ヒカリエに行きたい -11ページ目

ヒカリエに行きたい

ラーメン食べたい

札幌に二郎系の店が増えてきている。


二郎というのは、東京にあるラーメン二郎という昭和の香り漂うトッピングが無料の大盛りラーメンの店だ。

もちろん、大盛りにしなくていいのだが、己を信じて好きなだけトッピングしたラーメンを食う。それが二郎なのだ。

東京に滞在していた時分には食べなかったのだが、ここ最近二郎というものを何かに付けて目にする機会が増え、また出張や移住した友人の二郎チャレンジ話を美談として認識するに連れ、いつかこの胃袋に大量の二郎ラーメンをぶちこんでやろうと考えている。


そして、札幌にその亜流の店がやってきたのである。


ブタキング。

響きからして体中の細胞が油を欲する。

僕は痩せではないが、普通サイズの大食いだ。

札幌近郊の大盛り店にチャレンジしてみたりする。時間制限のあるものには手をつけていないが、ゆっくりとしたペースならば2キロまでのカレーは食べられる程度。

果たして。


しかし、このブタキングなる面妖なラーメン屋は日を増すごとに行列ができ、いつしかブームの中心となってしまった。

開店して日の浅い頃、僕が行った日は雨で、目の前の女子大生風4人組が店に入るとスープ切れだと店主が告げた。泣いた。それがはじめてのブタキング。二度目は、水曜日。新人が入ったので水曜日は研修のための定休日とします、とは後日の電話対応にて。悔しい。


然るに休日の昼下がり、単騎で環状線を駆け抜けて一番乗りを決め込んでもいいのだけれど、その噂に聞く衝撃的な出で立ち、それに伴う感動を誰かと共有せんと欲するために、いまだ訪問できないままである。一人で大盛りを食べて写メに収めるだけではきっと今までの仕打ちに対する溜飲が下がらないだろうから。


さりとてこのブタキング、営業時間が短い。平日は11時から16時まで。いかようにしても僕の仕事が終わる時間から向かっても16時をゆうに越えてしまう。なので休みの日にしか行くことができそうにない。しかし、平日に休暇を取れる友人は少なく、また、大盛りラーメンに付き合ってくれる酔狂な人間はさらに一つまみ程度にしか存在しない。つまり、この大切な一発目、いわばバージンブタキングを誰かと共有しないことには一人でピクニック気分ででかけることなどできないのだ。


ということで、今日は仕事終わりだったけれど、さらにジロースタイルを踏襲していると名高い店に友人と行くことができた。

その名は、『らー麺シャカリキ』である。

ブタキングなる面妖なラーメンはかなり無骨らしいと評判なのだが、シャカリキはわりとライトなジロースタイルだということで気軽に友人を誘ってみたのだ。結果、ホイホイついてきた。ちなみに彼は神保町の二郎を食した経験者だ。先輩であり、師匠であり、そしてライバルだ。


午後六時半頃、談笑しながら乗り上げた駐車場にて、店内を覗き込めば先客は1組の男女。ほう、女性がいるのか。これだけで既に二郎とは違うジロー的な要素をかぎつけた。僕の想像する二郎とは、いわば戦場である。眼の前のブツをいかに胃袋にぶち込むか。そんな言葉をどこかで聞いた。それが二郎であり、二郎での作法なのだと思っていた。決して男尊女卑なんてものではなく、高カロリー、高コレステロール、人体にとって有害であるというのが二郎なのだ。だから女性がよりつくなんて想像はなかった。汁を飲み干せば死ぬ。そう思っていた。


結論から言おう。


野菜マシマシにんにくマシアブラからめ。

マシマシは野菜(主にもやし)が750グラムほどになるらしい。


スープは飲まなかったが、全部綺麗にたいらげた。

しかし、それだけだった。

思いのほか、感動がなかった。

なぜだろうと思ったのだが、一つ思い当たる節がある。

僕は子どもの頃からあるラーメン屋につれていってもらっていた。家から近かったということもあるけれど、何よりももやしの量が尋常ならざるものだったからだ。市販のもやしで言うなら、1ラーメンにもやし4袋はのっているだろう。

