ファミコン、40周年。 | 有栖川まおの愛が止まらないR

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「有栖川まお」のガンダムで倉木麻衣な日々の出来事を綴ったブログです。

 家庭用ゲーム機のファミリーコンピュータが任天堂から発売されて、本日で丁度40年となります。
 当初は日本における家庭用ゲーム機の黎明期であった事もあり、クソゲー…とまでは言えないものの、あまりパッとしないゲームソフトばかりだったのですが、それは、アメリカのアタリショックを反面教師にして、サードパーティーソフトに対する任天堂による厳しい審査があった為でしょう。

 しかし、1985年に、その任天堂自身から『スーパーマリオブラザーズ』が発売されてからは、爆発的なブームとなりました。かく言う私も、例の従弟の家でその『スーパーマリオ』をプレイさせてもらったら、思わずハマってしまい、途中で「こ、これはヤバい…!」と我に返ってコントローラーを放り出し、以後はプレイを一切止めたのです。私にとっては、それだけ中毒性の高い代物だったのでした。

 

 当時のボンボンでも、その1985年頃から、ファミコンの特集記事がメインを占めるようになって行きました。連載漫画も、『ファミコン風雲児』と『ファミ拳リュウ』の2本立てで、布陣はバッチリでした。それでも、あのハドソンの高橋名人らを擁していたコロコロに対しては、今一つ力不足ではありましたが…。

 一方、それまでの主力であったガンプラを中心とした『ガンダム』の記事のページは、『Zガンダム』放映開始当初こそ大々的に取り上げていたものの、それも月を追う毎に減らされて行き、『プラモ狂四郎』のストーリーも、「模型秘伝帳」が登場した辺りからプラモ」でも何でも無くなってしまったり(佐藤元先生の『ロボロボカンパニー』でも揶揄されてましたっけ…)と明後日の方向に進んで行った事もあって、『Z』が終了した頃から読まなくなってしまいました。特に、四郎が茂合に敗れた回で、口惜しさのあまり、この回で結成されたばかりの「少年モデラー同盟のバッジを床に叩き付けるシーン(↓)を目にした時は、

もう時代遅れのガンプラの記事は切り捨てて今流行りのファミコンの記事に順次切り替えて行くからな」というボンボン編集部の意図を感じました…。そのボンボンの変節に対する反発、と言うよりは、先述の中毒性に対する危機感もあって、私はファミコンからは自ら距離を置く道を選びました。当時は、実に8割以上のキッズがファミコンを所有していた事もあり、同級生がゲームの話をする度に「オレ、ファミコン持ってないんだ」と発言しては、奇異の目で見られていた私でした…。

 私がコンピュータゲームを本格的にプレイするようになったのは社会人になってからの話で、それも『バーチャロン』シリーズとサクラ大戦』シリーズ(奇しくも両方ともセガゲー…)ぐらいで、『ドラクエ』も『スパロボ』もプレイした事は無く、ハードもサターンドリキャス、そしてプレステ2止まりでした。スマホのソシャゲもプレイしてませんしねぇ。

 

 そもそも、私はこのファミコンを始めとしたコンピュータゲーム自体、元々あまり好きでは無かったのかもしれません。何しろ、小中学生の頃の同級生だった例の骸骨野郎が、このファミコンブーム以前からゲーセンに入り浸っていたり、親にゲームウォッチを大量に買ってもらってプレイしていたりと、大のコンピュータゲーム好きだったのですから。その骸骨野郎は、弱味を握られてイヤイヤ付き合わされていた私をゲーセンに連れては、そのゲームの音楽に合わせて奇声を発していたので、こんな基地外と一緒にされてはたまらない、という意識が私の中にあったのでしょう。ひろプリ』のバッタモンダーの如く、何かにつけて上から目線人を見下し続け、それでいてやたらキレ易かったその骸骨野郎の所為で、後年になって「ゲーム脳」って言葉を知った私は、「それってホントに存在するんじゃないか!?」と思うようになってしまいました。聞く所によれば、ヤツは私と違って自制が効かなかったようで、私と喧嘩別れした後になっても、ゲーセンに入り浸っていたそうです。そのゲーセンも、コロナ禍を受けたセガの撤退もあって悉く消えつつある(特に仙台は…)現在、果たして、ヤツの居場所はあるんでしょうか…?