神田地域の再開発事業は、神田再生の救世主か!!?その3
まだ続く日中の熱気には疲労感が増幅しますが、このごろの暮れなずむ空の経過や、増えつつある夜の虫の音のバリエーションなど、ここかしこに秋の到来を感じさせるものが確かにあります。みなさま、もうしばらくの暑気を乗り切りましょう
。
さて、本日は地域資源活用の視点を中心に申し述べます。
今、日本の社会は自死やうつ病を患う方などが多くいらっしゃり、児童虐待処理件数が増加の一途であることは皆さんもニュースなどで聞いてご存じと思います。経済至上を続けた末に弱者に現れた社会のひずみとの考え方も否定できません。地域の開発も、地域特性の消失と引き換えに都市化、リゾート化した傾向は強くないでしょうか?わざわざ新たな異物を作り上げるより、その地にある資源を眠らせておかずに生かすことは、地域価値をその地域文化の一部分ともなしえ、地域市民の役割ともいえるかも知れません。
万世橋駅遺構は、江戸時代以前の、裃を付けたお侍が闊歩していた時代を想起するというロマンとは別の、自分たちの曽祖父世代という、現実に生活感までも思い及ぼすことができそうな範囲の史実の遺物です。そして、自分のルーツを実感するということは、自分自身の足元、存在意義を見出す原点でもあるのではないでしょうか。歴史があって、今の自分が存在すると感じる空間の存在は、スクラップ&ビルドで街そのものが変容している今の時代に欠けている要素なのではないかと考えておりました。このことは、小布施町の修景による街づくりの中で感じたものに近いかもしれません。今回の一連の開発の中で、御茶ノ水駅前の駿河台計画では建物を相当程度駅から遠くし、湯島聖堂とニコライ堂との視野を直線的に確保することが評価されています。これ自体、景観の一体感を創造する望ましい計画です。ただ、これらはそれぞれ、特別な建造物です。しかし、万世橋駅は、大勢の人たちが利用していた日常に必要とされた場所なのです。そのような当たり前の生活感がある遺構の存在が非常に貴重と思われました。決して、そのような駅を復活させることによってターミナル的要素を取り返し、他の場所に対する優位性を得ようという目的ではありません。
さて、ではその遺構の利活用をどのように考えているのかといえば、私個人の考えでは、部分として、その時代そのものを鑑賞できる、手を入れない場所も保存していただきたい。一方で、そのような場所を、安全性の確保は第一ですが、その当時の照度で、その当時の素材で史実を体感する場所として提供していただきたいのです。大変狭小な場所であることは、須田町北部町会長様より伺っておりますので、行列で見学することはよい方法と思いません。一枠20分程度で一日に観覧できるグループ数を定め、抽選方式で選出された方があらかじめの入金予約ということで観覧権利者となるとすれば、遺構の保存ならびに管理費用に充てることが出来ます。
また、ある方のアイデアで、「万世橋駅乗降の特別列車を走らせる」というのも、夢があって、ぜひ採用していただきたいプランだと思います。七夕様のごとく、年に一回、「万世橋駅からミステリーツアーへ旅立つ」なんていう企画、良いと思いませんか?ただ、その方のアイデアでは、「町会の人のために」というお茶目な発想でしたが、他の方にもその楽しみを分けて差し上げて、抽選でその夢を求めることができればより多くの方々の大きな楽しみになると思います。できれば、どのような家庭のお子さんも等しくその楽しみが得られるよう、これについては無料で、あるいは、住居地からの往復の交通費も含めて格安で機会の提供があったら何より嬉しいことです。
いろいろとたわいもない夢物語を申しましたが、本音で言えば、バーチャルではないリアルな利活用を本当に実現してほしいプランです。場所の不都合部分は多々ありますが、やり方によってそれは不利ではなく、他のところでは絶対に得られない稀少な権利に転換できます。単なる記憶の広場の1アイテムとして外神田計画の中の通り過ぎるだけの場所になるのか、現在において皆が訪れたい場所として利用価値のある万世橋駅と位置づけるのか、東日本旅客鉄道株式会社の企画力に、大いに興味を持って行方を見守りたいところです。
ただ、万世橋駅を部分的に利用していた交通博物館の建物をすべて撤去してしまった今、どのような利活用の方法が残されているか、正直言って大きな期待は困難であると考えるべきでしょう。高架下についての構想は神田川親水計画の構想も含めてこの後の計画と聞いております。予定的に万世橋駅のプランが練られなかったということは、自ずと残されている部分についても扱いの仕方が変わると察します。
さいごに、須田町北部町会長様のこれまでのご健闘は、公私いずれのお立場においても並々ならぬものであったことと拝察いたします。昨年秋、JREの「万世橋ビル(仮称)建築計画近隣説明会」から「万世橋駅って?」と興味を持ち始めた私とは、おのずとその取り組みのなされ方が違います。また、ブレることのない理念をお持ちであることから、ご判断についても、開発の波の渦中にあっては、おそらく一番良い方向性の選択であったと信じたいと思います。同町会の旧同級生の厚い信頼をみれば、私が不足を述べる余地はありません。そして、7月21日の神田学会セミナーにおいて、町会長様がおっしゃった「事業の採算性を許容しながらそれ以外の部分で街づくりの将来にプラスになるような最大限の魅力を引き出す開発となるように」とのお言葉は、つまりは、手段は違っても、この地を大切に思う気持ちは町会長様も私も一致していることになります。
さまざま思うところを申し述べましたが、これらの開発によって一層地域の魅力が増す展開となりますよう、期待したいところです。
文責 法政大学大学院 政策創造研究科 修士課程2年 中野
サンデル先生

遅くなり申し訳ありません、石川です。
今回は、私が最近夢中になっている本をご紹介させていただきます。
マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』です。
この4月からNHK教育テレビで、ハーバード大でのサンデル先生の講義が放映されていたので、ご存知の方も多いと思います。
この本のなにがオススメかと申しますと、
①高校の教科書で名前ぐらいしか知らなかった、カントやアリストテレスといった御大の道徳的主張に触れられること。
②一見反論しづらく感じられる、功利主義と自由至上主義についての、明快な理論的批判に成功していること。
③翻訳者の理解度・技量が高く読みやすいこと。(誤植は3ヶ所見つかりましたが個人的には許容範囲)
欠点は、カバーのデザインが残念なことだけです!
