祖母が他界しました。
90ということで、往生だったんじゃないかと思います。
田舎にいる間、いろいろと考えることがありました。
考えてることを行動にうつすよう頑張ります。
祖母が他界しました。
90ということで、往生だったんじゃないかと思います。
田舎にいる間、いろいろと考えることがありました。
考えてることを行動にうつすよう頑張ります。
今日はかなり調子が良かったので両声類放送したんですけど。
まあ来場者一人っていう惨状www
とりあえず来場者増やさないとどうにもならないなあ。
もしここにたどり着いたニコ厨様っ、是非タイムシフトを一度ご覧になってくださいませませっ。
せつでぃつにっ!
失礼、かみまみた。
切実にっ!
好きこそ物の上手なれ。
継続は力なり。
オンドゥルルラギッタンディスカー。
p.s.そろそろ両声類メルトが完成しそうです。
今日のニコ生より、ゲームと身体と日本カルチャーというテーマの討論会があった。
放送内では身体入力=キネクトやムーブ、日本カルチャーに対するコアとローカルの位置づけなどを話していたような気がする。3DSも映像的に訴えかけるものだから話題にのぼっていたかもしれない。
コメントの方を重点的に見ていたので、コメンテーターの意見もあまり覚えが定かではない。
また途中から見たので内容に触れづらいのだが(うろ覚えに近いので間違ってたらご指摘、ご容赦ください)、テーマとしては面白かったのでゲーム好きとして少しだけ自分の考えを書いてみる。
*身体入力機能。
直感的に入力ができるデバイス。ニンテンドーの試みによって、直感的な操作のゲームは認知された。マウスやコントローラーで目標をあわせるより、直接触れられるほうがいい。キネクトやムーブはカメラを通して、さらにテレビ画面との親和性を図った。
僕は体験会で実際にキネクトを体験したけれど、凄いなという印象と、しんどいなという印象があった。
コントローラーを介していた部分がなくなり、判断力の素早さが求められる。今まで以上の能動性が求められる。もちろん、操作説明はいらないから子どもから大人まで楽しめるだろう。
しかし慣れれば平気かもしれないけれど、足を上げる作業などがあり、それは辛かった。疲労感は集中力をそぐ可能性がある。
3DSは6歳未満の使用には注意を促している。左右の映像を別々にすることで3Dを生み出しているのだが、それが悪影響を及ぼすかもしれないということ。そこまでして3Dにする必要ななんなのだろう。こちらはまだ体験していないので何も言えない。
*日本カルチャー
放送中はほとんどコメばかり追っていたので言及しづらい日本カルチャー。水口さんはサイエンスが下手とおっしゃっていました。ツールに弱いと。
とりあえず、その時のコメ(裏アリーナ)のほうを思い返すと、
「日本は王道が好き」
「FPSが流行っているが日本は追いついていない」
「アメリカゲーは赤字」
「日本でもプロゲーマーを輩出すべき」
「日本ではFPSの戦争体験や宗教概念を捉えきれてない」
「日本は中小が挑戦するにはいい環境」
「いい環境だが参入に金がかかりすぎる」
「やっぱり日本は戦国とか歴史とかNINJAが好き」
「なら日本のFPSに【IKKI】はどう?」
最後の一つを書きたいがためにここまで書いたとは言えない感じになってしまっているが、それはさておき、日本は現在世界のゲームシェアの10%程度らしい。基本的に外国がパソゲーメインだとしても、少し寂しい気がする。
僕が考える日本の王道ゲーとは、悪のボスがいる→自分は弱い→レベル上げ→仲間集め→武器集め→ボスを倒すという流れだと思う。シミュレーションだって、対戦格闘だってこれにほとんど近い事がいえる。目標があって、そこにアプローチをかけていく。そして越えたり覆したりする。
僕は桜井信者なので桜井さん(星のカービィやスマブラ)の言葉を借りると、リスクとリターンの関係が面白さなのだとおっしゃっている。相手が飛び込んできたところ(懐に入られるリスク)へ、一歩踏み込んで昇竜拳で撃墜する(リターン)を浮かべてもらえばわかると思う。それは王道ゲームでも利用できて、低レベルクリア(余裕を捨ててギリギリで倒す)、縛りプレイ(自らに課題を出しそれを乗り越える)といったことがあげられる。
しかし、洋ゲーは宗教的であったり、箱庭的であったりして自由の幅が広いように思う。広い意味で目的を果たさないまま遊べるという印象がある。
身体入力に関しては、賛否両論だと思う。直感的に作業できる反面、なぜゲームですら疲れなければいけないのだろうと。たまにやるならともかく、wiiフィットを毎日続けているという話を友人からきかない。
テレビ接続のドラクエモンスターズがあったり、ゲーセンでの身体入力ゲー(パンチングマシーン)があって、それは楽しいけれど、メインストリームになりえるかどうかと言えば難しいかもしれない。
毎日パンチングマシーン叩ける?
