◆丹生都比売(にふつひめ)

 

 

 丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ/にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある神社。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

 別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である。

 「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。

 

 

 ●概要

 和歌山県北東部、高野山北西の天野盆地に鎮座する。空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くより高野山と深い関係にある神社である。神社背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道が通り、丹生都比売神社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。丹生都比売神社自体も高野山からの影響を強く受け、境内には多くの仏教系の遺跡・遺物が残る。

 

 ●祭神は次の4柱。これら4神は「四所明神」とも総称される。

  第一殿:丹生都比売大神 (にうつひめのおおかみ)

   通称「丹生明神」。古くより祀られていた神。

  第二殿:高野御子大神 (たかのみこのおおかみ)

   通称「狩場明神」。高野山開創と関係する神。

  第三殿:大食津比売大神 (おおげつひめのおおかみ)注2

   通称「気比明神」。承元2年(1208年)に氣比神宮(福井県敦賀市)からの勧請と伝える。

  第四殿:市杵島比売大神 (いちきしまひめのおおかみ)

   通称「厳島明神」。第三殿と同年に厳島神社(広島県廿日市市)からの勧請と伝える。

 

 ●祭神について
 丹生都比売神の性格については大きく分けて2説がある。
 1つは水神とみるもので、その根拠として天野の地が紀の川の一水源地であること、空海が丹生都比売神社から譲り受けたという神領は有田川・貴志川・丹生川・鞆淵川の流域のほぼ全域を占めていたこと、関係する丹生川上神社は水神信仰であること、東大寺のお水取りで水を送る遠敷明神(おにゅうみょうじん;若狭彦神社)の存在、御田祭などの祭事における性格等が挙げられる。
 もう1つは、」すなわち朱砂(辰砂:朱色の硫化水銀)の採掘に携わる人々によって祀られたという説である。後述の『播磨国風土記』逸文にも「赤土」の記載が見えるほか、全国にある「丹生」と名のつく土地・神社は、水銀の採掘に携わった氏族(丹生氏)と深い関係にあることが明らかとなっている。これらに対する一説として、丹生一族が水銀採掘で一大勢力を築いたが、その枯渇に際して天野や三谷で帰農、丹生都比売神社も水神信仰に変化したとする説もある。
 なお『丹生大明神告門』では、丹生都比売神を伊佐奈支命・伊佐奈美命の子とする。また稚日女尊と同一神とする説もある。また、大国主神の御子神とする説もある。

 高野御子神は、その神名が示すように丹生都比売神の御子神といわれる。しかし後述のように、この神が関わった高野山開創伝承は、丹生氏に伝わる「神の贄のため二頭の犬を連れた狩り人の伝承」に由来すると見られている。そのため、本来は「祀られる神(丹生都比売神)」と「奉祀する神(高野御子神)」の関係であったと推測される。なお、文献では古くは『日本紀略』延喜6年(906年)条に記載が見える。

 『延喜式』神名帳(927年成立)の記載では祭神は1座。その後に上記2座になり、平安時代末頃からは4座になったと見られている。仁平元年(1151年)の文書に「第三神宮」の記載があるほか、正応6年(1293年)には天野四所明神の「三大神号蟻通神」の神託が見え、第三殿に「蟻通神」が祀られていたことがわかる。祭神の増加に関して、『高野春秋』によれば承元2年(1208年)10月に北条政子の援助で行勝上人と天野祝により、気比神宮の大食比売大神、厳島神社の市杵島比売大神が勧請されたという。年代は史料間で食い違うものの、現在の祭神はこれに基づいている。

 

 ●創建
 創建年代不詳。

 『播磨国風土記』逸文には「爾保都比売命(にほつひめのみこと)」が見え、丹生都比売神と同一視される。同文によれば、神功皇后の三韓征伐の際、爾保都比売命が国造の石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたため、「管川の藤代の峯」にこの神を祀ったという。その場所は現在の高野町上筒香の東の峰に比定され、丹生川の水源地にあたる。また同地は丹生都比売神社の旧鎮座地と見られているが、そこから天野への移転の経緯は明らかではなく、高野山への土地譲りに際して遷ったとする説がある。

 

 ●空海への土地譲り伝説

 丹生都比売神社に関しては、弘法大師空海が高野山金剛峯寺を開いた際に地主神たる丹生都比売神社から神領を譲られた、とする伝説が知られる。高野山と丹生都比売神社の関係を語る最古の縁起として、11世紀から12世紀の『金剛峯寺建立修行縁起』がある。これによると、弘仁7年(817年)に空海は「南山の犬飼」という2匹の犬を連れた猟者に大和国宇智郡から紀伊国境まで案内され、のち山民に山へ導かれたという。以上の説話は『今昔物語集』等にも記載されており、説話における前者は高野御子神(狩場明神)、後者は丹生都比売神(丹生明神)の化身といわれる。『丹生祝氏本系帳』には、丹生氏がもと狩人で神の贄のため二頭の犬を連れて狩りをしたという伝承があり、これが高野山開創に取り入れられたと見られている。