この本を読まれた方がいましたら、ぜひ感想などをお聞かせくださいね

神田地域の再開発事業は、神田再生の救世主か!!?その2
その2である今回は、市民自治の在り方についての視点から考えることを申し述べたいと思います。
須田町北部町会長様のお話の中で、「過去の栄光を再現することへの執着はプア-な考えであり、ターミナル立地にとらわれるより都心の優位性に目を向けるべき」である旨のお話がありました。確かに、万世橋駅遺構をクローズアップするということの価値は些少であるというとらえ方もあります。そんなものはさっさと片付けて、スクラップ&ビルドでさっそうとかっこ良い華やかな空間にしたほうが先進的な爽快感があるかもしれません。でも、そんなことは、どこでも、誰にでもできることです。「万世橋駅」というものはここにしかありません。そして、それを価値あるものとして認めて高めることは、私たちにしかできないことです。溝尾良隆先生の観光政策論で学んだ「地域の宝は地域の者が気がつかなければいつの間にか無いものになってしまう」というお話を聞いていなければ、私自身も万世橋駅についてこれほど興味を持たなかったと思います。
私たち個人は誰しも、たかだか100年生きている程度であり、社会の構築というバトンを脈々と引きついでいるだけです。その歴史の断片を担当する中で、何を大事にして何をいらないものとするかが後世に残る業績となります。つまり、歴史は連綿と続いていることが事実なのであり、目の前に出現するきれいな新しいものだけが評価されるものとは考えておりません。自分たちはどのようにこの時代に生きているのか、その歴史性を生活の中に認識することは個人の根幹を成す足元を明らかに捉えることに通じるのではないかと考えられます。なので、私は、万世橋駅の過去の栄光に執着する意図はなく、その時代の変遷を生活の中に実際体験できる場所にすることが望ましいと考えております。せっかくその地に生まれ育つものたちにとってはなおのことです。このことについては、遺構を「テーマパーク化することはナンセンス」とのご意見をいただいたこともありますが、それとも意図が異なります。
私は生まれ育ちが「神田である」ことがちょっと自慢です。「それってどこにあるの?」と聞かれることはまずありません。皆さんが知っていて下さる理由は、神保町の古本屋街があったり、スポーツ店の集積、楽器店の集積、大学の集積等などがありますし、何といっても、やぶそば、まつや、いせ源、ぼたん、竹むら、ショパンといった、古くからある飲食店が数多く残っていることも知名度を上げている要因だと思います。そして、1912年(明45)の万世橋駅開業も、それらの店の集積・発展に少なからず寄与したのではないでしょうか。中には、東京都の歴史的建造物指定も受けている建物もあるこの一団の地域において、朽ちてゆく歴史の片りんを放置している状態には何か落ち度があるように思えてなりません。
話は変わりますが、始めに申し上げた『違和感がある』ということについて、「万世橋駅」に対する価値のとらえ方とは別に、存在する意見に対して「プア-な考え方」と表現されたことについて、「??」と思ったのです。前回ご紹介した『21世紀への都市政策(現代総研シリーズ12)』において、「分権的な意思決定による責任体制の確立と、多様な形態・内容の住民参加による自己統治の機能の強化が必要であ」り、「「市」や「町」や「区」の単位が、はるかに多く主体的な都市形成のための市民的参加の条件を備えていることが指摘されなければならない」と述べています(P.12~14)。また、「都市政策において、現場性(現実の問題解決)、地域性(地域に適した必然性・未来性)、市民性(市民が参画し市民との間に政策のフィードバックを行うこと)、総合性が重要」としています(P.45)。この場においてその政策をつかさどる自治体は、各問題の解決における必要規模の単位として考えることを前提として、市民自治の実現においては市民の参加はなくてはならないものといえましょう。
問題・課題に対してどのような意見が出て、どのような経緯によってどのような判断がなされたという手続きが明確に公開されることが、民主主義を踏まえた市民自治に必要なのであり、出た意見に対する非難は不要です。ある限られた市民の決定によりいつの間にか状況が定まっていて、市民全体が気がついたときには何もかもが様変わりしていたという事態で良いのでしょうか。これからを生きる子孫にどのような地域を残してあげたいのか、意思ある市民が意見を出すということは、その地域の財産ではないでしょうか。みんながその地を大切に思い、さまざまな意見の中から将来を見据えたより良い方向性を模索することで、より地域のコミュニティとしての機能強化につながるのではないでしょうか。この地のケースでいえば、神田祭りだけをコミュニティ構築の手段として依存することには無理があります。しかし、この本は1986年に出されております。つまり、20年以上たっている今もなお、市民自治という考え方の実現はまだ近くはなさそうな理想であるといえるのかと感じました。
文責 法政大学大学院 政策創造研究科 修士課程2年 中野