代半ばで結婚し、子作りが上手い事いけば、20代前後の子供が居てもおかしくない。その子供の結婚が早ければ、孫だっているかも知れないのである。そう考えると随分と歳を取ったもんだと感慨深くなる。
そう言えば、同じクラスの同級生にAV男優になりたいと言う夢を持った奴が居た。彼は登校拒否で滅多に学校に来なかった。卒業式にも参加せず、卒業式が終わった頃、式場の体育館の入り口の近くでポケットに手を突っ込んで立っていた。卒業式の日は寒く、小雪がパラついていたのを今でも覚えている。

同窓会の連絡を受けてアメリカから帰国し、参加してくれた女子の同級生がいた。
途中参加で、偶然同じテーブル席だったので話す事が出来た。この同級生は中々複雑で、小学校は3年生まで一緒で、進級と同時に転校していった。その事を聞いて見た所、親の仕事の都合で通学が困難になると言う事情で、やむなく学校を変えざるを得なかったと言う事らしかった。
中学へ進学した頃、私とは別のクラスで彼女を見掛けたので「あれ?」っと思った。その時は、また地元に戻ってきたんだなと思ったのだが、事実はそうではなく、要するに同じ地元で学校だけ変えたと言う事だった。正に35年目の真実。
中学の頃から垢抜けた存在感ではあった。中学生にしてエレガントな雰囲気を持った生徒に見えた。実際、育ちが良いのだろう。同窓会にやってきた彼女はアメリカンな感じだった。挨拶は御辞儀や握手ではなくハグだった。私も含めた数人の同級生とハグをした。昔と違って肌を触れ合わせる事が難しくなった今の時代で、突然のハグと言う行動に戸惑ったが、自分でも意外な程、自然に出来た。彼女の肌は適度に日焼けし、柔らかく暖かかった。
成人を過ぎた同窓会の定番だが、どうしても結婚や家庭の話になる。左手薬指を見ると指輪をしていたので結婚はしてるなと思ったので、子供の事を聞いてみた。残念ながら、このエレガントな彼女は子供には恵まれなかったらしい。その事を話している時、彼女は子宮のある下腹部をさすっていた。
彼女に感心したのは、自分の弱みを今日だけしか接しない同級生に堂々と打ち明けた事だった。アメリカンなノリだからと言う理由だけではない。人によっては避けたがる話題だし、弱い部分を見せる事は容易な事ではない筈。それを出来た彼女がカッコ良く見えた。そんな彼女がアメリカに帰国したのは、同窓会から二日後だった。

長くなってしまった同窓会の記事だが、今回で最後。最後に同級生ってどういう存在なんだろう?と考えてみた。
個人的な結論だが、同級生とは、同時代を同じ時間軸で生きている人達。これでどうだろうか。一般人も芸能人もスポーツ選手も文化人も芸術家も、もっと視野を拡げれば1975年に生まれた世界中の人々が同級生であると言う事。

年々感じる事だが、同世代に対する想いに関して、若い頃とは違う感情がある事を実感している。同じ時間軸で同級生たちは、各々が自分とは違う行動をしている。あの日、あの時、あの同級生は何をしていたんだろう?と言う好奇心が湧くのである。
例えば、ニュースで犯罪を犯して連行されていく同い年の容疑者を見ると複雑な心境になる。人の道を踏み外していった同級生がいる。一方で称賛される同級生も居る。波風を立てず、慎ましく生きる同級生もいる。
 

経験則として伝えたい事は、もし同窓会に参加しようか迷っている人が居たら、思い切って参加してみる事をお勧めする。私の場合、同窓会の話が来たのが5月で、開催は7月の中旬だった。その期間、随分と迷い悩んだ。いっそ、これだけ参加に苦しむなら辞めようと何度も思った。だが、最後の一週間で私は腹を括り覚悟を決めた。