うちの親父はよく食う。母はあまり食わないが、僕が残した分も親父は食う。

その店は今も現役で、取材拒否を重ねつつも口コミで広がっていて、恐らく大食いで知らない人はいないだろうという店。もやしを食べつくす頃には麺がのびている。それが普通。そんな店。札幌の人ならおそらく知っているであろう。

バイトで後輩ができるたびに、歓迎会と称して連れて行き、すべて食べたらおごってやると檄を飛ばし、最後には彼らを涙目にさせ上下関係をしっかりと構築した。


記憶の扉を開いたが、あのラーメンを知っていればなんてことはない。

二郎スタイルとはこんなものなのだろうか。だとしたら、近所のあの店のほうがよっぽど理想の二郎に近いのではないだろうか。

心のすき間は郷愁を呼び起こすばかりで、体は水を欲するばかりだ。

正直、期待したほどの満足感はなかった。


店を後にして車に乗り込む。彼に話を聞いてみると、これは二郎とは違うといった。二郎はもっと戦いの要素がある。ここは全然食べられる。二郎は途中で己の顎の弱さを呪うほど麺に弾力があるし、豚肉も凶暴だ、と。ただ、食後の何かわからないやりきった感があるから二郎が好きなんだと、言った。


僕はただ流れる車のテールランプを見つめながら帰路に着く。家に帰ってビールをあおって油分を拭い去ろう。

そして、ブタキングの画像を見つめ、二郎の画像を見つめ、もう一度自分自身を見つめよう。

これは一つのラーメンであって、僕の二郎ではなかった。それだけの話だ。


コンビニ付近でハザードをつけた車がたくさん並んでいる。ああ、煙草の値段があがるんだった。

一本の煙草が人を幸せにするなら、それを引き裂く理由なんてあるのだろうか。

一杯のラーメンが人を幸せにするなら、僕はいつまでもラーメンを信じていたい。

揺れ動く隙間の間から覗く淡い褐色の瞳がやけに静かな夜の情景を反射させている。十年前からこの街は眠るようになった。声も電燈も影も風さえも凍ったように眠っている。全てが黒く塗りつぶされたように暗転した街の夜は行き着く場所を失った人々の心さえも蝕んでいく。白い兎が飛び込んでこようものなら皮と骨だけがそこに残るばかりだ。そんな街の片隅には一軒の店がある。ある人にはレストランであり、ある人には止り木のような印象を与えるそれは蛍光灯の人口的な青白い光をぼんやりと周囲に撒き散らしながら佇んでいる。闇の中では誰もが光を探す。孤独に食われた魂を引きずって人々はその店に群がった。名前を緑青堂と言う。硬貨に付着した緑青さながらの苔がはびこる外観とそこから漏れ出すヒステリックな音楽はどこか物憂げで、置き去りにされた時代そのままのように思えた。そこでは全てが確かに生きていた。なぜなら、死にかけという言葉が似合うからだ。なおも生命力を内在させているからこそ死にゆく時の流れに朽ちていく様子を明確にしているようだった。緑青堂に従業員は二人いた。ママと呼ばれる下膨れた老女とユキと呼ばれる従業員。その関係は親子とも思えるし、祖母と孫とも思えた。二人は手際良く客の前に飲み物の入ったグラスを置いていく。慣れた手つきは洗練されていて一種の高貴さを纏い誰の目にも美しく見えた。仄暗い店内をしゃがれ声のブルースと男達の汚い声が歩き回る。床は所々黒い染みが滲んでいて、壁にはポスターの日焼けの後とテープの残骸がある。酒場にしては活気がない。さりとて、落ち着いているのかと言えばカウンター席に座り紫煙を燻らす一部のみで泣き上戸を相手にするものやトランプで賭け事をするものや派手な女をはべらせて笑っているものなど様々である。しかし、一様に共通することは疲労の色が隠せていないことだ。どれほど豪快に笑って見せていてもどこかやる瀬無さが滲み出ている。鬱屈した病的で卑猥で非日常的な思念の滞留が天井のファンによって幾分か拡散されているようだった。澱みが膝元まで競り上がっているような、しかし底無し沼に身を沈めるまでの絶望を享受することによって得られる背徳的快楽に似た安堵感を誰もが覚えているようだった。それは酔いによって訪れたものであるかもしれないし、集団心理に作用する何かしらの共通項目の合致によるものかもしれない。いずれにせよ理性と呼べるのは従業員二人だけだった。