日本のカルチャーについては、なぜファミコンゲーやスーファミが神ゲーとされ、昨今のゲームはそれほど思い入れが強くないのか。懐古主義の可能性を置いといて、二つ考えがある。
一つは想像性、もう一つは時間だ。
想像性に関してはいわずもがなドット絵に託した自分の想い、脳内補完以上の説明はないと思う。音楽すらも脳内では膨らんでいた。ピアノがあれば、ほとんどの人がマリオの音楽の音を思い出しながら探れるだろう。
時間に対しては、忙しくなって十分に長い時間がとれない人が多くなった昨今、ミニゲーム感覚の作品が増えた。勇者30なんてその最たる物だし、携帯ゲームだっていつやめても続きがわかりやすい内容のものが多い。逆に言えばインスタント作品が心に残るかと問われれば難しいと答えるだろう。
そこで伸びてきたのがコミュニケーション。モンハンなどの短期間でパーティーを組んでゲームをするものだ。ネットを介在してはもちろんのこと、携帯ゲーム機に標準装備されている。GBで通信ケーブルを挿してた頃が懐かしい・・・と言うのは懐古主義だけれど、打開策として考え出されたのがコミュニケーションツールとしてのゲームなのだろう。それはこれからもまだ続くだろう。
ゲームは娯楽で、嗜好だ。ゆえに多様化している。食傷気味の王道ゲームがあるとしても、作りの丁寧さやシナリオ、音楽で食べ続けることが出来た。
しかしそこで提案してきたのが、人体入力なり3D技術だ。
水口さん(Rez、スペースチャンネル5)は没入感を意識してゲームを作っている。
僕にとってゲームとは時間の無駄遣いであり、非現実であり、衝撃だと思う。だから、面白いし没入できる。
そういう意味では個人的にARカードを使った技術に期待している。AR(拡張現実)カードとは、3DSで実装されているのだけれど、カードをDSのカメラ越しにのぞく事によって、画面上でカードの周りのキャラクターが遊んで見えるというものだ。気になる人は【セカイユウシャ】などでググればいいと思うけど、そういうゲームと現実の親和性が見えてくるといよいよ子どもの頃に夢見てた未来を感じることができてわくわくする。
きっと死ぬまでゲームをやめられないだろうなあ。
バレンタインじゃないですかぁ。
キッスくださいよぉ。
とか言わないので、モンハンチョコください。
なんか1ゼニー風のチョコらしいですね。価格は600円しないぐらい。
キャラものとしては妥当な相場だと思うけど。
モンハンp3に関しては言及が難しい現状。だって2Gからしてみたら緊迫感が足りないというか、魅力があふれ出す感じはないように思えるから。
個人的にはレウスレイアが空中チキン戦法に走るのが劣化だと思う。攻撃力があがったとしても地上でもっとスリリングな戦い方をして欲しかった。
変わらないのはアカムさんの銀行扱いなことぐらいなもので。
クエストたくさん回したいときは、ほとんどシルバーソル装備で行けばいいみたいな感じだし。
神おま求めて休日に8時間やり続けたりとか、本筋以上に炭鉱は力を入れなきゃいけないし。
飽きないように炭鉱をメインの半歩さがった位置につけて考えているとすれば、カプコンさんそれはやりすぎです。物欲センサー程度に抑えてもらわないと、ソロハントしたくなくなります。
ほんとソロハントつまんないから、kai導入しようかなあ。
おにぎりを握ろうと思ったのですが、堅い部分のご飯粒が多量にある。