 空海の死後、その弟子達により丹生都比売神社の神領はさらに高野山の寺領となった。丹生都比売神社が高野山に正式に帰属するようになったのは、10世紀末の高野山初代検校で第4代執行の雅真の頃とされる。

 

 ●注釈 注2ただし氣比神宮の祭神は伊奢沙別命であり、大食津比売神は祀られていない。(wikipedia 丹生都比売神社より抜粋)

 

 場所は下矢印

 

 紀の川(吉野川)の南、高野山の麓の位置

 

 で、丹生都比売神社の旧鎮座地とされる場所は下矢印

 

 高野山東側となる高野町上筒香の東の峰。

 

 因みにプロ野球横浜DeNAベイスターズ所属の筒香 嘉智(つつごう よしとも)選手は和歌山県出身で、全国的に見ても和歌山県にしかない少数氏姓のようです。

 

 ※名字由来ネット「筒香」さんより

 

 

 

 徳島県と和歌山県は紀伊水道を中心に、おおよそ線対称に類似地名が存在する不思議な関係。

 

 ※画像は、空と風「ムロ(室・牟婁)徳島と和歌山」より<(_ _)>

 

 また共通するのは、天太玉命を祖とする古代朝廷における祭祀を担った氏族「忌部」ですね。

 

 

 和歌山県高野山と同様に、徳島県吉野川南側、忌部の根拠地である吉野川市(旧麻植郡)には、高越山(こうつざん:別名阿波富士)があり、その東側には、そう「神山」が存在しますヨビックリマーク

 

 …と言う訳で阿波説始まります(´・ω・`)ノ

 

 

 この神山町にご鎮座するのが、

 上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)は、徳島県名西郡神山町にある神社。式内大社・阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ。旧社格は郷社。新四国曼荼羅霊場第七十三番札所。

 

 

 

 

 ◆祭神 大宜都比売命 (おおげつひめのみこと)またの名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)としているが、史料によっては天石門別八倉比売命・大粟比売命は配祀神であるとしている。

 社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。(wikipedia 上一宮大粟神社より抜粋)

 

 本殿は朱塗

 

 『古事記』国生みの段に、

 「次生伊豫之二名嶋、此嶋者、身一而有面四、毎面有名、故、伊豫國謂愛比賣此三字以音下效此也、讚岐國謂飯依比古、粟國謂大宜都比賣此四字以音、土左國謂建依別。

 

 「次に産まれたのは伊予之二名島(いよのふたなしま=四国)でした。此の島は、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、伊予国は愛比売と謂ひ、讃岐国は飯依比古と謂ひ、粟国は大宜都比売と謂ひ、土佐国は建依別と謂ふ。」

 

 つまり阿波国の神は、我が国の五穀や養蚕の起源譚となる「大いなる食物の神」の意味を持つ女神なのです。

 

 宇迦之御魂神・豊受大神・大宜都比売については右矢印天女(豊受大神)から考察

 これ等が同神であるかはwikipediaでもご参照下さい。

 

 最近では京都伏見を舞台としたアニメの「うか様」の認識かなと思います。

 

 

 古事記にある阿波国の神の意味からも、上一宮大粟神社が伏見稲荷大社の元社と思しき神社と考えられるのですなぁ。

 

 

 稲荷社といえば眷属は

 大宜都比賣(おおげつひめ)、つまりその正体は大狐(おお - けつね)ということですね。

 

 …で、本殿脇にあるこれまた朱塗鳥居である「瑜伽大権現」には、

 

 

 

 …ということで、お稲荷さんが居る訳なんです。

 

 ご扁額にある「瑜伽(ゆが)」は、由加、宇迦のことと思われ、(うけ:食物)の古形で、宇迦之御魂神の名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられています。

 

 前倭建命シリーズにあった、御食(みけ)との繋がりである、身毛津君(みけつ)と書いて牟宜都(むげつ)、牟岐町河内地区の鎮守神社祭神にも「御食津神」とあり、こちらが男神の気比大神と思われ、また、

 

 

 同辺川(へがわ)地区の由加(ゆか)神社の祭神は「宇賀魂命」で、こちらが女神の宇迦之御魂神と思われます。

 

 

