「丹生都比売から考察 ①」からの続きとなります(´・ω・`)ノ

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意ください。

 

 上一宮大粟神社の社伝に、「大宜都比売神が伊勢国丹生の郷から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。」とあり、大宜都比売が居たとされる元地と思しき場所を調べて見ますと、

 

 丹生 (多気町)

 丹生(にゅう)は、三重県多気郡多気町の大字。2010年3月末の人口は1,045人。本項ではかつて同区域に存在した多気郡丹生村(にゅうむら)についても記す。

 

 ●歴史

 ・幕末時点では飯高郡丹生村であった。「旧高旧領取調帳」の記載によると和歌山藩領

 ・明治4年7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により和歌山県の管轄となる。

 ・明治4年11月22日(1872年1月2日) - 第1次府県統合により安濃津県の管轄となる。

 ・明治5年3月17日(1872年4月24日) - 安濃津県が改称して三重県となる。

 ・1876年(明治9年) - 所属郡が多気郡に変更。

 

 ●地名の由来

 丹生は、「赤い(丹)土を産する(生)場所」の意味である。辰砂や水銀を産出したことに由来している。(wikipedia 丹生 (多気町)より抜粋)

 

 幕末時点まで伊勢国ちゃうやん(´・ω・`)…

 式内社にも関わらず、上一宮大粟神社の社伝の内容が新し過ぎませんはてなマーク

 恐らく明治期に何らかの意図が働いたと考えた方がよさそうですが、当地地名に由来すると思われる、

 

 丹生神社(にうじんじゃ)は、埴山姫命を祭神とする三重県多気郡多気町丹生に鎮座する神社。延喜式神名帳、飯高郡九座に列せられた由緒ある神社である。

 

 

 ◆由来 聖武天皇が東大寺大仏殿の建立のさい、水銀の産出をこの地の神に祈ると忽ち水銀が湧出したので、丹生明神と名づけた。又、嵯峨天皇が降雨を祈ったら霧雨があり、晴れを祈ったら、晴れたという故事により、丹生大明神は祈雨、祈晴の神ともいう。

 

 ◆境内社 丹生中神社(にゅうなかじんじゃ) - 祭神:金山彦命・金山比女命ほか17柱(wikipedia 丹生神社より抜粋)

 

 祈雨止雨祈願に結びつく神として、「埴山姫命」と同じく「水波売命」も祭祀しています。右矢印丹生神社

 

 

 一般的な認識では、埴山姫(=埴安姫)は土の神のイメージが強いのですが、当地祭神である埴山姫命は、赤土「丹生(にふ)」を産する地の神という意味のようですね。

 上一宮大粟神社の改名については、当時どのような経緯があったのか実際はよくわかりませんが、埴生女屋神社とされた理由もそこにあるのではないかとも考えられます。

 まぁ伊耶那美神が死ぬ間際にチビッたUKの神を突然祭神変更しお祀りしなさいと言われたらそりゃ嫌よね。

 

 また奈良県にある丹生川上神社(別名:雨師明神 江戸時代では蟻通明神)の御祭神は、罔象女神、同宇陀市榛原雨師字朝原にある丹生神社の祭神は、丹生都姫命とこれまた罔象女尊。

 宇陀市菟田野入谷224にある丹生神社の方も祭神は水波能売神のようです。

 つまり丹生の神は同時に水の神でもある訳ですね。

 

 邪馬臺国畿内説の拠り所となっている縄文期から「朱」が採取されていたとされる伊勢国の丹生鉱山。

 

 場所を確認してみますと、

 

 採掘されていた鉱山跡下矢印

 

 

 上の地図で確認頂くとお分かり頂けるかと思いますが、これを魏使が当地に訪れて「其山有丹」と認識するにはあまりにも低いやんな(´・ω・`)…

 

 丹生を生成していた場所は、中央構造線が通る櫛田川周辺下矢印

 

 ◆勢和郷土資料館「朱の使用が確認された遺跡」

 

 

 この地での朱の開発は、調査ではやはり縄文中期後半~後・晩期のようです。

 

 また記録があるのは7世紀末、『続日本紀』の文武天皇2年(698年)9月28日の条で、常陸国・備前国・伊予国・日向国、そして伊勢から朱砂(辰砂)が献上され、713年(和銅6年)には、伊勢国のみから朱砂が献上されているとありますが、しかしながら当地からは肝心の弥生期の採掘跡は見当たりません。

