●倭建命(やまとたけるのみこと)

 

 

 12代景行天皇と播磨稲日大郎姫との間の子、小碓尊(おうすのみこと、またの名を「紀」日本武尊、「記」倭建命(やまとたけるのみこと)ですが、通説の詳しい説話はここでは割愛させて頂きます笑

 言わずと知れた超有名人ですから、通説はネットで如何様にも検索できますので、そちらをご覧くださいませ。

 

 また阿波説派に興味のある方はこちらをご覧くださいませ。

 →「ぐーたら気延日記(重箱の隅)白鳥神社へ行ってきました

 →「awa-otoko’s blog 日本武尊の本陵(白鳥神社)

 素晴らしい情報が詰まっておりますヨビックリマーク

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意ください。

 また通常の阿波説よりもかなり穿った見方をしておりますので、重ねてご注意くださいませ。

 

 さて、『日本書紀』景行天皇25年7月条で、武内宿禰の北陸・東北視察後、翌2月の報告により蝦夷(えみし)の存在と肥沃の地があることがわかると、その10月に小碓尊を熊襲征伐に向かわせ、12月に川上梟帥(かわかみのたける)を暗殺し、以後日本武尊を名乗り、景行天皇28年2月に帰国しました。

 暫くした後の景行天皇40年7月、双子の兄である大碓皇子に東国遠征を命じますが拒絶したためこれを美濃に封じ、10月に代わりに日本武尊が東国遠征に出発。

 景行天皇43年、遠征より帰国中だった日本武尊が伊勢国能褒野で病没、白鳥陵に葬り武部(たけるべ)を定めた。

 …とあります。

 

 しかし気になるのはその後の記録で、景行天皇53年8月条で、天皇自ら日本武尊を追慕し東国へ巡幸。翌9月に帰国後、景行天皇55年2月、彦狹嶋王が東国へ赴任の途上の春日穴咋邑で死去、上野国で葬られる。

 …とあります。

 

 つまり彦狹嶋王は日本武尊と同様に、目的地に辿り着けずに途中で死んだ記録を残すのです。

 通説によると、この穴咋邑(あなぐいむら)は、奈良県奈良市にある穴栗神社(あなぐりじんじゃ)に比定しておられるようです。

 

 この社は、式内社 穴吹神社に比定されている古社で、「穴吹」というのは延喜式の誤写で、本来は「穴咋」が正しいとし、当地は、『日本書紀』景行天皇紀に「春日穴咋邑」とある地。

 彦狭嶋王の墓所があるとされ、当社はその霊を祀った神社と思われる。(玄松子の記憶より)

 

 境内案内にも、

 この神社の鎮座する地は、古く「日本書紀」景行天皇(第十二代)の条に、「春日穴咋邑」と出ているところです。神社の名を穴吹・穴次と書くものもありますが、春日大社の記録によると、平安時代に、この地から穴栗・井栗の神が春日大社に勧請(分霊)されたと書かれています。境内にある元禄四(一六九一)年建立の社号標石にも「穴栗四社大明神』とあり、穴栗は古くからの呼び名です。
 現在、穴栗神社は、横井東町の氏子がお祀りしています。

 …云々と書かれています。

 

 通説では景行天皇は、景行天皇58年、近江国行幸時に志賀高穴穂宮に滞在するまでは纒向日代宮に居たはず。

 このことは55年条を記する前文となる「五十四年秋九月辛卯朔己酉、自伊勢還、於倭居纏向宮」「五十四年の秋九月の辛卯の朔己酉の日に、伊勢から倭の纏向宮に還っておられた。」でもわかる。

 

 チラっと場所を確認してみますと…

 

 

 彦狹嶋王が東国へ赴任の途上の春日穴咋邑で死去……(´・ω・`)...

 どこで病死しとんねん…(直線距離にして約12.5㎞~15㎞)

 

 まぁ実際は彦狹嶋王がどこから派遣されたかはわかりませんが、当時の皇居とされる場所から東国赴任途上とはいえ、歩いても1日で行ける程度の場所で病死したということになりますね。

 

 …てなわけで、日本書紀の原文を見て見ましょう。

 「五十五年春二月戊子朔壬辰、以彥狹嶋王、拜東山道十五國都督、是豐城命之孫也。然、到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓、悲其王不至、竊盜王尸、葬於上野國。」

 

 「(景行)五十五年の春二月の戊子の朔壬辰の日に、彦狭嶋王を東山道の十五国の都督に任じた。これは豊城命の孫である。そうして春日穴咋邑まで来ると、病に臥して亡くなった。この時に、東国の百姓は、その王(彦狭嶋王)がやってこれなかったことを悲しみ、密かに遺体を盗んで、上野国に葬りまつった。」

 

 彥狹嶋王は、豊城命即ち、第10代崇神天皇皇子である豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の孫であると書かれています。