眠い。続きは書くかどうかわかりません。

久しぶりに朝方3時まで飲んだ。

明け方の繁華街は少し寒くて、タクシードライバーの気だるそうな表情とカラスの鳴き声が印象的だ。



やってしまったなあ。

しめの、親子丼とうどんのセット。



腹の中はすし詰めの電車の如き様相。

一歩を踏み出すことに、たぷり。

また一歩で、たぷり。

胃の中をアルコールという名の暴力が駆け回っている。

無邪気な。

あるいは乱暴な。



寝るときに畳んだであろう服を目覚めと共に見つける。

ああ、これが教育というものなのだろうか。

律儀によれよれの靴下が一番上にのっかっている。



いやまずは水を。

洗面台の顔は酔っ払いで。

まあ水を。

ひげがだらしなさを際立たせている。

飲まなければ。

お腹はアルコールの揺りかご。

胃を水で満たして。

肺を水で満たして。

口の中の粘着をかき回して。

濡らして。

吐き出して。


とてとてとトイレに鎮座まします私の影を電球が照らしている。

あまねく人々は泥酔した次の日はこうなるものなのか。

酔った人間はまさに前後不覚、上の口も下の口もすべて便器に向かう。

一人妄想世界旅行。

私の口は真実を紡がない。

私の口はマーライオンの如し。

私の口はとめどなく流れる五色の川になる。

私の口は親子丼の味を覚えている。

いや、思い出したのだ。

いやがおうにも思い出すことはままある。

記憶に残らないことへの戒めというか。

なんというか。

罰ゲーム。

いうなれば、口開罰ゲーム。

意識の低迷。

鏡にうつる自分を睥睨。

覇気はない。

吐き気はある。


ただそれだけのこと。

先日買った本のタイトルを書くのを忘れていたので書こうかなと思った次第。

タイトルを箇条書きしてみる。ちなみにブックオフの100円コーナーで全部買いました。なので、全部100円。


・映画検定 2級3級4級 公式問題集

・無印良品のふしぎ

・Z会 速読英熟語

・ウケる技術

・ミニコミのつくり方

・スティーブ・ジョブズ 人を動かす神

・知食のルール


何と言うことか、あと一冊買ったはずなのに、タイトルすら失念し、それ自体もどこかへ行ってしまった。

それだけ未読の本という樹海に溺れている俺がいます。

あ、思い出した。


・誰が上手いこと言えといった 2ちゃんねる新書


だった。

これはカバンの中に入れていたんだった。


そして、今日は鴨川ホルモーを読んだのだった。

しかし、鴨川ホルモーに関してはだいぶ昔に買ったものを掘り出したものである。それを今日引っ張り出して読んでみた。

筒井康隆を神と仰ぐ俺ゆえに、常に2冊を同時進行的に交互に読むのだけれども。

万城目学先生の鴨川ホルモーと、如菩薩団という筒井先生の短編集を読んでいた。


『鴨川ホルモー』

古来より伝わる得体の知れないホルモーという競技を大学のサークル活動ではじめる主人公。友情だったり、苦悩だったり、青春要素が詰まった一冊。

すっと読めた一冊。


『如菩薩団』

ブラックユーモアをふんだんに使った、筒井康隆節が満載の一冊。日常に一滴、非合理をたらすことによってもたされる展開はドタバタなのに理論的。

15編くらい入ってるんだけど、まだ半分くらいしか読んでいない。レトリックもさることながら、ブラックジョークのエッセンスがぐさぐさ笑いのツボに突き刺さる。


最近はずっと友人の書いたライトノベルを読んでいたので、純文学の緊張感とか無駄のなさが凛とした雰囲気を醸し出していて、読後の清涼感に久しぶりに浸れた。

それにしても、俺も筆をとらなければな。最近は何一つまともな文章を考えてもいなかった。そう思った一日。



mpup

最近よく聞いています。

相対性理論。

知らない方もいると思いますが、かなりいいです。

ぜひyou tubeなんかで確認してみてはいかがでしょうか。


それにしても、今日はひどかった。

自転車で街中まで出かけたら、雪が降ってきた。

天気雪。

どうにも寒くて、家に帰り装備を整えなおしました。

二度手間もいいとこだよ!