 延喜式(927年)には、「凡紀伊・淡路・阿波三国造由加物使。向京之日」とあり、大嘗祭では、海山の幸等を由加物使が運送監督し、当地は「那賀の御膳」として海の幸が献上されます。

 

 上にある丹生都比売神社の説明によれば、第三殿で祭祀されている大食津比売大神は、承元2年(1208年)に氣比神宮からの勧請。

 …とあり、wikipedia「氣比神宮」を見ますと、

 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)主祭神。「気比大神」または「御食津大神」とも称される。神名「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる。

 …と書かれており、祭神の丹生都比売及び大食津比売大神は、明らかに「ひめ」ですから、つまり「ワケ」に対する見識の誤りまたは、勧請元の神社が間違っているということになりますね。

 

 また、第四殿でお祀りされている市杵島比売大神は、須佐之男命と天照大御神の宇気比の子。

 勧請元の厳島神社、鳥居も見事な朱塗です。

 

 

 では、第二殿でお祀りされている高野御子大神、通称「狩場明神」。高野山開創と関係する神。とありますが、こちらを調べて見ますと、

 

 康保5年(968年)に書かれたとされる『金剛峯寺建立修行縁起』には、

 

 「以弘仁七年孟夏之此出城外経暦矣大和国宇知郡遇一人ノ猟者其形深赤長八尺許着小袖青衣骨高筋太以弓箭帯身大小二黒犬随従之則見和尚遇通問不審和尚踟蹰問 訊子細猟者云我是南山犬飼所知山地万許町於其中有幽平原霊瑞至多和尚来住自以助成追放犬令走之間、即失」

 

 弘仁7年(816年)孟夏の此を以て、城外に経暦す矣。大和国宇知郡にして、一人 の猟者に遇う、其の形、深赤く、長八尺(2m40cm)許り、小き袖の青き衣を着たり。骨ね高く筋ぢ太くして、弓箭 を以て身に帯す。大小二つの黒犬之れに随従す。則ち和尚が通るを遇い見て不審に問う。和尚は踟蹰しつつ子細を問いて訊ねた。猟者の云く。我は南山の犬飼なり。山地万許町を知る所なり。其の中に於て幽平の原有り。霊瑞至って多し。和尚来住したまへ。自を以て助成せん。犬を追放て走ら令るの間、即ち失ぬ。」

 

 弘法大師の伝記に必ず登場する高野山開創の伝承を語る上で欠かせない空海と狩場明神の出会いのシーンのようです。

 

 二匹の犬を持つ猟師(南山の犬飼)は筋骨逞しくそしてデカいですな。(絵はそうでもないですが

 そして高野山の南山に当たるのは「熊野」となりますね。

 

 上のwiki「空海への土地譲り伝説」にもあるように、二匹のワンちゃんが導いてくれた先には丹生明神が居たとされます。

 またこの高野御子神は、丹生都比売神の御子神ということのようです。

 

 

 この「南山の犬飼」に似た伝説は、空海の作ったもう一つの寺院「東寺(とうじ)」に伝わる「稲荷大明神流記」にも書かれています。

 

 稲荷大明神流記 眞雅記云ゝ 弘仁七年孟夏之此大和尚斗藪之時於紀州田邊宿遇異相老翁其長八尺許骨高筋太内大權氣外示凡夫相見和尚快語曰吾有神通(道)聖在威徳也方今菩薩到此所弟子幸也 和尚曰於霊山面拝之時誓約未忘此生他生形異心同予有秘教紹隆之願神在佛法擁護之誓請共弘法利生同遊覺臺夫帝都坤角九條一坊有一大伽藍號東寺為鎮護國家可興 密教霊場也必々奉待々々面巳他(化)人曰必参會守和尚之法命等云々同 十四年正月十九日和尚忝賜東寺為密教道場也因之請來法文曼荼羅道具等悉納大経藏畢其後同四月十三日彼紀州之化人來臨東寺南門荷稲提椙葉率兩女具二子矣和尚 勸喜授興法味道俗歸敬備飯獻菓爾後暫寄宿二階紫(柴)守其間點當寺杣山定利生勝地一七ヶ日夜之間依法鎭壇法爾莊嚴然而圓現矣爲後生記綱目耳」

 