一般にはそれをおこわと名乗るものだと思うのでしょうけれど、いえいえ、それは釜底にございます茶色っけのある香ばしいものでしょう。わたくしが申しておりまするのは、上層部にうっすらと幕を張った水分が抜けているあれでございます。
あれったら非常に口当たりが悪く、歯にくっついてみたり、奥歯にはさまってみたりとやんちゃのし放題。母親が茶碗にあれをいれようものなら、2時間は口をききたくないと思うのです。
それでも空腹時に何も口に入れないのはお腹的にどうなのかな?っていうOL風の口調でシンキングしてみましたところ、それはいかんということで、やはりおにぎりを握ったのでした。
いやあ、堅かった。実に堅かった。堅いのなんのって、オリンピック選手が金メダルを噛むシーンあるじゃないですか、あれ実は銀に金メッキしてるらしいじゃないですか、つーことは銀じゃないですか、銀って堅いじゃないですか、つってもサイズフリーの指輪なんて結構自分で曲げて大きさ変えられるじゃないですか、ってことはそこまで言うほど堅くないじゃないですか、そんぐらい。マジそんぐらい。かてぇかてぇ。江戸時代のせんべいぐらい堅いっすわ。
で、人間というのは素晴らしい才能を秘めているもので、そのおにぎりを茶碗に入れて、梅干をのせて、適度にちぎった海苔をパラつかせて、お茶をかけて、お茶漬けにしました。だって堅いんだもの。堅くてもう駄目って思ったんだもの。
じゃあ最初からお茶漬け食えって話なんだけど。でもそれじゃ無粋じゃん?ブスいじゃん?京都の人が玄関先でブブ漬けぶっかけてくるようなものじゃん?一応玄関に通してるって事はお客様扱いにもかかわらず、ブブ漬けいっちゃりーってことじゃん。ないじゃん。せめてハバネロタバスコたっぷりのピザ食わして、コーラのませてからのブブ漬けじゃん。そういうことですよ。握ることに意味がある。握らないと意味がない。握りたい。とにかく堅いのを堅く握りたい。それがパッションなのだから。ちなみに女子がおにぎり握ったものと、男子が握ったものだと女子が握ったもののほうが美味しくなるって科学的に証明された昨今。精神論に科学がやっと追いついたか!って感じですよね。ウフフフフ。詳しくはググれ。
それにしても。
堅い部分のご飯粒はなかなか柔らかくならない。何ジュールの熱量で何分暖めたらこの米粒はアルファ化するのだろうとひとしきり頭を悩ませていました。
村上春樹口調であらわすなら
『湯の中の米粒はまだ堅いままだ。
「やれやれ」 』
っていう感じだ。ちなみにアキタコマチはコシヒカリ系列なのでアミロース含有率が低く、もちもち感が強いはずなのだ。なぜそれがカッチカチ米になっとるんやろか。世界の不思議や。てかなぜ関西弁になりかけとるんやろ。
とにもかくにも、ご飯が美味しいということで、今日も一日ありがとうございました。
優しい気持ちでいるためには金が必要らしい。
心無い人間となるべくなら付き合いたくないけど、金は関係なく動き回っている。
そこに悪意しかないとするならば、なぜ人はその悪意を認めてしまうのだろうか。
それは悪の基準が強さだからに他ならない。明確な強さを持たない悪はただの偽善にすぎない。そして、強くなければすぐに殺されてしまう。
物事の価値基準が強さでしかないのは正義もまた同じで、故に二つはぶつかり合う。
そして水と油が混じってドレッシングができるかのように、悪と正義が混ざって社会はできている。後者の乳化材は間違いなく利害であり、金だと言えるだろう。
悪人は金で買える程度の幸せしか知らない。正義はそういう。しかし、金で買える幸せすらつかめない正義はどうなのだろう。