頭の中は不安で一杯なのである。孤立したらどうしようとか、話し相手が居なくて飲み物だけグビグビ飲んで終ったらどうしようとか、中傷されたら嫌だなとか、そんな嫌な想像ばかりに襲われたが、実際に行ってみると、嫌な想像も、所詮は想像だなと思い知らされた。想像って想像に過ぎない。そして想像は当たらない。良い意味で想像とは違う全くの別な展開が待っていた。
私もそうなのだが、同窓会に行く際、当時仲良くしてた人が来ないとテンション上がらないなと思っていたのだが、行ってみると、当時、話した事も無い様な同級生と不思議と会話が弾む。これは未だに不思議に思う。と言うのは、自分が相手を知らなくても意外に他の同級生が自分の事を知っていたりする。そこに対する嬉しさを反動に会話が弾んでくる。そんな展開もあるのである。

 

 

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これはどうしても避けられない現実だった。死は年寄りの特権では無い。若くても死ぬのだと言う事を人生で学んできた。
50歳ってどんな時期なんだろう?と考えてみた。爺さんや婆さんとは思えない。だが結婚や出産が早ければ、孫が居てもおかしくはない年齢ではある。その場合、随分と外見の若い爺さん婆さんとなる。時の流れを痛感せざるを得ない。
知っただけでも4人の死亡者が居た。二人が病死、一人は事故死、一人は自殺であった。自殺した同級生は男子で、事業に失敗し、多額の借金を抱え、嫁さんと子供を残して風呂場で首を吊ったと言う事だった。この自殺した同級生は多少縁があった男だった。陸上部の100メートル走で11秒台を叩き出した俊足だった。私の通った中学校では、1年生は必ず何かの部活に強制的に入部しなければならないシステムだった。最初から帰宅部と言う選択は許されなかった。遊びたい連中は、部活に籍を置きながら活動はせず、幽霊部員としてサボってバックレるしか手段は無かった。
私は陸上部に入り、嫌々練習をし、朝練をサボり、放課後、どうやって逃げようかと思案を巡らす不良だった。自殺した同級生は真面目な部員で、400メートルリレーの一人であり、100メートル走の選手だった。とにかく速いので花形の存在だった。実家は床屋だった。
中学を出てからの彼を知る事は無かったが、総体的に学校時代のスターは結構な頻度で不幸になる様な気がする。いわゆるエリート人生。他人から褒められ続ける人生。そう言うスターが会社勤めから実業家に転身し、最後には悲劇的な死を迎えるパターンは、この同級生だけではないだろう。
自殺した彼は、もう歳を取る事は無くなった。肉体そのものが無くなってしまった。50歳を迎える事が出来なかった。そこで考える。この同級生は生きていたら、今回の同窓会に来たんだろうかと。自殺をしなければ彼は生きて50歳になっていた。そう考えると複雑な心境になる。