 「稲荷大明神流記 真雅記の云う 弘仁7年(816年)の孟夏の頃、空海は修行中、紀州・田辺の宿で稲荷神の化身である異相の老翁と出会った。身長約2m40cm、骨高く筋太くして、内に大權の気を含み、外に凡夫の相を現していた。翁は空海に会えたことを喜んで言うには「自分は神であり、汝には威徳がある。今まさに悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者になったからには、私の教えを受ける気はないか」空海はこう述べた。「(中国の)霊山において、あなたを拝んでお会いしたときに交わした誓約を忘れることはできません。生の形は違っていても心は同じです。私には密教を日本に伝え隆盛させたいという願いがあります。神様には仏法の擁護をお願い申し上げます。都の西南、京の九条に東寺という大伽藍があります。ここで国家を鎮護するために密教を興すつもりです。この寺でお待ちしておりますので、必ずお越し下さい」と仲むつまじく語らい会って、神の化身と空海は盟約を結んだ。弘仁14年(823年)正月19日。空海は天皇より東寺を賜り、之をうけて、法文、曼荼羅、道具等を運び込み、経蔵を納めて、真言の道場とした。同年4月13日。紀州で出会った神の化身が椙の葉を提げ稲を荷ない、二人の婦人と二人の子供を伴って東寺の南門に再びやって来た。空海は大喜びして一行をもてなした。心より敬いながら、神の化身に飯をお供えし、菓子を献じた。その後しばらくの間、一行は八条二階の柴守の家 に寄宿したが、その間空海は京の南東に東寺の造営のための材木を切り出す山を定めた。また、この山に17日の間祈りを捧げて神に鎮座していただいた。この事が現在まで伝わる由縁となっている。」

 

 うーん、こっちが気比神宮の主祭神じゃないかな。そして空海は分かってるね。

 

 

 さて、上一宮大粟神社の御縁起掲示板の説明文には、「明治3年(1870年)に、社名を埴生女屋神社と改められたが、氏子の請願により、明治28年(1895年)に現在の上一宮大粟神社となった。」

 …とあり、社名が一度変更されましたが、氏子の請願により現社名になったようです。(´・ω・`) 何故に埴生女屋神はてなマーク

 

 …と言う訳で、埴生女屋神(はにうめや)をお祀りする代表的な神社として、滋賀県高島市にある波爾布神社(祭神:波爾山比賣命、彌都波能賣神)が御座います。

 しかしながらその御由緒には、天平13年に阿波国那賀郡建嶋女祖命神社より波爾山比賣命を勧請したと伝えられている。とあり、当社の元社は阿波国の建嶋女祖命神社であることになります。

 

 建嶋女祖命神社については右矢印孝元天皇から考察 ③

 

 御祭神は建嶋女祖命(たつしまめおやのみこと)、通称竹島大明神

 勧請先の由緒に従えば、建嶋女祖命は波爾山比賣命(埴安姫命)の事になります。

 

 地神さんのコレですね

 

 また美馬市脇町には式内社、波爾移麻比禰神社(祭神:埴山姫神)があり、同地には同じく弥都波能売神社(祭神:水波能賣神)もあり、波爾布神社の祭神二神がお祀りされています。

 

 ●埴生女屋神に縁るそれぞれの神社の位置関係

 

 この波邇夜須毘売について調べて見ますと、

 

 ハニヤスは、日本神話に登場する土の神である。

 ●概要:『古事記』では、火之夜芸速男神を産んで死ぬ間際の伊邪那美命の大便から波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神の二神が化生したとする。『日本書紀』では埴安神と表記される。他に、神社の祭神で埴山彦神・埴山姫神の二神を祀るとするものもある。なお「ハニ」(埴)とは土のことである。(wikipedia ハニヤスより)

 

 『古事記』に8代孝元天皇妃に漢字まで全く同名の波邇夜須毘売がおり、その子に「記」:建波邇夜須毘古命・建波邇安王、「紀」:武埴安彦命がいます。

 

 武埴安彦命は、記紀に伝わる古代日本の皇族。

 『日本書紀』によれば、孝元天皇(第8代)と河内青玉繋の娘の埴安媛(はにやすひめ)との間に生まれた皇子である。妻には吾田媛(あがたひめ)がいる。 (wikipedia 武埴安彦命より抜粋)

 

 武埴安彦命は、10代崇神朝時に反乱を起こし、最終的には大彦命と彦国葺(和珥臣祖)に討ち取られた事績が見えます。

 

 『古事記』と合わせれば、これが伊耶那岐神&伊耶那美神の子で、更に波邇夜須毘売の子である建波邇夜須毘古命の妻が吾田媛ということになります。

 この吾田媛の「あた」は、「阿多」のことで、前稿考察により徳島県の「板野」に縁ると推測。右矢印倭建命を穿って考察 ⑦

 

 「紀」崇神条には、

 「倭迹々日百襲姬命、聰明叡智、能識未然、乃知其歌怪、言于天皇「是武埴安彥將謀反之表者也。吾聞、武埴安彥之妻吾田媛、密來之、取倭香山土、裹領巾頭而祈曰『是倭國之物實』乃反之。」

