両者は何故、仲が悪いのだろうか。八つ墓村の議論をすると、すぐ喧嘩になる。他の金田一作品では仲良くしている両者だが、八つ墓村になると持論を譲らない。これも又、八つ墓明神の祟りなんだろうか。
事の切っ掛けとなったのは間違いなく77年度版の松竹・八つ墓村。これを観て原作ファンの怒りは爆発した。
「なんだコレは(怒)」
原作ファンは何に腹を立てたのか。ダークヒーローとも言える多治見要蔵への感想は、両者とも大歓迎で、キング・オブ・要蔵とも言える山崎努には大喝采の拍手。要蔵に関しては両者とも求める要素は一緒だったらしく、原作よりも映像の方が活き活きとする不可思議なキャラだった。
原作ファンが最も腹を立てたのは、物語における落ち武者の立ち位置だった。原作と映像では何が違うのかを簡単に説明すると、原作における落ち武者の存在は村に伝わる怪談的な存在として機能し、殺人へのヒントとネタとして描かれている。つまり、あったのか無かったのか判らない伝承として数百年も恐れられ、祭られている祟り神として存在している。原作を読み終えた読者の大半はそう感じた筈である。
一方で77年度の松竹版・八つ墓村は、全面的に落ち武者の存在を浮き上がらせた。村で起きた一連の連続殺人と落ち武者伝説の奇妙な関連性に気付いたのは金田一耕助だった。この映像版での金田一は、落ち武者伝説を森美也子から聞いた後、何かを思い付いた様に執拗に系譜に拘る。殺人を犯した者と犠牲者になった者の系譜を遡ると言う不思議な捜査を展開する。この捜査は功を奏し、加害者と犠牲者の不思議な因縁があると言う事実に到達する。
この展開は原作には全く無い要素で、初見の原作ファンが観たら、こう思うだろう。
「なんで金田一は、系譜に拘ってるんだろう?」
脚本を担当した橋本忍は天才としか言い様が無い。400年前の戦国時代の山村で起きた局所的な事件を壮大に膨らませると言う芸当は橋本忍以外の脚本家に出来ただろうか?誰も思いつかなかっただろう。
私は、この77年版の八つ墓村の大ファンなので、時々、勝手な妄想を膨らませてしまう。この映画は、序章と言うか、エピソード0的な作品があってもいいのではなかろうかと。
それは具体的にどう言った話なのかと言うと、物語の舞台を400年前に戻し、多治見の先祖である庄左衛門を主人公に配置し、落ち武者殺しを計画し、実行に至るまでのプロットを組んでみたら面白いのではないか?と言う私個人の発想である。
そこでは、八人の落ち武者たちが落ち武者になる前の彼等の姿が描かれなければならない。どういう戦で、どう言う風に敗れ、どうやって落ち延びたのか?落ち延びた村で庄左衛門や他の村人と、どう言う風な交友があったのか。友情の先に裏切りがあり、そこから全ての因縁が始まり、何処にでもありそうな寒村に八つ墓村と言う禍々しい名が付くのである。
原作と映像を比べる以上、どうしても両方に目を通すのが筋と言うモノだろう。少なくとも、そうしないと比較が出来ない。私は両方、目を通した。
八つ墓村は2026年9月18日公開を含めると、四度目の映画化と言う事になる。ドラマ版も含めると、映像化は四回どころではない。金田一作品の映像化では最多を誇っている。何故、これほどまでに映像化をしたがるのか。この作品の持っている魔法とは何なのか?何回、映像化すれば気が済むのか。いっその事、NHK大河ドラマで50回に分けてやるのも面白いかもしれない。史上初のホラー大河ドラマと言う売込みは相当効くのではなかろうか。冗談抜きで、それほどのスケールを持っている作品だと私は思う。登場人物のキャラは立つし、プロットも立て易い。
で、2026年版・八つ墓村。これは、どれほど期待して良いモノかどうか。
金田一耕助に尾上松也を抜擢と言うのは、いかにも松竹っぽい。松竹と言えば歌舞伎。話題が少しずれるが、大ヒットして話題になった映画「国宝」。歌舞伎を題材にした作品なのだが、松竹が一切関わっていない。関わっていないから横浜流星と吉沢亮の二人を主役に出来たと言う背景がある。この映画がもし、松竹の制作だった場合、歌舞伎俳優が主演に抜擢されただろう事は予測出来る。だからよくある話なのだが、制作会社が推す俳優を起用する事が最低条件と言うケースは多い。今回の八つ墓村も、条件付きの制作だった可能性は高い。出なければ、いくらなんでも尾上松也が金田一と言う配役は無かっただろうと思われる。
実の所、77年版の八つ墓村の金田一が渥美清だったのも、松竹の意向が強かったからである。渥美清がやりたかったと言うより、松竹が無理やり配置したと言った方が判り易い。こちらの場合も、いくらなんでも寅さんのイメージが強すぎる渥美清が金田一と言う発想は誰も出来ないだろう。そんな感じで、配役にまつわる大人の事情は当時としては斬新だが、後になって色々判ってくる真実がある。
色々な想いはあるが、配役について、とやかく書くつもりは無い。決まったモノは仕方が無いし、既に撮影は終わり、後はキャンペーン活動をするのみと言う段階に入った。
只、一言書かせて頂くと、この八つ墓村と言う物語は、原作に近づければ近づけるほど詰まらなくなると言う事。この一つの結論は当然、原作を読んでいる事が大前提である。その上で原作寄りの映像は面白くないと私は断言してしまう。ズバリ、この作品はミステリーに近づけるよりホラー寄りに近づけた方が面白いし、多くのファンが観たがってる八つ墓村も、どうやら77年版に近い雰囲気を求めている。里村兄弟が出るのか出ないのかと言うよりも、里村が出た所で映像としては面白くはならないのである。何故ならば、里村兄弟が、それほど魅力的な登場人物ではないからである。現に彼等の魅力や存在感は、残虐非道な多治見要蔵にすら劣っている。その程度なのである。
監督はJホラーの得意な清水崇と言う事で、ホラーと言うよりは心霊的な見せ方が多い様な気がしてくる。心霊的な場面となれば落ち武者の出番。私的には、その落ち武者のメンバーが誰になるのか?の方に興味がある。77年版に寄せるのであれば、夏八木勲が演じた尼子義孝は誰がやるのか?義孝を支えた田中邦衛と稲葉義男の役を誰がやるのか?ネットを開いて眺めてると、不思議とこの辺の話題が盛り上がっていない。ファンにとって落ち武者達の存在は、どうでもいいんだろうか?気にならないんだろうか?映像のファンだったら、そこに拘らなきゃ駄目だろうと思う訳。
77年版を好きなファンなら、誰しもが怖かった尼子義孝を愛して止まないのである。偉大な夏八木先生に匹敵する怖さを見せて貰いたいと願っているのである。現在では、当時には無かったCG(コンピュータグラフィック)と言う手法がある。これは大変な武器になる。よって凄い場面を作れる。映像ファンが期待して止まないのは、落ち武者殺しの回想シーンであり、繰り広げられる惨劇の無残さと残虐さに他ならない。どうやって殺すのか、どんな風に死んでいくのか、生首が並べられ、目と口が開く。その表現を超えるモノを作らないとハードルは越えられない。ハードルは越えるべきだ。今の技術なら、越えられる可能性があるのである。そこに挑戦をしたのかしてないのか、今作の見所の一つである事は間違いない。



