吉備津彦命(きびつひこのみこと)

 

 

 本項は「倭建命を穿って考察 ①」の検証考察となっております。

 

 12代景行天皇紀に現る彥狹嶋王と、7代孝霊天皇の皇子である彦狭島命(ひこさしまのみこと、別名 日子寤間命:ひこさめまのみこと)が時代を越えての同一人物であるかの考察をしてみたいと思います。

 

 まず、『日本書紀』に見える「春日穴咋邑」の比定地は明らかでないが、穴吹神社(奈良県奈良市)とする説がある。(wikipedia 彦狭島王より抜粋)

 …についてはこれまでの検証考察により、徳島県の春日にある鮎喰村に比定。

 当地周辺、つまり鮎喰川流域周辺に、今度は7代孝霊天皇の痕跡を求める訳となります。

 この孝霊天皇の皇子、今回は男児のみ抽出して記してみますと、

 

『古事記』

 ・大倭根子日子国玖琉命 ⇒ 孝元天皇

 ・比古伊佐勢理毘古命。またの名は大吉備津日子命:吉備上道臣の祖

 ・若日子建吉備津日子命:吉備下道臣・笠臣の祖

 ・日子寤間命:針間牛鹿臣の祖

 ・日子刺肩別命:高志之利波臣・豊国之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖

 

『日本書紀』

 ・大日本根子彦国牽天皇 ⇒ 孝元天皇

 ・彦五十狭芹彦命。またの名は吉備津彦命

 ・彦狭島命

 ・稚武彦命:吉備臣の始祖

 

『先代旧事本紀』

 ・大日本根子彦国牽尊 ⇒ 孝元天皇

 ・彦五十狭芹彦命。またの名は吉備津彦命:吉備臣らの祖

 ・彦狭島命:海直らの祖

 ・稚武彦命:宇自可臣らの祖

 ・弟稚武彦命

 

 これ等を纏めて見ますと、

 皇后となる細媛命春日千乳早山香媛・真舌媛)の子、「記」:十市県主祖大目の娘・「紀」:磯城県主大目の娘・十市県主等の祖の子である大倭根子日子国玖琉命・大日本根子彦国牽天皇・大日本根子彦国牽尊=孝元天皇。

 

 こちらは三書共、一応単独記載の形で全て天皇です。

 ただし母の別名に「春日」の痕跡が認められますね。

 

 一方、妃である倭国香媛(絙某姉・蠅伊呂泥・意富夜麻登玖邇阿礼比売命)、絙某弟(蠅伊呂杼)の和知都美命の娘姉妹の子は、全て一緒に纏めることができそうにも見えますが、少なくとも、別名の子である、

 

 「紀」彦狭島命

 「記」日子寤間命(針間牛鹿臣の祖

 「先」稚武彦命(宇自可臣らの祖

 で繋がっていますね。

 

 若日子建吉備津日子命=稚武彦命=日子寤間命=狭島命は、全て絙某弟の子。

 

 この度々現れる「春日」、鮎喰川周辺に痕跡を残す春日の地は、往古春日部の屯倉があったことで知られています。「屯倉 - Wikipedia

 

 ではこの鮎喰春日の地に7代孝霊天皇の痕跡を探ってみますと…

 

 

 阿波國名方郡 式内社 天佐自能和氣神社

 

 ◆祭神 神皇産霊尊、高皇産霊尊、日子刺肩別尊(孝霊天皇皇子)意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命(孝霊天皇妃)

 (アーッ!!神皇産霊尊、高皇産霊尊が誰だかわかっちゃうのか? ボソ…

 

 

 続きまして、

 

 吉備津神社(徳島県徳島市春日1丁目2)

 

 ◆祭神 彦五十狭芹彦命(孝霊天皇皇子)

 

 

 

 

 ◆掲示板

 祭神は孝霊天皇の第三皇子の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)で四道将軍の一人。吉備の国(現岡山県)を平定したがその地に没し、後に仁徳天皇が吉備津彦命と命名し創己した。そののち室町時代に足利義満が吉備津大将軍神社として再興、現在は岡山市内に国宝級の神社として鎮座している。云々…

 

 ほうほう、まぁそういうことになりますか。

 