 豊城入彦命は初代斎宮である豊鍬入姫命の全兄。

 代で言いますと、10代崇神天皇 - 豊城入彦命 - 倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた) - 彥狹嶋王 つまり13代目となり、12代景行天皇の子である日本武尊と同じ代となります。

 

 で、病に伏し薨したとされる春日穴咋邑なのですが、以前「開化天皇から考察」で記しましたように、徳島市には「春日」の地名があり、現藍住町矢上春日に鎮座する春日神社及び徳島市春日町周辺にその痕跡を残します。

 

 当地春日神社、鹿の墓看板にも、「六世紀に皇室領の屯倉がこの地に置かれ」云々と記されるように、古くより当地には春日部が置かれ、岩利大閑氏や髙木隆弘氏共に、当社地を開化天皇の皇宮であった「春日之伊邪河宮」に比定しています。

 

 次に「穴咋邑」ですが、こちらは「鷲住王から考察 ①」に記しております箇所から抜粋致しますと、

 「徳島県の地名集」なるサイトに、鮎喰(あくい):徳島県徳島市鮎喰町

 ●吉野川に合流する鮎喰川中流東部に位置する。町名は古くから鮎喰川では鮎を多く産し、住民がこれを食べていたことから起こったといわれ、鮎喰は脚咋(あしくい)とも書かれ「日本書紀」に鷲住王ののちの脚咋別の居住地であったことにもよるといわれている。【角川日本地名大辞典】

 

 つまり脚咋(あしくい 現:海陽町宍喰)から進出した鷲住王率いる脚咋族が開拓した地であることにより当地が鮎喰(あくい)の地名となり、痕跡として阿波志 に「鮎喰祠在荘村、旧在名東東村」と記されてある鮎喰神社(御祭神:鷲住王)があり、現在は洪水により流され、後に荘村  (徳島市庄町) に移ったとされています。

 別伝によると、鮎喰神社は洪水で流されてはおらず、1907年 (明治40年) 頃まで存在し、荒廃したため神明神社に合祀されたとされます。

 

 つまるところ「春日穴咋邑」は「かすがあくいむら」ということでしょう。

 

 ということで、この鮎喰川周辺を探しますれば…

 

 

 

 ですよねー(´・ω・`)

 

 やはり日本書紀は同様の事績を別人物で描き更に重複させることにより、時代を引き延ばししていると考えられますなぁ。

 

 んでは、この彥狹嶋王を少し掘り下げて見て見ましょう。

 

 まず、子である御諸別王(みもろわけのおう)は、『日本書紀』景行天皇56年8月条によると、任地に赴く前に亡くなった父の彦狭島王に代わり、東国統治を命じられ善政をしいたという。蝦夷の騒動に対しても速やかに平定したことや、子孫は東国にある旨が記載されている。(wikipedia 御諸別王より抜粋)

 

 ふむふむ、父の後を継いで東国征伐をし、後に東国の統治を任されたということですね。

 (日本武尊の子には確か阿波君等の祖も居ましたなぁ。ゴニョゴニョ…)

 

 しかーしこれとよく似たお名前に、7代孝霊天皇と絙某姉の妹の絙某弟との間の子、彦狭島命(ひこさしまのみこと、日子寤間命) - 針間牛鹿臣の祖(記)。が見えますね。

 

 彦狭島命(ひこさしま(古事記ではひこさめま)のみこと)は、古墳時代の皇族。孝霊天皇の皇子で、母は、絙某弟。氏鹿氏、越智氏の祖とされる。子に小千王子(三男)。父の命で、伊予を統治し、伊予皇子という別名をもつ(wikipedia 彦狭島命より)

 

 ほほう(´・ω・`)ひらめき電球

 

 日本武尊=彥狹嶋王≒彦狭島命=伊予皇子

 

 の考え方もアリということですかな?

 まぁ相変わらずの私説なんですが、チョット調べてみる価値はありますね。

 

 ということはやっぱりアレなんだろうなぁ…(まぁ保留としとく笑

 

 こちらは和知都美命の女の姉妹の妹方の子で、絙某弟の夫は孝霊天皇ですから、これまでの私説理論に基づけば夫である天皇は妃姉妹の兄にあたりますねぇ。

 

 また、「”倭”居纏向宮」と記されている以上、纏向宮が奈良=大和ではなく、阿波=倭にあったのは確実でしょうけどね。

 

 久々のオマケ

 

 ●於越岬(おこしみさき)

 

 

 物部 尾輿(もののべ の おこし)は、古墳時代(6世紀半ば)の豪族。安閑・欽明両天皇の頃の大連。物部荒山の子。子に物部大市御狩大連、物部守屋、太媛、物部石上贄古大連などがいる。

 

 中臣鎌子と共に廃仏を主張し、崇仏派の蘇我稲目と対立した。

 

 

 阿南市橘周辺は歴史の宝石箱や~( ´∀`)