 

 「倭迹々日百襲姬命は聡明で物知りで、未来の事も分かる人です。その歌の怪(しるし)を知って、天皇に言いました。「これは武埴安彥が謀反を起こす表(しるし)でしょう。私が聞いた所によると、武埴安彥の妻の吾田媛は密かに倭の香山に来て、土を取り、領巾の頭(はし)に包んで呪いを掛けて『これは倭国の物実(ものしろ:ものは霊、しろは代表)』と言って、帰って行ったのです。」

 

 この「吾田媛」が取りに行ったのは、倭の象徴を意味する香山の土。

 

 

 当地芝山(籠山)麓には、例の波爾山比賣命をお祀りしていたとある建嶋女祖命神社がご鎮座します。

 

 また日峰(ひのみね)には大神子、小神子の地名もあり、山上にある日峰神社の主祭神は大日霊貴神、つまり天照大御神です。

 

 

 

 

 「紀」の話を進めますと、

 「武埴安彥與妻吾田媛、謀反逆、興師忽至、各分道、而夫從山背、婦從大坂、共入欲襲帝京。時天皇、遣五十狹芹彥命、擊吾田媛之師、卽遮於大坂、皆大破之、殺吾田媛、悉斬其軍卒。」

 

 「武埴安彥と妻の吾田媛は謀反逆しようとして、兵を起こしてたちまちやって来ました。夫婦はそれぞれの行く道を分けました。夫は山背から、妻は大坂から、入って帝京を襲おうとしました。その時、天皇は五十狹芹彥命を派遣して、吾田媛の軍を討たせました。大坂で吾田媛の軍を遮り勝利しました。吾田媛を殺して、兵士を皆殺しにしました。」

 

 …と、吾田媛は五十狹芹彥命によって「大坂」で殺されました。

 

 

 続けて、

 「則率精兵、進登那羅山而軍之。時官軍屯聚而蹢跙草木、因以號其山曰那羅山。」

 

 「精兵を率いて進み、那羅山に登って戦闘を始めました。官軍は進軍し、草木を踏みならしました。それでその山を那羅山といいます。」

 

 平城山丘陵(ならやまきゅうりょう)は、奈良県奈良市と京都府木津川市の県境を東西に延びる丘陵。また、西部を佐紀丘陵、東部を佐保丘陵と独立して呼ぶことがある。

 平城山は多くの別表記を持つ。古綴では、平城山の他に那羅山平山があり、さらに奈良山、乃楽山とも。国境にあったことから手向山ともいった。

 奈良の地名の語源の一とされる。(wikipedia 平城山丘陵より抜粋)

 

 

 「大坂」の南側には、平山(ひらやま=ならやま)の地名が点在します。

 また東大寺転害門の前から北上する峠道を「奈良坂」といいますが、阿波にも、

 

 

 阿波市市場町にもやはり「奈良坂」の地名があります。

 

 こちらも北に向かうと大坂峠。

 

 また板野町大坂を抜けた先も大坂峠となっています。

 

 つまり、阿波から讃岐へ阿讃山脈を抜けることが大坂越えなんですね。

 

 抜けた先には倭迹迹日百襲姫命祭神の水主神社があるんですがね(´・ω・`)

 

 …で、同崇神条には、吾田媛が大坂で亡くなった後に、倭迹々姬命が箸で女性器をついて亡くなった説話を記しており、「世の人はその墓を箸墓(はしのはか)と名付け大坂山の石を運んで作った」ともあります。(「はし」の墓とは?

 

 やはり市場町には、箸の墓と同義の「箸供養」の地名を残します。

 

 場所的にも「紀」にある地名が見られますね。

 

 当地が殯宮であった可能性もありますが、吾田媛と倭迹迹日百襲姫命は共に「大坂」周辺で亡くなった説話となり、地図にしますと、

 

 

 板野郡から阿波市、阿讃山脈を抜けて東かがわ市が範囲に入ります。

 

 これまでに考察してきたように、系譜引き延ばしによる無限ループで記していると仮定すれば、登場人物はみな須佐之男命と天照大御神の分身であるという仮説推測もできます。

 

 つまり、共に「大坂」に因んで亡くなっている吾田媛と倭迹迹日百襲姫命も別人名で記しているだけで、実は同一人物のことを書いているということ。

 

 五十狹芹彥命によって殺されたとされる吾田媛が倭迹迹日百襲姫命とも同神であったとすれば、やはり弟に殺されたということになります。

 

 そしてやはりこのシリーズも続くようである(´・ω・`)ノ