 

 一方、

 徳島県阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末~後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。

 石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。更に、ガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない希少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する

 ソース右矢印「徳島新聞:鉄器の製造拠点か 加茂宮ノ前遺跡(徳島・阿南市)で鍛冶炉や道具出土

 

 場所はココ下矢印

 

 朱丹が採れた若杉山から那賀川沿いにやや下った八幡神社周辺になります。

 

 

 かなりの規模ですが、河川堤防工事により埋め立て予定というのがまた徳島らしい

 

 また、

 徳島県阿南市の加茂宮ノ前遺跡の発掘調査で、縄文時代後期(約4千~3千年前)の赤色顔料(水銀朱)の精製に使ったとみられる石杵や石臼など1千点以上が見つかった。同遺跡では、弥生時代中期の水銀朱の原料などが見つかっていたが、1500年以上さかのぼり、生産拠点として国内最古級になる。県教育委員会と県埋蔵文化財センターが18日(2019年2月)、発表した。

 調査では、縄文時代後期の集落跡から、石杵と石臼計300点以上のほか、表面に水銀朱が塗られた耳飾りや土器など計700点以上も見つかった。同センターによると、同時期の水銀朱の精製に関わる遺物は、三重県度会町の森添遺跡で約30点見つかったのがこれまで国内最多とされていたという。

 ソース右矢印「朝日新聞:徳島)縄文後期の「朱」生産地か 阿南・加茂宮ノ前遺跡

 

 ◆加茂宮ノ前遺跡で見つかった、石を円形に並べた遺構

 

 原初の祭祀跡かなはてなマーク

 

 調査で見つかった石杵や石臼には朱が付着しています。

 

 加茂宮ノ前遺跡で出土した、朱が塗られた耳飾り

 

 申し訳ないですが、阿波と伊勢ではハッキリ言って全く比較にもなりませんな。

 また弥生期中・後期からの鉄器の生産が見られることも重ねてお忘れなく。いつも阿波は鉄器が少ない云々いわれるからね。

 

 ●中央構造線と糸魚川・静岡構造線

 

 ●水銀鉱床分布図

 

 ご覧頂きますと、「丹生」を産する場所は中央構造線に沿っており、上記丹生系神社の所在場所も、和歌山県伊都、奈良県宇陀、徳島県小松島、三重県多気で、これ等は全て中央構造線沿いに存在します。

 

 また、阿波国那賀郡建嶋女祖命神社より勧請されたと伝わる波爾布神社(祭神:波爾山比賣命)の社名は(波爾布:はにふ)と訓みます。

 

 土(はに)は陸地であればむしろどこにでもある訳ですが、昨今話題の万葉集 六九には、

 

 題詞(太上天皇幸于難波宮時歌)太上天皇の難波宮に幸せる時の歌
 (右一首、清江(すみのえ)娘子、長皇子に奉る。姓氏は不詳)

 

 原文「草枕 客去君跡  知麻世婆  崖之埴布尓  仁寶播散麻思呼」

 訓読「草枕 旅行く君と 知らませば 岸の埴生に にほはさましを」

 仮名「くさまくら たびゆくきみと しらませば きしのはにふに にほはさましを」

 

 訳:「旅の途上の人だと知っていたなら、岸の赤土で衣を染めてあげましたのに。」(着物を染めるのは旅の無事を祈る呪術)

 

 …にも見られるように、はにふ=赤土、恐らくこの場合は朱染めのことを指します。(これを黄土と訳す人がいますがどうなのかな…

 

 また、

 畝尾坐健土安神社(うねおにますたけはにやすじんじゃ)は、奈良県橿原市にある神社である。天香具山の北西麓に鎮座している。

 

 

 ●歴史

 『日本書紀』神武天皇即位前紀己未年二月二十日の条に「天皇、前年の秋九月を以て、 潜に天香山の埴土を取りて、八十平瓮を造りて、躬自ら斎戒して諸神を祭りたまふ。遂に区宇を安定むること得たまふ。故、土を取りし処を号けて、埴土と白ふ」
という埴安の地に祀られた土霊が当社であるという。
 『大和志』では「今称天照大神」とあり、近世に天照大神社と称していた。

 

 ●祭神

 伊邪那美が火の神の迦具土命を産んで陰部に火傷を負い、亡くなった。この時に、尿や糞、嘔吐物から新たな神々を産んだ。その糞から産まれた神が祭神の健土安比売命である。(wikipedia 畝尾坐健土安神社より)