二人の病死の内、一人は、小学生時代の大親友であった。どうやって仲良くなったんだろうと想い出すと、共通の趣味がクンフー映画だった。昭和50年代、テレビ映画が全盛で、今みたいにジブリ作品や御馴染みのメジャー作品だけでなく、多くの人が知らないB級映画がテレビで沢山流されていた時代だった。
そこで登場したのがジャッキーチェンだった。彼の持つ個性は少年の心を惹き付けた。映画を観た翌日、学校へ行くと話のネタになった。そういう流れで仲良くなれた友人が何人か居た。死んだ友人は小学生の頃、私の家によく来た。少し薄暗い部屋で一緒にテレビを観てたのを想い出す。
不思議なモノで、小学校時代の6年間は、2年おきに友人が変わっていった。死んだ友人とは2年生まで仲良くしていたが、3年生からは御互いに遊び相手が変わり、一緒に遊ぶ事が無くなった。喧嘩とかではなく、自然と離れていった感じだった。
中学に入ると完全に遊ぶ事は無くなった。先日、卒業アルバムを見て驚いたのは、3年生の時、一緒のクラスだった事だった。クラスが一緒だった事すら忘れているのである。と言う事は、御互いに完全に関心を失っているのである。
風の便りと言う言葉がある。実際に会わなくても、誰かからの話で、その人の情報が入ってくる時に使う言葉だ。その風の便りで、彼の今の情報を知った。彼は中学を卒業した後、高校へ進学したが長続きせず学校を辞めてしまった。辞めた後、彼は料理人の道を歩んだ。ジャンルは中華である。地元の街中華屋で修業し、独立はせず、勤め人として過ごした。
30歳を過ぎた頃、思わぬ所で彼と再会した。地元の大病院で検査をした帰りに、近くにある年季の入った街中華屋に入ったら彼が厨房に居たのである。台所でエビの皮むきをしていた彼は客として入ってきた私に気付いた。照れ臭そうに笑っていたのを覚えている。
「いらっしゃい」と言って彼は注文を聞きに来た。「久しぶり」と私は答えた。台所の親方の視線を感じたので、長々と話はできないと察したので早々と注文をした。頼んだのはチャーハンと餃子だった。チャーハンと言うより焼き飯と言う言い方の方がシックリくるのではないかと言う感じのチャーハンだった。
この再会が生きている彼を見た最後だった。その後、この街中華屋は立ち退きで潰れ、友人は、この時点では職を失った事になる。その後、彼は地元の商店街の近くでアパートを借りて住んでいたと言う所までが、私が知ってる彼の情報だった。
その続きを同窓会で同席した昔の友人から聞いた。

「あ、そう言えば○○、死んだよ」

それを聞いた時、鳥肌が立った。
苦労人だと言う事は知っている。しかし、それであっても何とか生きて頑張ってくれていると思っていただけにショックだった。死因は癌だったらしい。中華屋の後、配達で生計を立て、その傍らで母親の介護をし、疲れに疲れ切って病に倒れた。私はそれを聞いた時、涙が出そうになった。どうして彼は、そんな苦労を背負わなければならなかったんだろう。同窓会は皆、笑顔で盛り上がり、酒を飲んで楽しそうにしている。どうして彼は、この席に来る事を許されなかったんだろうと。

 

 

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同窓会と言えば初恋の人。その人が来ると判った時点で行く気が起きたのも事実。
初恋の彼女は小学生の時から仲良くしていた子だった。元気でハツラツで明るくて、暗さとは無縁の様な感じの子だった。小学校の席替えで、意図的に隣になる様に細工をする様な仲だった。その仲も中学までで、彼女は中2の頃に同級生の彼氏が出来た。学校の帰りに時々、彼女と彼氏を見掛けた。彼女は彼氏の自転車の後ろに乗って楽しそうだった。そう言う光景を奇妙な感覚で見ていた記憶がある。
そんな私も彼女も今年50歳になった。ロビーで幹事と話していると、彼女がホテルにやってきた。どんな容姿になってるんだろう?と言うのが一番の関心だったが、彼女は瑞々しかった。少し色黒で可愛い感じだった彼女の肌は白くなり、洗練された容姿になっていた。50の女には見えなかった。
テーブル席が違っていた為、接近する事が出来なかったのだが、終わり際に彼女の方から寄って来て話し掛けてくれた。

彼女:「〇〇ちゃん、久しぶり。元気」

私:「久しぶりだね」


こんな会話から始まった。
彼女は20代の前半で公務員と結婚し、女の子を産んだ。その女の子はもう20代後半になる。

私:「結婚、早かったよね」

彼女:「うん。結婚しなきゃよかったよ」


話のノリと勢いでそう言ったと私は解釈した。と言うのも、私の母も彼女と同じ様な事を言った事があるのを覚えていたからだ。女は結婚して時が経つと、そう言う事を言うのかもしれないなと私は思った。

私:「娘さん、可愛いでしょ」

彼女:「家に居るよ。あんなの可愛くないよ」


サバサバした彼女の言い方に私は笑った。我が子を可愛くない母親など居ないのである。彼女なりのユーモアだと思うし、サービス精神と社交性のある彼女らしいなと懐かしく思った。
50に見えないほど若く見えたし、もっと話せたらなと正直思った。きっと昔話で盛り上がれただろう。今だから聞きたい事もあった。もういつ会えるかも分からない。だけどもタイミングと時間が無いと言う煩わしさ。この同窓会で感じた唯一の不満だった。
 