できることなら、好きなことを好きと言えるだけの自由と共に生きていきたい。そこには正義も悪も関係なくて、ただ後味の悪くない笑顔があればいいなと思う。
一人鍋とは、いついかなるときも、心穏やかにして、手元のせわしなく急ぐ様を客観的に見つめるよう心がけるものなり。
すなわち、煮え際の野菜に細やかなる神経を研ぎ澄まし、煮崩れんとする魚を取り皿へ移し、うどんのタイミングを見図るべし。
ということで一人たら鍋。
たらはうまい。何がうまいって、全てがうまい。
とりあえず修学旅行生は棒タラの燻製とか買えばいいと思うよ。だってこんなに美味しいものを本州の人たちは食べたことがないというんだもの。
去年のライジングサンの際に、僕が買っていった燻製と、コマイの一夜干しをごちそうしたところ、大変喜んでもらえました。ただジンギスカンは地元の人が食べるようなやつは獣くさすぎて不評だったけど。
たら鍋は何がうまいかと言えばやはり白子の部分。ふんわりとしながら口の中ではじけ、甘くて濃厚な味が口の中に 広がります。ポン酢もいいけど、塩味の鍋だとそのままでもおいしくいただけます。
一人だけど、白子は溶けちゃうのでがっつきます。それはもう親の敵をとるかのごとく。鬼神ですよその姿たるや。もう毛髪を逆立てて、顔を真赤にさせながらはふはふほうばる。むふー。うひー。なのである。
どのぐらい美味しかったかはまた明日にでも書くとして、とりあえず今年は一人暮らしして料理をたくさんしたい。給料がはいったら絶対にバーニャカウダを作る!
やめたタバコに手を伸ばすような衝動が突き抜ける。
目眩に身を沈めたいという願望と心底忌み嫌う立ちくらみとの間に境界線があるのだろうかと何度も逡巡するのだけれど、答えはいまだに見つかっていない。
朝目が覚めると身体に意識がすぐに追いつく。幼い頃は夢から覚めたあとのまどろみが朝食の匂いでしか解けなかったように思う。これは由々しき問題だ。夢の中で多幸感に包まれながら愛についてのエトセトラを考えるのが好きだった。今はただ当たり前に過ぎ行く毎日とそれに伴う苦痛にどうやって目を背けるかばかりだ。そこから生まれるのは世俗で塗りかためられたものばかりで、曖昧な浮遊は嫌われる。例えば拾った百円をどう使うか考えるのが子どもなのに対し、いずれ使うから今は使わないことにしようとするのが大人だ。仮に明日死ぬとしたらどちらが賢いのだろう。幸せな気分を味わえるのはどちらだろう。
仮定がないと信じているのは大人だけだ。子どもは明日なんかいらないと思う。だから子どもは怖い。そして強い。
刹那的によぎる死の影を追って、煙草に火を灯すのだろうか。薄明かりの中、燻らせた煙の行き先を眺めながらどうにかこうにか火を身体に取り込もうとする。火は生命力だ。太陽がなければ人間は死ぬ。火は人間が生んだ利器であり、知恵そのものなのだ。実体のないものを身体に取り込むのは難しい。だとするなら何かを媒介として体内に摂取する。そう食事そのもののことだ。体内に何かを取り入れようとするのは本能だ。赤ちゃんは口にすぐ物をいれたがる。生きることは食べることである。食べることを放棄した人間はリビングデッドの体現者となる。
しかし立ちくらみというのは目眩とは違うものだ。目眩は沈むものだ。あるいは耽るものだ。立ちくらみは受動的ですこぶる厭らしい。自分の弱さを突きつけられるものだ。人間的というより動物的といえる。そこに文化的な意味合いを見出すことはできないだろう。
衝動が走る。
ハラヘッタ。
即死でした。
なにもできなくて。
冬。
2010。