 

 

 後半部分に、

 「日本書紀」神武天皇即位前紀云々…「磯城郡誌」は「赤埴山。香久山の西北に接続し、全山赤色粘土なれば赤焼土器に適するならん。土人これを赤せん山と称し、香久山の中央西側は白色粘土なるを以て、土人これを白こと称せり」と伝える。 『大和・紀伊 寺院神社事典』

 

 ほぉ(´・ω・`)ひらめき電球 

 この説明ですと、土安比売命も伊耶那美神の大便から生まれた波邇夜須毘売神と同神のようですが、「はに」はただの土ではなくやはり「赤土」を指すようですね。

 

 時系列的には、初代神武天皇から10代崇神天皇代においても、香具山の土がやはり「倭の物実」ということのようです。

 

 日本書紀にある武埴安彥(母埴安媛は8代孝元天皇の妻)の妻吾田媛が香山に来て取った土、これが弥生期に唯一採取が確認されている倭國(徳島県)の物実(代表)こそ、魏志倭人伝に卑弥呼が魏に献上したと書かれてある「丹」のことではないですか。

 

 これまでの考察により、「母」で描く人物は実際は「妻」のこと。

 また神武天皇=崇神天皇も同じです。

 

 当項のみを見られた方には何のこっちゃと思われるかも知れませんが、この辺りだけでも見て頂くと右矢印倭建命を穿って考察 ⑥」「倭建命を穿って考察 ⑦

 

 つまり、武埴安彥の妻吾田媛で描く人物は、武埴安彥の母埴安媛のこと(健土安比売命)。

 

 まぁ奈良県の香久山からは白色粘土ぐらいしか出ない訳ですから、いくら採掘しても恐らく「丹生」は出ないでしょう。

 

 阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」のある、旧名方西郡埴土郷

 

 入田町(にゅうたちょう)は、徳島県徳島市西端の町である。

 

 ●地名の由来

 『入田村史』によれば、景行天皇の代の121年、阿波国など5ヵ国に分置された蝦夷の俘囚が、この地を「ニウタ」と呼んだことが地名の始まりである。アイヌ語で「ニウタ」は周囲を山で囲まれた田園を意味する。

 

 ●年表

 645年、大化の改新。こののち、名方郡埴土郷(はにごう)波邇井(はにい)となった。

 896年、名方郡が名東郡と名西郡に分割。埴土郷波邇井は名西郡となった。

 1592年、太閤検地時に、波邇井が入田村(現 入田町)と矢野村(現 国府町西矢野)に分けられた。(wikipedia 入田町より抜粋)

 

 名方郡「埴土郷」、後の「入田(にうた)」の地名由来は、「周囲を山で囲まれた田園」等の意味ではなく、恐らく「丹生(にふ)」の一大生成地だったのではないでしょうか。

 

 従って、波爾布神社ご祭神である波爾-比賣命の神名の意、その元社である建嶋女祖命神社ご祭神もまた、「山」にある赤土(はにふ)つまり、丹生(にふ)の女神のことを指すと考えます。

 

 では、お題であるところの丹生都比売神社の御由緒をみて見ましょう。

 

 『丹生都比売神社 御由緒

 当社の創建は古く、少なくとも今から千七百年前のことと伝えられる。現存する日本最古の祝詞のひとつである「丹生大明神告門」によれば丹生都比売大神は天照大御神の妹神で、紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座された。

 また、播磨国風土記によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な神領を寄進されたとある。「丹」は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに「丹生」の名前がある。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を採掘する一族の祀る女神とされる。全国に丹生神社は八十八社、丹生都比売を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、当社は、その総本社である。
 御子の高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、白と黒の犬を連れた狩人に化身して現れ、空海を高野山へ導いたと今昔物語にある。空海は、日本人の心に根ざした仏教を布教するために、大神の御守護を受けて、神々の住む山を借受け、真言密教の総本山高野山を開いた。そして、古くから日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、当社と高野山に於いて、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成された。当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ、明治の神仏分離まで神と仏が相和して五十六人の神主と僧侶で守られてきた。
 高野山に参詣する表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社の境内の入口で、まず地主神である当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習であった。
 現在の本殿のかたちは、今から八百年前の鎌倉時代に、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、合わせて四殿となり、室町時代に火事により、復興されたものである。

 