話し込んだら好きになってしまうかもしれないと言う妙な感覚が私にはあった。彼女には無かったかもしれない。でも50になった彼女が、とても魅力的に見えた。でも彼女には旦那が居るし、娘も居ると言う現実がある。本当に実ってしまう50歳同士の恋だとすれば、それは非常に危険な恋になるだろう事は判っているのである。
同窓会の翌日、幹事からスマホのLINEの誘いが来て、参加した30人が全てLINEで繋がると言う現象が起きた。この中には当然、初恋の人のLINEも入っていた。だが、このLINEはあくまでも幹事が主催しているグループなので、個人的な書き込みは避けなければならない。なので、初恋の人にピンポイントで「お疲れ様、元気?」とかやってしまうと違和感があるし、他の連中にも見られるので、それは出来ない。
どういう考え方をすればよいのだろう。何か違う考え方が必要だと感じた。そこで辿り着いた考え方とは、プラスマイナスだった。つまり、良い事も悪い事も半々でイイじゃないかと言う考え方。そもそも、タイミング的には奇跡的な同窓会だった。2度あって2度参加せず、3度めがあった事自体が、もはや奇跡だったんじゃないかと。初恋の彼女目当てでなくても、当時、よく遊んだ友人達と再会できて話が出来た事だけでも上出来だったんじゃないかと。
その上で、これ以上は高望みだし、欲の搔き過ぎなんじゃないかと。何か行動を起こして波紋や波風を立てるよりも、静かな日常へ戻った方が良いのではないかと。そうやって自分の精神をコントロールする事が、今の私に出来る事だった。
 

最近感じる事だが、男と女では初恋に対する拘りが違うのではないか?と言う事。男はいつまで経っても初恋の相手を忘れず、どれだけの月日が経っても記憶の片隅に残り続ける。50歳になった今でも、寝ている夢の中に初恋の人が登場する事もある。そんな夢を見た後の寝覚めは妙に体が重い。
一方で、女は初恋の男がどんな存在であったのか?と言う事に関しては謎めいている。引きずる事も無く、曲がり角を振り返らないと言う話を過去に聞いた事はあった。初恋の男など過去の産物で、ただ今現在こそが現実の全てなのよ!なんてカラッと笑われるかもしれない。
色んな意味で初恋は特種だと思わざるを得ない。

 

次回に続く!

 

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恐縮ながら個人的な今年の総決算と言う事で書き綴りたい。長くなりそうなので、数回に分けようと思う。年内には終わる予定。
35年ぶりの中学の同窓会に行って来た。場所はホテルの宴会場で、集まった人数は30人。35年ぶりと言うのは昭和50年生まれの世代が今年50歳と言うキリ番と言う事で、クラス会を更に拡げ、4クラスで集めてみようと言う趣向だったらしい。
一つのクラスが男22人、女22人。偶数の44人だから、4クラスで全員集まった場合、160人を超える訳だが、集まれたのは1クラス以下の30人。幹事に聞いたら、連絡が取れないのが一番の来れない理由らしい。これはもう仕方が無い。私達の時代は携帯電話やスマホなんか無かったし、連絡の手段が卒業アルバムの自宅番号しかない。仕事の都合で地元を出た人、女子なら嫁いで他所の土地へ行ってしまったとか、まあ色々。
連絡は取れたけど自分の意思で来なかった人もチラホラ。こう言う人達も気持ちは判る。私達くらいの歳になると純粋さよりも合理主義や損得勘定が強くなってくる。今更会ってどうなる?とか、会った所で何を話すんだとか。恋の出会いを求めてと言うのも現実味が無くなってくる。特に女子は、50と言う年齢で仮に独身だったとしても、妊娠&出産と言う流れも実質無理。付き合っても展開が望めない以上、テンションが上がらない。
会費は一人8千円だったが、この値段を払うなら国産の新米を買った方がどれほどの得なのか?と考える人も居ただろうと思う。かと言ってこう言う同級生を責める気は全くしない。同窓会とは全く突然のイベントであり、唐突であり、急であり、時には日常のバランスさえ乱しかねない大仕事な訳だから。
 