 備前・備中・備後国一宮の吉備津(彦)神社の主祭神はみな大吉備津彦命

 昔話の桃太郎のモデルで鬼退治説話は有名ですねビックリマーク

 延喜式式内社に載るのは実は備中国吉備津神社のみ。

 備前・備後は後の勧請ですが、社伝に基づく系譜には、wikipediaによると、

 

 ●備前国 吉備津彦神社

 

 ●備中国 吉備津神社

 

 和知都美命の娘、姉の絙某姉の子である大吉備津彦命、妹の絙某弟の子である若日子建吉備津日子命(=稚武彦命)、異母の兄弟のはずですから、血が分かれた時点より、その後の後裔氏族は更に分散されていくはずですが、吉備氏はどちらも「吉備氏」で一緒になってますね。

 つまり同じと考えていいのではないでしょうか?

 

 ちなみに『日本書紀』では、大吉備津彦命の後裔氏族の記載はなく、弟の稚武彦命を吉備臣(吉備氏)祖とする。

 『古事記』では、吉備津彦命を吉備上道臣の祖、稚武彦命を吉備下道臣・笠臣の祖とありますが、兄の大吉備津彦命の後裔氏族は『新撰姓氏録』によると、和泉国未定雑姓 椋椅部首 - 吉備津彦五十狭芹命の後のみのようです。

 

 対して弟の稚武彦命の後裔は、

  • 左京皇別 吉備朝臣 - 大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)子の稚武彦命の後。
  • 左京皇別 下道朝臣 - 吉備朝臣同祖。稚武彦命孫の吉備武彦命の後。
  • 右京皇別 笠朝臣 - 孝霊天皇皇子の稚武彦命の後。
  • 右京皇別 笠臣 - 笠朝臣同祖。稚武彦命孫の鴨別命の後。
  • 右京皇別 吉備臣 - 稚武彦命孫の御友別命の後。
  • 右京皇別 真髪部 - 同命男の吉備武彦命の後。
  • 右京皇別 廬原公 - 笠朝臣同祖。稚武彦命の後。

 弟の稚武彦命は、あくまで兄の大吉備津彦命による吉備平定に付き従った際の伝承が各地に残っている。特に岡山県総社市周辺では、吉備津彦命とともに鬼の温羅を討ったという伝説が知られる。(wikipedia 稚武彦命より抜粋)

 またこのパターンか…

 

 また、『先代旧事本紀』「国造本紀」には、角鹿国造 - 志賀高穴穂朝(成務天皇)の御代に吉備臣祖の若武彦命の孫の建功狭日命を国造に定める

 …とあるようです。

 

 角鹿海直の祖は確か異母兄弟である日子刺肩別命ですよね。

 何故に日子刺肩別命の子孫ではなく、若武彦命の孫が角鹿国造になっているんでしょうか。

 更に言えば彦狭島命も海直らの祖とありますよ。

 やはり全て1人の人物に纏めることができそうですが…

 

 そして眉山を跨いで南側には、

 

 阿波國名方郡 式内社 意富門麻比賣神社(宅宮神社)

 

 ◆祭神 大苫辺尊、大歳神、稚武彦命(孝霊天皇皇子)

 

 

 やはり第7代孝霊天皇の妃・皇子がお祀りされている神社は、いずれも鮎喰川周辺となっておりますね。

 

 

 従ってこの鮎喰川流域には、7代孝霊天皇と12代景行天皇との時代を越えた繋がりが「春日」の地名等から密接に関連しているのは確実でしょう。

 

 オマケ

 

 孝霊天皇(こうれいてんのう、正字体:孝靈天皇、孝安天皇51年 - 孝霊天皇76年2月8日)は、日本の第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日 - 孝霊天皇76年2月8日)。

 和風諡号は、『日本書紀』では「大日本根子彦太天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)」、『古事記』では「大倭根子日子賦斗」。

 

 

 つまり和風諡号は、大倭の根子の彦(おとこ)は、太瓊(ふとだま)の天皇という名になりますなぁ。

 

 天津彦彦火瓊瓊杵尊も天津日高日子番能邇邇芸命と書きますしね。(ボソ…