 神功皇后は言わずと知れた倭建命の子である14代仲哀天皇の妻。

 天皇死後より摂政し、渡海遠征による三韓征伐説話は有名ですね。

 説話では、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、帰国した後の12月14日、皇后は筑紫で誉田別尊を出産したとあります。

 

 海陽町浅川天神社に伝承されている社前で歌う御神歌

 「千早ふる神の御代より受け継ぎし、帝は多くその中に、とりわけ神功皇后三つの韓国治めんと、御船の数が筑紫がた、その名を高きたちばなの、おどの潮路にあらはれし、神は船午の大社札をみて、向かうかたきをしたがえし、めでたく帰朝ましまさば、四海波風静か、今に津の国住吉と、神とあがめしみは白の、引く注連縄に千代かけ、長きためしはつきせじな、御用はうれし。」

 awa-otoko様ブログ「ちはやふる… 三韓征伐の御神歌」より<(_ _)>

 

 「日向之橘小門(橘のおど)」がどこにあるのか。応神天皇の痕跡から考察①

 また、「竺紫」がどこであるかは下の図でイメージしてねビックリマーク

 

 ◆「竺紫」=「筑紫」の視覚化イメージ

 

 更には、朱塗りの船(赫舟:せきぶね)の伝統を残す地域がどこにあるのか、どの地に神功皇后が帰って来たのか、また応神天皇の諱が大鞆和気命(おおともわけのみこと)である理由等も考えるべきではないでしょうか。

 

 そして、日本書紀神代上第八段一書に、

 「一書曰、素戔鳴尊所行無狀、故諸神、科以千座置戸而遂逐之。是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅国、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲国簸川上所在、鳥上之峯。時、彼處有呑人大蛇。素戔鳴尊、乃以天蠅斫之劒、斬彼大蛇。」

 

 「ある書によると、スサノオの行いは酷いものでした。よって神々は千の台座に乗るほどの宝を提出させて、最後には追放してしまいました。 このときにスサノオは息子の五十猛神を連れて、新羅国に降り、曾尸茂梨(ソシモリ)に辿り着きました。 そこでスサノオが言いました。「この土地に、わたしは居たくない」それで土で船を作って、それに乗って東に渡り、出雲の簸の川の川上にある鳥上之峯に辿り着きました。そのときその土地に人を飲む大蛇が居ました。スサノオは天蠅斫之劒を使い、この大蛇を斬りました。」云々…

 

 この「埴土」を「土」と解し、土で作った船で朝鮮半島にあった新羅国曾尸茂梨から渡海して我国へ戻って来たなど常識的にあり得ません。

 やはりここの埴土(はに)の意味は、丹生(にふ)のことであり、朱塗りの船、つまり赫舟(せきぶね)で自国まで帰って来たことを指すのではないですかはてなマーク

 

 黒潮に乗り、四国島南岸から現在の徳島県南部に戻って来た、そして出雲(徳島県海岸域)にある簸(ひ)の川の川上(鮎喰川上流)の鳥上之峯(神山)に着いたということではないですかねはてなマーク

 

 ◆橘から鮎喰川までの地図

 

 須佐之男命と共に戻って来たとされる息子で描かれる五十猛神。

 その真の正体は…今後の考察に取っておきましょう

 

 オマケ

 

 「倭建命を穿って考察 ②」で書いた吉備津神社(徳島市春日)の境内社には、

 

 

 ひっそりと「芋の宮大明神」がお祀りされています。

 

 芋畑が荒らされるという謎の理由として阿波狸の説話に取り込まれております。

 

 当社があるのは鮎喰川河口、つまり往古の徳島県の海に面するところ。

 

 「倭建命を穿って考察 ③」にて、河内国魂神社(神戸市灘区)のご祭神は大己貴命、少彦名命で、元は五毛(ごもう)天神と呼ばれていたとされ、これ等は出雲(いつも)の神であることから、

 

 五毛(いも)⇒芋(いも)=委裳(委國の裳裾:河の水が流れ出る徳島県東部海側)⇒伊津裳(いつも)⇒出雲(いつも)であった痕跡ではないかと考えます。

 

 

 裳裾(もすそ):裳のすそ。衣服のすそ。(出典:デジタル大辞泉)

 

 

 海に面する河口にはピッタリですね。

 少なくとも鮎喰川河口は「いつも:出雲」であった痕跡が見られます(´・ω・`)ノ