それで、いざ35年ぶりに再会してみた訳だが、皆、若い。若く見える。私の想像では禿やデブなど、極端に容姿が変わった姿だったのだが、冗談じゃなく本当に一人もそう言うのが居なかった。
私がホテルのロビーに到着し、幹事は何処かなとキョロキョロしてると、幹事はすぐにサングラスを掛けた私を見つけてくれた。

幹事:「〇〇さん?御無沙汰してます。〇〇です」

私:「おお、久しぶり」


35年ぶりにも関わらず、御互い自然体の笑顔の再会で全く違和感が無い。これは不思議であった。
中学の同窓会は過去2回あったが、私は2回とも参加しなかった。参加しなかった理由は忙しいとかじゃなく、不安が強かったからだった。具体的には話し相手が居るんだろうか?とか、近づいてきてくれる人が居るだろうか?とか、要は孤立に対する不安が強く、それだけ悩んで苦しい位なら行かない方がイイかもしれないと言う考え方に支配されていった。
私にとっては3度目の正直であった。心の何処かで「もう一回くらい同窓会無いかな?・・・」と思う事もあった。それが5月下旬に同窓会の連絡があった。連絡は幹事からで、彼とは一時期、遊んだ仲だった。電話越しの彼の声と喋り方は、当時と変わってなかった。その電話で懐かしさの余り、1時間ほども話し込んでしまった。喉の渇きや喋り疲れも忘れ、過去や今、同窓会の大体の雰囲気など、彼は丁寧に話してくれた。そんな彼に応えたい想いが芽生えてきた。3度目の正直、これも何かの導きかもしれない。よし、会おうと!

30人は少ないかな?と思ったが、いざ行ってみると少数精鋭で大盛り上がり。嬉しかったのは、今の私に当時の愛称で呼んでくれた事だった。寄って来てくれる同級生が皆、当時の愛称で話し掛けてくれる。本当に懐かしく至高の一時だった。行くと言う選択は正解で、来てよかったと心から思った。
当時の私は女子と話すのが苦手だった。男友達ばかりの毎日であった。歳は取ってみるモノで、自分でも驚くほど女子達と会話が出来た。話した事も無い女子も、私を愛称で呼んでくれた。そう呼ばれていたのを何となく覚えてくれていたのだろう。この事も私のテンションを上げてくれた。
午後6時に乾杯し、2時間と言う会場の時間制限の中で大いに盛り上がり、会話は弾み、ビールを次々に注がれ、心地よい酔いがやってきた。幹事が卒業アルバムを持参し、それを各テーブルに回しながら見る。写真の同級生は皆15歳。目の前の同級生たちは50歳になった。皆、面影があるし崩れていない。変わった事と言えば、当時、小柄だった同級生の身長が伸びていた事だった。顔立ちも若い頃より今の方がイイんじゃないか?と正直に思った。

 

次回に続く!

 

 

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仲代達矢は、戦国大名の様な雰囲気を持った俳優であった。
享年92歳。生年月日を見ると、12月で93歳の予定だった。100歳時代と言う言葉が日本で蔓延する中、90代と言う響きが若く聞こえてしまうのも恐ろしい錯覚と言える。90歳と言う年齢は、本来なら生きているのが不思議な年齢なのである。「まだ90代と言う若さなのにね~・・・」と言う呆れた言葉を言う人も何処かに居るのだろう。