8冊本を買いました。

またあとでか、明日にでも本のタイトルを書きたいと思います

これで今月すでに20冊を越える本を買っているわけだけれど。

消化しているのはせいぜい4冊。

ペース的には遅いかもしれない。

まあでも今日買ったのとかは、どちらかといえばコピー的な文句が売りの、雑誌とかに近いものだから。

そう苦労しないで飲み込めることでしょう。


それにしても気づいたこと。

本でおなかはいっぱいにならないね。

いくら勉強しても、それを披露する場所がなければ結局意味がない。

今年はがんばってアウトプットに力を入れていくぞ!


とかいいつつ、知人に仕事の斡旋を頼む日々。

夢のためには、先にお金がいるもの。

それが現実だもの。




mpup

見た目から入る僕と、気持ちから入る君がね、よくここまで続いてきたなって。


ねえ、思うんだ。


僕は何を残せたのかわからないけれど、きっと君は変わらないままでいるだろう。


傷つけることもあっただろう。


つまずくこともあっただろう。


笑っていてくれてありがとう。


ぼくらがいつかまた笑い会える日が来るのかな。


どんな言葉も無力だった。


どんな仕草も好きだった。


気持ちをカタチにしたもの。


不安定だから目に見えるようにしたんだ。


ありがとう。


ねえ、思うんだ。


僕らまだ途中だよね。


きっと弱いままの僕らだからわかりあえたんだ。


ねえ、思うんだ。


君が誰よりも素敵だって事を。


今だから。


ねえ、わかるんだ。

今日は本屋でニーチェを読んだ。


たいていの思想書は立ち読みで目録を読んで、興味を惹いたところだけ読めばいい。10分とかからない。

・精神は勇気、正義、節制、知彗の段階でレベルがあがっていくものだ

・自分を愛せないものは他人を愛せない。まずは自分を卑下しないで愛しなさい

・不平が出るのは自分が誰かの為になっていないからだから、何か人の役に立つことをすべきだ

・でも「~のため」という考え方は、転じて「~のせいで」っていう言い訳になるので注意

・哲学をもつと、それに頼って成長を止めてしまうから、哲学(考え方)は蛇の抜け殻みたいにいつも脱皮して新しくあるべきだ

・恋愛を待っている人は、運命の人を待っているというが、運命の人は群衆の中に紛れているから、自分で探して見つけなければいけない


このあたりの項目が気になった。

もちろん、言葉を一つ一つ覚えたわけじゃないから多少言葉の意味と食い違いもあるだろうけれど、それでも学ぶことはたくさんあった。


人をけなしたり、追い込んだりするような人が平然と暮らしている社会で、それでも人を信じたいと思う気持ちは大事だと思う。

傷つくこともあるし、つまずくこともある。

でも、安らげる人もいるし、手を差し伸べてくれる人もいる。

そう信じれば、少しは楽になれるような気がした。


綺麗ごと言うなって言う奴がいるけど、汚いものよりいいじゃん。

汚いものに慣れてしまったら、本当に綺麗なものを見たときにどうしていいかわからなくなる。

そして、汚してしまう。

でも本当に汚いものの中だから綺麗に見えるものもある。

きっと、自分を信じられない人にとって世界は残酷だろう。

非科学的なものほど、自分を愛せるはずだから、それを信じるのが本当の生き方なのかもしれない。

でも、そうじゃないかもしれないw


正解とか結論があったら誰も迷わなくなって、世界は面白くなくなる。

例え日本が面白くなくても、自分の世界はずっと面白いままであってほしい。

そう願って今日も寝よう。



mpup