出て来るだけで画面が凍り付くタイプの俳優が居る。仲代達矢は間違いなく、その一人だろう。

只ならぬ眼光の鋭さ、独特な声のトーン、遠くを見てるかの様な表情と喋り方。無名塾の俳優達は、この偉大なる師から演技の何たるかを盗みたいと常々思っている。だが誰一人、真似が出来ない。何故、真似すらも出来ないのかと俳優達は考え込む。
どんな芸事も真似から入るのは良い。だけども真似に取り付かれるなと言う教えをしたかどうかは判らないが、真似から抜けきれない俳優は成功しない。客に誤魔化しは通用しないのである。

数年前に仲代達矢のインタビュー本を読んだ。貧しい生い立ちから俳優になり、今現在に至るまでの膨大な作品の数々や撮影秘話、共演して凄いと感じた俳優達の話。取り分け、時代劇の衰退を深刻に語っていたのが印象的であった。
時代劇を作れるスタッフが居なくなっている事を仲代達矢は嘆いていた。時代劇には囲炉裏(いろり)と言うセットが登場する。時代劇をよく知らない若手のスタッフは、囲炉裏は寒い冬に温まる為にあると思っているらしい。そんなスタッフに仲代は呆れてしまう。囲炉裏は春夏秋冬あるもので、暖を取るのも間違いではないが、毎日の飯を食う為の役割も持っている。よって常日頃、当たり前の様にソコに存在する物なんだよと説く。この辺の道具に関する認識や知識が継承されていないのだと言う。だから当然、若いスタッフが知りようもない。
仲代は、遅かれ早かれ時代劇は日本の映像から消滅すると語っている。仲代の予言通り、実の所、その兆しは既に現れている。最近、大河ドラマでもそうだが、俳優達が標準語で喋る映像作品が増えている。これは指導出来る人材が居なくなっているか、カツラと着物さえ着せてればソレっぽく見えるだろうと言う浅はかな創作意欲を持つ制作サイドが居るかのどちらかだろう。
要するに時代劇ほど面倒臭い映像作品は無いと言う事で手抜きになる。この際、時代劇など辞めてしまえばいいとなりそうだが、中途半端な文化意識を持つ日本のクリエイター達に潔さが無い。だから何となく奇をてらって誤魔化そうとする。だから標準語でもいいやとなる。

共演した俳優の話も非常に興味深かった。何人かを挙げると、山崎努、原田芳雄、田中邦衛、渡辺謙、三船敏郎、石原裕次郎、勝新太郎、萬屋錦之介、意外な所では作家の三島由紀夫の話も出てきた。女優では岩下志麻、夏目雅子、山田五十鈴の話が面白かった。
この中で個人的に興味深いのは山崎努だろう。私の世代は黒澤明の映画よりも、伊丹十三の作品の方が馴染み深い。お葬式、たんぽぽ、マルサの女。松竹・八つ墓村が大好きな私は多治見要蔵の狂演も欠かせない。後は必殺仕置人の念仏の鉄も鉄板だろう。
仲代は山崎の事を「あいつ」と呼ぶ。レジェンドの映画俳優である山崎努を「あいつ」と呼べる芸能人は、仲代だけではなかろうか。

「あいつはね、偏屈な奴でね。殆どの俳優達は監督に言われた通りに動くんだけど、あいつは、とにかく逆らう。此処はこうじゃなきゃいけないとか、とにかく拘る。そう言う事もあって、ある筋の人達からは煙たがられる訳なんだけど、私なんかからすると、そう言う所がかえって尊敬出来るんです」

私の感覚からすると、二人は横並びの関係性なのかなと思っていたのだが、二人は名門の俳優座の出身で四期の差があるそうだ。仲代が先輩で後輩が山崎努。
本の中に<山崎努>と言う単独の御題がある所から察するに、二人の関係性と仲代の想いが込められている様な気がした。俳優座の先輩後輩と言う垣根を超えた互いの存在感と敬意。役者として、これこそが望むべき最高の関係性だろう。

仲代は、生涯忘れられない最高峰の共演者の一人として夏目雅子を挙げている。
82年に制作された「鬼龍院花子の生涯」のヒロイン・夏目雅子は、撮影時、既に死の病を患っていた。夏目雅子が患った白血病と言う病気は血液の癌で、82年当時、骨髄移植と言う治療が確立されていなかった為、どうにも仕様が無い病だった。
気丈だった夏目雅子は撮影に入る前、仲代にこう言った。

「仲代さん、私は今、病気でして、此処に大きな治療後があるんです。仲代さんとはラブシーンがあるから先に見せておきます」

そう言って肌をさらけ出した。
死を覚悟した一人の女優に仲代は惚れたと言う。この撮影以降、メディアから「共演した女優で一番だったのは誰ですか?」と聞かれると、仲代は「夏目雅子です」と答える。人として演技者として、夏目雅子は出会った俳優の中でも最高峰の人材だったと語っている。
名台詞となった夏目雅子の「舐めたらいかんぜよ」は勿論、脚本の一部だが、あの発声と発音と調子を教えたのは仲代だった。面白いのは、この映画の見所は自分ではなく女優達だと仲代は語っている。岩下志麻、夏目雅子、夏木マリ。この三人こそが、この映画の主役だと語っている。

私が読んだ本の著者の春日太一は、仲代達矢を<映画史の証言者>と表現している。
春日は77年生まれで、75年生まれの私とは二つ違いだが、私達、団塊ジュニアの世代にとって、仲代達矢と言えばどの作品か?と問われると、案外、返答に困ってしまう。春日は日本映画の専門家であると言う差はあるが、好みは私と似ていて、印象に残るあの映画のあのシーンみたいな話題で怖過ぎるほど被る。それを知ると「ああ・・・やっぱりあのシーンだ」と共鳴してしまう。
私の世代は余程の映画通でない限り、黒澤作品を語るなんて事をしない。白黒に馴染まない世代と言うか、独特な作品の重さと暗さは黒澤監督ならではである。私の親父は黒澤作品に詳しく得意気に語るのだが、イマイチ凄さが判らない。そんな団塊ジュニアが多いのではないだろうか。
個人的な仲代作品と言えば、市川崑監督の金田一映画、78年作の「女王蜂」大道寺銀造だろう。当時、子供目線から観た仲代達矢と言う俳優は、とにかく暗くて重くて怖い。表情や喋りがそう思わせる訳だが、大人目線で見ると凄い演技力となる。
私自身、50歳と言う年齢になって感じる事だが、凄い俳優の特徴は総じて<怖い>。良い意味での圧を感じさせてくれる。岩下志麻を初めて見たのは角川の金田一映画<悪霊島>で、巴御寮人の二重人格がとにかく怖かった。「この子の七つのお祝いに」と言う作品では岸田今日子が夢に出るほど怖かった。松竹・八つ墓村で落ち武者の大将・尼子義孝を演じた夏八木勲を大好きになったのは、正に、この作品が切っ掛けだった。

最後になるが、映画の話題から離れると、仲代達矢は野球好きで大の巨人ファンだそうだ。中でも長嶋茂雄が大好きだった。どう言う縁なのか、2025年の今年に両者とも世を去った。
役者になる前、一年ほどボクシングをかじったそうなのだが、その事について仲代が言うには「貧しい出身の者が稼ぐ選択肢にボクシングと言うスポーツがあった」と言う事らしい。そう言われてみれば、ボクシングと言うキーワードで何人かの有名人が頭に浮かんでくる。
今年亡くなった大御所・橋幸夫もボクシング経験がある。随分前に亡くなった喧嘩の帝王・ジェリー藤尾もやっていた。芸能以外では、冤罪で死刑囚だった袴田巌さんもボクサーだった。俳優の安岡力也はキックボクシングの選手だった。
思うに、戦後の日本において格闘技と言うのは、今みたいな洒落て格好つける為の手段ではなく、生きる為の手段としての格闘技だった事が判ってくる。ボクサーとして仲代達矢が何処まで行けたかは想像もつかない。

 

 

 

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